第十話「綾の名を継ぐ者」
「キミ」
「はい」
「私が、ここに来てから——どれくらいの時間が経ったか、分かる?」
「……分かりません」
「私にも、もう、分からない。——でも、ずっと、あなたたちの暮らしを、見ていた」
綾の声は、懐かしむような響きを持っていた。
「巫女として生まれた子が、最初に泣く声。——御簾の中で、初めて立てるようになった日。——一人で、夜を過ごす寂しさ」
「それは——私のことだけじゃなく」
「そう。——代々の巫女、みんなのことを、見てきた。みんな、優しい子だった。——でも、みんな、独りだった」
キミの目に、また涙がにじんだ。
「綾様。——私が、最後の一人だったんですね」
「うん。——でも、最後でよかった、と思ってる」
「どうして、ですか」
「キミは——御簾を、自分で上げた。誰かに、命じられたわけじゃなく」
綾の声が、優しく続けた。
「これまでの巫女たちは、みんな、御簾の中で、一生を終えた。——でも、キミは違う。颯と一緒に、外に出た。志波や、雪と、話をした。鬼たちに、鈴を鳴らした」
「それは——綾様が、教えてくれたから」
「いいえ。——私は、ただ、声をかけただけ。動いたのは、キミ自身」
窓の外、社の方角で、七つ目の灯りが、また少し弱まった。
残された時間は、もう、わずかだった。
「綾様。——最後に、聞きたいことがあります」
「何でも」
「私の中から、綾様が、いなくなったら——私は、どうなるのですか」
「キミは——キミのまま」
「でも、黒い筋——綾様の力、も」
「うん。——それも、消える。でも」
綾の声が、少し笑った。
「キミの中に、私が見てきた、たくさんの『見ること』——それは、残る。——巫女としての力じゃなく、キミ自身の、目として」
「目、として……?」
「人と、人でないもの。——どちらの言葉も、分かる目。それは、私が与えたものじゃなく、キミが、この数日で、自分の力で、手に入れたもの」
「……」
「だから、大丈夫。——キミは、独りじゃない」
七つ目の灯りが、最後の光を、放った。
窓の外、社の方角から、淡い金色の光が——まるで、舞い上がる蛍のように、空へ向かって、ゆっくりと昇っていくのが見えた。
キミの指先の——金色の筋が、光と共に、薄くなっていく。
「綾様」
「うん」
「ありがとう、ございました」
「——ありがとう、キミ」
最後に聞こえた声は、今までで一番、優しかった。
そして——静かに、消えた。
窓の外で、七つ目の灯りが、完全に消えた。
社の奥から、最後の鬼の姿が現れた。それは——若い女性の姿をした、鬼だった。
その姿は、どこか——綾の声に似た、優しい雰囲気を纏っていた。
女性の鬼は、キミに向かって、深く頭を下げた。それから、ゆっくりと、四体の鬼たちのところへ歩いていき、一緒に並んだ。
五体の——鬼であった者たちが、揃って、キミに向かって、頭を下げた。
キミは、その光景を、静かに見つめていた。
涙は、もう、出なかった。ただ——胸の中に、温かいものが、残っていた。
翌朝、里には、いつもと違う光が、差していた。
御簾は、もう、どこにもなかった。
キミは、外廊に立ち、空を見上げていた。颯が、隣に来て、同じように空を見上げる。
「キミ様。——これから、どうされますか」
「……まだ、決めていません。でも」
キミは、颯を見た。
「外の世界を、もっと、見てみたいです」
「俺が、ご案内します」
「颯は、灯し手には——」
「もう、必要ありません。——灯りは、全部、消えましたから」
二人は、少し笑った。
志波と雪が、外廊の向こうから、こちらに歩いてくるのが見えた。雪の手には、綾の鈴が、そっと包まれていた。
「キミ様」志波が言った。「これから、里をどうしていくか——皆で、話し合いたいと思っています。——あなたの、お考えも、聞かせていただけますか」
「私の、考え……」
キミは、空を見上げた。雲一つない、広い空だった。
御簾の向こうにずっとあった、あの光が——今は、どこまでも、続いている。
「はい。——一緒に、考えます」
キミは、初めて、自分の足で、社の方へ向かって歩き出した。
その先に、五体の——もう「鬼」とは呼べない、優しい姿をした者たちが、待っていた。
完




