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意味の在り処

1


六月が終わる頃、本物の夏がやって来た。


朝から晩までセミの声が鳴り止まず、アスファルトの焼ける匂いが空気中に満ちていた。教室では扇風機が、ぐるぐると回りながら、みんなの試験用紙の端っこをそっと捲り上げている。


期末試験前の、最後の週末。


陽菜と約束して、図書館で一緒に復習することにした。


復習と言っても、ただ場所を変えてぼんやりするだけのことだ。


彼女は私の向かいに座り、目の前に数学の参考書を広げている。けれどその目は、窓の外を見つめていた。


窓の外には、一面の蔦。緑色に輝きながら、塀全体を覆い隠している。


「辻本さん。」彼女がふと口を開いた。


「うん?」


「ねえ、あの蔦ってさ、自分がどこまで這っているのか、わかっているのかな?」


顔を上げて、彼女を見る。


「どういう意味?」


「つまりね――」彼女は少し考えた。「ただずっと這い続けて、この先に何があるのかも知らずに、頂上に着いたらどうなるのかも知らずに。それでも、這い続けてるんだよね。」


私はあの蔦の葉を見つめた。


陽の光を浴びて、一枚一枚がきらきらと輝いている。


「知る必要は、ないんじゃないかな。」私は言った。


「知る必要は、ない?」


「うん。這うこと自体が、あいつらの意味なんだと思う。」


彼女は顔を向け、私を見た。


その瞳には、夏の光が宿っていた。


「まるで、私たちみたいに?」彼女は尋ねた。


「まるで、私たちみたいだね。」


彼女は笑った。


それから、うつむいて、また本を読み始めた。


でも、私は見逃さなかった。彼女の口元が、ずっと緩んだままだったことを。


2


試験が終わった日、ちょっとした出来事が起きた。


陽菜のことじゃない。私の方だ。


成績表が配られた時、そこに書かれた数字を見て、私は長い間、呆然としていた。


別に、すごく悪いわけじゃない。


でも、すごく良いわけでもない。


どちらかと言えば、中途半端――上の者には及ばず、下の者には勝る、そんな位置だ。


昔の私なら、こんな成績に何の感慨も抱かなかっただろう。


どうせ頑張っても無駄だし、頑張らなくても無駄だし、だったら、どうでもいい。


でも、その日、その成績表を見た時、突然、胸が詰まるような思いに襲われた。


落胆じゃない。


それは――悔しさだった。


「辻本さん。」


隣から、陽菜の声がした。


顔を上げる。


彼女が立っていた。手に自分の成績表を持って。


「どうしたの?」彼女が尋ねた。


「別に。」


「嘘だ。」彼女は隣の椅子に腰を下ろした。「その顔、私が注射を待っている時の顔と同じだよ。」


「……それは、どんな顔?」


「『どうして』って考えている顔。」彼女は言った。「どうして私が? どうしてまた? どうして――」


彼女は、一瞬間を置いた。


「どうして頑張っても、だめなんだろう? っていう顔。」


私は、彼女の瞳を見つめた。


その瞳は、まるで別の自分を見るかのようだった。


「俺、頑張ってないし。」私は言った。


「嘘だ。」


「本当だよ。適当に受けただけ。」


「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」


答えられなかった。


彼女の言う通りだったから。


確かに、適当に受けた。


でも、確かに、悔しかった。


どうして?


もうとっくに諦めているはずなのに、どうして悔しいんだろう?


彼女は私を見て、それ以上は追及しなかった。


ただ、ポケットから何かを取り出し、私の前に置いた。


一粒の飴だった。


イチゴ味。


「食べる?」


「……どうして、俺に飴をくれるんだ?」


「だって、私が食べたいけど、一人で食べるのはつまんないから。」彼女は言った。「それにね、甘いものは、気分を良くしてくれるんだよ。」


私はその飴を手に取った。


包み紙を剥がし、口に入れる。


甘い。


それから、ほんの少し、酸っぱい。


「辻本さん。」彼女は言った。


「うん?」


「知ってる? 私、注射を打つ時、看護師さんにも飴をもらうんだよ。」


「そうなの?」


「うん。看護師さんが言うんだ。注射が終わってから飴を食べると、さっきの痛みも報われるって思えるんだよ、って。」


彼女は、窓の外を見つめた。


「でも、本当は、飴のせいじゃないんだよね。」


「じゃあ、何のせいなんだ?」


「だって――」彼女は少し考えた。「誰かが、君が痛いってことを知っていて、君が痛いかどうかを気にかけてくれている、そのこと自体が、報われるってことだから。」


私は、彼女を見つめた。


窓から差し込む陽の光が、彼女の横顔に、一本の金色の線を描いている。


「だからね。」彼女は顔を向け、私を見た。「君は今、痛い?」


少し考えた。


「なんか、ちょっとだけ、痛いかも。」


「それで正解なんだよ。」彼女は笑った。「痛いってことは、まだ気にしているってことだから。」


3


その夜、ベッドに横たわりながら、彼女の言った言葉を考えていた。


「痛いってことは、まだ気にしているってこと。」


私は、気にしているのか?


成績を?


試験を?


あの「頑張っても無駄だった」ことを?


わからない。


でも、わかっているのは、もし本当に全く気にしていなかったら、成績表を見た瞬間にあんなに胸が詰まることはなかっただろう、ということだ。


あの胸の詰まりは、落胆じゃなかった。


それは――後悔?


もっと頑張らなかったことへの後悔?


でも、もし頑張っても無駄だったら、何を後悔するんだ?


長い間、考えた。


窓の外のセミたちが眠りにつくまで。


月が、この窓からあの窓へと移るまで。


そして、一人の人のことを思い出した。


私の母だ。


4


私の母は、とても普通の女性だ。


普通の会社員、普通のシングルマザー、普通の――諦める人。


そう、諦める人。


この言葉は、今日、初めて思いついた。


父は私が本当に小さかった頃にいなくなった。詳しい理由は、母は一度も話したことがない。ただ、母が一人で二つの仕事を掛け持ちし、毎日早く出かけて遅く帰り、私を祖母に預けていたことだけを覚えている。


あの頃の母の目には、光があった。


陽菜と同じ、あの光が。


でも、後に、その光は消えた。


確か、小学四年生の頃だった。


その年、母が勤めていた会社が倒産した。母は半年間、仕事を探したけれど、どこも見つからなかった。結局、コンビニで働くことになり、毎日立ちっぱなしでレジを打ち、十時間も立ち続ける日々だった。


ある夜、私は夜中にトイレに起きて、リビングで母が座っているのを見た。灯りはついていない。


月の光が、母の顔を照らしていた。


母の目は、窓の外を見つめたまま、微動だにしなかった。


私は尋ねた。「お母さん、どうしたの?」


母は振り向き、私を見た。


そして、言った。「何でもないの。ただちょっと疲れただけ。」


あれから、母の目の光は消えた。


消えたんじゃない。


――沈んだんだ。


私の手の届かないところまで、沈んでしまった。


母はもう、「大きくなればなんとかなる」とは言わなくなった。


「お母さん、きっといい暮らしをさせてあげるからね」とも言わなくなった。


ただ、毎日、仕事に行き、帰ってきて、ご飯を作り、寝る。


まるで機械みたいに。


夢を諦めてしまった機械のように。


その夜、ベッドに横たわりながら、私は突然、一つのことを理解した――


私が「諦める人」になったのは、あの失敗のせいじゃない。


そうじゃなくて、私のそばに、「諦める人」がいたからだ。


私は母から学んだのだ。人間は、諦めることができるのだと。


諦めた後でも、日々は過ぎていくのだと。


そして――


「諦める」というのは、伝染する病気なのだと。


そして、私は、その病気にかかってしまったのだと。


5


翌日、私は陽菜の病院へ行った。


彼女が入院しているわけじゃない。


定期検診だ。


外来の建物の外で、彼女を待った。


夏の日差しはとても強く、私は木陰に隠れて、行き交う人々を眺めていた。


杖をついた老人、赤ん坊を抱いた若い母親、病院着を着て外の空気を吸いに来た患者たち。


どの顔にも、違った表情が浮かんでいる。


不安そうな人、疲れ切った人、無表情な人、そして――中には、私の母のように、目の光が沈んでしまった人もいた。


「辻本さん。」


背後から、陽菜の声がした。


振り返る。


彼女は外来の建物の入り口に立っていた。手には一袋の薬を持っている。


今日の日差しは強すぎて、彼女が透けてしまいそうだった。


「検診、どうだった?」私は尋ねた。


「まあまあかな。」彼女は歩み寄ってきた。「経過は順調だって、お医者さんが言ってた。次は三ヶ月後でいいんだって。」


「三ヶ月後?」


「うん。もう毎月は来なくていいんだ。」彼女は笑った。「つまり、私は良くなってるってことだよね。」


私は、彼女の笑顔を見つめた。


その笑顔の中に、光があった。


あの夜、私の母の目にあった光とは、全く違う光が。


「陽菜。」私は、ふと彼女の名前を呼んだ。


初めて、彼女の名前を呼んだ。


彼女は、一瞬間を置いた。


そして、顔が赤くなった。


「な、何て呼んだ?」


「陽菜。」もう一度、呼んだ。「だめ?」


彼女はうつむいた。


しばらくして、か細い声で言った。


「……いいよ。」


6


私たちは、海へ行った。


彼女がずっと行きたがっていた、あの海へ。


バスで一時間以上かかる。二回乗り換える。


彼女は道中ずっと興奮していて、ずっと窓の外を見ていた。


「辻本さん。」彼女が突然、言った。


「うん?」


「見て、あの雲、何に見える?」


彼女の指さす方を見る。


一つの雲が空に浮かんでいた。形がちょっと変わっている。


「何に見える?」私は尋ねた。


「ウサギに見える。」彼女は言った。「見て、ここが耳で、ここが尻尾。」


よく見てみる。


確かに、ウサギに見えた。


「想像力、豊かだね。」


「想像力じゃないよ。」彼女は言った。「練習の成果。」


「練習?」


「うん。入院中、することなくてさ、毎日、雲を見てたんだ。」彼女は顔を向け、私を見た。「知ってる? 雲の変化は、人間よりずっと多いんだよ。」


「どういう意味?」


「人間はね、どれだけ変わろうとしても、どこかに規則性があるんだ。でも、雲にはない。」彼女は言った。「次の瞬間、どんな形になるか、永遠にわからないんだよ。」


私は、彼女の瞳を見つめた。


その中に、雲の影があった。


「じゃあ、雲は好きなの?」私は尋ねた。


彼女は少し考えた。


「好きだよ。」彼女は言った。「だって雲は、新しい形になることを、永遠に諦めないから。」


7


海に着いた。


この海に来るのは、これが初めてだった。


小さくて、どこにでもある、観光地なんかじゃない海。


砂浜には、釣りをしている老人が数人と、散歩しているカップルが一組いるだけだった。


でも陽菜は、そこに立って、海を見つめていた。長い間、長い間、何も言わなかった。


「どうしたの?」私は歩み寄った。


「海って、こういうものなんだね。」彼女は言った。


「どういうもの?」


「大きい。」彼女は言った。「想像してたよりも、ずっと大きい。」


彼女は、一歩前に進んだ。


波が押し寄せ、彼女の靴を濡らした。


彼女は下を向いて一瞥し、そして笑った。


「冷たいね。」


彼女は靴を脱ぎ、裸足で砂浜に立った。


波が何度も押し寄せ、何度も引いていく。


彼女はただ、そこに立ち、海を見つめている。


私は、彼女の横顔を見つめた。


陽の光の下で、彼女の睫毛が、ほんの少しの影を落としている。


その影の下で、何かが揺れていた。


「陽菜。」


「うん?」


「何を考えてるの?」


彼女はすぐには答えなかった。


ただ、海を見つめていた。


長い時間が経ってから、彼女は言った。


「もし、今日、ここに来なかったら、私は永遠に海がこんなものだってことを知らなかっただろうな、って考えてた。」


彼女は顔を向け、私を見た。


「だから、来てよかったんだ。」


8


私たちは、海辺で午後いっぱい過ごした。


貝殻を拾い、波しぶきを踏み、砂浜に字を書いた。


彼女は一行、書いた。「水谷陽菜、ここに来る。」


そして、波が押し寄せて、その字を消した。


彼女は、波に平らに均された砂浜を見つめて、言った。


「いいんだ。私が覚えてるから。」


日が沈み始めた頃、私たちは砂浜に座った。


夕日が、海全体を金色に染めていた。


彼女の手術の日の空と同じ色だ。


「辻本さん。」彼女は言った。


「うん?」


「前に私がした質問、覚えてる?」


「どの質問?」


「もし頑張ってもずっと結果が出なかったら、頑張り続けることにまだ意味はあるのか、ってやつ。」


私は、海を見つめた。


金色の波が、幾重にも押し寄せている。


「覚えてる。」


「じゃあ、今は――」彼女は私を見た。「答え、出た?」


長い間、考えた。


海風が吹いてきた。塩気を含んだ、潮の香りがする。


「もしかしたらさ。」私は言った。「意味は、結果そのものじゃないのかも。」


「じゃあ、何なの?」


「それは――」私は一瞬間を置いた。「過程なんじゃないかな。」


彼女は黙って、ただ私を見つめていた。


「前は俺、何をするにも結果が出なきゃダメだと思ってたんだ。」私は続けた。「リレーは勝たなきゃいけないし、友達はずっと一緒にいなきゃいけないし、試験は良い点を取らなきゃいけない。もし結果が出なかったら、それは失敗だって。」


「でも、今は――」


私は、彼女の瞳を見つめた。


「もし、あのリレーで最後まで走り続けなかったら、俺は知らなかっただろうな。ゴールした時、負けたけど、誰かが水を差し出してくれたってことを。」


「もし、あの転校した友達と友達になり続けなかったら、俺は知らなかっただろうな。一緒に遊びたいって思ってくれる人がいるってことを。」


「もし――」


私は、言葉を切った。


「もし、入学式の日に、最後尾の窓際に座り続けなかったら、君に出会わなかっただろうな。」


彼女の目が、きらりと輝いた。


「だからさ。」私は言った。「意味は、何かを手に入れることじゃなくて、頑張っているその過程で、何か、誰かと出会うことなんじゃないかな。」


9


太陽が沈んだ。


空の端っこに、最後の一筋の光だけが残っている。


海は、深い青色に変わっていた。


彼女は立ち上がり、スカートに付いた砂をはらった。


「帰らなきゃ。」


「うん。」


私たちは、引き返し始めた。


数歩歩いたところで、彼女が突然立ち止まった。


「辻本さん。」


「うん?」


「渡したいものがあるんだ。」


彼女はバッグから、一通の封筒を取り出した。


ごく普通の白い封筒で、封口には星のシールが貼ってある。


「何、これ?」


「私が書いたの。」彼女は言った。「手術する前にね。」


私は封筒を受け取った。


「今、見てもいい?」


「帰ってから見て。」彼女は言った。「今、見られたら、恥ずかしいから。」


彼女は笑った。


その笑顔は、最後の一筋の光の中で、とても美しかった。


10


その夜、家に帰り、私は机の前に座った。


封筒を開ける。


中には、一枚の束が入っていた。


手書きで、字はとても整っている。


最初のページに、こう書いてあった。


*辻本湊人さんへ*


*あなたがこの手紙を読む頃、私はもう手術を終えているはずです。*


*もしかしたら、目を覚ましているかもしれない。*


*もしかしたら、目を覚まさないかもしれない。*


*でも、どちらにしても、私はこれらの言葉を書き残しておきたいと思いました。*


次のページをめくる。


*四月七日*

*今日、ある人を知りました。*

*彼は桜を見る目が、私が病院の天井を見る目と同じでした。*

*その時、私は思いました。この世界には、私と同じような人もいるんだなって。*

*病気の人じゃなくて、諦めた人。*

*彼の目には、諦めた人の光がありました。*

*でも、なぜだか、その光を見て、私は思ったんです——*

*もしかしたら、彼はまだ救われるかもしれない。*

*私が自分自身を救ってほしいと願っているのと同じように。*


*四月十五日*

*今日、また彼と話しました。*

*彼は、頑張り続けることに意味があるかどうか、わからないって言いました。*

*私もわからないって言いました。*

*でも、本当は、わかっています。*

*頑張り続けることの意味は、何かを手に入れることじゃない。*

*頑張り続けること自体が、あなたを「まだ頑張っている人」にする。*

*諦めた人じゃない。*

*まだ、もがいている人。*

*私は、彼にこれを伝えたいです。*

*でも、言えませんでした。*

*なぜなら、私自身も怖いから。*

*頑張り続けても、最後には何も残らないんじゃないかって。*


*五月一日*

*今日、彼が図書館に付き合ってくれました。*

*バスの中で、私は窓の外を見ていました。*

*あの時、私は思ったんです。もしこれが、私が最後にバスに乗る機会だとしたら、私はちゃんと見ておかなきゃいけないって。*

*一本一本の木、一軒一軒の家、一人ひとりの人。*

*みんな、覚えておかなきゃ。*

*だって、覚えておくことが、存在した証だから。*

*彼は、私の隣に座っていました。*

*どうしてずっと外を見ているのか、私に尋ねたりしませんでした。*

*ただ、そばにいてくれました。*

*あの瞬間、私は思ったんです——*

*もしかしたら、私が今日まで頑張り続けてきたのは、彼に出会うためだったのかもしれない。*


*五月十八日*

*明日、手術です。*

*怖いですか? 怖いです。*

*でも、もっと怖いことがあります。*

*もっと怖いのは、明日から彼に会えなくなること。*

*だから、これを書き残しておきたいんです。*

*もし目を覚まさなかったとしても、少なくとも彼は知っている——*

*彼は、私が頑張り続ける意味だったってことを。*

*彼が私を救ってくれたからじゃない。*

*彼が私に教えてくれたから。まだ、私が頑張るに値する人が、この世界にいるんだって。*


*五月十九日*

*明日。*

*明日は、手術です。*

*これを最後に書いたら、もう寝ます。*

*辻本さん。*

*ありがとうございました。*

*私の頑張りには、意味があるんだってことを教えてくれて、ありがとう。*

*意味があるのは、成功したからじゃない。*

*頑張っている途中で、あなたに出会えたからだ。*

*もし、明日、私が目を覚ましたら——*

*あなたと一緒に、たくさんの空を見たいです。*

*春の桜、夏の雲、秋の月、冬の星。*

*どの空も、あなたと一緒に見たい。*

*もし、明日、私が目を覚まさなかったら——*

*どうか、あなたが代わりに、あの空を見てください。*

*そして、それが何色だったのか、教えてください。*

*私は、どこかで、それを聞いています。*

*最後に、一つだけ、あなたに伝えたいことがあります。*

*あの質問の答えです。*

*「もし思い通りにならなくても、頑張り続けることに意味はあるのだろうか?」*

*あります。*

*なぜなら、頑張り続けること自体が、意味だから。*

*それは、あなたを生かし続ける。*

*あなたが生きている間に、出会うべき人と出会わせてくれる。*

*まるで、私があなたに出会ったように。*


*水谷陽菜*

*五月十九日の夜*


11


手紙の最後に、小さな字で、こう書かれていた。


*追伸 もし、私がまだ生きていたら、明日、海に連れて行ってください。*


*ずっと、海を見たかったんです。*


*あなたと一緒に。*


顔を上げる。


窓の外は、もう真っ暗だった。


でも、わかっている。明日、太陽は昇るだろう。


今日と同じように。


昨日と同じように。


彼女が懸命に生きてきた、あの日々と同じように。


12


翌日。


私は彼女を、海へ連れて行った。


手紙に書いてあった、あの海だ。


バスの中で、彼女はずっと笑っていた。


「見て、あの雲、何に見える?」


「何に見える?」


「魚に見える。」


「どこが?」


「ここが頭で、ここが尻尾。」


「そうかもね。」


彼女は、もっと嬉しそうに笑った。


海に着くと、彼女は靴を脱ぎ、波に向かって走っていった。


「早く!」振り返って、私を呼ぶ。


私も、追いかける。


波が押し寄せ、私たちのズボンの裾を濡らした。


彼女はそこに立ち、海を見つめている。


「辻本さん。」


「うん?」


「知ってる? 昨日の夜、夢を見たんだ。」


「どんな夢?」


「私が死んじゃう夢。」彼女は言った。「それで、すごく暗い場所にいて、君の声が聞こえたんだ。」


「私の声?」


「うん。君が教えてくれたんだ。空は何色かって。」彼女は顔を向け、私を見た。「金色だって、君が言った。」


私は、彼女を見つめた。


陽の光の下で、彼女の目は、きらきらと輝いていた。


「それで?」私は尋ねた。


「それで、目が覚めたんだ。」彼女は笑った。「目を開けたら、病室の天井が見えた。白い天井。」


「ガッカリした?」


「ガッカリなんかしないよ。」彼女は言った。「だって、これからもたくさん空が見られるってわかったから。」


彼女は手を伸ばし、遠くを指さした。


「見て、あそこ。」


彼女の指さす方を見る。


海と空が、一つに繋がっている。


どこまでが海で、どこからが空なのか、区別がつかない。


「あそこ。」彼女は言った。「あそこに、あなたと一緒に行きたい。」


「あそこって、どこ?」


「わかんない。」彼女は笑った。「でも、一緒に行くなら、きっと面白いよね。」


13


その日の帰り道、太陽が沈み始めていた。


私たちはバスの最後尾の席に座り、窓の外を見つめていた。


金色の光が窓から差し込み、車内全体を暖かな色に染めている。


彼女は、私の肩にもたれて、眠ってしまった。


私は、うつむいて彼女を見た。


彼女の睫毛は長く、ほんの少しの影を落としている。


口元は緩んで、まるで良い夢を見ているかのようだった。


窓の外の景色が、次々と後ろへ流れていく。


田んぼ、家々、木々、遠くの山々。


どこにでもある景色。


でも、金色の光の中で、全てが違って見えた。


彼女の手紙に書いてあった言葉を思い出す。


「頑張り続けることの意味は、何かを手に入れることじゃない。頑張り続けること自体が、あなたを『まだ頑張っている人』にする。」


諦めた人じゃない。


まだ、もがいている人。


私は、静かに眠る彼女の顔を見つめた。


突然、理解した。


私が彼女に出会ったのは、偶然じゃない。


私がまだ頑張り続けていたからだ。


生きることを、頑張り続けていたから。


完全には、諦めきれずにいたから。


「無意味だ」と感じる日々の中で、それでも目を開け続けていたから。


それで、十分なんだ。


14


家に着いた時には、もう夜になっていた。


ベッドに横たわり、天井を見つめる。


カーテンの隙間から、月明かりが漏れ入っている。


ずっと昔の自分を思い出した。


運動会でビリになったあの子。


半年間お金を貯めて、マフラーを買えなかったあの子。


入学式の日に友達を失ったあの子。


あの出来事には、何の結果も出なかった。


でも——


もし、あの出来事がなかったら、私は今の私にはなれなかっただろう。


あの教室に座っていなかっただろう。


あの窓際の席に座っていなかっただろう。


あの日、振り返って、彼女の瞳を見ることもなかっただろう。


だから、あの頑張りには、意味があったんだ。


結果があったからじゃない。


あの頑張りが、私をここへ連れてきてくれたから。


15


次の日、学校へ行く時、校門の前で彼女を待った。


桜の木は、もうすっかり緑の葉っぱに覆われていた。


でも、大丈夫。


新しい季節が来たんだ。


彼女が、遠くから歩いてくる。


制服を着て、ランドセルを背負って。


私を見て、彼女は笑った。


その笑顔は、桜よりも美しかった。


「おはよう。」彼女は言った。


「おはよう。」


一緒に、校門をくぐる。


「辻本さん。」彼女は言った。


「うん?」


「今日の空は、何色?」


顔を上げる。


空は、とても青かった。


まるで、新しく始まる何かのように、青く。


「青。」私は言った。


彼女はうなずいた。


「いいな。」彼女は言った。「青か。」


そして、彼女は手を差し出した。


私の手を握った。


とても暖かかった。


とても、確かだった。


とても——


生きている、という感じがした。


16


その日の放課後、また図書館に行った。


あの机、あの二つの席に、また座った。


彼女はランドセルから、一冊のノートを取り出した。


新しいノートだった。


「何、これ?」私は尋ねた。


「新しい日記。」彼女は言った。「今日から、また書くんだ。」


「前の、もう書き終わったの?」


「うん。書き終わった。」彼女は最初のページを開いた。「見る?」


顔を寄せる。


最初の行には、こう書いてあった。


*六月二十日*

*今日、彼と一緒に海へ行った。*

*海は、大きかった。すごく、すごく大きかった。*

*想像していたよりも、ずっと大きかった。*

*彼は、私の隣に立って、海を見ていた。*

*あの瞬間、私は思った——*

*生きていて、よかった。*


私は、彼女を見た。


彼女も、私を見ていた。


「どう?」彼女は尋ねた。


「すごく下手くそ。」


「じゃあ、もっと上手いのを、君が書いて見せてよ。」


「俺は日記なんか書かないし。」


「じゃあ、何を書くの?」


少し考えた。


「書くなら――」私は言った。「俺たちの物語を書くよ。」


彼女は、一瞬間を置いた。


「俺たちの、物語?」


「うん。」私は言った。「四月七日から、書き始めるんだ。」


彼女は、私を見つめた。


その瞳の中に、光があった。


とても、明るい光。


「いいね。」彼女は言った。「君が書いて、私が読む。」


窓の外から風が吹き込んできた。


夏の風。


ほんの少しの熱、ほんの少しの緑、ほんの少しの——生きている匂いがした。


17


その夜、私は書き始めた。


彼女がくれたあのノートに。


四月七日から書き始めた。


桜のことを。


彼女が初めてあの質問をした日のことを。


一緒に見た空のことを。


彼女の手術の日、金色だった陽の光のことを。


海のことを。


全てのことを。


最後のページまで書き終えた時、私はペンを置いた。


窓の外には、月があった。


とても、まんまるな月。


彼女のあの言葉を思い出した。


「頑張り続けることの意味は、何かを手に入れることじゃない。頑張り続けること自体が、あなたを『まだ頑張っている人』にする。」


私はノートを閉じた。


表紙に、二文字だけ書いてある。「物語」。


俺たちの物語。


まだ、終わっていない物語。


18


翌日、私はノートを彼女に差し出した。


「もう書けたの?」


「うん。まずは読んでみて。」


彼女は受け取り、最初のページを開いた。


私は、彼女を見つめていた。


彼女が読んでいる様子を。


彼女の表情が変わっていくのを。


笑った。


泣いた。


また、笑った。


最後に、彼女は顔を上げた。


私を見た。


その瞳の中には、涙があった。


月明かりがあった。


星の光があった。


私がいた。


「辻本さん。」彼女は言った。


「うん?」


「すごく、上手だよ。」


「嘘だ。」


「本当だよ。」彼女は笑った。「字は汚いけどね。」


私も笑った。


窓の外には風が吹いている。


夏の風。


クチナシの香りが混ざっている。


彼女は立ち上がり、窓辺へ歩いていった。


「辻本さん。」


「うん?」


「ねえ、来年の今頃も、私たち、ここにいると思う?」


私も立ち上がり、彼女の隣に立った。


「いるよ。」


「本当に?」


「うん。」私は窓の外を見た。「私たちが生き続ける限りね。」


彼女は振り向き、私を見た。


笑った。


その笑顔は、どんな花よりも美しかった。


「いいね。」彼女は言った。「じゃあ、一緒に頑張り続けよう。」


窓の外の空は、とても青かった。


夏の雲が流れていく。


ウサギのように、魚のように、どんな形にでも変わりながら。


そして、彼女は私の隣に立っていた。


生きていた。


笑っていた。


頑張り続けていた。


それで、十分だった。


——第三章 終——

終章


ずっと後になって、誰かが私に尋ねた。


「もし思い通りにならなくても、頑張り続けることに意味はあるのだろうか?」


あの春を思い出した。


あの窓際に座っていた少女を思い出した。


彼女が初めてあの質問をした時、その瞳の中にあった、今にも消えそうな光を思い出した。


彼女が手術の後、目を覚まして最初に口にした言葉が「桜はまだありますか」だったことを思い出した。


海辺で、波しぶきの中から振り返って見せた、あの笑顔を思い出した。


私は言った。


「あるよ。」


「だって、頑張り続けること自体が、意味だから。」


「それは、君を生かし続ける。君が生きている間に、出会うべき人と出会わせてくれる。」


「まるで、私があの娘に出会ったように。」


その人は、さらに尋ねた。


「では、もし出会ったとしても、最後には別れてしまったら?」


私は、窓の外の空を見つめた。


春の桜は、もう散り果てていた。


でも、夏が来ようとしている。


新しい雲、新しい風、新しい——新しい彼女が。


「それでも、頑張り続けるんだ。」私は言った。「だって、次に出会うべき人は、まだ道の途中にいるから。」


窓の外を風が吹き抜けた。


桜の木が、ざわめく。


私は、うつむいて、手にしたノートを見た。


表紙には、二文字だけ書いてある。「物語」。


俺たちの物語。


まだ、続いている物語。


——全文 終——

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