第2話:正義の騎士は悪魔の帳尻を見る
王都にある王国騎士団第三支部。
窓から差し込む朝日とは対照的に、若き騎士クライヴの顔は蒼白だった。
彼の手には、王立魔導調査局から回されてきた一通の「査問報告書」が握り締められていた。
表向きには「辺境の村にて、老魔術師ゼノスが魔族の襲撃から村人を守り、名誉の戦死を遂げた」と記されている。
だが、クライヴが読んでいるのは、一部の上層部と護衛担当者のみに開示される「裏の監査ファイル」だった。
そこには、無機質で流麗な筆致でこう記されていた。
『真相:対象者は魔族の襲撃を偽装し、自身の生命力を土壌改良の触媒として消費(古代禁術の行使)。結果として、王国からの食糧支援コストをゼロに抑えつつ、当該地域の永続的な自立生存モデルを確立した。極めて合理的な資源リサイクルであり、国家の利益に合致するため、襲撃への偽装を承認し特例支援金を交付する』
「……ふざけるな」
クライヴは報告書を机に叩きつけた。
人の命を、なんだと思っているのか。
村を救うために自らを犠牲にした気高き老魔術師の決断を、「資源リサイクル」と呼び捨てるこの特別査問官は、血も涙もない悪魔に違いない。
高度に組織化された国家の官僚制は、時に人間を単なる数字や資源として扱い、冷酷な計算式の中に組み込んでしまう傾向がある。
だが、いくら深刻な食糧難に喘ぐ王国とはいえ、この非人道的な処理は騎士の誇りにかけて見過ごせなかった。
「私がこの悪魔を監視し、王国の倫理を正してみせる」
没落貴族の三男坊でありながら、人一倍強い正義感を持つクライヴは、剣を帯びて査問官との合流地点へと向かった。
※
王都の城門前には、質素だが堅牢な馬車が待機していた。
「遅れて申し訳ない。護衛任務に出向を命じられた、王国騎士団のクライヴだ。……特別査問官殿は?」
「あなたがクライヴ様ですね。お待ちしておりました」
馬車の陰から現れたのは、書類の束を抱えた小柄な少女だった。
年齢は10代の半ばを過ぎたあたりだろうか。
スラムの孤児院出身という経歴の通り、華美な装飾のない実用的な黒い制服に身を包んでいる。
しかし、その色素の薄い瞳は、ひどく透き通っていて、底知れない冷たさを湛えていた。
「私が王立魔導調査局、特別査問官のエルナです。本日からよろしくお願いします」
「君が……?」
クライヴは絶句した。
この少女が、あの悍ましい報告書を書いた張本人だというのか。
挨拶もそこそこに、クライヴは我慢できずに懐から報告書の写しを取り出した。
「エルナ殿。出立の前に、一つだけ聞かせてほしい。このゼノスという魔術師の件だ。あなたはなぜ、村長たちを止めなかった? 禁術による人身御供は、王国法で厳しく禁じられた重罪だ。その上、彼らの自己犠牲を『資源リサイクル』と嘲笑い、国の計算式に組み込むなど……あなたには、彼らの悲痛な思いに対する心というものがないのか!」
クライヴの怒鳴り声が朝の冷気に響く。
しかし、エルナの表情には微塵の変化もなかった。
彼女は怒るでもなく、怯えるでもなく、ただ純粋に「理解できない」というように首を傾げた。
「止める? なぜ止める必要があるのですか?」
「なぜって……人が一人、命を絶っているんだぞ!」
「ええ。ですが、あのまま何もしなければ、冬を越せずに村人100人全員が餓死していました」
エルナは手帳を開き、羽ペンでさらさらと数式のようなものを書きつけながら淡々と告げた。
「ゼノス氏の推定余命は、持病と栄養失調を考慮すると長くて半年でした。彼の残り半年の寿命と魔力を触媒として等価交換し、100人の命を救うだけでなく、枯れ果てた土壌を回復させて未来の飢餓リスクまで取り除いた。この世界において魔法とは、単なる無から有を生み出す奇跡ではなく、明確なエネルギーの変換法則に基づいた物理的・論理的なリソース管理システムです。あの村長とゼノス氏の決断は、損益分岐点を大きく上回る、これ以上ないほど見事な生存戦略でした。私は事実を素直に評価しただけですが?」
「計算の話をしているんじゃない! 倫理道徳の話だ! 人の命を天秤にかけるようなやり方が正しいはずがないだろう!」
「倫理、ですか」
エルナは手帳をパタンと閉じ、まっすぐにクライヴを見つめた。その無垢な瞳には、嘲笑の色すらなく、ただ氷のような「事実」だけが映っていた。
「……ある、孤児院の話をしましょうか」
淡々とした、ひどく静かな声だった。
「その孤児院には20人の子供と、とても心優しい院長がいました。しかしある年、冬を越すための食糧が10人分しか残っていなかった。あなたの言う『倫理』に従えば、全員で少しずつ粥を平等に分け合うのが美しい正義でしょう」
「……」
「院長もそうしました。結果はどうなったと思いますか? 全員が深刻な栄養失調に陥り、抵抗力を失い、春を待たずに院長を含めた半数以上が病と飢えで死にました。感情や道徳は、決して胃袋を満たしてはくれません。10人分の食糧しかない時、20人で分け合うのは美談ではなく、全員を殺す愚行です。合理的な計算を放棄することは、ただの緩やかな自殺行為に過ぎないのです」
「っ……!」
クライヴは息を呑んだ。
彼女の語る「孤児院の話」は、決してただの作り話や、教訓めいた比喩ではない。その揺るぎない声の響きから、クライヴは直感でそれを悟った。
彼女は悪意を持って村人を絶望に突き落としたわけではない。
彼女の世界には最初から、「善悪」や「感情」というフィルターが存在しないのだ。
ただ世界の絶対的な物理法則と、生存確率を最大化するための論理にのみ、恐ろしいほど『素直』に従っているに過ぎない。
「さあ、クライヴ様。無駄話で消費する時間がもったいない。次の査問地へは同行されるのでしょう? 時刻と魔力毒に当てられた野盗や獣と遭遇する確率は等比較数的に増加すると言われています。まぁ、護衛の腕前を見せたいというのであれば、期待しておりますよ」
エルナはそう言うと、静かに馬車へと乗り込んだ。
残されたクライヴは、手の中の報告書を強く握りしめた。
朝の冷たい風が、騎士の熱くなった頬を容赦なく冷やしていく。
この少女は、決して血も涙もない悪魔などではない。
凄惨な飢餓の地獄の中で生き残るため、心を守るために感情を切り捨て、純粋な「計算機」になるしかなかった、一人の哀れな子供なのだ。
そして何よりクライヴの胸を深く締め付けたのは、枯れ果てたこの世界においては、彼の掲げる気高い正義や思いやりよりも、彼女のその悲しいほどに無機質な合理性こそが『正解』として機能してしまうという事実だった。
「……狂っているのは、彼女じゃない。この世界の方か」
ぽつりと零した声は、誰の耳にも届くことなく乾いた風に溶けて消えた。
クライヴはやり場のない感情を飲み込むように一つ深く息を吐くと、重い足取りで馬車の御者台へと向かった。




