第7話:英雄の帰還と、合わないカロリー
エルナとクライヴが次に向かう査問先は、王国の最北端に位置する国境砦。
外界と隔絶されたその道中は、文字通りの白魔の世界だった。
「ひどいな……前が全く見えないぞ」
御者台で手綱を握るクライヴが、厚手の防寒具の隙間から唸り声を上げる。
ここは一年を通じて「魔力吹雪」が吹き荒れる極寒の地。
単なる雪ではなく、大気中に高濃度の魔力粒子が混じって物理的な暴風を巻き起こす、自然の要塞である。
「クライヴ様、風向きからしてあと十五分ほどで砦に到着します。……しかし、少々厄介なことになりました」
馬車の小窓から顔を出したエルナは、珍しく不機嫌そうな顔をしていた。
「厄介なこと?」
「ええ。この吹雪に含まれる微細な魔力粒子が乱反射を引き起こし、私の視界は完全にノイズで埋め尽くされています。空間の魔力残滓を読み取る能力は、この環境下では一切使い物になりません」
エルナの最大の武器とも言える「魔法の痕跡を色として視認する目」が、この吹雪の砦では完全に封じられてしまっているのだ。
「魔力で調べられないなら、どうやって査問を行うつもりだ?」
「もちろん算数です」
エルナは眼鏡をバッグにしまい、代わりに厚手の革表紙の手帳を取り出した。
「魔法が使えなくとも、人間が生活する上で必ず発生する『物理の痕跡』は嘘をつきません」
※
砦の重い門をくぐると、三人の男たちが出迎えてくれた。
この砦を任されていた小隊長と、炎の魔術師、そして斥候の士官たちだ。
彼らの頬はこけ、ひげは伸び放題で、過酷な籠城戦の疲労が色濃く刻まれていた。
「王都からの査問官殿、よくぞお越しくださった」
小隊長が敬礼をしてエルナとクライヴを迎え入れた。
事前の報告によれば、この砦には本来二十三名の小隊が駐留していた。
しかし、魔王軍の残党による大規模な襲撃を受け、内二十名が戦死。この三名だけが生き残ったという。
王立魔導調査局から派遣されたエルナの今回の任務は、彼ら三名に対する「英雄としての叙勲」および、遺族たちへ支払われる莫大な「特例戦死恩給」の最終承認を行うことだった。
暖炉の火が燃える司令室で、小隊長は涙ながらに語り始めた。
「……三日前でした。吹雪に紛れて、三十体は下らない魔族の大群が押し寄せてきたのです。物資も底を尽きかけていた我々に、勝ち目はなかった」
「三十体もの魔族を相手に、たった三人でどうやって生き延びたんだ?」
クライヴの問いに、炎の魔術師が悔しそうに唇を噛んだ。
「……新兵の二十人が、自ら囮になると志願したのです。彼らは、我々士官三人だけはどうにか王都へ生還し、敵の動きを報告してくれと言い残して……魔族の群れへと突撃していきました」
「我々は彼らの気高き自己犠牲のおかげで、内側の区画を封鎖し、生き延びることができたのです……っ!」
斥候の士官も顔を覆ってむせび泣く。
その自己犠牲の精神と、戦友を想う熱い絆の物語に、クライヴは深く心を打たれた。
「そうだったのか……。彼らは真の英雄だ。王国騎士団の名において、必ずや彼らの遺族が不自由なく暮らせるよう、手配を約束しよう」
クライヴが深く頭を下げる中、エルナだけは一切の表情を変えず、手帳に何かを書きつけていた。
「……エルナ殿?」
「ああ、お気になさらず。戦死した二十名分の備蓄物資の損害額を計算しているだけですから。恩給の承認手続きの一環として、砦の『食糧庫』と『汚物処理場』を検分させていただいてもよろしいですか?」
「おぶつ……あ、トイレですか? は、はい。どうぞご自由に……」
士官たちは怪訝な顔をしたが、査問官の要求を断ることはできず、案内を承諾した。
※
食糧庫は、砦の地下にあった。
そこへ降りる階段の途中、エルナは石造りの天井や壁の構造を興味深そうに観察していた。
「防寒と防衛を兼ね備えた、合理的な造りですね。中央ホールからこの地下や居住区へ続く連絡通路には、分厚い『落とし格子』が等間隔で設置されている。いざという時は敵を分断できるわけですか 」
「ああ。だが、それだけじゃない」
小隊長が誇らしげに語る。
「この砦は気密性が高い分、換気には気を使っている。各部屋や地下の処理槽から発生するガスを逃がすため、人が一人這って通れるほどの『換気ダクト 』が、中央ホールの天井を経由して居住区の奥まで張り巡らされているんだ」
「なるほど。空気の循環ルートまでもが計算されていると。素晴らしい」
エルナは手帳の隅に、砦の簡易的な構造図を書き込んだ。
地下の食糧庫に到着すると、ひんやりとした冷気が漂う石室には、空になった木樽や麻袋が乱雑に積み上げられ、過酷な籠城生活の痕跡が生々しく残っていた。
「……算数を使うと言っていたが、どうする気だ?」
後ろをついてきたクライヴが小声で尋ねると、エルナはバッグから「巻き尺」を取り出した。
「容積を測るのです」
エルナは空になった木樽の直径と高さを測り、壁に残る小麦粉の飛散痕や、薪の灰の量まで、あらゆる物理的データを徹底的に測定していった。
さらに彼女は、先ほどすれ違った士官三名の体格や歩幅、そして先ほど確認した廃棄物処理場の蓄積量をも手帳の数式に組み込んでいく。
小一時間の検分を終え、エルナは手帳をパタンと閉じた。
「……計算が合いませんね」
「何がだ?」
「彼らの美談には、物理的なノイズが混ざっています」
エルナの透き通った瞳が、氷のように冷たく細められた。
「彼らは『三日前に二十人が死んだ』と言いました。つまり、それまでは二十三人の成人男性がこの砦で生活していたことになります」
「ああ、そう言っていたな」
「先ほど食糧庫の空き樽の容積と、残された備蓄量を正確に測定しました。もし二十三人の成人男性が、この備蓄量で吹雪の二ヶ月間(六十日)を今日まで耐え抜いたとすれば、一人あたりの一日の摂取カロリーは限界値を大きく下回ります」
エルナは手帳の計算式をクライヴに見せた。
「あなたも騎士ならわかるはずです。極寒の地で極端なカロリー制限を行えば、人間はどうなりますか?」
「……深刻な栄養失調と筋力低下で、まともに歩くこともできなくなるはずだ」
「その通りです。彼らはもっと『餓死寸前まで衰弱している』のが、物理的に正しいはずなのです。しかし、あの三人は疲労こそ見えましたが、体格や歩行のバランスから見て、十分なカロリーを摂取していた形跡がありました」
クライヴは息を呑んだ。
「まさか、彼らが嘘をついていると?」
「今のところ、確実なのは彼らが十分な栄養を取れていた、ということですね。現在の食糧や生活物資の減り具合は、正確に『三名』の人間が、冬の初めから一日も欠かさず標準カロリーを消費し続けた量とピッタリ一致するのです。資源が枯渇する明白な脅威があり、代替手段が見つからない状況下において、生き残るために最も手っ取り早い解決策はなんだと思いますか?」
エルナの残酷な問いに、クライヴは背筋に氷を当てられたような悪寒を感じた。
「……消費者を、減らすことだ」
「ええ。とても合理的なトリアージですね」
エルナは真新しいページに、一切の感情を交えずに事実だけを書き込んだ。
「これはまぁ、推測ですけど彼らは三日前に魔族の襲撃で部下を失ったのではありません。――彼らは、食糧を自分たち三人だけで独占するために、冬の初日に部下二十人を殺したのです」
「ま、まさか……」
「推測ですよ」
エルナはそこで言葉を区切り、手帳の次のページをめくった。
「ですが、その推測を『確実な事実』へと変える証拠がもう一つあります」
「証拠?」
「はい。先ほど食糧庫の後に検分した、砦の汚物処理場――つまり『トイレ』の蓄積量です」
エルナは、手帳に記された排泄物の体積計算式を指差した。
「人間の排泄量は、摂取した水分とカロリーにある程度比例し、一日あたりの平均的な体積が算出できます。もし、彼らの言う通り『二十三名の兵士が、三日前まで二ヶ月間生き延びていた』のであれば、地下の処理槽にはその人数と日数に見合うだけの膨大な排泄物が蓄積されていなければなりません」
クライヴの顔から、さーっと血の気が引いていく。
「しかし、処理槽に残っていた排泄物の総量は、どう計算しても『三名の人間が二ヶ月間かけて排泄した量』しかありませんでした。これはつまり、この砦では三人の人間しか生活していなかったということです。人間は、食べて排泄するという物理的サイクルからは絶対に逃れられない。魔法の痕跡は誤魔化せても、この圧倒的な質量の矛盾だけは、どうやっても誤魔化せません」
エルナはパタンと手帳を閉じ、冷酷な査問官の瞳で天井を――上の階にいる元・英雄たちを睨み据えた。
「彼らは嘘をついています。二十名の兵士は三日前ではなく、この冬の初日に殺された。これが、計算式の導き出した絶対の真実です」




