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第1話 青く揺れる街灯

 

 帝国の夜は、白くなければならない。


 少なくとも、照明規定にはそう書かれている。


 街灯は白色であること。光量は一定であること。揺らぎ、偏色、残光、影溜まりを生じさせてはならないこと。帝都の夜は、その規定でできている。門から宮殿まで、橋の欄干から市場の石畳まで、同じ白さが同じ間隔で置かれ、人の顔も、荷車の轍も、こぼれた水の跡も、等しく見えるようになっている。


 白い夜は、治めやすい。


 帝国修復局へ運び込まれる品の中には、家の中で使うものだけではなく、町そのものから外されてくるものもある。


 街灯。井戸蓋。門札。鐘の舌。橋の飾り金具。


 壊れたから直すもの。


 壊れていないが、帝国式でないから直すもの。


 その日、私の机に置かれたのは、街灯の頭部だった。


 返還街区七番、西側路地、第三灯。伝票にはそうある。


 青光。光量不安定。標準白灯へ交換予定。


 銅の笠は黒ずみ、縁に小さな歪みがあった。玻璃は半分だけ曇っている。灯芯を包む魔石は古く、中心に細い罅が入っていた。


 白燐石ではない。


 辺境の湿地で採れる青蛍石だった。火を入れると、白ではなく、水の底のような青を吐く。


 私は灯室を開けた。


 油の匂いはほとんどしない。代わりに、雨に濡れた石と、古い鉄の匂いがした。何年も路地の角で夜気を吸っていた物の匂いだった。


 直すだけなら、難しくない。


 青蛍石を外し、白燐石に替える。玻璃を透明なものへ差し替え、笠の歪みを戻し、光量調整輪を帝国規格に合わせる。


 そうすれば、あの街区の夜も白くなる。


 報告書にも短く書ける。


 第三灯、標準化完了。


 本来なら、それで終わる仕事だった。


 昼過ぎ、局長のグレタ・フォルンが修復室に入ってきた。


 灰色の髪を後ろで束ね、襟元の留め具まで隙のない人だった。声を荒げるところを見たことはない。その代わり、彼女が名前を呼ぶと、たいてい何かの期限が一日短くなる。


「オルヴァ修復師」


「はい」


「七番街区の灯具は、明日の夜に点灯確認をします」


「予定では三日後です」


「監査が入ります」


 私は手を止めた。


「返還監査局ですか」


「ロートフェルト家から人が来るそうです」


 ロートフェルト。


 帝国西部の旧公爵家。今は返還事業と文化財管理に深く関わっている。貴族というより、規定そのものに血を通わせたような家だと、修復室では言われていた。


「粗を出さないで」


 フォルン局長はそう言った。


 責める口調ではなかった。雨の日に窓を閉めるような声だった。


「規定どおりに」


「承知しました」


 局長が出ていったあと、私はもう一度、街灯の内部を見た。


 青蛍石は確かに寿命だった。罅から光が漏れる。灯芯受けも歪んでいる。古い形式のままでは、次の冬を越せないだろう。


 ただ、壊れているものと、壊してよいものは違う。


 その区別を、私はまだ上手く言葉にできなかった。


 夕方、受付から呼ばれた。


 七番街区の者が来ているという。


 私は手袋を外し、修復室の奥にある面談卓へ向かった。


 来ていたのは、若い女だった。


 代表者というには年若く、娘というには疲れていた。外套の裾に白い粉がついている。粉挽き場か、石切り場で働く者の粉だった。


 女は名乗らなかった。


 私も訊かなかった。


「西側路地の灯りのことです」


「修復中です」


「白くなるんですか」


 私は伝票を見た。


「規定では、そうなります」


 女はうなずいた。


 抗議に来た人間は、もっと粘るものだと思っていた。けれど彼女は、すでに断られたあとの顔をしていた。ここへ来るまでに、同じ答えを何度も受け取っている顔だった。


「父が」


 女はそこで言葉を切った。


 面談卓の端に、白い粉がひと粒落ちた。彼女の袖からこぼれたものだった。


「父が、あの灯りで曲がるんです」


「灯りで」


「はい」


 女は自分の手を見た。爪の際まで粉が入っている。


「番地は読めます。昔の番地なら」


 私は黙っていた。


「でも、今の門札は全部新しいので」


 その言い方で、私は少しだけ分かった。


 忘れたのではない。

 覚えていたものの方が、取り替えられすぎたのだ。


「区画名も、通りの名も、家の番号も変わりました。父は覚え直そうとしました。でも、覚えた頃には、また札が替わりました」


 声は静かだった。


 静かな声ほど、崩れるまでの距離が長いことがある。


「あの人、夜になると、白い灯りを全部同じものだと思うんです」


 女は言った。


「でも青い灯りだけは、分かる」


 私は面談記録用の紙へ目を落とした。


 書ける欄はあった。


 しかし、そこに書ける言葉は少なすぎた。


「青蛍石は割れています。今のままでは使えません」


「はい」


「白燐石に替えれば、長く持ちます。明るさも安定します」


「はい」


「青くはなりません」


 女はそこで、少しだけ息を吸った。


「白い灯りは、どれも同じに見えるそうです」


 それだけ言って、女は立ち上がった。


 深く頭を下げることはしなかった。深くすると、頼みごとになるのを知っている人の礼だった。


「すみません。言っておきたかったんです」


「何を」


「白くなる前に」


 その言い方で、私はようやく分かった。


 彼女は灯りを守りに来たのではない。


 なくなるものの前で、一度だけ名前を呼びに来たのだ。


 面談室を出ると、修復室の窓はもう暗かった。


 私は街灯の前に戻った。


 青蛍石を取り出す。小さな罅は、思ったより深く入っていた。石の内部で古い光が凍ったように濁っている。


 これを残すことはできない。


 火を入れれば、弾ける。


 私は棚から白燐石を取った。


 帝国の石はよくできている。形も揃い、熱にも強い。工房で扱うには楽だった。


 楽なものは、たいてい正しいものの顔をしている。


 交換し、灯芯受けを直し、玻璃を磨く。そこまでは規定どおりだった。


 だが、笠の内側を研磨するとき、私は手を止めた。


 古い笠の片側だけ、青く焼けた曇りが薄く沈んでいる。


 長年、青蛍石の光を受け続けた跡だった。


 完全に磨けば消える。残せば、白い光の端にわずかに色が乗るかもしれない。


 規定では、反射面の汚れは除去する。


 私は布を替えた。


 粗い布ではなく、柔らかい布で、曇りの表面だけを払った。


 消すのではなく、薄くする。


 汚れではないと言い張れる程度に。


 痕跡とも呼べない程度に。


 仕事としては、卑怯な手だった。


 それでも、その夜の私は、完全に正しくなることの方を少し恐れた。


 翌日、監査官が来た。


 ユリウス・クラウゼン・ロートフェルト。


 受付係がそう告げたとき、修復室の空気が少し硬くなった。


 入ってきた男は、想像より若かった。黒い外套に、銀の細い留め具。手袋は薄く、靴には泥がない。歩く音も小さかった。


 身分の高い者というより、埃を立てないことに慣れている者の足取りだった。


 局長が応対し、私は街灯の前に立った。


「担当は」


「リゼット・オルヴァです」


 彼は私の名を帳簿に照らした。


「オルヴァ修復師」


「はい」


「七番街区、第三灯。青光を白灯へ標準化。相違ありませんか」


「相違ありません」


 彼は灯具を見た。


 触れなかった。


 まず見る人だった。


 銅笠の縁。玻璃の厚み。灯芯受けの角度。白燐石の座り。順に視線が移る。その速さで、ただの貴族ではないと分かった。


 ものを知らない人間は、古い道具を見るとき、古さから見る。


 彼は構造から見ていた。


「反射面に、色が残っています」


 私は息を止めなかった。


「経年による焼きつきです」


「除去不能ですか」


「過度に磨けば、笠が痩せます」


「規定上は、光色への影響が出ない範囲で残置可」


「はい」


 彼は少しだけ目を上げた。


 咎める目ではなかった。


 信じた目でもなかった。


「夜に確認します」


「承知しました」


 それだけで、昼の検査は終わった。


 点灯確認は日没後だった。


 七番街区の西側路地は、帝都の通りとは違っていた。石畳の幅がそろっていない。壁は低く、窓の位置も家ごとにずれている。


 新しい門札だけが白く、どの家にも同じ形で打ちつけられていた。


 その白さが、かえって町を見知らぬものにしていた。


 第三灯は路地の角に戻された。


 支柱は古いままだった。根元に誰かが刻んだ傷がある。文字ではない。たぶん背丈を測った跡だ。何本もあり、一番上の線だけが新しい。


 私は灯具を固定し、火入れの合図を待った。


 クラウゼン監査官は少し離れたところにいた。フォルン局長と街区吏員もいる。路地の奥には、住人が何人か立っていた。


 昨日の女もいた。


 彼女の隣に、老人がいる。


 背は低く、杖を持っていた。門札を見る目ではなく、空気の冷たさを測るような目で、路地の角を見ている。


 合図が出た。


 白燐石に火が入る。


 街灯は白く灯った。


 まず足元が明るくなり、壁の凹凸が浮いた。帝国の規定どおりの明るさだった。光量は安定している。点滅もない。玻璃の曇りも出ない。


 フォルン局長が小さくうなずいた。


 私は灯りの縁を見ていた。


 白い光が銅笠の内側で反り、壁に落ちる。その端に、ほんの薄く青が出た。


 青というより、白が少しだけ夜へ戻るような色だった。


 目を凝らさなければ分からない。


 けれど、歩いてくる者には分かるかもしれない。考える前に、足が拾うくらいには。


 路地の奥で、老人が動いた。


 女が手を貸そうとしたが、老人は杖を持ち直しただけだった。


 門札を見なかった。


 家の番号も見なかった。


 灯りの下まで来て、壁に落ちた薄い青を一度だけ見た。


 それから、右へ曲がった。


 何も起きなかった。


 ただ、人がひとり、自分の家の方へ曲がった。


 それだけのことだった。


 クラウゼン監査官が、私の隣に来た。


「白灯ですね」


「はい」


「光量も安定している」


「はい」


「端が青い」


 私は答えなかった。


 彼は灯りを見上げていた。


 青い端ではなく、その下を通った老人の足元を見ているようだった。


「仕様書にはありません」


「承知しています」


「次に同じ処置をするなら、先に申請してください」


 その声は冷たかった。


 冷たいまま、正しかった。


「今回は」


 彼は帳簿を開いた。


 紙面に小さな影が落ちる。彼の手袋の影だった。


「光量に異常なしとします」


 私は彼の横顔を見なかった。


 見れば、何かを期待しているように見える気がした。


 彼は筆を走らせた。


 第三灯、標準白灯化完了。光量、安定。再点検、冬至前。


 最後の欄に、印が押された。


 適合。


 その二文字は、街灯の光よりも白く見えた。


 路地の向こうで、昨日の女が老人の背中を追っていった。


 彼女は礼をしなかった。笑いもしなかった。ただ、一度だけ灯りを見上げた。


 その顔に、救われたというほどのものはなかった。


 なくならなかった、というだけの顔だった。


 修復局へ戻る道で、フォルン局長は何も言わなかった。監査官も別の馬車に乗った。


 私は工具箱を膝に置き、揺れに合わせて中の金具が鳴るのを聞いていた。


 正しい仕事をしたのかは、分からなかった。


 規定を破ったと言うほどのことではない。


 人を救ったと言うほどのことでもない。


 ただ、白くなるはずだった夜の端に、少しだけ前の色が残った。


 その程度のことを、私はした。


 修復室に戻ると、机の上には古い路地図が置かれていた。


 返還街区七番からの追加品だった。


 私は外套を脱ぎ、手袋を替えた。


 机の灯りは白い。


 修復室の夜は、帝国の規定どおりに明るい。


 路地図を広げると、新しい区画名の下に、古い通りの名が薄く透けていた。


 インクが完全には削れていない。


 消すべきか。


 残すべきか。


 まだ判断する段階ではなかった。


 私は紙押さえを手に取った。


 薄い名の上へ置こうとして、やめた。


 灯りの端に残った青が、まだ指の腹にある気がした。

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