第4話:奇跡の村と、鉄壁の矛盾
馬車が村の境界を越えた瞬間、肌を刺すような乾いた風がふっと止んだ。
御者台から飛び降りたクライヴは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
「……信じられない。ここは本当に、あの報告書にあった『灰死病』の蔓延地域なのか?」
魔力毒によって枯れ果てた外の世界とは打って変わり、村の畑には青々とした作物が実り、水路には澄んだ水が流れていた。
そして何より、死の淵にあると報告されていた大人たちが、筋骨隆々とした腕に鍬を握り、日に焼けた顔に笑みを浮かべて農作業に汗を流しているのだ。
「おお、王都からの査問官殿! そして騎士様!」
恰幅の良い村長が、満面の笑みで出迎えてくれた。
「村長、これは一体どういうことだ? 報告では、村の大人たちの半数が致死性の疫病に倒れ、全滅は時間の問題だと……」
「それが、奇跡が起きたのです!」
村長は天を仰ぎ、感謝の祈りを捧げるように両手を組んだ。
「数日前、この村に一人の若く美しい聖女様が流れ着きましてな。彼女は村の惨状を見るや否や、教会に籠り、三日三晩、一睡もせずに祈りを捧げてくださったのです。すると、村人たちの病は嘘のように消え去り、こうして大地に恵みが戻りました!」
「なんと……無償の祈りで、これほどの奇跡を」
クライヴは感嘆の声を漏らした。
だが、ふと道中の出来事を思い出し、周囲を見渡す。
「しかし村長。これほど豊かな村であれば、外をうろつく飢えた野盗や魔獣の格好の的になるはずだ。自警団の姿も見当たらないが、防衛はどうしているんだ?」
「ご安心くだされ、騎士様。空を見てみなされ」
村長に促されて上を見上げると、村をドーム状に覆うように、空中の光が微かに歪んでいるのが見えた。
試しにクライヴが村の境界線に向かって石を投げると、石は空中の『何もない場所』でパチンと弾かれ、外へ転がり落ちた。
「結界……!? しかも、これほど巨大な物理遮断結界を村全体に張っているというのか!」
クライヴは驚愕した。
空間を隔絶するほどの結界は、王都の城壁や重要防衛施設でしか見られない代物だ。
「ええ。聖女様の祈りは、病を癒すだけでなく、我々を外の脅威から永遠に守る『見えない壁』まで作り出してくださったのです。野盗も魔力毒の灰も、もはやこの村には一切入ってこられません。我々は完全に救われたのです!」
村長が誇らしげに語る横で、馬車から降りてきたエルナが、静かにファインダー付きの手帳を開いた。
「……なるほど。光の屈折率から見て、高密度の空間固定魔術ですね」
エルナは無機質な瞳で空を覆う結界を見上げ、次に畑で力強く働く大人たちを見つめた。
そして、羽ペンを取り出し、手帳に凄まじい速度で数式を書き込み始める。
「エルナ殿? どうした」
「計算が合いません、クライヴ様」
「計算?」
エルナは手帳をパタンと閉じ、冷ややかな視線を村長に向けた。
「村長。大人が50人以上罹患した灰死病の完治、枯れ果てた土壌の浄化、そして村全体を覆うこの高密度の物理遮断結界の維持。これらに必要な魔力エネルギーの総量を計算すると、王都の地下にある巨大な魔力炉心3基分に相当します」
「ま、魔力炉心……? 何を難しいことを言っておるのか」
戸惑う村長をよそに、エルナは淡々と論理を紡ぐ。
「人間の身体が蓄えられる魔力容量には、生物学的な限界があります。いかに優れた聖女であろうと、一人の人間の『祈り』や『自己犠牲』から抽出できるエネルギー量など、この結界を10分維持するだけで枯渇する。それこそ、『本物の奇跡』でもない限り。ましてや無償の祈りなどという、無から有を生み出すような物理法則を無視した事象は、この世界に存在しません」
「な、なんだと……聖女様を愚弄する気か!」
村長が顔を真っ赤にして怒鳴るが、エルナは全く動じない。
「愚弄ではなく、算数の問題です。莫大なエネルギーが消費されている以上、必ずどこかに『莫大な対価』を支払っている動力源が存在するはずなのです」
エルナはバッグから数種類の試験管と、色を識別する魔力紙を取り出し、査問官としての冷酷な顔つきになった。
「クライヴ様。これより当村の臨時検分を開始します。村長には食糧庫の備蓄帳簿と人口動態の記録を提出させてください。私は、その聖女とやらが祈ったという『教会』の痕跡を調べます」
「エルナ殿、まさか君は……この奇跡を疑っているのか?」
「奇跡ではありませんよ。これは巧妙に隠蔽された『等価交換』です」
エルナは踵を返し、村の中央にある教会へと歩き出した。
「エネルギー保存の法則を無視したこの美談の裏に、一体何をすり潰して隠しているのか。……徹底的に帳尻を合わせさせてもらいます」
残されたクライヴは、再び村の光景を見渡した。
豊かな緑、力強く働く大人たち、そして外の脅威を完全に遮断する見えない壁。
先ほどまで、彼はこれを神が遣わした『本物の奇跡』だと信じて疑わなかった。
確かにこの世界には、ごく稀に人智を超えた本物の奇跡が顕現するという伝承がある。
だからこそ、聖女の無償の祈りが村を救ったのだと純粋に感動したのだ。
しかし、エルナの冷酷な計算式が、クライヴの認識に黒い染みを落としていた。
もし彼女の言う通り、これが奇跡ではなく『莫大な対価』を支払って成立している等価交換だとしたら?
この豊かな土壌も、鉄壁の結界も、大人たちの健康も、すべて「何か」をすり潰したエネルギーで稼働しているのだとしたら?
クライヴは、朗らかに笑いながら畑を耕す大人たちの姿に、ふと背筋が寒くなるのを感じた。
誰も対価について知らない。
誰も疑問に思わない。
もし村の多数派が、生き残るために何らかの残酷な犠牲を意図的に黙認しているのだとしたら。
外敵を弾くあの見えない結界は、村を守るための盾であると同時に、村の異常な秘密を外に逃がさないための「檻」のようにも見えてくる。
一見すると理想郷のようなこの村の光景が、クライヴには突如として、狂気と共犯関係で塗り固められた不気味でいびつな「巨大な密室」のように思えてならなかった。




