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第9話 九分を返さない時計

 

 時計は、時間を持っているような顔をしている。


 けれど本当は、たいていの場合、時間を配る側に立っている。


 起きる時刻。

 働き始める時刻。

 門が閉まる時刻。

 火を落とす時刻。

 名前を呼ばれる時刻。


 人は時計を見るたび、自分の一日がどこまで許されているかを確かめている。


 だから時計の遅れは、ただの故障とは限らない。


 その日、修復局へ運び込まれたのは、壁掛けの大時計だった。


 返還街区六番、旧染布工場食堂。

 用途、作業時刻告知。

 損傷、振子軸摩耗、針遅延、時鐘不鳴。

 処置、帝国標準時へ同期。


 伝票の端には、新しい青い紙片が留められていた。


 例外処置を行う場合、二十四時間以内に追加報告を提出すること。

 現地事後確認、必須。


 クラウゼン監査官の字ではない。


 監査局の定型文字だった。整っていて、誰の手も感じさせない。けれど、その紙片があるだけで、作業台の上に置いた道具が少し遠くなる。


 触る前から、もう誰かの目がそこにあった。


 私は青い紙片を外さず、時計を見た。


 丸い木枠の時計だった。


 帝都で使われる白い陶板の時計とは違い、文字盤は黄ばんだ羊皮紙でできている。数字は黒ではなく、濃い藍色で書かれていた。染布工場のものだからだろう。長い年月、蒸気と染料の匂いを吸ってきたせいで、紙の端は少し波打っている。


 針は十時十七分で止まっていた。


 偶然の位置かもしれない。


 けれど、止まった時計の針は、いつも何かを指しているように見える。


 裏蓋を開くと、振子の軸が摩耗していた。歯車には細かな染料の粉が入り込んでいる。鐘を鳴らす小さな槌は、紐が切れて垂れていた。時を知らせる鐘はもう長く鳴っていないらしい。


 故障として見れば、仕事は明確だった。


 軸を替える。歯車を洗う。紐を張る。鐘槌を戻す。標準時計に合わせて針を調整する。遅れを消す。


 帝国標準時へ同期。


 伝票の文字は短かった。


 時計の内部には、長く引き延ばされたような古い匂いがあった。油と金属、染料、湿った木、少しだけ焦げた砂糖のような匂い。食堂に掛かっていたとあるから、甘い粥か煮詰めた果物の匂いが染みているのかもしれなかった。


 私は振子を外した。


 そこで、奇妙なものを見つけた。


 振子の下端に、小さな鉛片が結ばれている。


 修理用ではない。


 細い赤糸で巻かれ、さらにその上から黒い糸で留めてある。手早い仕事ではなかった。何度もほどけ、何度も結び直された跡がある。鉛片の重さはわずかだったが、振子の周期を変えるには十分だった。


 時計は、壊れて遅れていたのではない。


 遅れるように、誰かが重さを足していた。


 私は標準時計を見た。


 作業台の上の大時計と比べる。

 針の位置。

 歯車の癖。

 振子の長さ。

 鉛片の重み。


 計算すれば、だいたい分かる。


 九分。


 この時計は、一日を通して少しずつ標準時から離れ、夕方にはおよそ九分、帝国の時刻から遅れるようになっていた。


 九分。


 人を助けるには短い。

 人を失うには、十分すぎることがある。


 午後、旧染布工場へ向かった。


 時計は工場の食堂に戻される予定だった。今は工場としては使われていない。返還後、共同炊事場と縫い場になったと聞いている。現地で掛け具の確認をし、鐘の響きも見なければならなかった。


 六番街区は、ほかの街区より湿っていた。


 染め場の水路がまだ残っているせいだ。石畳の隙間に藍色の水垢があり、壁の低いところには赤や緑の染みが薄く残っている。帝国の清掃班が何度こすっても、色は完全には落ちなかったらしい。


 旧染布工場は、細長い建物だった。


 高い窓。黒ずんだ梁。水を流すために少し傾いた床。奥の食堂には、長い卓が三列並んでいた。今は半分が縫い台になっていて、女たちが古着の縫い直しをしている。


 食堂の壁には、時計の跡が残っていた。


 丸く白い。


 時計があったところだけ、壁が染料を吸っていない。長い年月そこに掛けられていたものの輪郭が、時計がなくなったあとで初めて見える。


 その下に、女が立っていた。


 年は六十を越えているだろう。背は曲がっていないが、左手の二本の指が少し曲がったまま固まっている。染料で染まったのか、爪の際に藍色が残っていた。


「修復師さんですね」


「はい。リゼット・オルヴァです」


「ナラ・ヴィンです。昔、ここで布を染めていました」


 彼女は私の抱えている時計箱を見た。


「動きますか」


「動くようにはできます」


「そうですか」


 ナラは壁の白い丸跡を見上げた。


「それは困りましたね」


 私は時計箱を卓に置いた。


「困るのですか」


「動かないと、ただの古い時計でしょう」


 彼女は藍色の爪で、自分の手首を押さえた。


「動くなら、時刻を持ちます」


「標準時へ合わせる指示が出ています」


「でしょうね」


 驚いた様子はなかった。


 すでに諦めている人の声でもなかった。もっと乾いていた。長く水のそばにいたものが、表面だけ乾いたような声だった。


「この鉛片は、いつからですか」


 私は振子を見せた。


 ナラの目が、そこで少しだけ動いた。


「まだ残っていましたか」


「誰が付けたものです」


「私たちです」


「なぜ」


 ナラはすぐには答えなかった。


 食堂の奥で、針が布を抜ける音がしている。何人かが、こちらを聞いているのが分かった。それでも、誰も手を止めない。


「ここでは、夕鐘で門が閉まりました」


 ナラは言った。


「昔の工場の門です。帝国の管理官が来てからは、鐘が鳴った時点で外にいる者は欠勤、内にいる者は残業扱いになりました」


「残業」


「言葉はきれいでしたよ」


 ナラの口元が少し動いた。


「帰れない、という意味でした」


 私は時計の針を見た。


 十時十七分。


 動かない針は、まだ何も語らない。


「ここの女たちは、夕方になると子どもを迎えに行きました。染め場の裏に、子どもを預かる小屋があったんです。工場の外でした。鐘が正しく鳴ると、迎えに行く前に門が閉まる」


「それで、時計を遅らせた」


「最初は、一人がしました」


 ナラは振子の赤糸を見た。


「その人は、早く見つかりました。時計番を外されました。でも、次の日にはまた遅れていた。別の者が結んだからです」


 私は赤糸の上の黒糸を見た。


 ほどけた跡。

 結び直した跡。

 結び目が幾重にも重なっている。


「九分で足りましたか」


「足りません」


 ナラは即座に答えた。


「でも、九分あれば走れます。食堂から裏小屋まで、濡れた床を抜けて、階段を下りて、子どもを抱いて、門へ戻る。若い足なら、ぎりぎり」


「年を取った人は」


「子どもを持つのは、たいてい若い人です」


 彼女はそこで初めて、少しだけ笑った。


 笑いというより、昔の誰かの足音を思い出した顔だった。


「みんな、夕方になると少しずつ時計を見ました。針が遅れていることを知っているのに見るんです。まだある、と確かめるために」


「九分を」


「ええ」


 ナラは壁の白い丸跡に目を戻した。


「盗んだ時間でした」


 その言い方には、恥も誇りもなかった。


 ただ、事実としてそこに置かれた。


「でも、盗まなければ、子どもが門の外に残りました」


 縫い台の向こうで、誰かの針が止まった。


 すぐに、また動き出した。


「今はもう、門はありません」


「ありません」


「子どもを預ける小屋も」


「ありません」


「では、この九分は」


「もう誰も走らせません」


 ナラはそう言って、時計箱の縁に手を置いた。


「だから、戻ってきたら困るんです」


「正しい時刻に戻るからですか」


「いいえ」


 彼女は少し首を振った。


「正しい時計になったら、あのころ私たちが遅れていたことになるからです」


 私は黙った。


「違うんです。私たちは遅れていたわけじゃない。あの時計が、少しだけ待っていたんです」


 時計が待つ。


 そんなことは、規定には書けない。


 けれど、食堂の壁に残った白い丸跡を見ていると、そこに掛かっていた時計が、夕方ごとに針をほんの少し重くしていたような気がした。


「標準時へ合わせなければ、再検査になる可能性があります」


「そうでしょうね」


「例外処置にするなら、追加報告も要ります」


「難しいことは分かりません」


 ナラは私を見た。


「ただ、戻すなら、遅れていたまま戻してください」


 ナラの声は、こちらを動かそうとしていなかった。


 ただ、時計がそう進んできたと告げていた。


 私は時計を食堂の卓に置き、裏蓋を開いた。


 修理はその場で行うことにした。


 歯車を外し、染料の粉を払う。小さな刷毛に油を含ませ、軸を磨く。鐘槌の紐は新しく張り直した。ただし、時鐘を鳴らすかどうかは、まだ決めない。


 振子の赤糸には触れなかった。


 いや、触れないわけにはいかなかった。


 糸は傷んでいた。このまま動かせば切れる。切れれば、鉛片は落ちる。時計は標準時へ近づいていく。九分は、勝手に失われる。


 私は赤糸をほどいた。


 ナラの肩が、わずかに固くなった。


 縫い台の音も、少し薄くなった。


 私は新しい赤糸を出した。


 修復室から持ってきたものではない。食堂の縫い台にあった糸だ。染め直し用の残りだろう。少し太く、色は古い赤より暗い。


「同じ位置に結びます」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 鉛片を元の位置に戻す。


 ただ戻すだけではない。時計が動けば、振子は揺れる。揺れに耐えられるよう、糸の巻き方を変える。見た目は古いままでも、中では新しく支えなければならない。


 九分を残すには、九分が落ちないように作り直す必要があった。


 夕方までかかった。


 時計は動いた。


 針は進む。歯車は詰まらない。振子はゆっくり揺れる。鐘槌も戻したが、鳴らすかどうかを切り替えられるようにした。旧工場の食堂で、時刻を知らせる鐘が必要な日もあるだろう。必要でない日もある。


 時刻を合わせる。


 夕鐘のころ、帝国標準時より九分遅れて鳴るように。


 その瞬間、私の手元の標準時計がひどく急いでいるように見えた。


 壁へ掛けると、時計は白い丸跡にぴたりと収まった。


 もともとそこにあったものが戻った、というより、壁の方が時計を思い出したようだった。


 食堂の人たちは、作業を続けていた。


 誰も時計の前に集まらない。


 ただ、針が動き始めたあと、縫い台の手つきが少しゆっくりになった。ひと針分だけ、急がない時間が食堂に混じった。


 日が落ちる少し前、標準時計では夕の鐘の時刻になった。


 帝国の鐘が、遠くで鳴った。


 六番街区の人たちは、顔を上げなかった。


 針はまだ、鐘の時刻に届いていない。


 九分後。


 旧工場の時計の針が、夕の位置へ触れた。


 私は鐘槌の紐を、鳴る方へ倒していた。


 小さな鐘が鳴った。


 工場の食堂には大きすぎず、外の通りには少し届く程度の音だった。帝国の鐘より遅く、帝国の鐘より低い。


 その音で、ナラが立ち上がった。


 ほかに、三人ほどが顔を上げた。


 誰も走らなかった。


 もう、走る必要のある人はいない。


 それでもナラは、食堂の奥の扉を一度見た。


 そこは昔、裏小屋へ続く通路だったのだろう。今は板で塞がれ、その前に布束が積まれている。


 彼女の曲がった指が、布束の上に少しだけ置かれた。


 その手は、何かを抱き上げる形ではなかった。


 抱き上げ終えたあと、腕の重さだけが残ったような形だった。


 鐘が止む。


 食堂には、針の進む音だけが残った。


 ナラは椅子に座り直した。


「鳴るんですね」


「鳴らせます」


「毎日鳴らしますか」


「それは、ここで決めてください」


 ナラは時計を見た。


「では、夕方だけ」


 少し考えて、そう言った。


「毎時鳴ると、うるさいでしょうから」


 それはごく普通の理由だった。


 ごく普通の理由で、過去はようやく生活の中へ戻れるのかもしれなかった。


 私は青い紙片の裏に、現地確認の時刻を書いた。


 標準時より九分遅れて鳴る時計の下で、標準時の時刻を書いている。


 そのずれが、手元で小さく軋んだ。


 修復局へ戻ったのは夜だった。


 追加報告は二十四時間以内。


 私は机に座り、処置欄を開いた。


 帝国標準時へ同期。

 その指示の下に、新しい文を書く。


 振子軸修復。歯車洗浄。時鐘機構復旧。

 ただし、旧染布工場における生活時差九分を保存。

 夕刻鐘のみ鳴動可。

 標準時計としての使用不可。

 旧作業食堂時計として現地復帰。


 生活時差九分。


 少し変な言葉だった。


 けれど、九分遅れ、とだけ書けば、誰かが直す。

 故障ではないことを、紙の上に無理にでも立たせる必要があった。


 報告書を書き終えたころ、第三修復室の戸が軽く叩かれた。


 クラウゼン監査官だった。


 夜のこの時間に来ることは珍しい。


 彼は中へ入り、机の上の青い紙片と報告書を見た。


「二十四時間以内ですね」


「はい」


「現地作業は」


「済ませました」


「時差を残した」


「九分です」


 彼は報告書を読んだ。


 生活時差九分、のところで少しだけ目が止まった。


「また、嫌われそうな言葉ですね」


「他に思いつきませんでした」


「嫌われる言葉が、悪いとは限りません」


 そう言って、彼は紙を置いた。


 監査印は、まだ押さない。


 押すには、現地事後確認が要る。

 彼自身が決めたことだ。


「明日、六番街区へ行きます」


「承知しました」


 それだけで済むはずだった。


 けれど、クラウゼンは戸口へ戻らなかった。


 時計の外した古い赤糸が、机の端に置いてある。それを見ていた。


「これは」


「振子についていた糸です。切れかけていたので替えました」


「捨てますか」


「迷っています」


 彼は古い糸には触れなかった。


「残すなら、理由が要ります」


「捨てるなら」


「たぶん、もっと要ります」


 私は一度、息を逃がしかけた。


 クラウゼンは古い糸を見たままだった。


 ただ、夜の修復室に、言葉にならない何かがひとつ置かれた。


「監査官」


「はい」


「押印保留の件は、通ったのですか」


 訊いてから、直接すぎたと思った。


 けれど彼は、少しも驚かなかった。


「まだです」


「そうですか」


「ただ、今日の報告書は受け取れます」


 その言い方が、ただの職務の返事ではないことを、私は分かってしまった。


 分かってしまったから、顔を上げなかった。


「ありがとうございます」


「礼にはまだ早い」


「では、預けます」


 私は報告書を彼の方へ差し出した。


 彼は受け取った。


 そのとき、指が一瞬だけ近づいた。


 触れたわけではない。


 紙一枚分の距離があった。


 けれど、時計の九分よりも、その距離の方が長く感じた。


 クラウゼンが出ていったあと、修復室はまた静かになった。


 机の上には、古い赤糸が残っている。


 九分を重くしていた糸。


 誰かが走るために、時計の腹へ結ばれていた小さな重りの跡。


 私はそれを捨てなかった。


 小さな封筒を出しかけて、やめた。


 封筒に入れれば、すぐに記録になる。

 記録になれば、名前を持つ。

 名前を持てば、いつか誰かが取り出して、説明しようとする。


 今夜は、まだ早かった。


 私は赤糸を、標準時計の隣に置いた。


 標準時計は正しく時を刻んでいる。


 赤糸は、何も刻まない。


 それでも、机の上では赤糸の方が、少しだけ長い時間を持っているように見えた。

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