第11話:死線のトリアージと、因果の数式
頭上から襲い来る巨大な爪。
防御手段を持たないエルナにとって、魔族の一撃は絶対的な『死』を意味している。距離が遠く、クライヴの助けは間に合わない。
しかし、エルナの透き通った瞳に恐怖の色は微塵も浮かばなかった。
魔力を込めた彼女の網膜には、魔族の肉体が抱えるダメージと動作の軌道が、明確なデータとして視覚化されている。
(右腕の欠損による重心の左傾化、および体表面の六割を占める重度の火傷による筋収縮の遅延。……攻撃到達まで、推定〇・八秒)
エルナは靴の踵をわずかに滑らせ、脱力したようにその場へすっとしゃがみ込んだ。
頭上を凶悪な爪が薙ぎ払い、空を切る轟音が鼓膜を打つ。計算通り、致命傷となる首元への一撃は完全に躱しきった。
だが、その直後だった。
「……ッ!」
空振りして前のめりになった魔族の巨躯が、そのままエルナへと雪崩れ込んできたのだ。
まず、不規則に暴れた爪の先端が、エルナの左肩の肉を鋭く切り裂く。
そして次の瞬間――爪の軌道に続く「丸太のように太い腕」そのものが、小柄なエルナの胴体を側面から激しく打ち据えた。
「ガハッ……!」
斬撃に続いて見舞われた、骨まで響く重い打撃。
重さ百キロを優に超える質量の暴力は、エルナの身体をまるで紙切れのように軽々と撥ね飛ばした。
鮮血を宙に散らしながら吹き飛んだ彼女は、受身をとる間もなく数メートル先の石造りの壁に激突。
背中と後頭部を打ちつけ、くずおれるように冷たい石の床へと叩き落とされる。
「エルナ殿ォォッ!」
クライヴが血相を変えて駆け出そうとする。
だが、エルナは痛みに顔をしかめることすらなく、血塗れの手で連絡通路の壁に備え付けられていた『緊急用落とし格子』のレバーを力一杯に引いた。
ガシャァァァンッ!
凄まじい音と共に、分厚い鋼鉄の格子が天井から落下し、エルナとクライヴたちの間を完全に分断した。
格子の向こう側にはクライヴと三人の士官。
そしてこちらの密室には、傷ついたエルナと、二撃目を振り上げようとしている火傷の魔族が閉じ込められる形となった。
「なっ……何をしている、エルナ殿! 格子を開けろ!」
鉄格子にすがりつき、クライヴが怒鳴り声を上げる。
「あ、あけません。現在の、戦力方程式、を再、計算しました」
壁に寄りかかったまま、エルナは、ヒューヒューと苦しそうな呼吸音を出しながら、まるで明日の天気を語るような平坦な声で告げた。
「敵の、総数は六体。対して、我々の、安全処理上限は五体。これでは、キャパシティをオーバー」
魔族が涎を垂らしながら、無防備なエルナへと歩み寄る。
「全滅を、避けるために、私は『デコイ』と、なります――あなた方は予定通り、処理しなさい」
「ふざけるな!!」
クライヴの激昂が、極寒の通路を震わせた。
自分自身の命すら「不採算部門」として切り捨てる、あまりにも狂気的な合理性。
彼女は他人に対して冷徹だったのではない。
自分自身を含めたこの世界のすべてを、ただ冷徹に天秤にかけ続けていただけなのだ。
「俺の騎士道は、目の前の命を天秤にかけない! どんなに非効率だろうが、俺は人間を――君を見捨てない!」
魔族の凶爪がエルナに振り下ろされる、その刹那。
「ウォォォォッ!!」
クライヴは自身の両腕に極限までマナを集中させ、立ちはだかる鋼鉄の鉄格子を素手で掴み、獣のような咆哮と共に強引にへし曲げた。
人間離れした膂力によって作り出された大きな隙間。
そこから、白銀の剣が雷光の如き速度で投擲される。
ズガンッ!
放たれた剣は、エルナの眼前に迫っていた魔族の頭部を正確に貫き、その巨体を壁ごと縫い付けた。
「……ちょっと、そのような、行動は、看過できません――」
「馬鹿野郎! 説教なら後でいくらでも聞いてやる!」
クライヴがへし曲がった格子の隙間から無理やり身を捩り、エルナの側へ駆け寄ろうとした、その時だった。
「グオォォォォッ!」
前方の通路を塞いでいた第一防衛線の鉄格子が、ついに限界を迎え、ひしゃげて吹き飛んだ。
待ち焦がれていた『第二ウェーブ』の五体の魔族が、歓声を上げてなだれ込んでくる。
本来の計算式であれば、クライヴが右側の四体を抑え、士官三名が左側の一体を処理するはずだった。
しかし、クライヴがエルナを助けるために持ち場を離れたことで、前衛の陣形は完全に崩壊していた。
「ヒィィッ! こ、こっちに来るぞォォッ!」
クライヴという強大な壁を失い、雪崩れ込んできた魔族のうち『二体』が、無防備な士官三人のもとへと殺到した。
エルナの網膜に、致命的なエラーの数式が弾き出されて明滅する。
士官三名の処理上限は「一体」。
二体以上を相手にすれば、必ず誰かが殺される。
「くそ……!」
剣を投げ捨ててしまっていたクライヴが振り返るが、もう間に合わない。
「や、やらせるかァァッ!」
炎の魔術師が半狂乱になって炎弾を放ち、斥候が槍を突き出す。
しかし、二体の魔族による猛攻は、彼らの処理上限をあっさりと凌駕していた。
「ぎゃあっ!」
最初に崩れたのは斥候だった。
魔族の鋭い爪が彼の胸当てを紙のように引き裂き、その肉体を深々と貫く。
「ひぃッ! た、助け……!」
小隊長は仲間を助けるどころか、盾を放り出して後ずさった。
その無様な隙を突かれ、もう一体の魔族の蹴りが小隊長の脇腹にクリーンヒットする。
肋骨の砕ける嫌な音が響き、小隊長は血を吐いて壁に叩きつけられた。
「グガァァッ!」
血の匂いに狂乱した二体の魔族が、残された炎の魔術師へと襲いかかる。
「来るな! 来るなァァァッ!」
魔術師は自らの死を悟り、相討ち覚悟で自身の全魔力を両手に収束させた。
ゼロ距離からの、捨て身の爆炎魔法。
凄まじい閃光が通路を包み込み、魔族一体の頭部を完全に吹き飛ばした。
しかし同時に、魔術師自身も魔族の振り下ろした爪を浴び、物言わぬ肉塊となって床に崩れ落ちた。
因果応報。
自分たちの食糧を確保するために、部下二十人を「合理的に」見殺しにした士官たちは、今度は自分たち自身が理不尽な死の計算式に飲み込まれることになったのだ。
残る魔族は四体。
しかし、士官側の防衛線は壊滅し、クライヴは武器を失い、エルナは負傷している。
狂った天秤の針は、最悪の結末へ向けて大きく傾き始めていた。




