太陽の眩しさを直視できない僕らの、夏と、図書室と、地味な抵抗。
数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます。
夏は、残酷なほどに格差を浮き彫りにする季節だと思っています。
眩しい太陽の下で輝く「主人公」たちと、その光に居場所をなくして影に潜む「僕ら」。
これは、そんな世界の隅っこで、古びた文庫本を盾に日常をやり過ごしていた少年が、一瞬だけ「夏の魔法」に触れてしまう、それだけの物語です。
世界には二種類の人間がいる。
スポットライトの下で呼吸をする「主人公」と、
その光に目が眩んで影に逃げ込む「観客」だ。
夏目陽葵。
彼女は間違いなく前者だ。
グラウンドの喧騒の真ん中にいても、
廊下の隅ですれ違う瞬間でも、
彼女だけは常に高解像度で描写されている。
まるで彼女の周囲だけ、
神様が丁寧にエフェクトをかけたみたいに。
彼女が笑えば、
真夏のじっとりとした湿度は数パーセント下がり、
彼女が髪をかき上げれば、
風のない放課後の教室に
涼やかな風が吹く。
それはもはや物理現象に近い、
完成された「ヒロイン」としての輝きだった。
対する僕は、
名前すら怪しい「クラスメイトA」でしかない。
出席番号はちょうど真ん中あたり。
成績も運動神経も、
特筆すべき点はない。
彼女を遠くから見つめる僕の視線は、
きっと空気に溶けて
誰にも届かない。
彼女を好きだなんて、
口にするのも烏滸がましい。
だって、僕の隣には
彼女を笑わせるための気の利いた言葉も、
どこかへ連れ出すための特別な手段も、
何一つないのだから。
僕にあるのは、
古びた文庫本のページをめくる指先と、
自分自身を透明人間に仕立て上げるための、
卑屈なまでの自意識だけだ。
「……ま、そもそも住む世界が違うんだよな」
自嘲気味に呟いて、
僕は誰もいない図書室の窓際に座る。
ここは僕の聖域だ。
昼休みの喧騒、
運動部の掛け声、
青春という名の熱病から
唯一隔離された、
静寂の貯蔵庫。
窓の外では、
陽光に焼かれたアスファルトが
陽炎を上げている。
あの熱狂の中に、
彼女はいる。
彼女の隣に並ぶべきなのは、
きっと自分を疑うことのない、
真っ直ぐな瞳をした奴だ。
日焼けした肌を誇るように笑い、
彼女の歩幅に合わせて歩ける、
そんな選ばれた人間。
流行の音楽を教え合い、
週末には華やかな街へ繰り出す。
そんな「正しい夏」を
謳歌できる人間。
僕のような、
部屋の隅で
誰かが書いた物語を
読み耽っているだけの存在が、
彼女の記憶の一片にすら
残れるはずがない。
奇跡なんて、
所詮は創作の中だけの概念だ。
偶然、空から美少女が降ってきて
世界が一変するなんてことも、
僕の地味な日常を
彼女が突然かき回しにくるなんてことも、
天地がひっくり返っても
あり得ない。
僕は、
開いた本の文字をなぞる。
一文字ずつ、
自分を納得させるように。
選んだのは
『幸福な王子』だった。
自己犠牲の末にボロボロになった像と、
寒さで凍え死ぬツバメ。
そんな救いようのない、
けれど美しい物語だけが、
今の僕には相応しかった。
……そう思っていた。
「ねえ、ここ、空いてる?」
不意に、
静寂を切り裂くような声がした。
驚いて顔を上げると、
そこには
窓からの逆光を背負った彼女が立っていた。
制服のブラウスは少しだけ乱れ、
額には薄っすらと汗が滲んでいる。
校舎の影、
埃の舞う図書室。
僕が「安全地帯」だと
思い込んでいた場所に、
物語の主人公が侵入してきたのだ。
「あ、えっと……空いてる、けど」
動揺が声に出てしまった。
彼女は「ありがとう」と短く言うと、
僕の対面に座った。
図書室の古い木製のテーブルが、
微かにギィと鳴る。
彼女は持っていたペットボトルの水を一口飲み、
それから火照った頬に
それを当てた。
冷たい結露が彼女の指を濡らし、
光を反射して
キラキラと輝く。
「良かった。外、暑すぎて。
ここが一番、静かで涼しいって、
教務室の先生に聞いたんだ」
彼女はそう言って、
悪戯っぽく微笑んだ。
僕は生唾を飲み込む。
心臓は、
情けないほどに
リズムを乱していた。
何か話さなきゃいけない、
という強迫観念が
脳を支配する。
けれど、
僕の中から出てくる言葉はどれも
ひどく退屈で、
彼女の鮮やかな日常を
汚してしまいそうで
怖い。
結局、僕は
開いていた本に
視線を戻すことしかできなかった。
一分、二分。
静寂が重くのしかかる。
ページをめくる音だけが、
不自然に大きく響く。
彼女は特に退屈そうにするでもなく、
窓の外の景色を
ぼんやりと眺めていた。
その横顔は、
教室で見せる
天真爛漫な笑顔とは違い、
どこか遠くを見ているような、
ひどく大人びた表情だった。
「……それ、何読んでるの?」
沈黙を破ったのは、
彼女だった。
彼女が身を乗り出して
覗き込んでくる。
シャンプーの匂いか、
あるいは夏そのものの匂いか。
彼女の存在感が、
僕のパーソナルスペースを
強引に塗りつぶしていく。
「……ただの、古い短編集だよ。
君には、きっと退屈だと思う」
防衛本能だった。
自分と彼女の間に、
見えない線を引きたかった。
「君のいる世界にはない、
暗くて地味なものだよ」と、
自分から拒絶することで、
傷つくのを
避けたかった。
「そうかな?
私、そういう
『誰にも知られていないもの』、
結構好きだよ」
彼女の返答は、
僕の予想を
軽々と飛び越えていった。
彼女は僕の手元にある本を指差し、
言葉を続ける。
「みんなの前だとさ、
みんなが知ってる話を
しなきゃいけないでしょ?
でも、本当はもっと、
誰も知らない静かな場所とか、
誰も読んでないようなお話に、
すごく興味があるんだ。
ねえ、それ、どんなお話?」
僕は戸惑いながらも、
少しずつ口を開いた。
普段は誰とも共有することのない、
僕だけの領域。
「……この話、
最後は王子様もツバメも
死んじゃうんだよ。
全然ハッピーエンドじゃない。
努力は報われないし、
善意はゴミ捨て場に捨てられる。
そんな、救いのない話なんだ。
現実と同じだよ」
彼女は少しだけ
考え込むような仕草を見せ、
それから
僕の目を
真っ直ぐに見つめた。
「でも、
そのゴミ捨て場で
二人は一緒になれたんでしょ?
だったら、それって
ある意味、
最強のハッピーエンドじゃないかな。
誰にも邪魔されない、
二人だけの場所に
行けたんだから」
最強のハッピーエンド。
その言葉が、
僕の胸の奥に
突き刺さった。
僕が今まで、
自分の卑屈さを
正当化するために使ってきた
「現実」という言葉を、
彼女は軽やかに、
それでいて力強く、
塗り替えてしまった。
窓の外では、
蝉の声が
一段と激しさを増している。
外の世界は
相変わらず残酷で、
格差に満ちていて、
夏の魔物が
奇跡を運んでくる気配なんて
微塵もない。
けれど、
この埃っぽい図書室の片隅で、
僕たちの影が
テーブルの上で
重なっている。
「……君は、
変なやつだね」
「――あはは、
佐藤くんに言われたくないな。
いつも難しそうな顔して
本読んでるんだもん。
前から
気になってたんだよ」
彼女が
僕の名前を呼んだ。
名簿の真ん中に
埋もれていた僕の名前が、
彼女の唇を通ることで、
初めて
意味を持ったような気がした。
僕は、
震える指先で
本の続きをめくる。
物語の内容なんて、
もう
頭に入ってこない。
ただ、
ページをめくる
この僅かな風が、
彼女の髪を
少しだけ
揺らす。
それだけで、
僕の心臓は
破裂しそうなほど
熱くなる。
「ねえ、
明日も
ここに来る?」
彼女が立ち上がり、
出口に向かって
歩き出す。
扉のところで
振り返った彼女は、
逆光の中に
溶け込んでしまいそうなほど、
美しかった。
その光を、
僕は初めて
「嫌いじゃない」と思った。
「……わかんない。
気が向いたら」
またしても、
僕は
素直になれなかった。
けれど、
彼女は
僕のそんな嘘を
見透かしたように、
「そっか。
じゃあ、
また明日ね」
そう言って、
図書室を後にした。
残されたのは、
静寂と、
彼女が座っていた場所の
微かなぬくもり。
そして、
僕の手に残った
『幸福な王子』。
夏の魔法なんて
信じない。
偶然の奇跡なんて、
物語の中だけの話だ。
けれど、
もし
明日も彼女が
ここに来るというのなら。
僕は、
僕自身の言葉で、
この退屈な物語に
新しい続きを
書き足すことが
できるだろうか。
僕は
本を閉じた。
窓の外の太陽は、
まだ
僕を焼き尽くさんばかりに
輝いている。
でも、不思議と
さっきより、
その光を
恐ろしいとは
思わなくなっていた。
この夏が、
これ以上
熱くならないことを
願いながら。
僕は、
溶けかけた自意識を抱えて、
ゆっくりと
立ち上がった。
明日の予習をするために、
僕はカバンから
新しい栞を
取り出した。
それは、
今日までの僕なら
決して選ばなかったような、
少しだけ
明るい色の栞だった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
誰にでも、自分を「物語の脇役」だと思い込んでしまう瞬間があるのではないでしょうか。
自身私自身、教室の隅で本を読んでいる側の人間だったので、主人公・佐藤の卑屈なまでの自意識には、書きながら少し胃が痛くなるような思いでした(笑)。
完全なハッピーエンドでも、劇的な大恋愛でもありませんが、読後の皆さんの心に、ほんの少しだけ「新しい色の栞」が挟まるような、そんな余韻が残っていれば嬉しいです。
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