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彼女は涙を信じない~感情を捨てた合理主義の少女が、辺境の「美談」を物理法則とコスト計算で論破していく件~』  作者: 紅茶


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幕間:査問官の休日

王都への帰還を果たし、辺境での過酷な監査任務を終えた二人に、数日間の短い休暇が与えられた。


よく晴れた休日の昼下がり。


クライヴは私服に着替え、王都の中央市場をぶらついていた。


魔力毒の影響が少ない王都の市場は、辺境とは別世界のように活気に満ちている。


日用品の買い出しを終え、ふと視線を彷徨わせたクライヴは、人混みの中で「ある人物」を見つけて足を止めた。


(……人違い、か?)


果物や日用雑貨が並ぶ通りの先に、一人の少女が立っていた。


ざっくりと編まれた、白く柔らかそうなオーバーサイズのニットワンピース。


いつもは仕事の邪魔にならないようキッチリと結い上げられている銀色の髪は、今日はふんわりと肩口まで下ろされている。


さらに、その小さな顔には丸い銀縁の眼鏡がかけられており、どこからどう見ても「休日の読書好きな普通の女の子」というゆるふわな雰囲気を醸し出していた。


しかし、その色素の薄い透き通った瞳は、見間違えるはずもない。


悪魔の査問官、エルナだ。


(あんな格好もするんだな……)


クライヴはなんだか見てはいけないものを見てしまったような気になりつつも、好奇心に抗えず、少し離れた場所から彼女の動向をつけ回すことにした。


エルナの休日の足取りは、彼女の性格を表すように独特だった。


彼女は八百屋の前に立つと、山積みのじゃがいもを無言で睨みつけ、指先で空中に何かの数式を描いている。


おそらく、価格に対するカロリー効率でも計算しているのだろう。


かと思えば、古着屋の店先で布地を引っ張り、耐久性のテストをしているようだった。


(休みの日まで、計算ばかりしているのか……)


クライヴが呆れ半分で後をつけていると、エルナは人通りの少ない裏路地の方へと足を踏み入れた。


路地の奥から、粗暴な男たちの声が聞こえてきた。


「いいから有り金全部出しな! さもないとこの可愛い顔に傷がつくぜ」


覗き込むと、三人の柄の悪い男たちが、怯える若い女性を取り囲み、ナイフを突きつけていた。


王都の市場の死角を狙った、典型的な強盗だ。


やれやれ、王都から出れば、貧困と疫病に苛まれている国民が溢れるほどいるというのに。


あんなゴロツキでも、王都に住める時点である程度の経済的な優位にあるのだ。

歪んでいると、クライヴは思う。


クライヴが反射的に飛び出そうとした瞬間――彼より先に、ゆるふわなニット姿のエルナが、迷うことなく男たちの背後へ歩み寄った。


「あなたたちのその行為、極めて非効率で無駄が多いですね」


「あぁん? なんだテメェは」


振り返った男たちを前に、エルナは丸眼鏡のブリッジをくいっと押し上げる。


「王都の治安維持法において、武装強盗の量刑は魔力石採掘場での強制労働五年。対して、彼女が持っている財布の中身は、膨らみから推測してせいぜい三千ルピア。五年間の労働力という莫大なリスクをベットして、得られるリターンが三千ルピアでは、投資対効果はマイナスです。計算はしましたか? ああ、そんな高尚な脳みそをは持ち合わせてはいないのでしょうね。失礼しました」


淡々とした、しかし有無を言わさぬ見下した態度。図星を突かれたのか、男たちの顔が怒りで赤黒く染まる。


「ふざけやがって! 痛い目見なきゃわからねえようだな!」


男の一人がナイフを振り上げ、エルナに掴みかかろうとする。


(しまった!)


クライヴは剣の柄に手をかけた。


しかし、一瞬、クライヴは逡巡してしまう。


ここで飛び出せば「ずっと後をつけていたこと」が完全にバレてしまうのではないか。


騎士として、若い娘のストーカーをしていたなどと知られれば末代までの恥だ。


ほんの一瞬、クライヴが躊躇したその時だった。


エルナは迫り来る刃を前にしても全く動じることなく、ちらりと路地の入り口――クライヴが隠れている角の方へと視線を向けた。


「……このまま私が暴行を受ければ、護衛対象への任務放棄であなたの査定に大きく響きますよ。そろそろ、出てきて手伝ってくれるんですよね? クライヴ様」


「――っ!」


完全にバレていた。


クライヴは観念して大きなため息をつくと、路地裏へと飛び出した。


「そこまでだ、悪党ども!」


「な、誰だてめぇ……、そ、その剣、騎士だと!?」


神速の踏み込みから放たれたクライヴの拳と鞘打ちが、一瞬にして二人の男を壁に叩きつける。


残った一人がヤケクソでエルナに向けて初級魔法の火の玉を放とうとした。


しかし、エルナが取り出した無色の半紙で軽く振るうだけで、その魔力構造は強制的に霧散させられ、半紙へと魔力は吸収された。


「あなたのその非効率な魔力運用は、貴重なマナの浪費です。マナとは有限な超自然のエネルギーリソースであり、無駄撃ちすべきものではありません」


魔法を打ち消され唖然とする男の鳩尾に、すかさずクライヴが膝蹴りを入れ、あっけなく全員が地に伏した。


女性を助け起こし、男たちを衛兵に引き渡した後。


クライヴは気まずそうに頭を掻きながら、エルナに向き直った。


「……いつから気づいていた」


「最初からです。あなたの暑苦しい炎属性の魔力波長は、この遮断眼鏡を通しても隠しきれていませんからね」


エルナは丸眼鏡をトントンと指で叩いた。


「私の目は、常に空間の魔力残滓を『色』として視認してしまいます。魔導具が密集している王都では視覚情報が多すぎるため、まぁ、なんというか、疲れるんです。なので休日はこうしてフィルターをかけているのですが……それでも、あなたの波長は目立ちすぎます」


「なるほど。で、その服は?」


クライヴが指摘すると、エルナは少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らした。


「……平日に着用している制服は、わずかに血流を阻害し、安静時の肉体疲労回復効率を2.4%低下させます。したがって休日は、このように締め付けの少ないルーズな布地を纏うのが最適な生存戦略なのです」


徹底した論理武装に、クライヴは思わず苦笑した。


だが、オーバーサイズのニットの袖を少し余らせながら理屈をこねる彼女は、年相応の少女にしか見えず、なんだかとても微笑ましかった。


その後、二人はなぜか連れ立って、王都で人気のスイーツ屋台の前に立っていた。


エルナは、ショーケースの前で微動だにせず唸っている。


「……右の『王都産リンゴの蜂蜜タルト』は150ルピア。対して左の『濃厚カスタードのシュークリーム』は120ルピア。カロリー単価と脳内ドーパミン分泌の効率から算出すれば、明らかにシュークリームの方が投資対効果が高い。しかし、タルトに含まれるクエン酸の疲労回復効果を係数として加算した場合、その効用価値は逆転し……」


「何と戦っているんだ、君は。それに、さっきの最適な生存戦略の途中だったんだろう。計算の帳尻は合ったのか?」


「……いえ。変数が多すぎて、計算式がまだまとまりません。どちらか一つを選ぶという行為は、選ばなかった方の利益を永遠に喪失するという重大なリスクを伴います」


エルナはショーケースを見つめ、ひどく悩ましげに眉を下げる。


人の命を数字に変換して笑ってのけたあの悪魔の査問官が、お菓子の前で「機会損失のリスク」に怯えているのだ。


そのギャップがおかしくて、クライヴは吹き出しそうになるのを堪えた。


「なら、両方買えばいいじゃないか。俺も甘いものは嫌いじゃない。半分ずつ分ければ、両方の利益を摂取できるだろう?」


クライヴが店主に小銅貨を渡し、タルトとシュークリームを一つずつ受け取ると、エルナの瞳がパッと輝いた。


「なるほど……コストを他者と分散しつつ、両方のリターンの50%を獲得する。完璧なリスクヘッジです。クライヴ様、あなたもついに合理的な計算ができるようになりましたね」


「お褒めに預かり光栄だよ」


二人は市場の端にあるベンチに並んで腰を下ろした。


クライヴからシュークリームの半分を受け取ったエルナは、両手でそれを大事そうに持ち、小さく口を開けてかじりついた。


サクッ、という音と共に、濃厚なクリームがエルナの口いっぱいに広がる。


その瞬間、彼女の無機質な表情がふにゃりと崩れ、幸せそうに頬が緩んだ。


「……美味しいか?」


「はい。カスタードの糖分が急速に脳のグリコーゲンを補充し、ストレス値が劇的に低下していくのを感じます。休息を疎かにし肉体を酷使することは、結果的に医療リソースの浪費を招きます。医療トリアージの観点からも、健康な状態を維持することは合理的な義務なのです」


口では小難しい理屈を並べているが、その口元には白いクリームがべっとりとついている。


彼女はただ、純粋に甘いお菓子を食べて喜んでいるだけなのだ。


「エルナ殿、クリーム」


「えっ? あ、その、これはですね……表面張力の計算を誤りまして」


クライヴに指摘され、エルナは慌てて袖口で口元を拭おうとした。


クライヴは手持ちのハンカチを差し出しながら、優しく微笑んだ。


「言い訳はいいよ。無理に計算式に当てはめなくたって、美味しいものは美味しいし、嬉しい時は嬉しいでいいんだ。休息の時くらい、何も考えずに素直に休むことも、長く戦い続けるための『合理的な手段』の一つだと俺は思うぞ」


「……何も考えずに休むことが、合理的な手段」


エルナはハンカチを受け取り、ぽかんと目を丸くした。


彼女の価値観において、「感情で動くこと=非効率で愚かなこと」だった。


だが、クライヴの提示した『休息の義務』というロジックは、彼女の心にすとんと落ちたようだった。


理にかなったことであれば、善悪も感情も問わず素直に受け入れるのが、エルナという少女の特性なのだ。


「……なるほど。確かに、オンとオフを完全に切り替えることで、精神の摩耗を防ぐというのは理にかなっています。あなたの提案を、素直に承認しましょう。すいません、私、あまり育ちがよくないものでして」


エルナは眼鏡の位置を直し、今度は一切の理屈をつけずに、残りのシュークリームを心底嬉しそうに頬張った。


口元をモグモグと動かすその姿は、小動物のように無防備で愛らしい。


「ふっ」


「……何かおかしいですか、クライヴ様」


「いや。君も人間なんだなと思ってね」


直球で言われたエルナは、一瞬動きを止め、それから顔を少しだけしかめた。


「……一体どこに、私の生物学的構造を疑う要素があるというのですか」


普段から感情を表に出さない彼女にも、どうやらツボのようなものがあるらしい。


いつ終わるとも知れない狂った世界での任務。


だが、こうして彼女の人間らしい不器用な一面を知れたことで、次の地獄へ向かう足取りも、少しだけ軽くなるような気がしてい

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