桜と見知らぬ人
いつからだろう、「努力は報われる」という言葉を、信じられなくなったのは。
もしかすると、八歳のあの日だったのかもしれない。運動会で膝をすりむきながらも、最後まで走り抜けた。なのに、ゴールで待っていたのは拍手ではなく、「どうせなら、最初から諦めておけばよかったのに」という、先生の慰めの言葉だった。
あるいは、十歳の夏。海に行く友達について行くため、ひと夏かけて泳ぎを練習した。ところが当日は台風で、海は中止になった。夏休みが終わって、泳ぎの話に花を咲かせる彼らの輪に、やっぱり僕は入れなかった。
もしかすると、十二歳の冬。病気の母にマフラーを買ってあげたくて、半年かけて小遣いをためた。やっとお金が貯まったときには、母の病はもう治っていた。あのマフラーは今も、タグがついたまま、引き出しの奥で眠っている。
そうして、いつとは言えないその瞬間に、僕は思い知らされた。
この世には、頑張ったからといって、報われるとは限らないことがあるんだと。
いや、正確に言おう。**僕**の頑張りは、いつだって報われない。
その思いは、小さな種のように心の奥に根を下ろし、やがて空を覆うほどの大木に育った。その木陰で、すべての希望は枯れていった。
中学の入学前夜、僕は天井を見つめながら、長いこと考えていた。
明日から新しい学校だ。新しい教室、新しいクラスメート、新しい先生。
でも、それがどうした。
場所が変わったって、またあの「報われない奴」を演じるだけじゃないか。
寝返りを打って、顔を枕にうずめた。
もういいや。
明日からは、頑張るのをやめよう。
期待するのも、挑戦するのも、耐えるのも、もういい。
ただ、流れのままに生きていこう。
どうせ、もがいたって、何も変わらないんだから。
あの頃の僕は、本気でそう思っていた。
でも、そのときは知らなかった。僕がこれから通うその学校に、ある女の子が待っているなんて。
入学初日、彼女は僕の前に現れる。
そして、その瞳の奥に残る、僕があまりにもよく知っている光で、もうとっくに諦めてしまったはずの人生を、もう一度照らし出す。
もしあの時、誰かに「その子がお前の人生を変えるんだ」と言われていたら、きっと笑い飛ばしていただろう。
自分すら救えない人間が、誰かに救われるなんて、ありえない。
けれど、後になってわかったんだ。
この世には、君を救うために現れる人じゃなくて、君に「君自身」を教えるために現れる人がいるんだって。
1
四月七日。
入学式の日。
校門の前に立ち、「市立橘花中学校」と書かれた看板を見上げながら、ふと可笑しな気持ちになった。
橘花。
この花の花言葉は、なんだったっけ。
確か、「純潔」と「優しさ」だったはず。
皮肉だな。
僕は純粋でも優しくもない。ただ、すべてを諦めることを決めたばかりの、どこにでもいる十三歳の少年だ。
桜が満開だった。
校道の両側に並ぶ桜の木々は、まるで自分たちの命を惜しむかのように咲き誇り、白っぽいピンクの花びらが風に舞い落ちて、地面にうっすらと花の絨毯を敷き詰めている。新入生たちは二、三人ずつ連れ立って歩き、その顔には、僕があまりにもよく知っている表情が浮かんでいた——期待と緊張、そしてほんの少しの、自慢げな興奮。
「今年の三年生にさ、野球めっちゃ上手い先輩が何人かいるんだって!」
「何組? 私、一組なんだけど。」
「えー、違う組かよ……」
そんな会話が僕の横をすり抜けていく。まるで風が、からっぽの廊下を吹き抜けるように。
僕は足元の花びらを見下ろした。
一枚がちょうど、僕の靴の先に落ちていた。ピンク色で、小さな茶色い斑点がついている。
もう片方の足のつま先で、それをこすり落とした。
そのまま歩き続けた。
校舎は、よくある四階建ての建物だった。灰色がかった白い外壁、青い窓枠、各階の廊下の突き当たりには消防避難図が掛かっている。掲示板に貼られたクラス分け表に従って、自分の教室——一年二組——を見つけた。
扉を開けると、教室にはもう半分ほどの生徒が座っていた。
誰も僕を見上げない。
いい。
僕は窓際の一番後ろの席に歩いていき、腰を下ろした。わざわざ選んだ席だ——一番後ろの窓際、いわゆる「主人公ポジション」。ただ、ここに座っているのは主人公になりたいからじゃない。ただ、一番人目につきにくいからだ。
窓の外では、まだ桜が舞い落ちている。
顎を腕にのせて、花びらが一枚、また一枚と落ちていくのを眺めた。
どれくらい経っただろう。教室のざわめきが次第に静まっていく。
顔を上げると、教壇にスーツを着た若い男の人が立っていた。二十代半ばくらいだろうか。髪は短く刈り上げられ、肌は浅黒く、どう見ても体育大学を出たての体育教師にしか見えなかった。
「咳。」彼は声を整えた。「おはよう。担任の高橋だ。数学を担当する。」
彼は背を向け、黒板に自分の名前を書いた:高橋健一。
字はとても汚かった。
「これから一年間、極力お前たちに辛い思い出を作らせないようにする。」振り返り、彼は型通りの笑みを浮かべた。「もちろん、お前たちが俺に面倒をかけない、ってのが前提だけどな。」
誰かが小さく笑った。
僕は笑わなかった。
「よし、恒例に従って、自己紹介から始めよう。」高橋先生は教壇から名簿を手に取った。「一番前の席から、一人ずつだ。名前、出身小学校、趣味、何でもいい。始め。」
一番前の最初に立ったのは、小柄な女の子だった。ツインテールにしている。
「わ、わたし、山田理沙といいます。橘花小学校出身で……趣味は……音楽を聴くこと、です……」
声はどんどん小さくなり、最後の方の言葉はほとんど聞こえなかった。
それでも彼女が座るとき、隣の女の子がそっと肩を叩き、「がんばれ」と小声で言った。
次が二人目、三人目、四人目……
僕はそれらの声を、まるで自分とは関係のないラジオドラマのように聞いていた。
「田中優斗です。第三小学校出身で、野球が好きです。」
「佐藤真由美です。橘花小学校出身で、絵を描くのが好きです。」
「鈴木翔太です……」
どの自己紹介も似たり寄ったりだった。名前、出身小学校、趣味。たまに、「犬を飼っています」とか「カレーライスが好きです」とか、少し付け加える者もいて、そうすると気の良い笑いが起こったりした。
やがて、僕の番が来た。
「次、一番後ろの窓際の奴。」
高橋先生は名簿を見ながら、顔を上げて探した。
僕は立ち上がった。
教室中の視線が、一斉に僕に集中する。
それは、とても軽くて、でも確かに存在した。
「辻本です。」僕は言った。「辻本湊人です。」
間を置いた。
「出身は……第三小学校です。」
そして、座った。
趣味も、余計な言葉も、何も言わなかった。
教室が一瞬、静まり返った。
「それで終わりか?」高橋先生が眉をひそめた。
僕は答えなかった。
彼はしばらく僕を見つめ、肩をすくめると、名簿にチェックを入れた。
「よし。次。」
再び顎を腕にのせ、窓の外を向いた。
視線が、潮が引くように、僕から離れていった。
いい。
これが狙い通り——覚えられず、注目されず、期待されないこと。
自己紹介は続く。
「……水谷陽菜です。第一小学校出身で、趣味は読書です……」
その名前に、僕の耳がわずかに動いた。
名前そのものが特別だったからじゃない。話す声のせいだ。
その声は……
なんと言えばいいのだろう。
ずっと昔に聴いたことのある歌のように、メロディーは思い出せないけれど、その感触だけは覚えている、そんな声だった。
僕は顔を向けた。
話しているのは、教室の反対側、窓際の席に座っている女生徒だった。
見えるのは、彼女の横顔だけだった。
肩甲骨のあたりまで届く黒い長い髪。毛先はほんの少しカールしている。肌は白く、窓から差し込む陽射しに透けてしまいそうだった。他の人と同じ制服を着ているのに、どうしてだろう、その普通の制服が彼女に纏うと、少し違って見えた。
彼女が何かを話しているけれど、もう聞こえなかった。
ちょうどその時、彼女が突然、顔をこちらに向けたからだ。
僕たちの視線が、空気の中でぶつかった。
とても深い、深い瞳だった。
黒くて瞳の境目さえほとんど見えないのに、まるで光を内包しているかのように、ひときわ輝いていた。
でも、本当に僕が呆然としたのは、その瞳の美しさのせいじゃなかった。その瞳の中にある——
何か?
はっきりとは言えなかった。
そこには、とても馴染み深いものがあった。
まるで……
まるで鏡に映った自分を見ているようだった。
いや、違う。
どちらかと言えば——
溺れかけている人を見ている、そんな感じだった。
彼女の視線は、僕の顔にほんの二秒と留まらず、すぐに外された。
そして、自己紹介を続けた。
「……よろしくお願いします。」
最後にそう言うのが聞こえた。
それから彼女は座った。
僕はまだ彼女の方を見ていたけれど、見えるのは後ろ頭だけになっていた。
窓の外では、桜がまだ舞い落ちている。
僕の頭の中に、突然、とても奇妙な考えが浮かんだ——
あの人の瞳には、どうしてあんな光があるんだろう?
かつて僕も持っていて、今はもう消えてしまった光。
何も得られないと分かっていながら、それでも諦めきれない光。
2
自己紹介が終わると、高橋先生はまた、色々とどうでもいいことを話した。校則だとか、時間割だとか、明日の予定だとか。僕は一言も聞いていなかった。
ただ、あの瞳のことを考えていた。
違う、正確に言えば、あの瞳の中にあるもののことを考えていた。
あれは何なんだ?
悔しさ? 負けず嫌い? それとも——
「辻本。」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、高橋先生が僕を見ていた。
「さっき言ったこと、聞こえたか?」
「……」
もちろん聞こえていなかった。
でも、僕は言った。「聞こえました。」
高橋先生はしばらく僕を見つめていた。その目は、「小僧、嘘つけ」と言っているようだった。しかし彼はそれを暴こうとはせず、「それならいい。放課後、残って新刊の教科書をもらっていけよ」と言うだけだった。
そう言い終えると、彼は教室を出て行った。
教室はたちまち賑やかになった。鞄を片付け始める者、連絡先を交換し合う者、一緒にコンビニへ行こうと約束する者。
僕は立ち上がり、出口に向かった。
「辻本さん。」
誰かに呼び止められた。
振り向く。
彼女だった。
窓際に座っていたあの女生徒だ。
彼女は僕の前に立っていた。距離にして二歩ほど。この距離のおかげで、彼女の顔がもっとはっきり見えた。
本当に白い。
人間とは思えないほど白い。
それに、とても痩せている。
制服が、彼女の体に少しだぶついて見える。
でも、あの瞳は、近くで見ると、もっと輝いていた。
「何か用?」僕は尋ねた。
彼女はすぐには答えず、僕を見つめていた。何かを確かめるように。
それから、言った。「さっきの自己紹介で、趣味を言わなかったよね。」
「……うん。」
「どうして?」
その質問に、僕は一瞬、言葉を失った。
どうして?
言いたくないから。言ったって仕方ないから。誰も本当に気にしてないから。
でも、そんな理由を、知らない人にわざわざ説明する気にはなれなかった。
「別に。」僕は言った。「ただ、言いたくなかっただけ。」
これで彼女は引き下がるだろう。普通の人は、ここで引き下がる。
でも、彼女はそうしなかった。
彼女は頷いた。何かを理解したかのように。そして言った。「わかった。」
「何がわかったの?」
「別に。」彼女は言った。そして、口元がほんの少し上がった。
それは、とてもかすかな笑みだった。注意して見なければ、全く気づかないほどに。
でも、その笑みのせいで、僕は——
何かが、少しおかしいと感じた。
「私、水谷陽菜っていいます。」彼女は言った。「さっき自己紹介したよね。」
「知ってる。」
「うん。だから、一つ質問したいんだけど。」
「何?」
彼女は僕を見つめた。
その瞳の中の光が、この瞬間、ひときわ鮮明になった。
「信じる?」彼女は尋ねた。「頑張っていることがずっと結果に出なかったら、頑張り続けることに、まだ意味はあると思う?」
廊下の窓から風が吹き込んできた。
僕の髪が乱れた。
目の前に立つこの少女を、その底知れぬ瞳を見つめながら、僕は突然、何と言っていいのかわからなくなった。
だって、この質問は——
僕が毎日、自分自身に問いかけている質問だったから。
「君……」
僕が口を開きかけると、彼女は突然、首を振った。
「ごめん、変なこと聞いて。」彼女は言った。「なかったことにして。」
そして、彼女は背を向けて歩き出した。
彼女の後ろ姿が、廊下の向こうへと遠ざかっていく。
黒い長い髪が、風にそっと揺れている。
僕はその場に立ち尽くし、長い間、動けなかった。
3
その夜、ベッドに横たわりながら、ずっとあの質問のことを考えていた。
「頑張っていることがずっと結果に出なかったら、頑張り続けることに、まだ意味はあると思う?」
あの女の子は、なぜ僕にそんな質問をしたんだろう?
彼女の瞳の中のあの光は、一体何なんだろう?
彼女の自己紹介の言葉を思い出した。
「第一小学校出身で、趣味は読書です。」
ただそれだけ。他の人と何も変わらない。
でも、彼女の瞳は——
あの瞳は、明らかに別の何かを語っていた。
天井を見つめる。
窓の外からカーテンの隙間を縫って月明かりが漏れ入り、天井に細い光の帯を描いていた。
ふと、ずっと昔のことを思い出した。
まだ小学三年生だった頃のことだ。
あの年の秋、学校で運動会があった。僕はリレーに参加した。
大した理由なんてなかった。ただ、クラスの男子がみんな参加するから、仲間外れにされたくなかっただけだ。
練習のとき、僕はずっと遅かった。バトンパスのたびに、いつも最後だった。
でも、僕は練習を続けた。
毎朝、学校に三十分早く行って、校庭を走った。
放課後も帰らずに、走り続けた。
丸々一ヶ月、走った。
運動会の日、僕はアンカーを務めた。
バトンを受け取ったとき、僕たちのクラスはもうビリだった。
僕は必死に走った。
肺が張り裂けそうになるまで。
目の前が霞むまで。
それでも——
それでもビリだった。
ゴールラインを駆け抜けたとき、僕は息を切らして腰を折り、汗が地面に落ちて、濃い丸い染みを作った。
誰かが歩み寄り、僕の肩を叩いた。
慰めてくれるのだと思った。
でも、その人が言ったのは、「もう走るなよ、どうせ勝てないんだから」だった。
顔を上げて、誰が言ったのか見ようとした。
でも、その人はもう行ってしまっていた。
ただ、背中だけが残された。
そして、あの言葉。
「どうせ勝てないんだから。」
あれから、僕は二度と運動会に参加しなかった。
早起きして校庭を走ることも、もうしなかった。
「努力すれば報われる」なんて言葉を、二度と信じなかった。
窓の外を風が通り過ぎる。
桜の木の影が、月明かりの中で揺れている。
目を閉じる。
あの女の子の瞳が、また浮かんできた。
4
翌日。
僕はいつもより十分早く起きた。
わざとじゃない。ただ眠れなかっただけだ。
制服に着替え、適当に何か食べて、家を出た。
学校の門のところまで来たとき、僕はふと足を止めた。
彼女が、またそこにいた。
水谷陽菜。
彼女は校門の桜の木の下に立ち、頭上に咲く花を見上げていた。
花びらが、彼女の髪や肩に降り積もる。彼女はそれを払おうともせず、ただ、そこに立っていた。
誰かを待っているようだった。
あるいは、決して来ない何かを待っているようだった。
少し迷ったけれど、僕は歩み寄った。
彼女の横を通り過ぎようとしたとき、声が聞こえた。
「おはよう、辻本さん。」
足を止めた。
彼女は顔をこちらに向けた。
今日は、昨日よりも日差しがよかった。太陽が雲の間から顔を出し、彼女の顔をさらに白く照らしている。
「おはよう。」僕は言った。
それから、何を言えばいいのかわからなくなった。
彼女は、とても自然だった。
「昨日の質問なんだけどさ。」彼女は言った。「まだ、答えてくれてなかったよね。」
「……」
「だから、もう一度聞くね。」彼女は僕を見つめた。「信じる?」
同じ目つきだった。
同じ光だった。
「わからない。」僕は言った。
それが、僕が出せる、一番正直な答えだった。
彼女はそれを聞いて、頷いた。
「わからないか。」彼女は繰り返した。「うん、それも普通だよね。」
「君は?」僕は尋ねた。「信じるの?」
彼女はすぐには答えなかった。
風が吹いた。
桜の花びらが、僕たちの間を舞い落ちる。
「昔は、信じてた。」彼女は言った。「すごく、信じてた。」
「昔は?」
「うん。昔は。」
彼女は、それ以上は語らなかった。
彼女の横顔を見ていると、ふと一つのことに気づいた——
彼女の睫毛は、とても長い。
長すぎて、陽の光の中に、ほんの少しの影を落としている。
その影が、彼女の瞳の光を遮って、その瞳をぼんやりと見せていた。
「君は?」彼女が突然尋ねた。「昔は、信じてた?」
「……昔はね。」
「いつ?」
「小学三年生になるまでは。」
「三年生までは。」彼女は繰り返した。「じゃあ、三年生からは?」
「それからは、信じなくなった。」
「どうして?」
舞い落ちる花びらを見ながら、僕は考えた。
「何をやっても、結果が変わらないってわかったから。」
彼女は黙っていた。
僕は続けた。
「頑張ったからって、結果が出ることばかりじゃない。いや、むしろ、頑張ってるからこそ、結果が出ないこともあるんだと思う。」
言い終えてから、僕は自分が少し可笑しなことを言っているのに気づいた。
まだ知り合って二日しか経っていない相手に、何をこんなに話しているんだろう。
でも、彼女は笑わなかった。
ただ、真剣な目つきで、僕を見つめていた。
それから、彼女は言った。
「わかる。」
今回は、彼女は「わかった」ではなく、「わかる」と言った。
この二つの言葉は、違う。
「わかった」は、ただ聞こえたというだけ。
「わかる」は、本当に理解するということだ。
「何がわかるの?」僕は尋ねた。
彼女は僕を見つめた。
その瞳の中で、何かが動いた。
まるで、深い水の中に閉じ込められた一匹の魚が、必死に泳ぎ上がろうとしているかのように。
「君が三年生のあと、どうだったかは知らない。」彼女は言った。「でも、私が三年生のあと、どうだったかは、私が知ってる。」
「どんなこと?」
彼女は答えなかった。
ただ、背を向け、校舎の方へ歩き出した。
数歩行って、また立ち止まる。
「辻本さん。」
「うん?」
「放課後、図書館に来てくれない?」
「図書館に?」
「うん。ちょっと、伝えたいことがあるんだ。」
そう言って、彼女はまた歩き出した。
僕はその後ろ姿を見つめていた。
黒い長い髪、白い制服、痩せた肩。
桜の花びらが、まだ舞い落ちている。
一枚が、彼女の肩に落ちたけれど、彼女は気づいていなかった。
5
放課後。
僕は図書館の入口に立ち、長い間、迷っていた。
なぜ来たんだろう?
わからない。
来なくても、よかったのに。
来る理由なんて、なかったのに。
でも、僕は来てしまった。
扉を押し開けた瞬間、古い本の匂いが、ふわりと漂ってきた。
図書館は広くなかった。入ってすぐは本棚が並び、窓際には長机がいくつか置かれ、それぞれに四脚の椅子が付いている。
彼女は、一番奥のテーブルに座っていた。背中を窓に向けて。
夕日が彼女の背後から差し込み、その輪郭を金色に縁取っていた。
彼女は本を読んでいた。
扉の音を聞きつけ、顔を上げる。
「来たんだね。」
疑問符ではなく、確信の口調だった。
僕は歩み寄り、彼女の向かいに腰を下ろした。
「何を伝えたいの?」
彼女はすぐには答えず、手にしていた本を閉じ、机の上に置いた。
それは、とても古びた本だった。表紙の文字は擦り切れて、いくつかの仮名が辛うじて読み取れる程度だ。
「辻本さん。」彼女は言った。「知ってる? 私、病気なんだ。」
「病気?」
「うん。けっこう重いやつ。」
彼女は、それを言うとき、とても落ち着いていた。今日の天気がいいね、と言うのと同じくらい、自然に。
僕は一瞬、言葉を失った。
「なんの病気?」
彼女は直接答えなかった。
「心臓にさ、『心房』って場所があるの、知ってる?」
「心房?」
「うん。心臓の部屋。左側が左心房で、右側が右心房。血液がここに流れ込んで、ここから流れ出ていくんだ。」
僕は頷いた。詳しくはわからないけれど、大体の意味は掴めた。
「私の、その場所がね、ちょっとおかしいんだ。」彼女は言った。「小さい頃からの病気で、治すには手術しなきゃいけないんだって。大きな手術。」
彼女の声は、相変わらず穏やかだった。
自分のこととは思えないほど、穏やかに。
「でも、その手術、成功率は百パーセントじゃないんだ。」彼女は続けた。「もしかしたら、手術が終わったら、もう二度と目を覚まさないかもしれない。」
「……」
「だから、ずっと受けてこなかった。」
そう言うとき、彼女の口元が、わずかに緩んだ。
あの笑顔だった。昨日と、まったく同じ。
かすかすぎて、注意して見なければわからない。
でも、確かにそこにあった。
「手術しなかったら、どれくらい生きられるの?」僕は尋ねた。
「わからない。」彼女は言った。「一年かもしれないし、二年かもしれない。もしかしたら、明日、もうダメかもしれない。」
そんなことを、こんなに淡々と言う彼女に、僕は何と答えたらいいのか、わからなくなった。
窓の外の夕日は、だんだんと赤みを増していた。
図書館全体が、オレンジ色に染まっていた。
「それでね、ずっと考えてたんだ。」彼女は続けた。「私がまだ生きている間に、どうしてもやっておかなきゃいけないことは何だろうって。」
顔を上げ、彼女は僕を見た。
あの瞳に、あの光が再び宿った。
「それで、思いついたんだ。」彼女は言った。「一つだけ、知りたいことがあるんだよね。」
「なに?」
「君に聞いた、あの質問。」
彼女は、間を置いた。
「もし頑張り続けても、ずっと結果が出なかったら、頑張ることに、まだ意味はあるのかな。」
僕は、彼女の瞳を見つめた。
そこには、たくさんのものが詰まっていた。
悔しさ。
諦めなさ。
そして——
恐怖も、あるのだろうか?
わからない。
でも、確かにわかったのは、あの瞳の光が、かつての僕の瞳にあった光と、同じだということだ。
それは、認めたくない人間だけが持つ光。
「君……」口を開いたけれど、何と言っていいかわからなかった。
「私はね、小さい頃から、いろんなことを頑張ってきたんだ。」彼女は言った。「薬を飲むこと、注射を打つこと、検査を受けること。いつもすごく痛くて、いつももう辞めたいって思った。でも、頑張り続けてきた。」
「だって、頑張れば、きっとよくなるって、信じてたから。」
「でも……」
彼女は言いかけて、止めた。
でも、僕には、彼女が言いたかったことがわかった。
でも、よくならなかったんだ。
「去年の、ある日、ふと思ったんだ。」彼女は言った。「もしこのまま頑張り続けても、最後まで結果が出なかったら、今までやってきたことって、一体なんだったんだろう、って。」
彼女はうつむき、机の上の本を見つめた。
「そしたらね、怖くなったんだ。」
「何が?」
「自分がやっていることの、全部が、意味のないことに思えてきて。」
その声は、とてもか細かった。
か細くて、ほとんど聞こえないほど。
でも、一言一言が、はっきりと、僕の耳に落ちてきた。
「辻本さん。」
彼女は顔を上げた。
夕日が、彼女の瞳の奥で揺れていた。
「君、昨日の自己紹介で、何も言わなかったよね。」彼女は言った。「一番後ろの席に座って、ずっと窓の外を見てた。君が桜を見る目は、私が病院の天井を見る目と、同じだった。」
「どんな目?」
「諦めてる目。」
そう言い終えると、彼女はそれ以上、何も言わなかった。
僕は、彼女の顔を見つめた。
その白く、痩せ細り、夕日の中で透けてしまいそうな顔を。
突然、すべてがわかった。
彼女がなぜ、あの質問を僕にしたのか。
彼女の瞳のあの光が、何なのか。
それは——
僕と同じ、人生に追い詰められた人間だけが持つ光だ。
でも、完全に同じじゃない。
彼女の光は、僕より、明るい。
まだ、完全には消えていない光だ。
「水谷さん。」僕は言った。
「うん?」
「さっき、君が話してくれたこと——」
少し間を置いた。
「わかる。」
彼女は、僕を見つめた。
その瞳の光が、ふと、強く輝いた。
そして、彼女は笑った。
今度は、はっきりとした笑顔だった。
夕日に咲く、一輪の花のように。
「ありがとう。」彼女は言った。
「何に対して?」
「『わかる』って、言ってくれて。」
彼女は本を閉じ、立ち上がった。
「もう帰らなきゃ。」彼女は言った。「看護師さんが怒るから。」
「看護師さん?」
「うん。今、自分の家には住んでなくて、病院に住んでるんだ。」
彼女は、それを自然に言った。
「私は〇〇町に住んでるんだ」と言うのと同じくらい、自然に。
「じゃあ、毎日どうやって学校に?」
「バス。病院から学校まで、だいたい二十分くらい。」
「帰りは?」
「それもバス。」
そう言いながら、彼女は本を本棚に戻した。
そして、振り返り、僕を見る。
「また明日ね、辻本さん。」
そう言って、彼女は入り口へと歩いていった。
入り口に差し掛かったところで、彼女はふと立ち止まった。
「あ、そうだ。」
「うん?」
「私の病気ね、『心房中隔欠損症』っていうんだ。心臓の右と左の心房の間に、穴が空いてるんだって。」
彼女は振り返った。
「覚えておきたかったら、覚えておいて。どうでもよかったら、忘れてもいいよ。」
そして、扉を押し開け、外へ出ていった。
夕日が、扉の隙間から一筋漏れ、やがて扉が閉まるとともに、消えた。
僕は一人、図書館の中に長く座り、動けなかった。
窓の外では、まだ桜が舞い落ちている。
僕の心房の中で、何かが、そっと脈を打っていた。
まるで、何かに呼び覚まされたかのように。
間章 記憶のかけら・その一
忘れてしまったと思っていたことが、ある。
でも、本当は、忘れてなんかいなかった。
それらはただ、記憶の一番深いところに沈んでいただけだ。水底の石のように。普段は見えないけれど、誰かが小さな小石を投げ入れれば、水面に波紋が広がり、その石たちの輪郭が、再び浮かび上がってくる。
水谷陽菜が、僕の心に投げ入れた小石は、「わかる」という言葉だった。
あの夜、僕は一つのことを思い出した。
それは、ずっとずっと昔のことだ。
ずっと昔すぎて、もう忘れてしまったと思っていた。
あの時、僕は六歳だった。
小学一年生になったばかりの頃だ。
入学式の初日、僕は一人の友達ができた。
翔くんと言った。隣の席だった。
たくさん話した。好きな食べ物、好きなテレビ番組、好きなゲーム。
最後に、彼が言った。「明日、一緒に遊ぼうな。」
僕は言った。「うん。」
翌日、僕は彼を探しに行った。
でも、彼はいなかった。
先生が言うには、お休みだそうだ。
その翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、彼は来なかった。
一週間後、先生が言った。彼は転校したのだと。
「お父さんのお仕事の都合で、遠くに引っ越すことになってね。」先生は言った。「みんなにちゃんと挨拶できなくて、ごめんね、だそうです。」
その日の放課後、僕は一人で教室に座り、隣の、からっぽの席を見つめていた。
窓の外では、桜が舞い落ちていた。
今と同じように。
あの時、僕は思った。
もし、昨日、彼を探しに行っていたら、彼はまだいただろうか?
もし、彼が転校する前に、彼と遊ぶのが好きだって伝えていたら、彼は僕のことを覚えていてくれただろうか?
もし……
でも、「もし」は、ない。
彼は行ってしまった。
彼の連絡先は、知らない。
どこに行ったのかも、知らない。
あれから、僕は一度も彼に会っていない。
あれから、僕は入学式の初日にもう二度と、友達を作らなかった。
だって——
どうせ、いつかは別れるんだ。だったら、なぜ始める?
どうせ、手に入らないと決まっているなら、なぜ頑張る?
あの時、僕はまだ六歳だった。
でも、その思いは、小さな種のように、僕の心に植えつけられた。
やがて、芽を出した。
そして、大きな木に育った。
今、その木には、花が咲き誇っている。
どの花にも、三つの文字が書かれている。
「意味なし。」
あの夜、僕はベッドに横たわり、天井を見つめていた。
ふと、水谷陽菜が図書館で言った言葉を思い出した。
「自分がやっていることの、全部が、意味のないことに思えてきて。」
そうか、彼女もこれを怖がっているんだ。
「意味がない」ことを怖がっているのは、僕だけじゃないんだ。
窓の外を風が通り過ぎる。
桜の木が、ざわめく。
彼女が最後に言った病名を思い出す。
心房中隔欠損症。
心臓の左右の心房の間に、穴が空いている。
つまり、彼女の心臓には、穴があるのだ。
その穴を通って、血が流れる。
流れるべきところに流れず、流れるべきでないところに流れる。
そして——
どうなるのだろう?
わからない。
でも、わかったのは、その穴が、彼女の命に期限を与えているということだ。
もしかすると、二年。もしかすると、一年。もしかすると、明日。
そんな期限の中で、彼女は毎日、二十分バスに乗って、学校に通っている。
「意味がないかもしれない」ことをして。
「答えがないかもしれない」ことを考えながら。
ふと、知りたくなった——
彼女は、怖いとき、どうやって頑張り続けているのだろう?
彼女は、諦めたいとき、どうやって自分を説得しているのだろう?
彼女は、病院の天井を見るとき、どうやって——
どうやって、目を開け続けているのだろう?
これらの問いに、僕は答えを持たない。
でも、知りたい。
すごく、知りたい。
第一章 続き
6
翌日、僕はいつもよりずっと早く学校に行った。
わざとじゃない。
ただ、眠れなかったのだ。
教室に着くと、中にはまだ誰もいなかった。
自分の席に座り、窓の外を見た。
桜はまだ散っている。
一枚の花びらが、木から地面に落ちるまで、どれくらいの時間がかかるのか、数えてみたくなった。
七枚目を数え終えたとき、教室のドアが開いた。
入ってきたのは、水谷陽菜だった。
彼女は僕を見て、一瞬、ぽかんとした。
「おはよう。」彼女が言った。
「おはよう。」
彼女は自分の席に座った。その席は、僕からそう遠くなく、一つ机を挟んだところだった。
僕は、彼女がランドセルから一冊の本を取り出し、開くのを見ていた。
やはり、昨日の本だった。
表紙の擦り切れた、古い本。
「何の本、読んでるの?」僕は尋ねた。
彼女は顔を上げ、僕から話しかけられることが意外だったように見えた。
「これ?」彼女は本を掲げた。「『銀河鉄道の夜』。」
「聞いたことないな。」
「うん、あんまり有名じゃない本なんだ。」彼女は言った。「でも、私、大好きなんだ。」
「どんな話?」
彼女は少し考えた。
「ある男の子がね、銀河を走る列車に乗って旅をする話。乗ってる人たちは、みんな、もう死んでる人たちなんだ。」
「……死んでる人?」
「うん。みんな、天国へ向かう途中なんだって。」
彼女はそれを、とても穏やかに言った。
死についての話とは、思えないほどに。
「そういう話、好きなの?」僕は尋ねた。
「好き、っていうよりはね。」彼女は言った。「なんか、知ってる感じがするんだ。」
「知ってる?」
「うん。だって、あの列車に乗ってる人たちはさ、自分がもう死んでるってことに、気づいてないんだよ。ただの旅だと思ってて、まだ帰れると思ってる。でも、本当は、もう帰れないんだ。」
彼女は、少し間を置いた。
「私、あの人たちと、ちょっと似てるなって思うんだ。」
「どこが?」
「私も、旅をしてるから。」彼女は言った。「どこが終点か、わからない旅を。」
彼女は僕を見ずに、ただ、手にした本を見つめていた。
窓から陽の光が差し込み、彼女の横顔を照らしている。
僕は、また気づいた。彼女の睫毛は、本当に長い。
長すぎて、ほんの少しの影を落としている。
その影が、彼女の瞳を覆い隠していた。
僕には、彼女の瞳の中に何があるのか、見えなかった。
でも、わかっていた。必ず、光がある。
決して消えようとしない、あの光が。
「水谷さん。」僕は言った。
「うん?」
「昨日の、あの質問のことなんだけど——」
彼女は顔を上げた。
「答え、知りたい?」
彼女は僕を見つめた。
その瞳の中で、何かが瞬いた。
「教えてくれるの?」
「答えなんて、わからないよ。」僕は言った。「でも、僕がどう思ってるかなら、言える。」
彼女は、うなずいた。
僕は、深く息を吸い込んだ。
「俺はさ、頑張ることそのものが、もしかしたら意味なんじゃないかって思うんだ。」
彼女は黙っていた。
「俺も昔、このこと考えたことあったんだ。」僕は続けた。「たくさんやったけど、どれも結果が出なかった。リレーでビリになって、テストで点が取れなくて、友達になりたいと思った奴は転校してしまって。あの時、俺も思ったよ。何にも得られないなら、頑張ることに何の意味があるんだろうって。」
「でも——」
少し間を置いた。
「もし頑張ることに意味がないなら、諦めることに意味はあるのか? 諦めることにだって、意味なんかない。何の意味もない。だから、何もしないくらいなら、何かやった方がいい。たとえ最後まで何も得られなくても、少なくとも——」
僕は、言葉を止めた。
彼女は、僕が続けるのを待っていた。
「少なくとも、やってる間は、生きてるってことだから。」
言い終えた。
教室の中が、長い間、静まり返った。
そして、彼女は笑った。
それは、僕が今まで見た中で、一番、輝く笑顔だった。
昨日の夕日よりも、ずっと輝いて。
「ありがとう、辻本さん。」彼女は言った。
「何に対して?」
「こんなこと、話してくれて。」
彼女は本を閉じ、ランドセルにしまった。
そして、立ち上がり、窓辺へ歩いていった。
「ねえ、辻本さん。」
「うん?」
「さっきの話、すごく考えてた。」
「何を?」
彼女は答えず、ただ窓の外の桜を見つめていた。
「辻本さん。」
「うん?」
「放課後、また図書館に一緒に行ってくれない?」
「どうして?」
彼女は振り返り、僕を見た。
「だって、もっと話したいことがあるから。」
「どんなこと?」
「私のこと。」彼女は言った。「本当の、私のこと。」
7
放課後、また図書館に行った。
あの机、あの二つの席に、また座った。
夕日は、相変わらず窓から差し込んでいた。
彼女はあの『銀河鉄道の夜』を机の上に置いた。
「辻本さん。」
「うん?」
「私がね、どうしてこの本が読みたかったのか、知りたい?」
「知らない。」
「だって、この本の中に、私とすごく似た人がいるから。」
「誰?」
「主人公。」彼女は言った。「ジョバンニ。」
僕は黙っていた。
彼女は続ける。
「ジョバンニはすごく貧乏で、お父さんは漁に出たまま帰って来なくて、お母さんは病気で寝てるんだ。彼はお母さんの世話をしながら、働いてお金を稼がなきゃいけない。クラスのみんなは彼を馬鹿にしてる。ただ一人の親友、カンパネルラだけは、一緒に遊んでくれるんだ。」
「それである夜、彼は寝ちゃう。目が覚めると、自分が列車に乗ってる。その列車は銀河の中を走ってる。カンパネルラも一緒に乗ってるんだ。」
「二人は一緒に旅をして、たくさんの美しい景色を見る。銀河の岸には、鳥を捕る人がいる。銀河の砂浜では、化石を掘っている学者がいる。銀河の終点には、南十字星の駅がある。」
「でも、旅の終わりは、天国なんだ。」
「だって、その列車に乗っている人たちは、みんな、もう死んでいる人たちだから。カンパネルラも、そうなんだ。」
彼女は、そこで話を止めた。
夕日が、彼女の瞳の中で揺れている。
「辻本さん。」
「うん?」
「カンパネルラが、どうして死んだのか、知ってる?」
「知らない。」
「人を助けるために、川に落ちたんだ。」
彼女は、少し間を置いた。
「実はね、それは本当は、ジョバンニがやるべきだったことなんだ。でも、ジョバンニは寝ちゃってて、行けなかった。カンパネルラが、代わりに行ったんだ。」
「だから、ジョバンニはずっと、カンパネルラは自分の代わりに死んだんだって、思ってるんだ。」
僕は彼女の顔を見た。
その白い顔に浮かぶ表情は、何と言えばいいのかわからなかった。
「ジョバンニは、自分を責めるべきだと思う?」彼女は尋ねた。
「責めるべきだろうね。」僕は言った。
「私もそう思ってた。」彼女は言った。「でもね、後で、わかったんだ。」
「何が?」
「カンパネルラがジョバンニの代わりに死んだのは、ジョバンニが寝てて行けなかったからじゃない。カンパネルラが、ジョバンニのことが好きだったからなんだ。」
「好き?」
「うん。だから、代わりにこのことをやってあげたかったんだ。ジョバンニに生きていてほしかったから。」
彼女は僕を見た。
その瞳の中で、何かが動いた。
「辻本さん、知ってる? 私にもね、一つだけ、どうしてもやりたいことがあるんだ。」
「なに?」
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、僕を見つめていた。
夕日が、どんどん赤くなっていく。
図書館全体が、オレンジ色に染まっていく。
「私はね。」彼女は言った。「私がまだ生きている間に、たった一人でいいから、出会えるかどうか、知りたいんだ。」
「誰に?」
「私の頑張りは、意味があるんだよって、教えてくれる人に。」
彼女が言い終えると、それ以上は何も言わなかった。
僕は、彼女の瞳を見つめた。
その中には、夕日があった。
桜があった。
そして——
僕がいた。
「水谷さん。」僕は言った。
「うん?」
「出会ったよ。」
彼女は一瞬、呆けた。
「え?」
「その人に、出会ったんだ。」僕は言った。「その人、僕だよ。」
彼女は黙っていた。
ただ、僕を見つめていた。
瞳の中の光が、どんどん強くなっていく。
そして——
彼女は、泣いた。
大声で泣き叫ぶわけじゃない。
ただ、涙が、目尻からこぼれ落ちた。
一滴、二滴。
机の上に落ちて、二つの濃い丸い染みを作った。
「ありがとう。」彼女は言った。「ありがとう。」
その瞬間、僕は突然、理解した。
人を救うって、何も大げさなことをする必要はないんだって。
ただ、伝えればいいんだ——
君の頑張りは、意味があるんだよ、って。
8
あれから、僕と水谷陽菜は友達になった。
いや、正確に言えば——
一緒に話ができる人になった。
一緒に昼ご飯を食べた。
放課後は一緒に図書館に行った。
一緒に『銀河鉄道の夜』を読んだ。
彼女は、自分のことをもっと話してくれた。
小さい頃からずっと、病院に住んでいること。
お母さんが週に一度、面会に来てくれること。
お父さんは、彼女が本当に小さい頃に亡くなって、何の記憶もないこと。
一番好きな食べ物はいちごプリンだけど、甘いものをたくさん食べるなって、お医者さんに言われていること。
一番嫌いなことは注射だけど、毎日打たなくちゃいけないこと。
彼女はそんな話を、いつもとても穏やかに話した。
自分のこととは思えないほど、穏やかに。
でも、わかっていた。あの穏やかさの下には、たくさんのものが隠されているって。
ある時、僕は尋ねた。
「怖い?」
彼女は少し考えた。
「怖い。」
「何が?」
「死ぬのが。」彼女は言った。「そして、生きるのも怖い。」
「生きるのも?」
「うん。生きてると、選ばなきゃいけないことがいっぱいあるから。毎日、何を食べるか、何をするか、何を考えるか。一つ一つのことが、選択なんだ。」
「選択の何が怖いの?」
「だって、選択するってことはさ、Aを選んだら、Bは選べないってことだから。これをするってことは、あれはしないってことだから。」
彼女は、少し間を置いた。
「それに、自分が選んだことが、正しかったのかどうか、永遠にわからないんだ。」
僕は、彼女の瞳を見つめた。
そこには、ほんの少しの恐怖があった。
そして、ほんの少しの——
頑固さが。
「だからね、誰かに教えてほしいんだ。」彼女は言った。「私の選んだことは、正しいんだよって。」
「その人、見つかった?」
彼女は僕を見た。
そして、笑った。
「見つかった。」
あの夜、僕はベッドに横たわり、彼女の言った言葉を考えていた。
選択。
恐怖。
意味。
僕は、自分の昔の選択を思い出した。
早起きして校庭を走る選択。
マフラーを買うためにお金を貯める選択。
入学式の初日に友達を作る選択。
どの選択にも、結果は出なかった。
どの選択も、僕を後悔させた。
でも——
もし、あの選択をしていなかったら?
もし、初めから諦めて、何もしなかったら?
僕は、どうなっていただろう?
わからない。
でも、わかったのは、「結果が出なかった」あの選択たちが、今の僕を作ったということだ。
そして、今の僕が、彼女に出会った。
これは、一つの結果と言えるだろうか?
わからない。
でも、僕は思う。これこそが、もしかしたら意味なんじゃないかって。
9
四月の最後の日、放課後。
いつものように、図書館に座っていた。
窓の外では、まだ桜が散っている。
彼女が突然、言った。
「辻本さん。」
「うん?」
「来月さ、手術するんだ。」
僕は一瞬、呆けた。
「手術?」
「うん。あの、成功率百パーセントじゃないやつ。」
彼女はそれを、とても穏やかに言った。
自分の生死のこととは思えないほど、穏やかに。
「いつ?」
「五月二十日。」
「あと二十日あるんだ。」
「うん。」
僕は彼女の横顔を見た。
夕日が、彼女の顔に金色の線を描いている。
「怖い?」僕は尋ねた。
彼女はすぐには答えなかった。
しばらくして、言った。
「怖い。」
「でも、ちょっとだけ、楽しみでもある。」
「何が楽しみなの?」
「手術が終わった後のこと。」彼女は言った。「もし成功したら、普通の人と同じように生きられる。いろんな場所に行けるし、いろんなことができる。それに——」
彼女は、少し間を置いた。
「君と、いろんな場所に行ける。」
彼女はそう言うとき、僕を見なかった。
ただ、窓の外を見ていた。
でも、わかった。彼女の顔が、赤くなった。
とてもかすかな赤。
かすかすぎて、ほとんどわからない。
でも、確かにあった。
「もし——」僕は口を開きかけて、止まった。
「もし、失敗したら?」
彼女が、代わりに言った。
僕は、うなずいた。
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「もし失敗しても、それでもいい。」
「どうして?」
「だって、その前に、君に出会えたから。」
彼女は顔を向け、僕を見た。
その瞳には、夕日があった。
桜があった。
そして、僕がいた。
「君が教えてくれたんだ。私の頑張りは、意味があるんだよって。」彼女は言った。「だから、結果がどうなっても、後悔しない。」
僕は、彼女の瞳を見つめた。
そこには、あの光がまだあった。
でも、前とは、違っていた。
前の光は、消えかけの、もがきだった。
今の光は——
炎だ。
燃え盛る炎だ。
「水谷さん。」僕は言った。
「うん?」
「君の手術——」
「うん?」
「絶対、成功する。」
彼女は、一瞬呆けた。
そして、笑った。
それは、僕が今まで見た中で、一番美しい笑顔だった。
桜よりも、美しい。
「ありがとう。」彼女は言った。「そう言ってくれて、ありがとう。」
10
五月二十日。
手術の日。
その日、僕は学校に行かなかった。
休みを取って、バスに乗って、彼女のいる病院へ行った。
それは、街の反対側にある大きな病院だった。白い建物、青い窓、どの窓にもカーテンが引かれている。
僕は、病室の外で待った。
一時間待った。
二時間待った。
三時間待った。
廊下の時計が、チクタク、チクタクと進む。
看護師たちが行き交う。
家族たちが出入りする。
ただ一人、僕だけが、あの長椅子に座り、微動だにしなかった。
午後三時十七分。
手術室の扉が開いた。
白い服を着た医者が、出てきた。
僕は立ち上がった。
医者はマスクを外し、僕を見た。
「君は……」
「彼女のクラスメートです。」
医者は、うなずいた。
そして、彼は言った。
「手術は、大成功でした。」
その瞬間、僕は突然——
体中の力が、抜けていくのを感じた。
壁に寄りかかり、ゆっくりと、ずり落ちていった。
廊下の床に座り込んだ。
涙が、流れ落ちた。
なぜだかわからない。
ただ、流れ落ちた。
窓の外を風が吹いている。
桜は、もうすっかり散ってしまっただろう。
でも、大丈夫。
新しい葉っぱが、生えてくる。
夏が、来るんだ。
僕は、病院の廊下の床に座り込み、長いこと、泣いた。
とても長いこと。
それから、立ち上がった。
涙を拭いた。
病院を出た。
外の空は、とても青かった。
まるで、新しく始まる何かのように、青かった。
——第一章 終——




