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打ち切り悪役令嬢モノに「処刑される侍女A」として転生した元編集者、原稿への赤入れで運命改変したら氷の公爵に「お前からは答えの匂いがする」と執着されました〜私が関わった本は絶対に完結させます〜

作者: アウラ
掲載日:2026/01/22

——死んだ。


私、死んだわ。


その確信だけが、真っ白な意識の中に浮かんでいた。


終電間際の編集部。校了直前の修正依頼。三徹目の限界。デスクに突っ伏した瞬間、心臓がぎゅっと握り潰されるような痛みが走って——。


(あー、これが過労死ってやつか)


妙に冷静な自分がいた。


二十八年間、他人の物語を世に送り出すことだけに人生を捧げてきた。恋愛もせず、趣味も持たず、「葉月さんがいないと本が出ない」と言われることだけが誇りだった。


馬鹿みたい。


自分の物語なんて、一行も書けないまま終わるなんて。




          ◇




「——起きなさい、この役立たず!」


冷水が顔面を直撃した。


「っ——!?」


跳ね起きた瞬間、全身に違和感が走る。


軽い。体が、異様に軽い。そして寒い。薄い布一枚しか纏っていない。石畳の冷たさが素足に染みる。


(……え、待って)


目の前に立っているのは、豪奢なドレスを纏った女性。深紅の巻き毛に翡翠の瞳。人形のように整った顔には、明らかな嫌悪が浮かんでいる。


「口答えもできないの? 本当に使えない侍女ね」


侍女。


その単語が、記憶の底から何かを引きずり出す。


深紅の髪。翡翠の瞳。悪役令嬢。侍女への虐待——。


(嘘でしょ)


見覚えがある。というか、散々赤を入れた。


『氷の公爵と薔薇の棘』。


担当していた作品だ。作家が失踪して打ち切りになった、未完のまま終わった悪役令嬢モノ。


そしてこの場面は——。


「ローズマリー様のティーカップを割った罪、忘れたとは言わせませんよ」


傍らに立つ黒髪の侍女——ヴェロニカが、氷のような声で告げる。


「明日の夜明けに、処刑です」


……処刑。


そう。


物語開始三ページ目で処刑される、「名もなき侍女A」。


私が転生したのは、よりにもよってその端役だった。


(いやいやいやいや待って待って待って)


心臓が早鐘を打つ。頭がぐるぐる回る。


処刑? 明日? 三ページ目で退場するモブに転生?


「何をぼうっとしているの」


ローズマリーが扇子で私の頬を打つ。


「最後の夜くらい、まともに働きなさい。……ああ、でも明日にはいなくなるんだから、どうでもいいわね」


くすくすと笑いながら、二人は去っていく。


石畳に膝をついたまま、私は震える手で自分の体を確認した。


細い手首。骨が浮き出るほど痩せた腕。亜麻色の髪が視界の端で揺れている。


(本当に、転生してる……)


しかも最悪のタイミングで。


ふと、懐に硬い感触があることに気づいた。


震える手で取り出したのは——。


「……原稿?」


見覚えのある紙束。赤ペンの書き込みがびっしり入った、校正刷り。


『氷の公爵と薔薇の棘』第一稿。私が最後に赤を入れていた、あの原稿だ。


「なんでこれが……」


ページをめくる手が止まった。


三ページ目。


『名もなき侍女Aは、夜明けと共に処刑された。彼女の死は誰にも悼まれることなく、物語は本筋へと進んでいく——』


明日の私の末路が、活字になって記されている。


(冗談じゃない)


死んだばかりなのに、また死ぬの?


しかもモブとして? 誰にも悼まれずに?


——ふざけるな。


編集者の意地が、腹の底から湧き上がってきた。


私は何冊もの本を世に送り出してきた。作家の失踪も、印刷事故も、炎上案件も乗り越えてきた。


「私が関わった本は——」


赤ペンを握りしめる。原稿と一緒に転生していた、使い慣れた相棒。


「——絶対に、完結させる」


たとえそれが、自分の命を繋ぐためだとしても。


震える手で、原稿の余白に書き込んだ。


『侍女Aは、実は没落貴族の令嬢だった。かつてヴァイス子爵家の一人娘として生まれたが、家の没落により使用人に身をやつしている。その身分が明らかになったことで、処刑は一時保留となり——』


書き終えた瞬間。


世界が、歪んだ。




          ◇




「——リーゼロッテ・ヴァイス」


聞き覚えのない名前に、顔を上げた。


目の前には、先ほどとは打って変わって困惑した表情のローズマリーと、数人の騎士。


「貴女がヴァイス子爵家の令嬢だという記録が見つかりました。没落貴族とはいえ、爵位持ちの処刑には正式な裁判が必要です」


騎士の一人が、硬い声で告げる。


「処刑は延期。裁判までの間、貴女は公爵邸にて軟禁となります」


(効いた……!)


内心でガッツポーズを決める。


原稿への書き込みが、本当に物語を変えた。ト書きや設定を追加することで、展開に影響を与えられる。


「お待ちになって」


ローズマリーの声が、ヒステリックに跳ね上がる。


「この女はただの侍女よ! 没落貴族だなんて、でたらめに決まっているわ!」


「しかし、記録が——」


「知らないわ、そんなもの!」


ぎり、と扇子を握りしめるローズマリー。


その翡翠の瞳に、一瞬だけ——。


(……?)


何かが揺らいだのが見えた気がした。


怒りとも恐怖とも違う、もっと深い——空虚さのような。


(このキャラ、原作だと「公爵に執着する理由」が描かれないまま打ち切られたんだよね)


編集者の目が、無意識に分析を始める。


動機の欠落。設定の空白。まるで——。


「話は終わりだ」


低い声が、場を凍らせた。


振り返った先に立っていたのは。


白銀の髪。深い紺碧の瞳。黒い軍服に身を包んだ、彫刻のような美貌の男。


——氷の公爵、クラウディス・ヴァン・ノルデンシュタイン。


原作のヒーローにして、物語終盤で破滅するはずの男。


「裁判までこの女の身柄は俺が預かる。異論は?」


その声には、反論を許さない冷たさがあった。


「ク、クラウディス様……」


ローズマリーが縋るような視線を向けるが、公爵は一瞥すらしない。


代わりに、その凍てついた瞳が——。


私を、捉えた。


「……」


「……」


見つめ合う、数秒。


その目に浮かんでいたのは、冷酷でも無関心でもなく。


「お前」


低い声が、囁くように言った。


「この世界のものではない、匂いがする」


心臓が、跳ねた。


(——バレてる?)


冷や汗が背中を伝う。


この男、原作でも「冷酷非道」以外の描写がほとんどなかった。内面が描かれないまま打ち切られた、ある意味で最大の被害者。


でも、今の台詞は——。


「公爵様、何を仰って……」


「連れて行け」


私の言葉を遮り、クラウディスは踵を返す。


騎士に腕を取られながら、私は必死に思考を巡らせた。


(まずい。このキャラ、私が「異物」だって気づいてる)


でも同時に、別の疑問も浮かぶ。


なぜ気づける?


原作キャラクターが、物語の外部からの干渉を認識できるなんて——。


「ああ、それと」


公爵が、振り返らずに言った。


「逃げようとするな。お前からは——」


一瞬の沈黙。


「——答えの匂いがする」


その言葉の意味を理解する前に、私は公爵邸の奥へと連行されていった。




          ◇




与えられた部屋は、軟禁にしては豪華すぎた。


天蓋付きのベッド。暖炉。窓からは広大な庭園が見える。処刑予定だった侍女の扱いとは思えない。


「リーゼ様! 大丈夫でしたか!?」


扉が開いて飛び込んできたのは、栗色の髪をお下げにまとめた少女。


「フィオナ……」


名前は、なぜか知っていた。原稿に書き足した「侍女仲間」の設定が、記憶にも反映されているらしい。


「もう、心配したんですよ! 処刑だなんて、絶対に間違いだって思ってました!」


「……ありがとう」


素直にそう言えたのは、この子の瞳があまりにも真っ直ぐだったから。


(この子、原作には登場しないキャラだ)


私が原稿に書き足したから存在している——のかもしれない。


つまり、私の味方として設定された存在。


「あの、リーゼ様」


フィオナが、不思議そうに首を傾げる。


「さっきから、どこか遠くを見ているような……何かあったんですか?」


「……いろいろ、ね」


ベッドに腰を下ろし、原稿を膝の上に広げる。


三ページ目の処刑は回避した。でも、これはまだ序章に過ぎない。


(この物語を『完結』させないと、私は元の世界に戻れない——たぶん)


編集者の勘がそう告げている。


未完の物語に閉じ込められた私が脱出する方法は、この本を最後まで書き上げること。


でも。


原稿をめくる。赤ペンの書き込みだらけのページ。


『物語の結末では、悪役令嬢ローズマリーは断罪され、氷の公爵クラウディスは——』


そこで、文章は途切れている。


打ち切りで、結末が存在しない。


(作家が失踪したから、ラストが書かれていない)


つまり私は、自分でこの物語の結末を書かなければならない。


そしてそれは——。


「リーゼ様?」


「……なんでもない」


原稿を閉じて、窓の外を見る。


夕暮れの庭園に、黒い軍服の影が見えた。


氷の公爵が、こちらを見上げている。


あの凍てついた瞳が、何かを求めるように。


(『答えの匂いがする』、か)


この男は、何を知っている?


そして何を——恐れている?


「お前からは、この世界にないものの匂いがする」


さっきの言葉が、頭の中でリフレインする。


(もしかして、この人も——)


物語が『未完』であることに、気づいているんじゃないか。


自分の結末が、存在しないことに。


夕陽が沈んでいく。


私と公爵の視線が、窓越しに交錯した。


——これは、打ち切り作品に転生した編集者が、物語を完結させるために奔走する話。


そして、結末のない男と、物語の外から来た女の。


ありえないはずの、恋の話。


(待って、私この本の結末知らないんだけど!?)


心の中で絶叫しながら、私は原稿を握りしめた。


編集者人生最大の修羅場が、今——始まる。




          ◇          ◇          ◇




軟禁生活三日目。


私は公爵邸の書庫で、山積みの資料と格闘していた。


「ヴァイス子爵家の記録、系譜、没落の経緯……よし、設定に矛盾はない」


原稿に書き足した「没落貴族の令嬢」設定が、ちゃんとこの世界に定着していることを確認する。


(自分で書いた設定の裏取りを自分でするとか、なんの罰ゲーム?)


編集者あるあるすぎて泣ける。


「リーゼ様、お茶をお持ちしました!」


フィオナが盆を持って入ってくる。その後ろには——。


「……」


氷の公爵、クラウディス。


無言で書庫に入り、私の対面に座る。


「あの、公爵様?」


「続けろ」


「は?」


「調べ物だろう。俺に構うな」


言って、クラウディスは手元の書類に目を落とす。


(いや構うわ! 気になるわ!)


内心で絶叫しながらも、表面上は冷静を装う。


この三日間、公爵は妙に私の近くにいる。食事の席に同席したり、廊下ですれ違ったり。監視というには距離が近すぎるし、かといって会話をするわけでもない。


「あの」


「なんだ」


「私を監視してるんですか?」


「監視?」


クラウディスが顔を上げる。紺碧の瞳が、わずかに揺れた。


「……観察、だ」


「どう違うんですか」


「監視は警戒。観察は——」


言いかけて、口を閉ざす。


「……興味」


ぼそりと呟かれた言葉に、私は固まった。


(この人、感情表現が壊滅的に下手すぎない?)


原作でも「冷酷非道」としか描写されなかった理由が、なんとなく分かった気がする。


「リーゼ様、クッキーもありますよ!」


空気を読まないフィオナが、皿を差し出す。


「公爵様もいかがですか? 今日のは特別おいしいんです!」


「俺は——」


「甘いものがお好きなんですよね? 厨房の人が言ってました!」


「……」


クラウディスの表情が、一瞬だけ凍りついた。


(え、今の反応)


見逃さなかった。氷の公爵の、ほんのわずかな動揺。


「フィオナ」


「はい?」


「それ、誰にも言っちゃダメだよ」


「え、なんでですか?」


「いいから」


甘いものが好きだけど、誰にも知られたくない——。


(うわ、かわいいところあるじゃん)


思わず口元が緩みそうになるのを、必死で堪える。


「何を笑っている」


「笑ってません」


「口元が動いた」


「気のせいです」


「嘘だな」


「嘘じゃないです」


見つめ合う、数秒。


クラウディスの瞳に、かすかな——本当にかすかな——苛立ちが浮かぶ。


「……お前は、変わっている」


「よく言われます」


「俺を恐れない」


「恐れる理由がありませんから」


実際、私にとって彼は「担当作品のキャラ」だ。怖いというより、親しみすらある。設定資料を何度も読み込んだ相手を、今さら怖がれるわけがない。


「……理由がない、か」


クラウディスが、低く呟く。


「お前には、そう見えるのか」


「何がですか?」


「俺が、恐れる必要のない存在に」


その問いかけには、奇妙な響きがあった。


確認するような。縋るような。


(この人、本当に——)


「公爵様」


気づけば、口が動いていた。


「一つ、聞いてもいいですか」


クラウディスの眉がわずかに上がる。許可のサイン。


「『この世界にないものの匂い』って、何のことですか」


沈黙が落ちた。


フィオナがきょとんとしている。当然だ。あの時、この場にいたのは私と公爵だけ。


「……」


クラウディスは立ち上がり、窓際に歩いていく。


逆光の中、その横顔は——。


「お前に聞きたいことがある」


「……はい」


「この世界に——」


振り返る。紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「——終わりは、あるのか」




          ◇




心臓が、大きく跳ねた。


「終わり、ですか」


「答えろ」


「……どういう意味で聞いてますか」


「そのままの意味だ」


クラウディスが、一歩近づく。


「俺は物心ついた時から、奇妙な感覚を抱えていた。自分の行動に意味がない。自分が何のために存在するのか分からない。まるで——」


言葉を切り、窓の外を見る。


「——誰かに動かされているような」


(やっぱり)


私の推測は正しかった。


この男は、自分が「物語の登場人物」であることに、薄々気づいている。


「最近、その感覚が強くなった」


クラウディスの声には、押し殺した何かがある。


「先が、見えない。どこへ向かえばいいのか分からない。俺には——」


「結末がない」


私の言葉に、公爵の目が見開かれた。


「……知っているのか」


「知っています」


嘘をつく意味はない。この男は、すでに核心に触れている。


「この物語は——」


言いかけて、躊躇した。


「物語」という言葉を使っていいのか。目の前の男にとって、これは「人生」そのものなのだ。


「続けろ」


「……打ち切られたんです」


「打ち切り?」


「完結する前に、終わってしまった。だからあなたには結末がない。この世界の誰にも」


クラウディスの表情が、初めて——。


揺れた。


そこにあったのは、冷酷でも無関心でもなく。


恐怖だった。


存在そのものへの、根源的な恐怖。


「……そうか」


絞り出すような声。


「やはり、そうだったか」


「公爵様——」


「俺は、どうなる」


その問いは、ほとんど懇願に近かった。


氷の公爵が、初めて見せる脆さ。


「結末がないなら、俺は——どこへ行けばいい」


「……」


答えられなかった。


原作通りなら、この男は破滅する。悪役令嬢と共に断罪され、全てを失う。


でもその結末は、書かれていない。


私が、書かなければ——。


「書けます」


気づけば、口が動いていた。


「私なら、結末を書けます」


クラウディスの目が、かっと見開かれる。


「……お前が?」


「はい」


原稿を取り出す。赤ペンの書き込みだらけの、校正刷り。


「これを使えば、物語に影響を与えられます。設定を足したり、展開を変えたり。処刑を回避できたのも、これのおかげです」


クラウディスが、原稿を食い入るように見つめる。


「これが——」


「この世界にないもの、です」


「……そうか」


沈黙。


公爵の表情から、恐怖が消えていく。代わりに浮かんだのは——。


「お前が、俺の結末を書くのか」


「……はい」


「なら——」


一歩、近づいてくる。


「——お前は、俺の傍にいろ」


「は?」


「結末を書けるのはお前だけだ。お前がいなくなったら、俺は——」


言葉が途切れる。


その瞳に浮かんでいるのは、命令ではなく。


懇願だった。


「——存在できなくなる」




          ◇




(いやいやいやいや)


内心で絶叫する。


(重い! 重すぎる! 依存対象にされてる!?)


冷酷非道の氷の公爵が、初対面の女に「傍にいろ」とか言い出すとか、どういう展開?


「あの、公爵様」


「クラウディスでいい」


「いや呼べませんよ!?」


「なぜだ」


「立場が違いすぎます!」


「お前は没落貴族の令嬢だ。爵位持ちが俺の名を呼んで何が悪い」


「それは、そうですけど——」


「リーゼロッテ」


名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「……俺の結末を、書いてくれ」


その声には、これまでにない熱があった。


氷が、溶けかけている。


(待って)


冷静になれ、私。


編集者モードを起動する。


この男の結末を書く。それは——。


原作通りなら、破滅。


でも原作が打ち切りになった以上、結末は私次第。


「……一つ、条件があります」


クラウディスの目が、わずかに細まる。


「条件?」


「私も、結末を知りたいんです」


「どういう意味だ」


「この物語がどう終わるべきか、私にも分からない。だから——」


原稿を握りしめる。


「一緒に、探してください。あなたにとって最善の結末を」


沈黙が流れた。


クラウディスの表情が、ゆっくりと変化していく。


冷酷から、困惑へ。困惑から——。


「……いいだろう」


「え?」


「お前の条件を呑む。俺の結末を、共に探す」


言って、公爵は手を差し出した。


「これで契約だ。リーゼロッテ」


その手を取った瞬間。


氷のように冷たいと思っていた手のひらは——。


予想に反して、温かかった。




          ◇




「わあ、握手してる!」


フィオナの声で、我に返った。


「リーゼ様と公爵様、仲良しなんですね!」


「いや、これは——」


「契約だ」


「け、契約!? なんの契約ですか!?」


「それは——」


言葉に詰まる私を、クラウディスが助け舟を出す。


「この女を、俺の秘書官に任命する」


「……は?」


「軟禁中の身では動きづらかろう。秘書官なら、邸内を自由に動ける」


「いや、でも——」


「異論は?」


「……ありません」


異論はないが、困惑はある。


なんで処刑予定だった侍女が、いきなり公爵の秘書官になってるの?


(展開が急すぎる……いや、これ私が書いた設定のせいか)


没落貴族の令嬢設定が、ここで効いてきている。平民の侍女なら不自然だが、元貴族なら秘書官登用もありえる。


「フィオナ」


クラウディスが、少女に視線を向ける。


「お前もこの女の補佐につけ。以後、二人は俺の直属だ」


「わ、私もですか!?」


フィオナが目を丸くする。


「は、はい! がんばります!」


「……よろしい」


言って、クラウディスは踵を返す。


「明日から仕事だ。覚悟しておけ」


「あ、待って——」


呼び止める間もなく、公爵は書庫を出ていく。


残されたのは、私とフィオナ。


「リーゼ様、すごいですね! 公爵様の秘書官なんて!」


「いや、私も状況についていけてないんだけど……」


「でもでも、公爵様、リーゼ様を見る目が優しかったです!」


「優しい……? あれが?」


「はい! いつもは氷みたいに冷たい目なのに、リーゼ様の前だと少し溶けてるみたいで——」


フィオナの言葉に、私は窓の外を見た。


夕暮れの庭園を、黒い軍服の影が歩いていく。


「氷の公爵」。冷酷非道と恐れられる男。


でも、その内側には——。


結末を持たない恐怖と、存在意義への渇望が眠っている。


(この人を、どう救えばいいんだろう)


原稿を握りしめる。


私が書けるのは「ト書き」と「設定」だけ。キャラクターの台詞や感情は変えられない。


つまり——。


彼が本当に救われるかどうかは、彼自身の選択次第。


「リーゼ様?」


「……なんでもない」


笑顔を作って、フィオナに向き直る。


「明日から忙しくなりそうだね。今日は早めに休もう」


「はい!」


元気よく頷く少女を見ながら、私は心の中で呟いた。


(私が関わった本は、絶対に完結させる)


編集者としての矜持。


でも今は——。


それだけじゃない気がした。


窓の向こう、夕暮れの中を歩く公爵の背中を見つめながら。


(この人の物語を、ハッピーエンドにしたい)


初めて、そう思った。




          ◇          ◇          ◇




秘書官として働き始めて、一週間が経った。


「——以上が、本日の予定です」


執務室で報告を終えると、クラウディスが軽く頷く。


「ご苦労だった。下がっていい」


「はい」


踵を返しかけて、ふと気づく。


「……公爵様」


「なんだ」


「お茶、冷めてます。淹れ直しましょうか」


デスクの上のティーカップ。一口も飲んでいない。


「構わん」


「でも——」


「仕事に集中していた」


そう言いながら、ちらりと私を見る。


その視線に含まれた意味を、私は読み取れなかった。


「……フィオナに言って、温かいのを持ってこさせます」


「好きにしろ」


執務室を出ると、廊下でフィオナが待っていた。


「リーゼ様、お疲れ様です! 今日のお仕事は——」


「フィオナ、お茶を」


「あ、はい!」


小動物のように駆けていく背中を見送りながら、私は溜息をついた。


(公爵、仕事中ずっとこっち見てるの気づいてるんだけど……)


視線を感じるたびに振り返ると、すぐに書類に目を落とす。


「観察」らしいが、それにしても頻度が高すぎる。


(これ、執着の始まりってやつ?)


原作での「冷酷非道」設定はどこへ行ったのか。


「あら、誰かと思えば」


背後から、冷たい声。


振り返ると——。


ローズマリーが立っていた。


深紅の髪が、午後の光を受けて揺れている。翡翠の瞳は、明確な敵意を湛えて。


「公爵様の秘書官に成り上がったそうね、元・侍女さん?」


「……ローズマリー様」


「侯爵令嬢の私を様付けで呼ぶなんて、一応は礼儀を知っているのね」


扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑う。


「でも、勘違いしないでちょうだい。公爵様は私の婚約者よ」


「存じております」


「なら、分かるわね? 身の程を弁えなさい」


言葉は冷たいが、どこか——。


(この台詞、原作まんまだ)


編集者の目が、違和感を拾い上げる。


台詞が、テンプレートすぎる。まるで「そう言うべき」だから言っているような。


「ローズマリー様」


「何?」


「なぜ、公爵様に執着されるんですか」


一瞬、ローズマリーの表情が凍りついた。


「……何を言っているの」


「婚約者だから、ではないですよね。もっと深い理由があるはずです」


「理由なんて——」


言いかけて、口を閉ざす。


その翡翠の瞳に、一瞬だけ——。


困惑が、よぎった。


「私が、公爵様に執着する、理由……」


「はい」


「そんなの——」


ローズマリーが、言葉を詰まらせる。


まるで、初めてその問いを突きつけられたかのように。


「——決まっているじゃない」


扇子を握る手に、力がこもる。


「公爵様は、私の婚約者よ。私のものなの。だから——」


「だから?」


「だから、執着するのは当然じゃない!」


声が、裏返った。


その叫びには、怒りよりも——。


悲鳴に近いものがあった。


「……」


私は、黙ってローズマリーを見つめた。


この女性は、自分でも分かっていない。


なぜ公爵に執着するのか。なぜ彼を求めるのか。


原作では、その理由が描かれないまま打ち切られた。


つまり——。


(この人、「動機」を与えられていない)


「悪役令嬢」という役割だけが設定されて、内面が空っぽのまま。


愛してもいない相手に執着する理由も分からないまま、「そう書かれているから」従っている。


「……何よ、その目」


ローズマリーが、一歩下がる。


「哀れんでいるの? この私を?」


「いいえ」


「嘘をつかないで! 今、確かにそういう目をしていたわ!」


「……」


否定できなかった。


確かに、哀れだと思ってしまった。


作者に設定を放棄されたキャラクター。動機のない悪役。理由も分からず誰かを憎み、求め、傷つける——。


それは、悲劇だ。


「ローズマリー様」


「何よ」


「あなたの——」


言いかけた言葉を、遮られた。


「お嬢様」


ヴェロニカが、いつの間にか傍に立っていた。


「お時間です。社交界のご準備を」


「……分かったわ」


ローズマリーが、私を睨みつける。


「今日のところは見逃してあげる。でも——」


扇子で、私の胸元を軽く叩く。


「次はないわよ、元・侍女さん」


踵を返し、廊下の奥へ消えていく。


その背中は——。


どこか、小さく見えた。




          ◇




「リーゼ様、お茶を——あれ、ローズマリー様?」


戻ってきたフィオナが、首を傾げる。


「会ったよ。ちょっとね」


「大丈夫でしたか? ローズマリー様、リーゼ様のこと敵視してるって聞きましたけど……」


「大丈夫。何もされてない」


嘘ではない。言葉で威嚇されただけだ。


「よかったです……でも、気をつけてくださいね。ローズマリー様、怖いって評判ですから」


「そうだね」


「でもでも」


フィオナが、小声で続ける。


「私、たまに思うんです。ローズマリー様って、本当は悲しいのかなって」


「……どうして?」


「だって、いつもお顔が虚ろなんです。怒ってる時も、笑ってる時も、目だけはずっと空っぽみたいで」


私は、フィオナを見つめた。


この子は、本当に真っ直ぐだ。悪役令嬢の空虚さを、直感で見抜いている。


「フィオナ」


「はい?」


「あなた、鋭いね」


「え、そうですか? 私、よく鈍いって言われますけど——」


「鈍いんじゃなくて、純粋なの」


「じゅんすい……」


きょとんとするフィオナの頭を、思わず撫でた。


「っ——リーゼ様!?」


「あ、ごめん。癖で」


前世で部下の新人編集者にやってたことを、つい——。


「い、いえ! 嬉しいです!」


顔を真っ赤にするフィオナを見ながら、私は考えた。


(ローズマリーを、救えるかもしれない)


原稿には「彼女の本当の願い」を書き加える余地がある。


公爵への執着ではなく、彼女自身の夢。彼女自身の人生。


それを設定として書き足せば、「悪役令嬢」という役割から解放できるかも——。


「リーゼ様?」


「なんでもない」


フィオナにお茶を渡し、執務室へ戻る。


扉を開けると、クラウディスが書類から顔を上げた。


「遅かったな」


「すみません。ローズマリー様と少し」


「……そうか」


表情は変わらない。だが、わずかに目が細まった。


「何か言われたか」


「いえ、特には」


「嘘だな」


「……察しがいいですね」


「お前は分かりやすい」


デスクから立ち上がり、私の方へ歩いてくる。


「ローズマリーは、お前を敵視している」


「知ってます」


「俺の婚約者だ。立場上、お前を守ることは——」


「分かっています」


公爵と侯爵令嬢の婚約は、政治的な意味がある。一介の秘書官を守るために、その関係を壊すわけにはいかない。


「だが」


クラウディスが、私の目を見た。


「お前が危険に晒されるなら、俺は——」


言葉が、途切れる。


その紺碧の瞳に、何かが揺れていた。


「公爵様?」


「……いや」


首を振り、デスクに戻る。


「仕事を続けろ」


「は、はい」


何を言いかけたのか、気になった。


でも、追及する勇気はなかった。


(今の、何……?)


氷の公爵の、らしくない言動。


「お前が危険に晒されるなら、俺は——」


何をするつもりだったんだろう。


(考えすぎか)


首を振って、仕事に戻る。


でも、頭の片隅で——。


彼の瞳に浮かんだ、あの熱が、離れなかった。




          ◇




夜。


与えられた部屋で、原稿を広げる。


「ローズマリー・アシュフォード」の設定ページ。


外見、表面的性格、悪役令嬢としての役割——。


全て書かれているのに、「動機」の欄だけが空白。


(ここに、彼女の本当の願いを書き足せば——)


赤ペンを握る。


「ローズマリーの本当の夢は——」


書きかけて、手が止まった。


(待って)


何を書けばいい?


彼女の本当の願いを、私は知らない。会話したのもさっきが初めてだ。


適当な設定を書き足したら、それは——。


本当の「救済」になるのか?


(私が勝手に設定を与えるのと、作者が設定を放棄したのと、何が違う?)


編集者としての倫理が、手を止めさせた。


キャラクターには、キャラクターの人生がある。それを外部から勝手に書き換えるのは——。


「……駄目だ」


赤ペンを置く。


まずは、彼女自身と向き合わないと。


彼女が本当に何を望んでいるのか、聞き出さないと。


その上で、原稿に書き足すかどうかを決める。


(編集者って、本当に面倒な生き物だな、私)


苦笑しながら、原稿を閉じる。


窓の外には、月が浮かんでいた。


銀色の光が、庭園を照らしている。


「リーゼ様」


扉がノックされた。フィオナの声。


「入っていいですか?」


「どうぞ」


扉が開いて、フィオナが顔を覗かせる。


「あの、明日の予定なんですけど——」


「何かあった?」


「公爵様から伝言です。『明日、社交界のパーティーに同行しろ』って」


「……社交界?」


「はい。秘書官として、公爵様のお傍に、だそうです」


(社交界、か)


ローズマリーも来るだろう。彼女と話す機会になるかもしれない。


「分かった。ありがとう」


「いえ! あ、あと——」


フィオナが、もじもじする。


「ドレス、お持ちですか? 社交界だと、侍女服じゃ——」


「ドレスなんて持ってないよ」


「ですよね……でも大丈夫です! 公爵様が用意してくれるって!」


「は?」


「『俺の秘書官が恥をかく格好は許さん』って!」


(……この人、本当に何なの?)


冷酷非道設定どこ行った?


「とにかく、明日が楽しみですね!」


「……まあ、頑張るよ」


「はい! 私も応援してます!」


元気よく去っていくフィオナを見送りながら、私は溜息をついた。


社交界。


公爵の婚約者であるローズマリーと、同じ場に立つことになる。


(一波乱、ありそうだな……)


嫌な予感しかしない。


でも、これは彼女と向き合うチャンスでもある。


原稿を、もう一度開いた。


空白の「動機」欄を、じっと見つめる。


(ローズマリー・アシュフォード)


あなたは、本当は何を望んでいるの?


月明かりが、原稿を照らしていた。




          ◇          ◇          ◇




翌日の夜。


公爵邸の玄関ホールで、私は鏡と向き合っていた。


「……誰、これ」


映っているのは、見知らぬ女。


蜂蜜色の髪が、専門の侍女によって美しく結い上げられている。琥珀色の瞳は、薄化粧で輝きを増している。


そして、身を包むのは——。


深い青のドレス。月光を閉じ込めたような生地が、動くたびに煌めく。


「リーゼ様、お似合いですー!」


フィオナが、目をきらきらさせている。


「本当に? なんか落ち着かないんだけど」


「大丈夫です! すっごく綺麗です!」


(いや、褒められても……)


前世では地味なメガネ編集者だったので、こういう華やかな格好は慣れない。


「待たせた」


低い声に振り返ると——。


クラウディスが、階段を降りてくるところだった。


黒の礼装。プラチナブロンドの髪が、シャンデリアの光を受けて輝いている。


(……かっこいいな、普通に)


担当作品のキャラだと思えば客観視できるはずなのに、なぜか心臓が跳ねた。


「その色は——」


クラウディスが、私のドレスを見て目を細める。


「悪くない」


「あ、ありがとうございます」


「俺が選んだ」


「……え?」


「秘書官のドレスを選ぶのは、雇い主の務めだ」


(いや、普通そこまでしないでしょ……!)


内心でツッコミながら、私は公爵の隣に立った。


「行くぞ」


「はい」


馬車に乗り込む。


揺れる車内で、クラウディスは窓の外を見ている。


月明かりが、その横顔を照らしていた。


「公爵様」


「なんだ」


「今夜のパーティーには、ローズマリー様もいらっしゃいますよね」


「……ああ」


「婚約者の前で、私を秘書官として連れていくのは——」


「問題ない」


「でも——」


「ローズマリーとの婚約は、政略だ。互いに何の感情もない」


あっさりと言い切る公爵に、私は眉をひそめた。


「感情がなくても、立場の問題が——」


「お前を傍に置くことに、理由はいらない」


「……は?」


「俺がそう決めた。それで十分だ」


(この人、本当に感情表現が下手すぎる……)


たぶん「お前を守りたい」とか「お前が必要だ」とか、そういうことを言いたいんだと思う。


でも、そう言えないから、「俺がそう決めた」になる。


(不器用か)


溜息をつきながら、窓の外を見た。


王都の夜景が、流れていく。




          ◇




会場は、王城の大広間だった。


シャンデリアの光が降り注ぐ中、煌びやかなドレスとタキシードが行き交っている。


「緊張しているのか」


クラウディスが、小声で囁く。


「少し」


「隣にいろ。離れるな」


「……はい」


公爵の傍にいると、周囲の視線が痛いほど突き刺さる。


「あれが噂の秘書官?」


「元侍女だとか……」


「没落貴族の令嬢らしいわよ」


「公爵様のお気に入りなんですって」


ひそひそ声が、耳に入ってくる。


(お気に入りって、誤解なんだけど……)


いや、傍から見れば、そう見えるのか。


「公爵様」


声がかかった。


振り返ると——。


「お久しぶりです。ご壮健そうで何より」


蜂蜜色の髪に翠緑の瞳。柔和な笑顔を浮かべた青年が、優雅に一礼した。


フェリクス・ヴァン・ヴァイセン。


公爵の幼馴染にして右腕。原作では、最後まで敵か味方か分からなかった男。


「フェリクス」


「今夜も素敵なパーティーですね。そして——」


翠緑の瞳が、私を捉える。


「噂の秘書官殿ですか。お目にかかれて光栄です」


「リーゼロッテ・ヴァイスと申します」


「ああ、ヴァイス子爵家の。色々と大変でしたね」


言葉は丁寧だが、その目の奥に——。


(……何か、ある)


笑顔の裏に、探るような視線。


この男、私を値踏みしている。


「公爵様がこれほど誰かに執心なさるとは、珍しい」


「執心ではない」


「そうでしたか? 失礼しました」


くすりと笑うフェリクス。


その笑顔は完璧だが、どこか——。


(作り物っぽい)


原稿の設定を思い出す。「笑顔は完璧に作り物」「感情の大半を演技でカバー」——。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「公爵様をよろしくお願いしますね。この方、私以外に心を許す人がいなかったので」


「フェリクス」


クラウディスの声に、警告の色が混じる。


「余計なことを言うな」


「失礼しました」


一礼して、フェリクスは人混みに消えていく。


その背中を見送りながら、私は考えた。


(あの男、要注意だな……)


原作では、公爵家を内部から掌握しようという野心を持っていた。


でも、打ち切りのせいで、その野心が成就するのか改心するのかは分からない。


「気をつけろ」


クラウディスが、低く言った。


「フェリクスは——」


「分かっています」


「……そうか」


少し驚いたような顔で、公爵が私を見る。


「お前は、よく見ている」


「編集者の職業病です」


「編集者?」


「あ、いえ、なんでもないです」


つい口が滑った。この世界に「編集者」なんて職業はない。


「……変な奴だ」


「よく言われます」


「嫌いではない」


「……ありがとうございます?」


これは褒められているのか、けなされているのか。




          ◇




「公爵様」


冷たい声が、会話を遮った。


ローズマリーが、こちらへ歩いてくる。


深紅のドレスが、波のように揺れている。その隣には、黒髪のヴェロニカ。


「今夜も素敵なパーティーですわね」


「ああ」


「——その方は、どなた?」


分かっているくせに、わざと聞く。


「俺の秘書官だ」


「秘書官を社交界に? 珍しいことをなさるのね」


「必要だからだ」


「必要……」


ローズマリーの翡翠の瞳が、私を射抜く。


そこには、明らかな敵意があった。


でも——。


(この人、自分でも分かってないんだろうな)


なぜ敵意を向けるのか。なぜ私を排除したいのか。


「婚約者」という理由だけでは、説明がつかないほどの激しさ。


「ローズマリー様」


「何?」


「お美しいドレスですね。薔薇の刺繍が、よくお似合いです」


「……」


一瞬、ローズマリーの表情が揺れた。


素直な称賛を向けられるとは、思っていなかったのだろう。


「……お世辞は結構よ」


「お世辞ではありません。本当に美しいと思いました」


「っ——」


ローズマリーが、扇子を握りしめる。


困惑と怒りが、混じり合った表情。


「何を企んでいるの、あなた」


「何も企んでいません」


「嘘よ。公爵様に取り入って、私から全てを奪おうとしているんでしょう?」


「奪う? 何をですか?」


「決まっているじゃない! 公爵様も、地位も、全部——」


「ローズマリー様」


私は、静かに言った。


「公爵様のことを、愛していらっしゃるんですか」


会場の空気が、凍りついた。


周囲の貴族たちが、息を呑む気配がする。


「何を——」


「質問に答えてください。あなたは、クラウディス様を愛していますか」


ローズマリーの顔が、青ざめた。


「当然よ! 私は、公爵様の婚約者なのだから——」


「それは答えになっていません」


「っ——!」


「婚約者だから愛している? それは理由ではなく、立場です」


ローズマリーが、唇を噛む。


その翡翠の瞳に、何かが——。


揺らいでいた。


「私は——」


「お嬢様」


ヴェロニカが、さりげなく主人の腕を取る。


「お時間です。王妃様へのご挨拶を」


「……ええ、そうね」


ローズマリーが、私を睨みつける。


でもその目には、先ほどまでの鋭さがなかった。


代わりにあったのは——。


混乱と、かすかな恐怖。


「この話、後で続きを聞かせてもらうわ」


言い捨てて、去っていく。


その背中を見送りながら、私は確信した。


(やっぱり、この人は「答え」を持っていない)


公爵を愛しているのか。何を望んでいるのか。自分自身でも分からない。


「設定の空白」が、彼女を苦しめている。


「……やりすぎだ」


クラウディスが、低く呟く。


「あれは俺の婚約者だ。あまり刺激するな」


「すみません。でも——」


「分かっている」


公爵が、去っていくローズマリーの背中を見る。


「あの女も、何かに囚われている」


「気づいていたんですか」


「薄々とは。俺と同じだ」


「同じ?」


「自分が何のために在るのか、分からない」


その言葉には、共感があった。


結末のない公爵と、動機のない悪役令嬢。


二人とも、作者に放棄されたキャラクター。


「……助けられますか」


「分からない」


正直に答えた。


「でも、試してみたいと思っています」


「なぜだ」


「編集者として——いえ」


言い直す。


「誰かを、不幸なまま終わらせたくないんです」


クラウディスが、私を見つめる。


その紺碧の瞳に、何かが——。


「……お前は、本当に変わっている」


「何度目ですか、それ」


「何度言っても足りない」


言って、公爵は——。


初めて、笑った。


氷が溶けるような、かすかな微笑。


(え)


心臓が、大きく跳ねた。


「どうした」


「い、いえ、なんでも——」


「顔が赤い」


「気のせいです」


「嘘だな」


「嘘じゃないです」


(落ち着け私! 担当作品のキャラだぞ!?)


内心で絶叫しながら、顔を背ける。


この男、笑うとずるい。反則だ。


「……面白い」


「何がですか」


「お前の反応が」


「反応って——」


「揶揄われているとは、思わないのか」


「思います。だから腹が立ってます」


「ふ」


また、かすかに笑う。


(もうやだこの人……!)


氷の公爵が、こんなに茶目っ気があるなんて、原作には書いてなかった。


打ち切りになったせいで、描かれなかった一面なのか。


「リーゼロッテ」


「……何ですか」


「お前のおかげで、少し——」


言葉が途切れる。


「少し?」


「……何でもない」


視線を逸らし、公爵は歩き出す。


「帰るぞ。今夜はこれで十分だ」


「あ、待って——」


追いかけながら、私は考えた。


「お前のおかげで、少し——」


何を言おうとしたんだろう。


(……考えすぎか)


首を振って、公爵の隣に並ぶ。


月明かりの中、二人で歩く。


社交界の夜は、まだ終わらない。




          ◇          ◇          ◇




パーティーから一週間後。


私は公爵の執務室で、原稿と格闘していた。


「ここの伏線、全然回収されてない……」


「何を呟いている」


「独り言です」


「独り言にしては長い」


「編集者の癖です」


「また、その言葉か」


クラウディスが、書類から顔を上げる。


「編集者とは何だ」


「えーと……物語を作る人を手伝う仕事、です」


「物語を」


「はい」


「……お前の世界では、そういう仕事があるのか」


私は、原稿を閉じた。


この一週間で、クラウディスには大体のことを話していた。


私が「この世界の外」から来たこと。この世界が「物語」であること。原稿を使って設定を書き足せること——。


信じてもらえたのは、彼自身が「結末の不在」に気づいていたからだろう。


「編集者って、要するに裏方なんです」


「裏方?」


「物語を輝かせるのは作家の仕事。編集者は、それを手伝うだけ」


「……だが、お前がいなければ物語は完成しないのだろう」


「それは——」


「重要な役割だ」


真っ直ぐな視線に、言葉が詰まる。


(この人、なんでこうストレートに言うかな……)


前世で、こんな風に言われたことはなかった。


「葉月さんがいないと本が出ない」——それは褒め言葉じゃなくて、依存だ。


私がいなければ回らないから、私は休めなかった。倒れるまで。


「リーゼロッテ」


「……はい」


「お前は、自分を過小評価している」


「そんなこと——」


「ある」


クラウディスが、立ち上がる。


「俺を観察していたように、俺もお前を観察していた」


「……」


「お前は、誰かのためなら命も惜しまない。だが、自分のためには何もしない」


「それは——」


「なぜだ」


問いかけが、胸に刺さった。


「私なんかが、主人公になれるわけないから」


言葉が、勝手に出た。


「私は、他人の物語を輝かせる役。自分が幸せになるなんて、考えたこともなかった」


「……」


「だって、私は——」


モブだから。


端役だから。


物語の主人公になれる器じゃないから。


「違う」


クラウディスの声が、私の言葉を遮った。


「お前は主人公だ」


「え——」


「少なくとも、俺の物語では」


近づいてくる。


「お前が来なければ、俺は結末のない恐怖に囚われたままだった。お前が俺に——」


言葉が途切れる。


「……俺に、未来があると教えてくれた」


紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「だから、お前は俺の主人公だ。それを忘れるな」


心臓が、大きく跳ねた。


(待って)


(待って待って待って)


(これ、告白じゃないよね? 違うよね?)


「か、勘違いしないでくださいね!」


「何がだ」


「その、今のは——」


「俺の本心だ」


「だからそれが——!」


「何を動揺している」


「動揺してません!」


「嘘だな」


「嘘じゃ——もう!」


顔が熱い。絶対に真っ赤になっている。


(この人、天然なの!? それとも分かっててやってるの!?)


「……面白い」


「笑い事じゃないです!」


「笑ってはいない」


「笑ってます! 口元!」


「気のせいだ」


(絶対わざとだ、この人……!)


深呼吸して、心を落ち着ける。


いい、冷静になれ。私は編集者だ。担当作品のキャラに振り回されてどうする。


「……話を戻しましょう」


「ああ」


「物語を完結させるために、いくつか確認したいことがあります」


「何だ」


原稿を広げる。


「ローズマリー様のことです」


クラウディスの表情が、わずかに引き締まる。


「彼女、自分が公爵様を愛しているか、分かっていません」


「知っている」


「原作では、その理由が描かれないまま打ち切りになりました。つまり、彼女には『動機』がない」


「……」


「このままでは、彼女は『悪役令嬢』という役割に囚われたまま、断罪されることになります」


「原作通りなら、俺もそうなるのだろう」


「……はい」


公爵と悪役令嬢の破滅。それが、原作の予定された結末。


でも——。


「私は、そんな結末を書きたくありません」


「……」


「あなたにも、ローズマリー様にも、幸せになる権利がある。『そう書かれているから』という理由で破滅させられるなんて、おかしい」


「お前は」


クラウディスが、静かに言う。


「俺の結末だけでなく、ローズマリーまで救おうというのか」


「はい」


「敵だぞ、あの女は」


「敵でも、人です」


「……」


沈黙が流れた。


公爵の表情が、複雑に揺れている。


「お前は——」


言いかけて、口を閉ざす。


「公爵様?」


「……何でもない」


首を振り、クラウディスは窓際に歩いていく。


「俺は、お前を止めない」


「え?」


「お前がそう決めたなら、好きにしろ。ただし——」


振り返る。紺碧の瞳が、真剣な光を湛えている。


「危険になったら、必ず俺を頼れ」


「……はい」


「約束だ」


「約束します」


その言葉に、公爵の表情がわずかに緩んだ。


「よし。では——」




          ◇




扉がノックされた。


「失礼します」


入ってきたのは、フェリクス。


「公爵様、お時間よろしいでしょうか」


「何だ」


「明日の視察について、確認したいことが」


クラウディスが頷き、フェリクスと打ち合わせを始める。


その間、私は原稿を片付けながら、さりげなく観察していた。


(この二人の関係、原作だとどうなる予定だったんだろう)


フェリクスの野心。公爵への複雑な感情。


打ち切りのせいで、全てが宙に浮いたまま。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「少しお時間をいただけますか」


打ち合わせが終わったフェリクスが、私に声をかける。


「……私に、ですか」


「ええ。公爵様の秘書官として、いくつか確認したいことが」


その笑顔は、相変わらず完璧だ。だが——。


「構わん」


クラウディスが、低く言った。


「だが、長くは借りるな」


「もちろんです」


一礼して、フェリクスは私を廊下に連れ出した。




          ◇




「それで、何のご用ですか」


「単刀直入に聞きます」


フェリクスの笑顔が、消えた。


「あなたは、何者ですか」


「……秘書官ですが」


「嘘ですね」


「嘘ではありません」


「元侍女が、一週間で公爵の腹心になる。普通じゃない」


「縁があったので」


「縁」


フェリクスが、一歩近づく。


「公爵様は変わりました。あなたが来てから」


「……」


「以前は、誰にも心を開かなかった。笑顔など、見たこともなかった」


「それは——」


「それが今は、あなたの前でだけ、人間らしい顔をする」


翠緑の瞳が、鋭く光る。


「あなたは、公爵様に何をした」


「何も——」


「嘘をつくな」


声に、初めて感情がこもった。


怒りか。嫉妬か。それとも——。


「私は、十年以上公爵様の傍にいた。なのに、一度も——」


言葉が途切れる。


「一度も?」


「……何でもない」


フェリクスが、一歩下がる。


笑顔が戻ったが、どこかぎこちない。


「失礼しました。少し、感情的になりました」


「……」


「お気になさらず。私はただ、公爵様のことが——」


言葉を探すように、沈黙。


「心配なだけです」


「心配」


「ええ。幼馴染として」


その言葉に、嘘はなさそうだった。


でも、それだけでもない。


(この人も、自分の感情が分からないんだ)


公爵への感情が、友情なのか執着なのか。味方でいたいのか、裏切りたいのか。


原作で描かれなかった「本当の願い」を、持っていない。


「フェリクス様」


「何でしょう」


「公爵様のことを、大切に思っていらっしゃるんですね」


「……」


「それは、本心だと思います」


「何を——」


「だから、味方でいてください」


私は、真っ直ぐにフェリクスを見た。


「公爵様を、一緒に守ってください」


沈黙が流れた。


フェリクスの表情が、複雑に揺れる。


「……あなたは、不思議な人だ」


「よく言われます」


「敵かもしれない相手に、味方になれと?」


「敵かどうかは、まだ分かりません。だから——」


「だから?」


「あなた自身が、選んでください」


フェリクスの目が、わずかに見開かれた。


「……」


「自分が、公爵様の味方でいたいのかどうか。それは、あなたにしか分からないことです」


長い沈黙。


フェリクスの表情から、作り物の笑顔が消えていた。


代わりにあったのは——。


困惑と、かすかな希望。


「……考えておきます」


「はい」


「それと——」


「何でしょう」


「あなたのことは、嫌いではないかもしれません」


言い残して、フェリクスは去っていく。


その背中を見送りながら、私は小さく息をついた。


(敵を減らせたかな……)


分からない。でも、少なくとも——。


彼の中に、何かが芽生えた気がした。




          ◇




執務室に戻ると、クラウディスが待っていた。


「何を話していた」


「内緒です」


「……」


「冗談です。フェリクス様のことを、少し」


「あいつを、どう見た」


「まだ、分かりません。でも——」


「でも?」


「敵じゃないかもしれない、と思いました」


クラウディスが、わずかに目を細める。


「フェリクスは——」


言いかけて、口を閉ざす。


「公爵様?」


「……何でもない」


また、その反応。


何かを言いかけて、飲み込む。


(この人、本当に不器用だな……)


「公爵様」


「何だ」


「フェリクス様のこと、信じていいと思います」


「……」


「根拠はありません。編集者の勘です」


「勘、か」


「はい」


沈黙が流れた。


公爵の表情が、ゆっくりと緩んでいく。


「……お前の勘は、当たることが多い」


「よく言われます」


「自慢か」


「事実です」


「ふ」


かすかな笑み。


「いい度胸だ。嫌いではない」


「ありがとうございます」


「皮肉だぞ」


「知ってます」


見つめ合う、数秒。


不意に、クラウディスが口を開いた。


「リーゼロッテ」


「はい」


「俺は——」


言葉が、途切れる。


「公爵様?」


「……いや」


首を振り、公爵は窓の外を見る。


夕陽が、執務室を金色に染めていた。


「明日、ローズマリーを呼ぶ」


「え?」


「お前が、あの女と話したがっていることは分かっている」


「……」


「俺が場を設ける。三者会談だ」


心臓が、跳ねた。


「本当に、いいんですか」


「お前がそう望むなら」


「——ありがとうございます」


「礼はいい」


クラウディスが、振り返る。


夕陽を背にした横顔が、やけに綺麗だった。


「ただし、条件がある」


「条件?」


「終わったら、俺と二人で話す時間をくれ」


「……何を話すんですか」


「それは、その時に」


意味深な言葉を残して、公爵は執務室を出ていく。


残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


(何を、話すつもりなんだろう)


分からない。


でも、胸の奥が——。


妙に、熱かった。




          ◇




その夜。


与えられた部屋で、原稿を広げる。


いくつかの空白。いくつかの伏線。いくつかの可能性。


「結末を、書かなきゃいけない」


この物語を完結させなければ、私は元の世界に戻れない——たぶん。


でも、原作通りのバッドエンドは書きたくない。


クラウディスも、ローズマリーも、フェリクスも——。


みんな、自分の意志で未来を選ぶべきだ。


「私が関わった本は、絶対に完結させる」


編集者としての矜持。


でも今は——。


「この物語を、ハッピーエンドにしたい」


そう願う自分がいた。


月明かりが、原稿を照らしている。


明日、ローズマリーとの会談がある。


彼女の「本当の願い」を、聞き出せるだろうか。


彼女を、「悪役令嬢」という役割から解放できるだろうか。


(分からない。でも——)


やるしかない。


私は、この物語の編集者であり、登場人物であり——。


今は、主人公なのだから。


原稿を閉じて、目を閉じる。


明日に備えて、眠りにつく。


夢の中で、氷の公爵が笑っていた。




          ◇          ◇          ◇




翌日、応接室。


三人が向かい合って座っていた。


クラウディスと私。そして——。


ローズマリー・アシュフォード。


「……それで、何の用かしら」


ローズマリーの声には、警戒が滲んでいた。


傍らに控えるヴェロニカも、表情を硬くしている。


「お話ししたいことがあります」


「話? 私と、この女が?」


「はい」


「馬鹿馬鹿しい。公爵様、このような——」


「聞け」


クラウディスの一言で、ローズマリーが黙る。


「この女の話を聞いてやれ。俺からの頼みだ」


「……」


不満そうな顔で、ローズマリーが私を見る。


「いいわ。聞くだけ聞いてあげる」


「ありがとうございます」


深呼吸して、口を開く。


「ローズマリー様」


「何?」


「あなたの、夢は何ですか」


一瞬、空気が凍った。


「……夢?」


「将来、何をしたいですか。どんな人生を送りたいですか」


「何を言って——」


「婚約者としてではなく、令嬢としてでもなく。ローズマリー・アシュフォード個人として、何を望んでいますか」


ローズマリーの表情が、揺れた。


「私、が……」


「はい」


「私の、夢……」


沈黙が流れた。


ローズマリーの瞳が、虚ろに揺らぐ。


まるで、初めてその問いを突きつけられたかのように。


「私は——」


言葉が、詰まる。


「私は、公爵様の婚約者で——」


「それは立場です」


「侯爵家の令嬢として——」


「それは役割です」


「っ——」


ローズマリーが、扇子を握りしめる。


「何が言いたいの!」


「あなた自身の言葉が聞きたいんです」


「私自身——」


「婚約者でも、令嬢でも、悪役でもない、あなた自身」


「そんなもの——」


「ない?」


「……」


ローズマリーの顔が、青ざめた。


その翡翠の瞳に、恐怖が浮かぶ。


「私、は……」


「はい」


「私は、私、で……」


言葉にならない。


震える唇が、何かを紡ごうとして——。


「——分からないわ」


絞り出すような声。


「私が、何を望んでいるのか。何をしたいのか。私自身って、何なのか——」


「お嬢様……」


ヴェロニカが、心配そうに主人を見る。


「分からないの」


ローズマリーの声が、震えていた。


「公爵様のことを愛しているのかも分からない。憎んでいるのかも分からない。私は——」


涙が、頬を伝う。


「私は、空っぽなの」




          ◇




私は、静かにローズマリーを見つめていた。


これが、「設定の空白」の正体。


作者に動機を与えられなかったキャラクターは、自分の感情すら分からない。


「ローズマリー様」


「……何よ」


「あなたは、空っぽなんかじゃありません」


「は?」


「だって、今——」


彼女の頬を、そっと拭う。


「泣いているじゃないですか」


「っ——」


「分からないって、苦しいって、そう思えている。それは、あなた自身の感情です」


「私、の……」


「はい」


原稿を取り出す。


ローズマリーの設定ページ。空白だらけの——。


「これを見てください」


「……何、これ」


「あなたの——」


言葉を選ぶ。


「あなたの人生の、設計図です」


「設計図?」


「誰かが、あなたをこう描きました。高慢で、嫉妬深くて、公爵様に執着する悪役令嬢——」


「……」


「でも、理由は書かれていない。なぜそうなったのか、本当は何を望んでいるのか」


原稿の空白を指さす。


「ここが、空っぽなんです」


「……」


「だから、あなたは自分が分からなかった。分からないまま、『悪役令嬢』を演じさせられていた」


ローズマリーの瞳が、大きく見開かれる。


「そんな——」


「信じられないのは分かります。でも——」


「……本当、なの?」


「はい」


「私が、空っぽに感じていたのは——」


「あなたのせいじゃありません」


言い切った。


「あなたは悪くない。悪いのは、あなたに動機を与えなかった——」


作者、という言葉は飲み込む。


「——運命です」


沈黙が流れた。


ローズマリーが、震える手で原稿に触れる。


「これを……書き換えられるの?」


「はい」


「なら——」


翡翠の瞳が、私を見つめる。


「私に、教えて」


「何をですか」


「私の、本当の願いを」




          ◇




「それは、私が教えることじゃありません」


「え?」


「あなた自身が、見つけないと」


「でも、分からないから——」


「分かります」


私は、ローズマリーの手を取った。


「目を閉じてください」


「何を——」


「いいから」


戸惑いながらも、ローズマリーが目を閉じる。


「想像してください。婚約者も、令嬢の立場も、全部なくなったとして」


「……」


「あなたは、何がしたいですか」


沈黙。


長い、長い沈黙。


ローズマリーの表情が、少しずつ変わっていく。


苦悩から、困惑へ。困惑から——。


「……薔薇」


「え?」


「私、薔薇が好きだった」


目を開ける。翡翠の瞳が、かすかに輝いていた。


「小さい頃、領地に薔薇園があったの。毎日そこで遊んでいた」


「……」


「いろんな色の薔薇を育てて、新しい品種を作るのが夢だった」


「素敵な夢ですね」


「でも、お母様に言われたの。『令嬢にふさわしくない』って。それ以来——」


「忘れていた?」


「ううん。忘れさせられていた——のかも」


ローズマリーの声に、確信がこもる。


「私、本当は——公爵様のことなんて、どうでもよかった」


「お嬢様!」


ヴェロニカが、驚いたように声を上げる。


「ヴェロニカ、あなたも気づいていたでしょう?」


「……」


「私が、公爵様を愛していないこと」


ヴェロニカの表情が、ゆっくりと崩れた。


「……はい」


「なぜ、言ってくれなかったの」


「言えませんでした。お嬢様は、そう信じていらっしゃったから——」


「信じさせられていたの。私は——」


ローズマリーが、クラウディスを見る。


「公爵様」


「……何だ」


「婚約を、解消してください」




          ◇




私は息を呑んだ。


(婚約解消——)


原作では、悪役令嬢が断罪されて強制的に破談になる流れだった。


でも今、ローズマリー自身がそれを望んでいる。


「……理由を聞こう」


クラウディスの声は、平坦だった。


「私は、あなたを愛していません」


「知っている」


「私には、やりたいことがあります」


「……」


「薔薇園を作りたい。自分の領地で、自分の手で——」


「領地? お前はアシュフォード家の跡取りだろう」


「跡取りなんて、要りません。弟に継がせればいい」


「……」


「私は、私の人生を生きたい」


ローズマリーの声が、震えていた。でも——。


その瞳には、初めて見る輝きがあった。


「お願いです。私を、自由にしてください」


沈黙が流れた。


クラウディスの表情は、読めない。


長い、長い沈黙の後——。


「いいだろう」


「え?」


「婚約を解消する。ただし——」


「ただし?」


「体面上、すぐには難しい。半年後の社交シーズンが終わってからだ」


「……本当に、いいんですか?」


「俺も、望まぬ婚約に縛られていた。お前の気持ちは分かる」


クラウディスが、私をちらりと見る。


「それに——別の望みができた」


「別の?」


「それは、お前には関係ない」


(今、絶対こっち見た……)


気のせいだと思いたい。でも、気のせいじゃない気がする。


「ありがとうございます、公爵様」


ローズマリーが、深々と頭を下げる。


「……そして」


顔を上げ、私を見る。


「あなたにも」


「私?」


「私を、解放してくれた」


その翡翠の瞳には、もう敵意がなかった。


代わりにあったのは——。


感謝と、かすかな親しみ。


「敵だと思っていたわ」


「知ってます」


「でも、違った」


「……」


「あなたは、私を救ってくれた」


「私は、何も——」


「謙遜しないで」


ローズマリーが、私の手を取る。


「あなたがいなければ、私は一生、『悪役令嬢』を演じ続けていた」


「……」


「ありがとう。——リーゼロッテ」


名前を呼ばれて、胸が熱くなった。


(救えた、のかな)


一人の人間を、運命から解放できた。


「これからは、友人として——」


「お嬢様」


ヴェロニカが、そっと声をかける。


「そろそろお時間です」


「ああ、そうね」


ローズマリーが立ち上がる。


「また会いましょう、リーゼロッテ。今度は——」


微笑む。


「私の薔薇園に、招待するわ」




          ◇




去っていくローズマリーとヴェロニカを見送りながら、私は深く息をついた。


(一つ、片付いた)


悪役令嬢の救済。設定の空白を、本人の言葉で埋めることができた。


「やったな」


クラウディスの声に、振り返る。


「お前の望んだ通りになった」


「はい。ありがとうございます、公爵様」


「礼はいい」


立ち上がり、私の方へ歩いてくる。


「約束だ」


「……約束?」


「終わったら、二人で話す時間をくれと言っただろう」


心臓が、跳ねた。


「あ、えと——」


「来い」


腕を取られ、応接室を出る。


「ど、どこに——」


「庭園だ」


連れていかれたのは、公爵邸の奥にある薔薇園。


夕陽に照らされて、赤や白やピンクの薔薇が輝いていた。


「綺麗……」


「ああ」


二人で、並んで歩く。


沈黙が流れた。


心地よい沈黙。でも、どこか——。


緊張している。


「リーゼロッテ」


「……はい」


「お前に、言いたいことがある」


「何ですか」


クラウディスが、立ち止まる。


私も、立ち止まる。


夕陽を背にした公爵が、私を見下ろしている。


その紺碧の瞳には——。


今まで見たことのない、熱があった。


「俺は——」


言葉が、途切れる。


「公爵様?」


「……上手く言えない」


「何がですか」


「この、感情が」


私の心臓が、大きく跳ねた。


「お前が来てから、俺は変わった」


「……」


「結末のない恐怖が、薄れた。毎日が、意味を持ち始めた」


「それは——」


「お前のおかげだ」


真っ直ぐな瞳が、私を捉えて離さない。


「俺は——お前を、」


言葉が詰まる。何かを言いかけて、飲み込む。


「お前を、失いたくない」


「……っ」


「お前がいなくなったら、俺は——また、空っぽに戻る」


「公爵様——」


「だから」


一歩、近づいてくる。


「俺の傍に、いてくれ」




          ◇




頭が、真っ白になった。


(これ、告白——だよね?)


「あの——」


「返事は、今すぐでなくていい」


「え」


「俺は、待てる」


クラウディスの声が、わずかに震えていた。


「ただ、これだけは知っておいてほしかった。俺が、お前をどう思っているか」


「……」


「嫌なら、忘れてくれ」


「嫌じゃ——」


言いかけて、口を押さえた。


(待って、何言おうとしてるの私!?)


「嫌じゃない?」


「いや、その——」


「嫌じゃないのか」


「だから——!」


もう、隠せない。


顔が熱い。絶対に真っ赤だ。


「嫌じゃ、ないです……」


「……」


「むしろ、その——」


「その?」


「——嬉しい、です」


声が、消え入りそうになる。


でも、言った。言えた。


「……そうか」


クラウディスの声が、柔らかくなった。


「よかった」


「っ——」


「嫌われたら、どうしようかと思った」


「嫌うわけ、ないじゃないですか——」


「分からなかった。俺は、こういうことに慣れていない」


「……私もです」


「そうか」


「はい」


見つめ合う。


夕陽が、二人を照らしている。


「……手を」


「え?」


「手を、繋いでいいか」


(かわいい……!)


内心で絶叫しながら、私は頷いた。


「はい」


大きな手が、私の手を包む。


温かかった。


「リーゼロッテ」


「……はい」


「俺の結末を、お前と一緒に見つけたい」


「……はい」


「お前に結末を書いてもらうんじゃなく、俺自身で選びたい」


「……」


「お前と、共に在ることを」


心臓が、大きく跳ねた。


(この人——)


自分で選ぼうとしている。自分の意志で、未来を掴もうとしている。


「もう一つ、いいですか」


「何だ」


「——名前で、呼んでもいいですか」


「……」


「クラウディス、様」


一瞬、公爵の表情が——。


溶けた。


氷が完全に溶けたような、柔らかい笑顔。


「ああ」


「……クラウディス」


「——リーゼ」


名前を呼び合う。


夕陽の中、二人で立っている。


繋いだ手が、温かい。


これは、打ち切り作品に転生した編集者と、結末のない公爵の物語。


まだ、完結していない。


でも——。


「お前と一緒なら、どんな結末でも」


「——私も、です」


二人の物語は、今——。


新しい章を、始めようとしていた。




          ◇          ◇          ◇




あれから、一ヶ月が経った。


「——以上が、今月の報告です」


執務室で書類を読み上げる私に、クラウディスが頷く。


「ご苦労だった。下がっていい」


「はい」


踵を返しかけて、袖を掴まれた。


「……っ」


「待て」


「何ですか」


「報告だけで終わるのか」


「仕事中ですので」


「仕事は終わった」


「いえ、まだ——」


「終わりだ」


強引に引き寄せられ、椅子に座らされる。公爵の、膝の上に。


「ちょ——!」


「静かにしろ」


「無理です!」


「誰も来ない」


「問題はそこじゃないです!」


顔が熱い。心臓がうるさい。


(この人、最近こういうことばっかり——!)


庭園での告白以来、クラウディスは明らかに変わった。


無表情だった顔に、感情が出るようになった。私の前では、よく笑うようになった。


そして——やたらとスキンシップが増えた。


「離してください」


「嫌だ」


「公爵様——」


「クラウディス」


「……クラウディス」


名前を呼ぶと、彼の腕の力がわずかに緩む。


「いい声だ」


「——っ」


「もう一度」


「無理です」


「なぜだ」


「恥ずかしいからです!」


「俺は嬉しい」


「知ってます!」


見つめ合う、数秒。


クラウディスの瞳が、柔らかく細められる。


「……可愛い」


「っ——! もう、本当に——!」


「照れるな」


「照れます!」


ばたばたともがいても、腕の力は緩まない。


諦めて、力を抜く。


「……一回だけですよ」


「何がだ」


「……クラウディス」


「ああ」


「好き、です」


「……」


沈黙。


不安になって顔を上げると——。


公爵の顔が、真っ赤だった。


「ちょ——大丈夫ですか!?」


「……大丈夫だ」


「顔、赤いですよ」


「気にするな」


「気にします」


「……」


クラウディスが、額を私の肩に預ける。


「お前が、悪い」


「え?」


「こういうことを、平気で言うから」


「……平気じゃないです。めちゃくちゃ恥ずかしいです」


「なら、なぜ言った」


「……言いたかったから、です」


沈黙。


肩に感じる熱が、少しずつ高くなる。


「……俺も」


「え?」


「俺も、お前が——」


「……」


「——好きだ」


囁くような声。


心臓が、大きく跳ねた。


(ずるい)


この人、こういうところが本当にずるい。




          ◇




「リーゼ様ー!」


ノックもなしに扉が開いた。


「大変です! フェリクス様が——あ」


フィオナが、固まった。


私は、公爵の膝の上。公爵は、私を抱きしめている。


「……」


「……」


「……お邪魔しましたー!」


「待って! 違うの!」


「違わないだろう」


「クラウディス!」


慌てて膝から降り、フィオナを追いかける。




          ◇




「——というわけで、あれは誤解だから」


「誤解、ですか」


「……誤解、です」


「リーゼ様、顔が赤いです」


「暑いだけ」


「冬ですよ?」


「……」


フィオナの目が、きらきら輝いている。


「やっぱり、公爵様とお付き合いしてるんですね!」


「ち、違——」


「おめでとうございます!」


「話を聞いて」


「私、応援してます!」


「フィオナ」


「はい!」


「……ありがとう」


結局、否定できなかった。


「それで、さっきの話は?」


「あ、そうでした!」


フィオナの表情が、急に真剣になる。


「フェリクス様が、お話があるそうです」


「私に?」


「はい。『重要なことだ』って」




          ◇




フェリクスが待っていたのは、庭園の東屋だった。


「来てくださいましたか」


「何のご用ですか」


「単刀直入に言います」


翠緑の瞳が、真剣な光を湛えている。


「俺は、公爵様の味方です」


「……」


「あなたに言われてから、ずっと考えていました。俺は、何を望んでいるのか」


「結論が出たんですね」


「はい」


フェリクスが、深く頭を下げる。


「俺は、公爵様の幸せを望んでいます。それが、俺の本心でした」


「……」


「野心も、嫉妬も、ありました。でも——」


顔を上げる。その瞳には、初めて見る穏やかさがあった。


「それ以上に、あの方に笑っていてほしかった」


「フェリクス様——」


「あなたのおかげです。俺に、自分と向き合う機会をくれた」


「私は、何も——」


「謙遜しないでください」


微笑む。今度は、作り物ではない笑顔だった。


「これからも、公爵様をよろしくお願いします」


「……はい」


握手を交わす。


(また一つ、片付いた)


フェリクスの「本当の願い」。公爵への純粋な友情。


原稿に書き加えるまでもなく、彼は自分で答えを見つけた。




          ◇




夜、与えられた部屋で原稿を広げる。


空白だった部分が、少しずつ埋まっていく。


ローズマリーの夢。フェリクスの友情。クラウディスの変化。


そして——。


「私の、結末」


原稿の最後のページ。


私がこの世界に来た理由。元の世界に戻る条件。


全ては、物語を完結させること。


「でも——」


原稿を見つめる。


もし物語を完結させたら、私は——。


「リーゼ様」


ノックの音。フィオナの声。


「入っていいですか?」


「どうぞ」


扉が開いて、フィオナが顔を覗かせる。


「あの、公爵様がお呼びです」


「こんな時間に?」


「『すぐ来い』って」


相変わらず、命令口調だ。


原稿を閉じ、公爵の私室へ向かう。




          ◇




「入れ」


扉を開けると、クラウディスが窓際に立っていた。


月明かりが、その横顔を照らしている。


「お呼びですか」


「ああ」


振り返らないまま、低い声で言う。


「お前に、聞きたいことがある」


「何でしょう」


「物語が完結したら——」


言葉が、途切れる。


「完結したら?」


「——お前は、どうなる」


心臓が、大きく跳ねた。


「……」


「答えろ」


「分かりません」


「嘘だ」


振り返る。紺碧の瞳に、不安が揺れている。


「お前は、何でも知っている。物語の構造も、俺たちの設定も——」


「それでも、分からないことはあります」


「なら——」


クラウディスが、一歩近づく。


「お前がいなくなる可能性は」


「……あります」


「っ——」


「でも、確実じゃありません」


「確実じゃない?」


「はい。物語が完結しても、私がどうなるかは——」


「書いてないのか」


「……はい」


沈黙が流れた。


クラウディスの表情が、苦しげに歪む。


「なら——」


「クラウディス?」


「物語を、完結させなければいい」


「え」


「そうすれば、お前はここにいられる」


「それは——」


「俺は、お前を失いたくない」


真っ直ぐな瞳が、私を射抜く。


「お前がいない世界に、意味なんてない」


「……」


「だから——」


「駄目です」


私は、静かに言った。


「駄目、ですか」


「物語は、完結させないといけません」


「なぜだ」


「あなたのためです」


「俺の?」


「はい」


私は、クラウディスの手を取った。


「未完のまま終わった物語の中では、誰も本当に幸せになれません」


「……」


「あなたも、ローズマリー様も、フェリクス様も——永遠に、結末のない不安の中に囚われ続ける」


「それでも——」


「私は、あなたを幸せにしたい」


言葉が、自然に出た。


「あなたが、自分の意志で未来を選べる世界にしたい。そのためには——」


「物語を、完結させる」


「はい」


クラウディスの表情が、揺れる。


苦悩と、理解が、入り混じっている。


「……お前は」


「何ですか」


「自分の幸せは、考えないのか」


「私の幸せは——」


言葉が詰まる。


自分の幸せ。考えたこともなかった。


「私は、編集者です」


「……」


「他人の物語を輝かせることが、私の仕事で——」


「違う」


「え?」


「お前は、もう編集者じゃない」


両手で、私の顔を包み込む。


「お前は、俺の——」


「……」


「——大切な人だ」




          ◇




心臓が、大きく跳ねた。


「クラウディス——」


「お前の幸せを、俺は考えたい」


「私は——」


「物語を完結させる。それはいい」


「……」


「だが、お前がいなくなることは、許さない」


「でも——」


「俺が、書く」


「え?」


「お前がこの世界に残る結末を、俺が書く」


言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「クラウディス、あなたには——」


「原稿を使えるのは、お前だけじゃないだろう」


「それは——」


「お前が俺の結末を書けるなら、俺も——」


紺碧の瞳が、真剣な光を湛えている。


「——お前の結末を、書ける」


「……」


「お前がこの世界に残り、俺と共に生きる結末を」


私は、言葉を失った。


そんなこと、考えもしなかった。


私が書くのではなく、彼が書く。


物語の登場人物が、自分の意志で——。


「できる、と思うか」


「……分かりません」


「やってみなければ、分からない」


「はい」


「なら——」


クラウディスが、私の手を握る。


「一緒に、試そう」


「……」


「俺は、お前に結末を書いてもらうつもりはない」


「……」


「俺自身が、選ぶ」


真っ直ぐな瞳。揺るぎない決意。


「お前と共に在ることを」




          ◇




涙が、頬を伝った。


「泣くな」


「無理、です」


「なぜ泣く」


「嬉しいから、です」


「……」


「私なんかのために、そこまで——」


「お前なんかじゃない」


「え?」


「お前は、俺の全てだ」


言葉が、胸に染みた。


「私が関わった本は、絶対に完結させる」——それが、私の矜持だった。


でも今は——。


「私も」


「何だ」


「私も、あなたと——」


涙で、声が震える。


「——共に、在りたいです」


初めて、自分のために願った。


自分が幸せになることを、初めて望んだ。


「……ああ」


クラウディスが、私を抱きしめる。


温かかった。


「共に行こう」


「はい」


「結末の先へ」


「……はい」


月明かりの中、二人で立っている。


物語は、完結に向かう。


でも、それは終わりじゃない。


新しい始まりだ。


「愛している」


「——私も」


囁き合う。


物語の外から来た女と、結末のない男。


二人の物語は——。


今、最終章を迎えようとしていた。




          ◇          ◇          ◇




原稿の最後のページに、二人で向き合っていた。


「いいか」


クラウディスが、赤ペンを握る。


「ああ」


私も、赤ペンを握っている。


「同時に、だ」


「分かってる」


深呼吸。


目を見合わせる。


「——書くぞ」


「うん」


二本の赤ペンが、同時に原稿に走る。




『物語は完結した。


悪役令嬢ローズマリーは、自らの意志で婚約を解消し、領地で薔薇園を営む道を選んだ。


フェリクスは、公爵の右腕として、生涯をその幸せのために捧げた。


そして——


氷の公爵クラウディスは、異世界から来た女と結ばれた。


彼女の名は、リーゼロッテ。


かつて「名もなき侍女A」だった女は、公爵夫人となり——


——この世界で、幸せに暮らした』




最後の一文を書き終えた瞬間。


世界が、光に包まれた。




          ◇




「——リーゼ!」


声が聞こえた。


クラウディスの声。


目を開けると、私は——。


彼の腕の中にいた。


「無事か」


「……うん」


「消えなかったな」


「……消えなかった」


体を確認する。腕がある。足がある。心臓が動いている。


「ここにいる」


「ああ」


「私、ここにいる」


涙が、溢れた。


「泣くな」


「無理」


「なぜ泣く」


「嬉しいから」


「……」


「あなたと、一緒にいられるから」


クラウディスが、私を強く抱きしめる。


「俺もだ」


「……」


「お前がいて、嬉しい」


「——うん」




          ◇




原稿を見る。


最後のページには、二人の字が並んでいた。


クラウディスが書いた「リーゼロッテはこの世界に残る」。


私が書いた「クラウディスは幸せになる」。


二人の願いが、重なっていた。


「物語は、完結した」


「ああ」


「でも——」


「でも?」


「私たちの物語は、これからだ」


クラウディスが、微笑む。


氷のように冷たいと言われた男が、今——。


世界で一番温かい笑顔を、見せている。


「そうだな」


「うん」


「共に、行こう」


「——うん」




          ◇




窓の外には、朝日が昇っていた。


新しい一日の始まり。


新しい物語の始まり。


「リーゼ」


「何?」


「愛している」


「……私も」


口づけを交わす。


柔らかくて、温かくて、幸せだった。




——これは、打ち切り作品に転生した編集者の物語。


「名もなき侍女A」から始まった、ありえない恋の物語。


彼女は、他人の物語を輝かせる編集者だった。


自分の幸せなんて、考えたこともなかった。


でも——。


「私が関わった本は、絶対に完結させる」


その信念は、自分自身の物語にも向けられた。


打ち切りの悲劇を、ハッピーエンドに書き換えた。


「お前に俺の結末を書かせない。俺は、お前と共に在ることを選ぶ」


彼の言葉が、彼女を救った。


「他人の物語を完結させる編集者」は——。


「自分自身の物語を紡ぐ主人公」になった。




          ◇




数年後。


公爵邸の庭園には、たくさんの薔薇が咲いていた。


「リーゼ様ー!」


フィオナが、駆けてくる。


「ローズマリー様から、お手紙です!」


「ありがとう」


手紙を開く。


『リーゼへ


薔薇園、ついに完成したわ。

新しい品種も、三つ作れたの。

今度、見に来てちょうだい。

あなたと公爵様を、招待するわ。


——ローズマリー』


「よかったですね」


「うん」


「ローズマリー様、すっかり変わられましたよね」


「そうだね」


かつての悪役令嬢は、今——。


自分の夢を叶えて、幸せに暮らしている。


「リーゼ」


声がして、振り返る。


クラウディスが、歩いてきた。


「フェリクスから報告だ。領地の状況は——」


「後で聞くわ」


「なぜだ」


「今は、あなたといたいから」


「……」


公爵の頬が、わずかに赤くなる。


「……分かった」


「ふふ」


「笑うな」


「笑ってない」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


見つめ合う。


幸せだった。


「リーゼ」


「何?」


「愛している」


「——私も」


何度言われても、慣れない。


でも、嬉しい。


「これからも、共に」


「うん」


「ずっと」


「——うん」


繋いだ手が、温かい。


物語は完結した。


でも、二人の人生は続いていく。


結末の、その先へ。




——『氷の公爵と薔薇の棘』、完。




ただし、これはあくまで「物語」としての結末。


彼らの日常は、今日も続いている。


笑って、泣いて、怒って、愛して——。


生きている。


「ねえ、クラウディス」


「何だ」


「次は、どんな物語を書こうか」


「……書くのか」


「編集者だもの」


「お前は、もう——」


「編集者は一生編集者よ」


苦笑する私に、クラウディスも笑う。


「なら、俺も手伝おう」


「本当?」


「お前の物語なら、何でも」


「……ありがとう」


「礼はいい」


「じゃあ、キスして」


「……ここでか」


「嫌?」


「——嫌じゃない」


口づけを交わす。


薔薇の香りが、風に乗って流れていく。


幸せだった。


本当に、幸せだった。


「私が関わった本は、絶対に完結させる」


——その信念は、今も変わらない。


でも、一つだけ追加された。


「私が関わった人は、絶対に幸せにする」


編集者・葉月の、新しい矜持。


公爵夫人・リーゼロッテの、生涯の誓い。


——これにて、物語は本当の意味で、完結する。


打ち切りの悲劇は、ハッピーエンドに書き換えられた。


結末のなかった公爵は、最高の結末を手に入れた。


名もなき侍女Aは、物語の主人公になった。


そして——。


二人は、末永く幸せに暮らしましたとさ。


めでたし、めでたし。

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