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彼女は涙を信じない~感情を捨てた合理主義の少女が、辺境の「美談」を物理法則とコスト計算で論破していく件~』  作者: 紅茶


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第8話:吹雪の密室と、囚人のジレンマ

地下の食糧庫と処理槽の検分を終えたエルナとクライヴは、足音高く司令室へと戻った。


暖炉の前でくつろいでいた三人の士官たちは、二人のただならぬ空気に怪訝な顔を向ける。


「査問官殿、検分は終わりましたかな? そろそろ王都への帰還と、恩給の手続きを――」


「小隊長殿。あなた方の報告書には、致命的な計算の誤りが存在しています」


エルナは小隊長の言葉を遮り、無機質な声で告げた。


「23名の成人男性が、この備蓄量で吹雪の2ヶ月間を耐え抜いたとすれば、あなた方は餓死寸前まで衰弱しているのが物理的に正しいはずです。現在の食糧や生活物資の減り具合は、正確に『3名の人間が冬の初めから消費し続けた量』と一致します。……あなた方は、2ヶ月前に部下20名を殺しましたね?」


静寂が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、異様に大きく響く。


三人の顔から、スッと血の気が引いたのがクライヴの目にもはっきりとわかった。


「な、何を馬鹿なことを!」


最初に叫んだのは炎の魔術師だった。


「ふざけるな! 俺たちは英雄だぞ! 部下たちは魔族に殺されたんだ! 魔族が壁を破って――」


「そ、そうだ、空から来た魔族が壁を破って!」


斥候が慌てて遮る。


「そう、空から魔法を撃ってきたんだ!」


「ちょっと待て! お前ら何を言っている!」


小隊長がしどろもどろに怒鳴り返す。


エルナは丸眼鏡の奥で、冷ややかに目を細めた。


「魔族が壁を破った。空から焼かれた。……なるほどなるほど」


クライヴが剣の柄に手をかけ、三人を鋭く睨み据える。


「エルナ殿、こいつらの証言……」


「ええ。完全な破綻を見せています。クライヴ様、彼らを別々の部屋に隔離してください。人間の記憶は嘘をつく際、互いに都合よく補完し合う性質があります。これから個別に証言を採取します」









物理的な証拠を突きつけられ、パニックに陥った彼らの口から出たのは、見事なまでに食い違う三つの死因だった。


エルナは防音の施された地下の個室を一部屋ずつ回り、彼らの証言を冷徹に手帳へ書き留めていく。


小隊長は「巨大な魔族が壁をぶち破り、寝ていた二十人をあっという間に踏み潰した」と主張した。


炎の魔術師は「飛行する魔族の群れが空から炎を降らせ、二十人は一瞬で灰になった」と主張した。


斥候は「魔族の工作員が我々の水源に猛毒を混ぜ、それを飲んだ二十人が血を吐いて死んだ」と主張した。


数十分後。


再び司令室に集められた三人は、互いに疑心暗鬼の視線を向け合っていた。


「見事な『羅生門効果』ですね」


エルナは三つの証言が書かれたページを破り取り、暖炉の火へと無造作に放り投げた。


「らしょうもん……効果?」


「ええ。ある一つの事件に対し、関係者の証言がそれぞれ自分の都合の良いように食い違い、真相が藪の中に入ってしまう現象のことです。あなた方は『魔族の襲撃で二十人が死んだ』という大枠の嘘だけを共有し、具体的な死因までは口裏を合わせていなかった。だから、いざ証拠を突きつけられて隔離されると、それぞれがアドリブで適当な嘘をつき、このように全く噛み合わない三つの物語が完成したのです」


「ち、違う! 俺の言ったことが真実だ! こいつらが混乱して記憶が――」


「いいえ。すべて嘘です」


エルナは小隊長の弁明を冷酷に切り捨てた。


「魔族が壁を破ったのなら、なぜ砦の内側に魔族の足跡がないのですか。空から焼かれたのなら、なぜ木製の屋根が延焼していないのですか」


「うっ……それは……」


「物理法則と論理は、決して嘘をつきません。嘘をつくのは、己の罪を隠蔽しようとする愚かな人間だけです」


三人の士官は完全に言葉を失い、蒼白になって立ち尽くした。


自分たちは英雄として王都へ凱旋し、莫大な恩給を手にして遊んで暮らすはずだったのだ。


こんな小娘の算数一つで、すべてが瓦解するとは夢にも思っていなかったのだろう。


「エルナ殿。こいつらが部下を殺したことは、もはや疑いようがない。俺がこの場で拘束する」


クライヴが剣を抜き放ち、三人に刃を向ける。


「待ってください、クライヴ様」


だが、エルナは手でそれを制した。


「彼らの証言が破綻していることは証明できましたが、これだけではまだ『部下を殺した』という確実な自白には至っていません。言い逃れできないよう、少しばかりゲームをしましょう」


「ゲーム、だと?」


エルナは無機質な瞳で三人を見据え、氷のような微笑を浮かべた。


「ええ。極めて合理的で、誰もが自分の利益を最大化しようとする楽しいゲームです。……さあ、あなた方の中で一番賢いのは誰か、私が試して差し上げます。クライヴ様。彼ら三人を、砦の地下にある別々の保管室へ隔離してください。互いの声が絶対に聞こえないように」









エルナが仕掛けたのは、単純な心理戦だった。

いわゆる、囚人のジレンマという心理実験だ。


彼女は防音の施された地下室を一人ずつ回り、三人の士官に対して全く同じ「悪魔の取引」を持ちかけたのである。


「私は、あなた方が真摯な協力の結果、二十人を殺したという確実な証拠を得ることができました。ですが、書類仕事を手短に終わらせるために『自白』が欲しい。今から五分間だけ、特別な司法取引に応じます」


エルナは冷たい石壁に背を預け、淡々と告げた。


「最初に『他の二人に脅されて殺人に加担した』と自白した一名だけは、罪を免除し、英雄としての恩給も全額保証しましょう。しかし、他の誰かが先に自白した場合、あなたは主犯として縛り首です。……さあ、誰が一番合理的で賢い選択をするでしょうか?」








「エルナ殿、これではまるで心理的な拷問だ。騎士道にも反する!」


扉の外で待機していたクライヴが非難するが、エルナは無言で首を振る。


「拷問ではありません、ただのゲーム理論です。保身のために部下二十人を切り捨てるような利己的な人間は、自身の死という最大リスクを回避するため、必ず他者を裏切るように計算式ができています」


エルナの予測通り、五分も待つ必要はなかった。


「お、俺が話す! あの二人がやったんだ!」


「違う、隊長の命令だ! 俺は逆らえなかった!」


三人は「自分が黙っていても、他の奴が自白すれば自分は死刑になる」という機会損失の恐怖に耐えきれず、我先にと他の二人を売り、すべての真相を自白したのだ。


彼らは冬の初日、備蓄食糧では全員が生き残れないと計算し、部下二十人のスープに毒を盛って口減らしを行った。そして死体を砦の外へ投げ捨てた後、激戦を装うために自分たちで砦の防壁を魔法で破壊し、「英雄の防衛戦」をでっち上げていた。









司令室に再び集められた三人は、互いを憎悪の目でにらみ合いながらも、エルナの裁定を待った。


「限られた食糧の中で消費者を減らし、優秀な指揮官三名が生き残ったことは、国家の戦力維持において極めて合理的なトリアージです。生存戦略としては満点ですね」


エルナが殺人の罪をあっさりと不問にすると、三人は醜く安堵の息を吐いた。


クライヴは騎士としての怒りで剣の柄を強く握りしめる。


「ですが」


エルナの声の温度が、一瞬にして氷点下まで下がった。


「あなた方は偽装工作のために、国家の重要防衛インフラである『砦の防壁』を故意に破壊しました。これは一級の『国家財産毀損罪』です。さらに、架空の戦闘で恩給を騙し取ろうとした『国庫に対する重大な詐欺未遂』。こちらは殺人よりも重罪です」


「なっ……! 約束が違うぞ! 最初に自白すれば恩給をくれると――」


「『最初に自白した一名だけ』と言いましたよ。あなた方は三人とも、見事な同着でしたからね。条件は満たされていません」


エルナは冷酷な官僚の顔で報告書を突きつけた。


「あなた方三名には、破壊した防壁の補填として、無期懲役を命じます。どこで働くかは、追って通知します」


三人が絶望して床に崩れ落ちた、その瞬間だった。


ジリリリリリッ!


砦の司令室に設置されていた『外敵検知の魔導器』が、突如として赤く点滅し、鼓膜を劈くような警報音を鳴らし始めた。


「なんだ!?」


クライヴが窓の隙間から外を覗き込み、息を呑んだ。


猛吹雪の向こう側から、巨大で悍ましいシルエットが次々と姿を現したのだ。


その数、およそ三十。


「ま、魔王軍の残党……!? なぜ、こんな吹雪の中に!」


腰を抜かす小隊長を一瞥し、エルナは手帳を開いた。


「簡単です。あなた方が隠蔽のために外へ捨てた『二十名分の死体の匂い』に引き寄せられたのでしょう。そして彼らは今、あなた方がご丁寧に破壊してくれた『壁の穴』から、この砦へ雪崩れ込もうとしています」


エルナの無機質な宣告通り、飢えた魔族の大群が、防壁の崩落箇所へと殺到していた。


極寒の密室は一転して、逃げ場のない地獄の最前線へと姿を変えた。

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