「お前との婚約を破棄する」と仰いましたので、未消化の有給休暇六十日を使い切ってから出ていきます ~休暇中につき、火竜のお世話は承れません~
「お前との婚約を破棄する」
朝食の席で、マティアス様はパンをちぎりながらそう言った。
(卵の後、パンの前。順番は決めておられたのね)
「承知しました」
わたしは紅茶を一口飲んでから、皿を横にどけた。
「出ていくのは、六十日後でございます」
「……六十日?」
「婚約契約の第七条にございます。竜番の職務に対し、年に二十日の休暇を与える。三年で六十日。一日も使っておりませんので」
マティアス様の手からパンが落ちて、皿の縁で小さく跳ねた。
隣のジゼル様が、毛皮の襟に顎を埋めたまま目を丸くする。
「六十日も、同じ屋敷にいらっしゃるんですのぉ?」
「はい。休暇ですので、屋敷におります。屋敷で休みます」
「なんでだよ」
マティアス様の語彙が一段階幼くなった。この方は焦るとそうなる。婚約してから覚えたことのひとつだ。
「だって、休暇なら旅行に行くとかさ。実家に帰るとか、普通あるだろ」
「旅費が惜しゅうございます。それに、この屋敷はわたしの勤め先です。勤め先で休む権利は、第七条に含まれております」
「……父上!」
呼ばれた伯爵は食堂の奥から顔を出し、話を聞いて書斎へ戻り、しばらくして一通の書類を持って現れた。三年前に判を押した、ブランデル伯爵家とわたしの婚約契約書だ。
伯爵は席に着き、老眼鏡をかけ、声に出して読んだ。
「うむ。……第七条。竜番の職務に対し、年に二十日の休暇を与える。未消化分は繰り越す。消化の時期は、番が定める。契約が終了した場合も、未消化の休暇は失われない。……うむ」
「三年前、お父様は笑っておられました。竜番が休めるものか、と」
「笑った」
「はい。ですから、後ろの三文はわたしが足しました。お父様は、それでいいと仰って、判を押されました」
伯爵は契約書を最初から、もう一度読んだ。
「……うむ」
二回目の「うむ」は、一回目より低かった。
「別にいいだろ」
マティアス様が、落としたパンを拾いながら言った。
「六十日そこにいればいい。仕事をしないってだけだろ。竜の世話くらい、誰にでもできる」
「炉の火入れも、含みますが」
「火なんて、誰がやったって」
「ボタンは、わたし以外の者が炉の前に立つと、火を吐きません」
「そんなの知らないよ」
「三年間、朝六時に炉の前に立っていたのはわたしですので、ご存じないのも道理でございます」
この屋敷の暖房も湯も竈の火も、地下の火竜炉から管で各部屋へ回っている。炉に火を入れるのは朝に一度、火竜ボタンの仕事だ。番が炉の前に立って名を呼べば、ボタンは炉の口に鼻先を突っ込んで、ひと吐きする。それで一日、屋敷じゅうが暖まる。
ただし、番でない者が呼んでも、ボタンは炉の脇で丸くなって寝る。
日の出前の炉は、冬でも暑い。炉の口から漏れる熱で手袋の革が乾いて縮むので、竜番の手袋は三か月に一組は替える。ボタンが鼻先を突っ込むとき、鱗が手袋の甲をかすめて、革を削る。毎朝、その熱で一日が始まった。屋敷の人間が起きてくる頃には、廊下の管はもう温まっていて、誰もその前に何があったかを知らない。
火竜は、卵から孵るときに最初に見た者にしか火を預けない。番を失った竜が二度目の番を認めることは稀にあるが、孵ったときに手を離されなかった竜に限る。認めるかどうかは、竜が決める。人の側にできることは、規則には書いていない。伯爵家が方々から取り寄せて何年も誰も孵せなかった卵を、持参金の代わりに竜番の腕を持ち込んだ子爵家の娘が、この屋敷に来た晩に孵した。その晩から、ボタンはわたしの竜になった。
「本日が休暇の初日でございます。今朝の火入れは、いたしておりません」
「してない?」
「休暇ですので」
食堂が少しだけ静かになった。窓の外の空は冬の始まりの色で、庭の生垣には昨夜の霜が残っている。この冬が、伯爵家にとってどういう冬になるのか、その場で分かっていたのはたぶんわたしだけだった。
わたしはその日から、自分の部屋で過ごすことにした。破棄された婚約者と食卓を囲むのは、休暇の過ごし方として楽しくない。
驚かなかったのは、秋のうちから見えていたからだ。ジゼル様が屋敷に出入りするようになったのは葉の落ちる頃で、そのとき毛布は一枚だった。マティアス様がジゼル様を、わたしの向かいではなく自分の隣に座らせるようになったのが先月。破棄の言葉が卵の後、パンの前に来たのが今朝。それだけのことで、炉の前に立つ時刻は変わらなかった。
夕方になって扉が叩かれた。
「セシル様、夕飯っす」
盆を持って入ってきたのは、厨房小僧のピムだった。十二歳で、屋敷でいちばん足が速い。
「ありがとう、ピム」
「スープ、冷たいっす。料理長が炉に薪くべたんすけど、あの炉、薪じゃ管まで温まらないんだって」
「存じております」
「セシル様の部屋、なんで暖かいんすか」
ピムが不思議そうに部屋を見回した。
わたしは窓の外を指した。庭に面した窓の下に、赤くて丸いものが寝そべっている。ボタンだ。夕方からずっと、わたしの部屋の窓の下だけを、ゆっくり温めている。
「散歩の途中で、日向ぼっこをしているのでしょう」
「あれ、火吹いてますよ」
「休暇中の竜が、休暇中の番の部屋を温めている。職務ではございません」
「……なるほどっす」
休暇初日の夜、屋敷でいちばん暖かいのは、休んでいる者の部屋だった。
◆
【残り四十日】
ピムは毎朝、盆と一緒に報告を持ってくるようになった。
「本日の被害、報告するっす」
最初の週の報告はこうだった。
「パン、膨らまなかったっす。竈の温度が足りないって、料理長が泣いてます」
次の週。
「湯、水っす。若様が水で髪を洗って、叫んでました」
「ジゼル様の毛布、四枚になりました」
「若様が炉に薪を山ほどくべて、煙で厨房が真っ白っす。料理長が咳をしてます」
そのまた次の週。
「ジゼル様の毛布、六枚っす」
「ボタン様、中庭で寝てます。三日連続で。誰が呼んでも動かないっす」
「番が休めば、竜も休みます」
「竜にも休暇があるんすか」
「竜舎の規則にございます。番の休みは、竜の休み。三年前に読みました」
「なんでそんなの読んだんすか」
「番になるなら、規則は読むものです」
ピムは盆を置いて、しばらく考え込んでから言った。
「おれ、厨房の規則、読んだことない」
「ないのでしょう。あれば料理長がもう少し泣かずに済みます」
昼はボタンと庭を歩く。
歩くというより、わたしが歩くとボタンが後ろをついてくる。丸い体を左右に揺らして、雪の残った小道に短い足跡を並べていく。日の出前にしか一緒にいなかった竜と、昼の庭を歩くのは初めてだった。
池の手前で、マティアス様が待っていた。
「散歩か」
「はい」
「竜を連れて」
「ボタンが付いてくるのです。わたしは連れておりません」
マティアス様は、寒さで赤くなった鼻を袖で拭いた。
「……休暇を取り消す」
「取り消しの定めはございません。契約が終わっても失われない、とだけ。第七条にございます」
「じゃあ申請の話だ。休暇の申請は前日までだろう。俺は聞いてないぞ」
「三年前に申請しております。まとめて」
「三年前?」
「契約書に判を押されたのが、申請の受理でございます」
「ずるいぞ」
マティアス様は鼻をもう一度袖で拭いた。
「命令だ。火を入れろ」
「休暇中の番は、命令を受けません。ボタンも同じ考えのようです」
マティアス様がボタンに向かって「火!」と言った。ボタンは尻尾で自分の鼻先を隠して、その場に丸くなった。
「……この竜、俺の家の竜だよな?」
「卵は伯爵家のものでございます」
「じゃあ竜も」
「孵したのは、わたしですので」
その翌日、伯爵が町から竜使いを呼んだ。
背の低い男で、腰に銀の笛を三本下げていた。竜は音で操れる、鱗の色ごとに笛が違う、と中庭で講釈を始めたので、伯爵は「うむ」と頷き、マティアス様は「早くやれ」と言った。
わたしは窓から見ていた。中庭に下りて手伝う気はないが、笛の音だけは聞いておきたかった。
男が赤い笛を吹いた。ボタンは薄目を開け、頭を上げ、のそりと立ち上がって、男の帽子に向かってぼ、と短く火を吐いた。
帽子は雪の上でしばらく燃えていた。男はそれを踏んで消しながら、伯爵に向かって言った。
「刷り込みの竜は無理です。笛は覚えた相手にしか効かん」
「うむ」
「誰が孵したんです」
伯爵は答えず、わたしの部屋の窓を見上げた。男もつられて見上げたので、わたしは軽く会釈した。
男は帽子を拾って、その日の馬車で帰っていった。
夕方、廊下でジゼル様とすれ違った。毛布を体に巻きつけたまま、すり足で歩いてくる。
「寒いですのぉ」
「そうでございますね」
「毛布を七枚にしましたのに」
「七枚は、お一人には多うございます」
「暖炉に入りたいですのぉ」
後ろからマティアス様の声がした。
「入るな」
◆
【残り二十日】
「セシル様、でっかい人が来ました」
ピムが息を切らして駆け込んできた。
「どちらの方です」
「竜の匂いがします。ボタン様が、中庭で腹を見せてます」
王宮竜舎長、テオドール・グラン。火竜は年に一度、竜舎の検査を受ける決まりがある。検査は今年で三度目だが、この方が直々に来たのは初めてだった。
中庭に出ると、竜革の外套を着た大きな男が、雪の上に片膝をついていた。腹を見せて転がるボタンの鱗を、一枚ずつ指の腹で確かめている。手つきが慣れていた。ボタンは検査官の指を嫌うが、この男の指は嫌がらず、それどころか鼻先で男の袖を押していた。竜舎の匂いがするのだと、後でピムが言った。
「番か」
「セシル・ラントでございます」
「健康だ。鱗の艶がいい。炉の火を吐いていないな」
「休暇中でございます」
「誰が」
「番が。竜もです」
竜舎長は手を止めて、わたしを見た。それから屋敷の方を見た。窓という窓が閉まり、煙突からは薪の煙が細く出ている。廊下の窓の向こうを、毛布が歩いていった。
「あれは何だ」
「ジゼル様でございます」
竜舎長は笑った。腹の底から出る大きな声で、中庭の鳩が二羽飛び立つまで笑った。
「竜騎士団に長くいたが、番が休暇を取ったのは初めて聞いた。規則にはある。番の休みは竜の休み。書いたのは俺の親父だが、誰も使わんので死文だと思っていた。三年前に読んだのか」
「はい」
「使ったのか」
「はい」
「いい番だ」
竜舎長はボタンの腹を軽く叩いて立ち上がった。わたしより頭ひとつ半、背が高い。
「休暇は、いつまでだ」
「六十日のうち、残り二十日でございます」
「明けたらどうする」
「決めておりません。休暇中ですので、決めるのも休みながら」
「竜舎に来い。番が足りない」
「番が」
「四十年前に孵った古竜がいる。番が死んで二十年、誰も炉の前に立たせん。凍えた屋敷で四十日、誰に頼まれても炉の前に立たなかった番だ。懐かん竜の前に座るのも、同じ根気だろう」
「条件は」
「休暇、年三十日」
「……前職より、十日多うございますね」
「休暇明けまでに返事をしろ」
竜舎長はそれだけ言って、ボタンの頭をひとつ撫でて帰っていった。ボタンは門の外まで見送りに行こうとして、わたしが呼ぶと戻ってきた。
三日後の朝の報告は、少し長かった。
「若様が、ボタン様に肉やろうとして、尻尾で池に入りました」
「池は、凍っておりましたか」
「半分。……それから、その後、三十分、ボタン様の前に立ってました。ずぶ濡れで。何も言わずに」
その夜、扉を叩く音がした。ピムの叩き方ではなかった。
髪の乾ききっていないマティアス様が、廊下に立っていた。
「……毎朝、あれをやっていたのか」
「炉の前に立つだけでございます」
「立つだけで、あの尻尾が来ないのか」
「わたしには来ません。三年前に一度だけ来ました。孵った日に」
マティアス様が、自分の右手を見た。手の甲から手首にかけて、鱗で擦れた赤い跡が走っている。
「……ここか」
「一週間もすれば消えます。わたしのは、三年経っても薄くなっただけですが」
わたしは右手の手袋を外して見せた。手の甲に白い線が一本残っている。マティアス様は、それを初めて見る顔をした。
「一度も言わなかったな」
「言う機会が、朝六時にはございませんでした。皆様、お休みでしたので」
マティアス様は何か言いかけて、やめて、廊下を戻っていった。
マティアス様の右手に、竜の尻尾の跡がついた。三年前のわたしと同じ場所に。
◆
【残り三日】
残り四日の夜、ボタンは来なかった。
窓の下がいつまでも冷たい。昼にピムが言っていたことを思い出す。伯爵が王都から、資格を持った竜番を呼び寄せたそうだ。夕方に着いて、今夜は炉の前で寝ずの番をし、明朝の火入れをやってみせると言っていたという。
わたしは寝台で、窓の音を待った。
来ない。
休むのは得意なつもりでいた。待つのは、そうでもないと分かった。毎朝、同じ場所に立った。ボタンはいつも、わたしが立つより先に来ていた。来ないのはこれが初めてだ。
来ないというのは、こういうことか。
三年前の晩のことを考えた。
この屋敷に着いた夜、案内されたのは地下の炉の前だった。誰が抱いても温めても孵らなかった卵が、藁の上に置いてあった。伯爵は「孵せるなら孵してみよ」と言い、マティアス様は「無理だろ」と言って、二人とも寝に行った。
わたしは卵を膝に乗せて、朝まで炉の前に座った。夜明け前に、ぱき、と殻が鳴った。出てきたものは丸くて、赤くて、最初にしたのがわたしの右手を尻尾で叩くことだった。手の甲の皮が剥けた。痛かったが、離さなかった。離したら、この竜は二度と誰にも懐かない。それだけは、読んだ規則で知っていた。
あれから毎朝、あの場所で会っていた。会っていただけだと思っていた。
毛布を一枚足して、それでも眠れずに、夜明けを待った。窓枠が、夜のうちに何度か軋んだ。
朝になって、焦げた匂いで目が覚めた。
窓の下で、ボタンが焦げた外套の切れ端をくわえて丸くなっていた。ピムの報告によれば、王都の竜番は明け方まで名を呼び続け、しびれを切らして炉の口に手を入れたところでボタンが目を覚まし、竜番の外套の裾に火がついたそうだ。竜番は眉を焦がして、朝一番の馬車で帰った。
ボタンは窓から入ってきて、わたしの寝台に乗った。今まで一度もしなかったことだ。
「重うございます」
「ぐるる」
「わたしの休暇は、あと三日です。あなたも三日」
「くう」
ボタンは降りなかった。
昼過ぎ、玄関の方が騒がしくなった。窓から見ると、馬車に毛布を九枚積んでいるところだった。ジゼル様がその横に立って、襟巻きの中から玄関に向かって言った。
「寒いのは無理ですのぉ。マティアス様は暖かい方だと思っておりましたのに」
マティアス様は玄関に立っていたが、何も言わなかった。馬車が門を出るまで、ずっとそこにいた。
夕方、廊下の足音が部屋の前で止まった。伯爵だった。この部屋に来たのは初めてだ。
「うむ」
「どうぞ」
伯爵は椅子に座り、寝台の上のボタンを見て、それから窓を見た。
「第七条を、もう一度読んだ」
「四回目でございますか」
「五回目だ」
伯爵は膝の上で、契約書を畳んだり開いたりした。
「……休暇が明けた後、残る気はないか。条件は、何でも」
「ございません。休暇明けのことは決めております」
「竜舎長か」
「はい」
「うむ」
伯爵は、寝台のボタンをもう一度見た。
「卵を、また取り寄せる」
「孵す者がいれば、孵ります」
「誰が孵す」
「朝六時に、炉の前に立てる方が」
伯爵は、うむ、とだけ言って部屋を出ていった。
残り三日。ボタンはわたしの寝台から、一歩も降りなかった。
◆
【残り零日】
荷物は来たときの鞄ひとつに収まった。着替えと、竜番の手袋を一組入れれば、どこの炉にも立てる。
門の前に、竜舎の馬車が来ていた。竜舎長が御者台から降りて、ボタンに手を振った。ボタンは走っていって、竜舎長の脚に体当たりをした。
玄関にマティアス様が立っていた。
「……破棄を取り下げると言ったら、どうする」
「破棄は伯爵家の宣言でございます。わたしは休暇を消化しただけです。取り下げても、六十日が戻るわけではございません」
「竜は」
答えたのは竜舎長だった。
「竜舎法により、孵した者から引き離すことはできん。本日付で王宮竜舎に登録した。番、セシル・ラント。所有は番に付随する」
伯爵が玄関の奥から出てきた。
「うむ」
「お世話になりました」
「……三年前、笑ったのは私だ。竜番が休めるものかと。休めるのだな」
「休めます。契約に書いてあれば」
伯爵はしばらく黙って、それから、契約書の第七条を指で押さえた。
「次の契約は、私が全部読む」
「それがよろしゅうございます」
馬車に乗ろうとしたところで、後ろから足音がした。屋敷でいちばん速い足音だ。
「セシル様! おれも竜舎で働けますか」
「竜舎の休暇は、年三十日だそうです」
「行きます!」
竜舎長が眉を上げた。
「厨房小僧は要らん」
「竜舎に厨房はございませんか」
「……ある」
「なら、要ります」
竜舎長は、ピムを荷台に放り込んだ。
馬車が門を出るとき、わたしは一度だけ振り返った。マティアス様は玄関に立ったまま、右手の甲を左手で押さえていた。
馬車は街道を北へ向かった。ボタンは馬車の横を走り、疲れると荷台に飛び乗ってピムの膝に頭を乗せた。ピムは最初こわがっていたが、二つ目の村を過ぎる頃にはボタンの鼻先を撫でて「あったかいっす」と言っていた。
御者台の竜舎長は、道中ほとんど喋らなかった。峠の手前で一度だけ振り向いて「寒くないか」と訊いたので、「竜がおりますので」と答えた。竜舎長は前を向いて、それきりだった。笑うときは中庭の鳩が飛ぶほど笑い、喋らないときは峠ひとつ分喋らない人だと、竜舎に着いてから知った。
◆
【それから一年】
王宮竜舎の古竜は、名をガルドという。
ボタンの十倍の大きさで、鱗は黒く、番を亡くしてからの二十年、誰の呼び声にも応えなかった。竜舎の炉は薪で焚かれていて、竜騎士団の若い連中はそれが当たり前だと思っていた。
わたしは炉の脇に椅子を置いて、朝六時に座った。呼ばなかった。ボタンを膝に乗せて、ただ座った。二日目も座った。ガルドは寝ていた。
三日目の朝、ガルドは目を開けて、わたしの膝の上のボタンを長いこと見た。それから首を伸ばして、鼻先をわたしの膝に乗せた。四日目に火を吐いた。竜舎の管が二十年ぶりに温まって、若い連中が廊下で騒いだ。
六十日座る覚悟でいたので、少し拍子抜けだった。
竜舎に番はわたし一人だったので、着いた日に竜番頭になった。頭の下に誰もいない。
「竜番頭。休暇の申請だ」
竜舎長室の扉を開けて入ってきた竜舎長が、書類を一枚、机に置いた。
「わたしのですか」
「俺のだ。三十日。竜番頭も連れていく」
「竜番頭と竜舎長が三十日お休みになると、竜舎が凍ります」
「凍る。伯爵家と同じになる」
「よろしいのですか」
「竜舎には竜騎士が四十人いる。薪くらい割れる。割れなければ、割れるようになる。聞いた話では、ブランデル家の若様も今では割れるそうだ」
「……わたしの休暇も、三十日、未消化でございますが」
「知っている。だから申請だ。二人分、まとめて」
「行き先は」
「南の温泉。竜も入れる」
「それは職務でございますか、休暇でございますか」
竜舎長は書類の下から、もう一枚を出した。契約書だった。
「休暇だ。第七条に書いた」
わたしは受け取って、七条まで目で追った。
竜番頭の休暇は年に三十日。未消化分は繰り越す。消化の時期は番が定める。同伴者は、竜舎長に限る。
「……これは、婚約契約でございますか」
「そうだ」
「前の第七条より、条件がよろしゅうございますね」
「取らせるつもりはない。一人では」
「では、二人で」
竜舎長が、机の向こうから手を伸ばして、わたしの右手の手袋を外した。手の甲の白い線を、親指でなぞる。あの晩の跡はもう痛まない。
窓の下で、ふう、と火を吐く音がした。
見下ろすと、ボタンが丸くなって、竜舎長室の窓の下だけを、ゆっくりと温めている。
職務ではない。日向ぼっこだ。
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