第12話:最適解の帰結と、命の天秤
ひしゃげた鉄格子の向こう側――血の海と化した連絡通路で、四体の魔族が歓喜の咆哮を上げた。
前衛の陣形は崩壊し、士官二名が死亡。
重傷を負った小隊長は、壁際にへたり込んでガタガタと震えている。
クライヴは彼を庇うように前に出たが、その手には剣がない。
エルナを救うため、鉄格子の隙間から魔族の頭部へ投擲してしまったからだ。
「くそっ……!」
丸腰の騎士に対し、魔族たちがよだれを垂らしながらじりじりと包囲の輪を狭めていく。
鋭い爪が振るわれる。
クライヴは卓越した体術でそれを躱し、魔族の腕を掴んで背負い投げを放つが、硬い皮膚を持つ巨体には致命傷を与えられない。
素手のまま四体を捌ききるのは、時間と体力の問題だった。
一方、鉄格子で隔離された密室側。
壁に叩きつけられたエルナは、額から流れる血を拭いもせず、ふらつく足で立ち上がった。
彼女の視線の先には、先ほどクライヴの投擲した白銀の剣が、魔族の頭蓋ごと壁に深々と突き刺さっている。
エルナは裂けた左肩の激痛に顔をしかめることもなく、剣の柄に両手をかけた。
小柄な彼女の筋力では、巨体の骨に挟まった剣を抜くのは容易ではない。
だが、彼女はためらいなく自らのブーツの裏を魔族の顔面に押し当て、テコの原理を利用して全体重を後ろへ引いた。
ズブッ、という気味の悪い音と共に、白銀の剣が引き抜かれる。
その勢いで尻餅をつきそうになるが、彼女はすぐに身を翻し、ひしゃげた鉄格子の前へと歩み寄った。
「クライヴ様……」
エルナの呼ぶ声に、クライヴが弾かれたように振り返る。
「これを……」
鉄格子の隙間から、エルナが血塗れの剣の柄を押し出す。
「エルナ殿……助かる!」
クライヴは魔族の横薙ぎの爪をダッキングで躱すと、床を蹴って鉄格子へと跳び退き、エルナの差し出した剣をしっかりと握り直した。
手に伝わる、確かな鉄の重みと刃の冷たさ。
武器を取り戻したクライヴは、再び前衛へと躍り出ようとする。
「待ってください」
だが、エルナの鋭い声が彼を制止した。
彼女は割れた丸眼鏡を掛け直し、魔力を込めた瞳でクライヴの背中を見据える。
「無謀なことを、しましたね、今の貴方では、無理です」
「むり、だと?」
「はい。無駄な力を使って、随分とお疲れなようで」
クライヴは奥歯を噛み締めた。
確かに、全身の筋肉は鉛のように重く、呼吸には血の味が混じっている。
気力で立っているだけで、四体を同時に相手取る瞬発力は残っていない。
「なら、どうする! ここで立ち止まれば俺も小隊長も殺されるぞ!」
エルナは壁に背を預けたまま、静かに息を吐いた。
本来であれば、ここでクライヴと小隊長を見捨てて自分だけが逃げ延びる算段を立てるのが、彼女の『合理的な天秤』であるはずだった。
だが、エルナは自らの裂けた左肩から流れる血を指にひたし、震える手で冷たい石の床に「魔法陣」を描き始めた。
「エルナ殿……? 君は、魔法なんて……」
「ええ。普段は使いません。費用対効果が悪すぎますから」
エルナは血に染まった指先を、ひしゃげた鉄格子の隙間からクライヴの背中へとそっと押し当てた。
「まぁ、ちょっと、やってみます」
「これは……?」
「禁術、です 」
エルナの無機質な声と共に、彼女の描いた血の魔法陣が禍々しい赤紫色の光を放ち始めた。
「私の命を、けずります。……先日の偽聖女の、技と言えばわかりますかね」
「なっ……やめろ、エルナ殿! そんなことをすれば君が!」
クライヴが叫ぶが、エルナの小さな体から紡がれた膨大な生命力が、彼の背中を通じて全身の筋肉へと奔流のように流れ込んでいく。
鉛のように重かった四肢に活力が満ち、摩耗していた細胞が強引に縫い合わされていくのが分かった。
「どっちみち、死ぬんです。なら、使ったほうがいい」
顔面を蒼白にしながらも、エルナは決して天秤を揺らさない。
「ひとまず、これだけ」
血を流し、息も絶え絶えになりながら、エルナは割れた眼鏡の奥で初めて――計算通りにいかない状況を面白がるように、小さく微笑んだ。
「ありがとう」
身体の奥底から湧き上がる、禁忌の力による爆発的なエネルギー。
クライヴはエルナの血に塗れた覚悟を受け取ると、白銀の剣を力強く握り直した。
「……借りなら、生きて返すぞ」
狂った天秤の針を無理やり元に戻すため、息を吹き返した騎士が、再び四体の魔族へと躍り出た。
「オォォォォォッ!!」
裂帛の気合いと共に放たれた、限界を超えた四連撃。
エルナの命を削って得たマナの奔流を剣に纏わせ、クライヴは神速の剣技で一体目の首を刎ね、二体目の胴体を両断し、三体目の心臓を正確に貫く。
そして最後の一体が振り下ろしてきた凶爪を盾で弾き飛ばし、その顎から脳天にかけてを一刀両断に斬り裂いた。
最後の一体が、地響きを立てて床に倒れ伏す。
静寂が、血の匂いに満ちた連絡通路へと舞い戻ってきた。
「……終わっ、た……」
クライヴは剣を杖代わりにして、その場に力なく膝をついた。
☆
次にエルナが目を覚ましたのは、見慣れた真っ白い天井の下だった。
微かな消毒液の匂い。柔らかいシーツ。
そこは、王都にある王立魔導調査局の寮、彼女の自室のベッドだった。
「……目を、覚ましたか」
ベッドの傍らから、安堵の入り混じったかすれた声が降ってきた。
視線を向けると、そこには無精髭を生やし、酷く疲労した様子のクライヴが椅子に座っていた。
「クライヴ……様。ここは……」
「王都だ。あの砦での事件から、三日が経っている。君はずっと生死の境を彷徨っていたんだぞ」
クライヴは小さく息を吐き、これまでの経緯を説明し始めた。
エルナが気を失った直後、王都から派遣された後続の討伐部隊が到着し、彼らを救出したのだという。
「生き残ったあの小隊長の処遇は、君の復帰待ちということで保留になっている。局の上層部も、現場の責任者である君の最終的な査定結果を待つそうだ」
「……なるほど。状況は理解しました」
エルナはゆっくりと上体を起こし、自身の身体を確かめるように手を見た。
裂けていた肩の傷は綺麗に塞がり、失われたはずの生命力も、ある程度は底上げされている。
「……計算が合いませんね。私はあの禁術の触媒として、自身の残存生命力のほとんどを変換しました。私の心臓は、あの砦で数分以内に停止していたのが物理的に正しいはずです。どうして、私は生きているのですか?」
不思議そうに小首を傾げるエルナに、クライヴは少しだけバツが悪そうに視線を逸らした。
「……君が倒れた後、俺自身の生命力とマナを、逆流させるようにして君の身体へと流し込んだんだ。他者の生命エネルギーを分け与えることで、枯渇した対象の命を一時的につなぎとめる応急処置としてな」
「……そんな器用なことができたのですか?」
「君もらったマナだからな。多分、戻りやすかったんだろう」
「……極めて非合理的です」
エルナは小さくため息をつき、静かに視線を伏せた。
「他者へ生命力を譲渡すれば、あなた自身の生存確率を下げることになります。もし私がそのまま死んでいれば、あなたの投資は完全に無駄になっていたんですよ?」
「ああ。だが、俺は君の賭けに乗ったんだ。なら、俺だって一か八かの賭けに出るさ」
クライヴは無精髭を撫でながら、ふっと笑みをこぼした。
「それに、君は生きている。結果として俺たちは両方助かり、あの小隊長も生き延びて罪を償うことになった。十分、帳尻は合っているんじゃないか?」
エルナは少し目を丸くして、それから、いつもの無機質な表情を微かに和らげた。
「……事後確率で計算式を正当化するのは、あまり感心しませんね」
「ははっ、厳しいな、査問官殿は」
「ええ。ですが……」
エルナはベッド脇に置かれていた、新品の手帳を手に取った。
「今回は感謝します、クライヴ様」
彼女の瞳には、以前よりも少しだけ柔らかな光が宿っていた。
「ああ。これからもよろしく頼むよ、エルナ殿」
王都の窓から差し込む穏やかな日差しの中、狂った世界を生き抜く二人の新しい契約が、静かに結ばれたのだった。




