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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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生きていて、良かった

作者: 雛雪
掲載日:2025/12/20

虐待ありなので、苦手な人は回避して下さい(>ㅿ<;;)

不幸な終わり方はしてません!(たぶん)

タマラは十二歳になるまで、自分が幸せだと疑わなかった。


母は貧しかったが、いつもタマラの髪を丁寧に梳いてくれた。少し傷んだリボンを宝物みたいに結んでくれた。

「泣かないの。笑って、強く生きなさい」

それが口癖だった。


そんな母が死んだのは雨の日だった。

事故だと言われた。

白い布の下の母は眠っているようで、

タマラは「起きて」と言いそびれた。


子爵家に引き取られた日、

大きな屋敷の廊下は冷たく、靴音だけが響いた。


「卑しい愛人の子」


その言葉を義母は淡々と口にした。

怒りも嫌悪ももうそこにあった。

服は一着しか与えられなかった。

洗っても乾かない夜、タマラは制服を胸に抱いて眠った。


学園では笑った。

母との約束だから。


教室の掲示板に紙が貼られた。

《校外学習 持ち物一覧》

タマラはそれをじっと見上げていた。


革靴。

替えの着替え。

上着。

小さな鞄。

お小遣い。

ハンカチ。

筆記用具。


(革靴……)

今履いている靴をそっと見てみる。

踵の内側がかなりすり減って、つま先は穴が開きそう。

でもまだ履ける。


「タマラも一緒だよね?」

後ろから声をかけられて振り返った。

クラスの女子が楽しそうに笑っている。

「うん」

自然にそう答えていた。

答えてから少しだけ胸が詰まった。


(……一緒、か)


その日の放課後、担任のクレメンティーナ先生に呼び止められた。


「タマラ。旅行費用のことなんだけど……」

その声は慎重だった。

壊れやすいものに触れる時の声。

「お家の方から、まだお返事が頂けてなくて」

タマラは頷いた。

「大丈夫です」

本当にそう思った。

行けないなら行けないでいい。

母と二人で暮らしていた頃、

遠くへ出かけたことはほとんどない。

楽しい、という感覚は

いつも誰かの話の中にあった。

「先生が立て替えることも――」

「いいです」

言葉が思ったより早く出た。

クレメンティーナ先生が一瞬黙る。

「……どうして?」

どうして、と聞かれても困る。

タマラは少し考えたあと微笑んだ。

「お金は大切ですから」

それは母の言葉だった。

だから、正しい。



家に帰ると、食卓には誰もいなかった。

冷えたスープの鍋だけが置いてある。

その横に小さな紙包み。

――《校外学習費用について》

開けなくても中身は分かった。

タマラは紙を戻し、代わりに持ち物一覧を書き写した。

持っていないものには印をつけない。

印をつけると無いことがはっきりしてしまうから。


翌日。

クラスは浮き立っていた。


「ねえ、どんな服着ていく?」

「舟、初めて乗るかも!」


タマラは窓際の席でそれを聞いていた。

楽しそうだ、と思う。

でも羨ましいとは思わない。

(よかった)

なぜか、そう思った。

羨ましいと思わなければ、悲しくならずに済む。


出発の日。

校門に並ぶ馬車をタマラは遠くから見ていた。

制服のまま。いつもと同じ鞄。


「行ってきます!」

誰かが手を振る。

タマラも小さく振り返した。


誰も気づかない。

気づかれないことに、胸が少し軽くなる。


(お母さん)

心の中で呼んだ。

(私、ちゃんと笑ってるよ)


馬車が一台ずつ動き出す。

砂埃が舞い、皆の声が遠ざかる。

校門の前に一人残っても、涙は出なかった。

代わりに思った。

――今日のお昼は何をしよう。

それだけだった。



担任のクレメンティーナ先生は何も聞かず、

旅行のあと、小さなお土産を持って訪ねてきた。


玄関の呼び鈴が鳴った。

その音にタマラは一瞬だけ顔を上げた。

すぐに視線を戻す。

自分に関係のある音ではない、と思ったから。


「……誰かしら」

義母の声がして、足音が遠ざかる。

タマラは針仕事を続けた。

古い袖口を少しだけ詰める。


「――タマラ?」


名前を呼ばれて手が止まった。

部屋の前に立っていたのはクレメンティーナ先生だった。

外套を手に、少しだけ緊張した顔をしている。


「突然、ごめんなさい」

「いえ」

タマラは立ち上がった。

何を言えばいいのか分からず、ただ頭を下げる。


先生の手には小さな包みがあった。

「……これ」

差し出されて、しばらく受け取れなかった。


「みんなで行った場所のお土産なの。

 クラス全員で同じものを買ったから」


“全員”。

その言葉が、胸の中で引っかかる。


「いらないなら――」

「いえ」

慌てて受け取った。

軽い。

中身が何か、だいたい分かる。


「ありがとうございます」

ちゃんと声に出せた。

先生は少し笑って、でもすぐに視線を逸らした。

「楽しかった、って……言いにくいわよね」

タマラは首を振った。

「大丈夫です」

本当に大丈夫だった。

先生は何か言いかけて、やめた。

代わりにタマラの手元を見る。

「……それ、縫ってるの?」

「はい。少し大きくて」

「そう」

それ以上、聞かれなかった。



先生が帰ったあと、義母は何も言わなかった。

包みだけが机の上に残った。


夜になってから、そっと開ける。

小さな木彫りの鳥。

羽を広げた形。


綺麗だ、と思った。

でも、どうしてか分からない。

タマラはそれを、引き出しにしまった。

一番奥に。


(お母さん)

心の中で呼ぶ。

(私、ちゃんとお礼を言えたよ)

それで十分だと思った。


その夜、羽ばたく鳥の夢を見た。



ある朝、

義母の手には一通の封書があった。

学園からの正式な書状。

封を切り、

一行目を読んだ瞬間——

彼女の指が、ぴたりと止まる。


紙を握る力が少しずつ強くなっていく。

静かな部屋に紙の軋む音だけが響いた。


——庶子の娘が正式な推薦を受けた。

——学園での態度と成績が優秀。

——特に担任教師からの評価が高い。


義母はそこまで読んで紙を折った。

ゆっくりと。

丁寧に。

まるで感情を畳み込むように。

同じ年の、自分の娘の顔が脳裏をよぎる。


(……なぜ)

声には出さない。


なぜ、あの子が。

なぜ、私の家で。

なぜ、あの人の——


義母は立ち上がった。

廊下を歩く足音は驚くほど静かだった。


タマラは部屋で木彫りの小鳥を磨いていた。

先生がくれた小さなお土産。

羽の一本一本まで丁寧に彫られている。


(……きれい)

そう思った瞬間、扉が開いた。

義母が立っていた。

何も言わない。

笑いもしない。

ただ、小鳥に視線を落とす。


——それだけでタマラの背筋が凍った。


次の瞬間、義母の手が伸びた。

小鳥が床に落ち、乾いた音を立てて転がる。


「——っ」

声を上げる前に頬を打たれた。

視界が白く弾ける。

倒れたところを引き起こされる。

義母は泣いていた。

声を殺し、

歯を噛みしめ、

涙をこぼしながら。

それでも手は止まらない。


理由は語られない。

叱責もない。

ただ、感情だけが叩きつけられる。


(……泣いちゃ、だめ)

母の声が頭の奥で響く。

タマラは唇を噛み、声を飲み込んだ。


痛みよりも、

理由が分からないことの方がずっと怖かった。


やがて義母は何も言わずに部屋を出ていった。

泣き声だけが廊下の向こうに消えていく。


床に木彫りの小鳥が落ちていた。

片方の羽が欠けている。

タマラはそれを拾い上げる。

指が震えていた。


「……ごめんなさい」


誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

ただ小鳥を胸に抱いて、しばらく動けなかった。


翌朝、タマラはいつも通り学園へ行った。

鏡の前で赤く残った痕を指でなぞる。


(……大丈夫)

そう自分に言い聞かせて、制服の襟をきちんと正した。


母の言葉を思い出す。

——姿勢を崩さないで。

——顔を上げて。

だから今日も笑顔を作る。


教室に入ると、いつもの喧騒が迎えた。


「おはよう、タマラ!」

誰かが声をかける。

彼女は少しだけ目を細めて微笑んだ。


「おはよう」

声は震えていない。


だが——

隣席のケイレブだけは気づいた。

タマラがいつもより瞬きをしないことに。

席に着いてもノートを開く手が少し遅いことに。


「……お前、」

声をかけかけて、彼は言葉を飲み込んだ。

代わりにじっと横顔を見る。


(何か、変だ)

けれど、それが何なのかは分からない。


授業中、クレメンティーナは教科書を読み聞かせながら、ふと目を止めた。


タマラは背筋を伸ばして座っている。

けれど目だけが、どこか遠い。


(……昨夜、眠れていない?)

彼女は小さく眉を寄せた。


——あの子は助けを求めない。

それをもう知っている。


昼休み。

タマラは一人、中庭の隅で昼食を取っていた。

木陰に腰を下ろし、小さな包みを開く。

中身は昨日と同じ簡素なパン。

それでも彼女は丁寧に両手で持って食べる。


(……お母さん)

胸の奥がきゅっと縮む。

理由は分からない。

涙も出ない。

ただ、突然いなくなってしまったという事実だけが冷たい石のように沈んでいる。


そこへ影が差した。


「……ここにいたのか」

ケイレブだった。


彼は少し迷ってから、タマラの前に立つ。


「その……これ」

差し出されたのは包み紙にくるまれた焼き菓子。

「家で余っただけだ。

 別に深い意味はない」

ぶっきらぼうな声。


タマラは一瞬、どう反応していいか分からず固まった。

優しさを向けられた時、いつもそうなる。


「……ありがとう」

受け取る指がほんの少し震えた。


ケイレブはそれを見逃さなかった。


(……やっぱり)

何かがいつもと違う。


だが彼はそれ以上踏み込まない。

ただ言った。

「無理するなよ」


タマラは笑った。

「してないわ」


それが彼女の精一杯の返答だった。



放課後。

担任のクレメンティーナはタマラを呼び止めた。


「少し、いい?」


教室に残る二人。

静かに椅子に座り教師は目線を合わせる。

「……最近、何か困っていることはない?」

タマラは即座に首を振った。

「ありません」

即答だった。

迷いも間もない。

教師の胸がきしんだ。

(……そう言うと思った)


「もし、何かあったら——」

「大丈夫です」

被せるように、はっきりと。

タマラは微笑む。


「私、ちゃんとしていますから」

その言葉が何より危ういと、クレメンティーナは思った。



帰り道。

タマラは木彫りの小鳥を思っていた。

ー欠けた羽。

それでも捨てられなかった。


(……直せるかな)

そう考えた自分に少し驚く。


——生きている限り、直せるものがある。

その考えはまだ言葉にならない。

ただ、胸の奥で小さく灯っただけだった。



その日は雨だった。

朝から空が低く、庭の石畳は暗く濡れている。

タマラが学園から戻ると、屋敷の中は妙に静かだった。

使用人の足音が必要以上に慎まれている。


呼ばれたのは義母の部屋だった。

扉の前で、タマラは一度立ち止まる。

胸の奥で小さく息を吸う。


(……大丈夫)

そう言い聞かせる癖だけが体に残っている。


部屋に入ると義母は窓の前に立っていた。

背中だけが見える。

テーブルの上に小さな物が置かれている。


——木彫りの小鳥。

昨日、引き出しにしまったはずのもの。

欠けた羽のまま、磨かれた木肌が冷たく光っている。

胸がわずかに跳ねた。


義母は振り返らない。

何も言わない。

ただ、その小鳥を見つめている。

その沈黙があまりにも長い。


タマラは思わず口を開いた。

「……それは学園の先生から——」

最後まで言えなかった。


小鳥が硬い音を立ててテーブルに叩きつけられる。

次の瞬間、小鳥は床に落ちた。

乾いた音。

壊れたのは羽だけではなかった。


義母の肩が激しく震えている。

「……触るな」

声は低く、かすれていた。


タマラは動けない。

理由は分からない。

けれど、これが“合図”だということだけは分かる。


頬に衝撃。

音の方が先に届いた。

視界が白く揺れ、床が傾く。

義母は泣いていた。

歯を食いしばり、涙を流しながら、何度も手を振り下ろす。

言葉はない。

叱責も、説明も、罪状も。

ただ、溜まり続けた感情だけが、タマラの体にぶつけられる。

彼女は耐える。

叫ばない。

泣かない。

母の声が遠くで響く。


——泣かない。

——姿勢を崩さない。


唇を噛みしめ、血の味を飲み込む。


義母の嗚咽が部屋に落ちる。

「……どうして」

それは誰に向けられた言葉でもなかった。

けれど、その場にいるのはタマラだけだった。


やがて、義母の腕が落ちる。

床に崩れ、肩を抱えて泣く。

タマラは倒れたまま、木彫りの小鳥を拾い上げた。

欠けた羽に指を当てる。


(……壊れてる)

でも、それ以上の感情は湧かない。

悲しいとも、悔しいとも、思わない。

——ここでは、そうなるのだ。

理解しただけだった。

それから数日、家の中でタマラは「いないもの」のように扱われた。

呼ばれない。叱られもしない。視線だけが避けられる。


木彫りの小鳥は割れた羽のまま引き出しに戻した。

直そうとは思わなかった。

直していいものか分からなかった。



ーその日は朝から雨だった。

学園は休みではなかったが、タマラは行かせてもらえなかった。

理由は聞いていない。

聞かれなかったし、説明もなかった。

制服を着て立っていると、義母は一度だけ視線を向けた。

それだけだった。


昼過ぎ、屋敷の裏庭に呼び出された。

雨に濡れた噴水の前。

水は止められているはずなのに、底には雨水が溜まっている。

義母は何も言わずにタマラの腕を掴んだ。

抵抗はしなかった。

噴水の縁に強く押し付けられる。

冷たい石が背中に当たる。


次の瞬間、水音。

顔が水に沈められた。


息が止まる。

反射的に暴れそうになって、でも、すぐに力を抜いた。

——騒いだら、余計に。

それをもう学んでいた。


水の中で視界が揺れる。

音が遠くなる。

肺が焼けるように痛む。


引き上げられたのは限界の少し手前だった。

空気を吸うと喉が裂けそうになる。

咳き込む暇は与えられない。

もう一度、沈められる。


義母は泣いていた。

嗚咽を噛み殺しながら、無言で、ただ沈める。


「……っ」

声にならない音が水に溶ける。


(……殺される)

その考えだけが不思議と静かに浮かんだ。


——でも。

——そうなっても、いい。

母のところへ行けるなら。


引き上げられた時、義母は力を失っていた。

その場に座り込み、顔を覆って泣く。


タマラは噴水の縁に手をつき、水を吐きながら立ち上がった。

足が震える。

けれど泣かなかった。


義母を見なかった。

見てしまえば、何かを期待してしまいそうだったから。


そのまま庭のテラスへ連れて行かれる。

柱に縄で縛られた。


雨は強くなっていた。

義母は最後まで何も言わなかった。

ただ一度だけ振り返った。


その目は怒りでも憎しみでもなく、壊れていた。


扉が閉まる。

一人になる。



雨が容赦なく落ちてくる。

髪を伝い、顔を伝い、服を重くする。

寒さがじわじわと体を侵す。

指先の感覚がなくなっていく。


(……寒い)

(……苦しい)


でも、それ以上は考えなかった。

考えると、助けを求めてしまいそうだった。


——誰も来ない。

それはもう分かっている。


夜が近づく。

空が暗くなる。

その中でタマラは初めて、心の中で言った。


(……もう、いい)

(……生きなくて)


母の顔が浮かぶ。

優しい声が聞こえる気がする。


——よく頑張ったわね。

それだけで十分だった。



縄が緩んでいることに気づいたのは、意識が朦朧とした頃だった。

指をわずかに動かす。

痛みで頭が覚める。


(……外れる)

時間をかけて少しずつ。

ほどけた瞬間、体が崩れ落ちた。

地面の冷たさも、もう感じない。

ただ、立ち上がらなければと思った。


——どこへ行くのかは分からない。

ただ、ここではない場所へ。


雨の中、タマラは歩き出した。

ふらふらと灯りのない道へ。

やがて力尽きるように倒れた。

視界が暗くなる。


最後に思ったのは、

(……お母さん)

(……迎えに、来て)


冷たい雨音が遠くで鳴っている。

それが、まだ現実なのかどうかも分からなかった。


タマラは道の端に倒れていた。

泥と水が混ざり視界は白く滲む。

体がまったく言うことをきかない。


(……寒い)

そう思ったはずなのに、寒ささえ、どこかへ消えていく。


——このまま、眠ってしまえば。

その考えが怖くなかった。



「……止まれ」

低い声がした。

馬の足音が止まり、水を弾く音が近づく。


「……人だ」

誰かが駆け寄ってくる気配。

タマラは目を開けようとしたが、まぶたが思うように動かなかった。

ただ温かい何かが肩に触れる。


「……子ども?」

驚きと戸惑いが混じった声。

それから、はっきりとした焦り。

「父上、ひどい熱だ」

——ケイレブだった。


彼は雨の中で倒れている少女を見て、一瞬、息を止めた。

「……タマラ?」

返事はない。

彼女の髪は濡れ、唇は紫色に近い。

「急いで乗せてください」

その声はもう命令だった。



馬車の中は外とは別の世界だった。

毛布に包まれ、何か温かいものが体に触れる。

誰かが濡れた髪を拭いている。


「……しっかり」

声が近くて遠い。

タマラは微かに眉を動かした。


その瞬間、ケイレブの胸がぎゅっと締めつけられる。

「生きてる……」

それだけで喉が詰まった。



屋敷に着くとすぐに医師が呼ばれた。

使用人たちが慌ただしく動く。

ケイレブは部屋の外で立ち尽くしていた。

手が震えている。


「……どうして」

問いはどこにも向かわない。

なぜ、こんな姿で。

なぜ、誰もそばにいない。


父——侯爵は静かに息子の肩に手を置いた。

「……連絡を」

「はい」

「タマラの家へ」

一瞬、ケイレブの顔が曇る。

それでもうなずいた。


だが、戻ってきた使用人の言葉は短かった。

「……そのような娘は屋敷にはおりませんと」

空気が凍りついた。


「……何だと?」

侯爵の声が低くなる。

「念のため確認しましたが、“知らない子だ”と……」

ケイレブは唇を噛んだ。

胸の奥で何かが崩れる。


——否定された。

——存在ごと。

「……そんな、」

思わず声が漏れた。


学園で誰よりも背筋を伸ばし、いつも明るく笑っていた彼女。

それが“いない”と言われる。


「……帰せません」

ケイレブははっきり言った。

「そんな家に帰せるわけがない」



その頃、タマラは意識の底で揺れていた。

温かい。

暗くない。


——お母さん?

そう呼びかけようとして、言葉が形にならない。

ただ胸の奥がじんわりと痛む。


(……まだ)

(……生きてる)

その事実が、重くて、少しだけ怖かった。



医師の声が遠くで聞こえる。

「……峠は越えました」

「ですが、心が——」

「……ええ」

それ以上、言葉は続かなかった。



夜。

部屋の隅で、ケイレブは椅子に座っていた。

眠らないまま。

タマラの寝顔を見つめている。


(……どうして)

(……こんなになるまで)

彼女は一度も助けを求めなかった。

それが今になって胸を締めつける。


タマラの指が微かに動いた。

ケイレブは息を呑む。


「……タマラ?」


唇がかすかに動く。

声にならない声。


——ごめんなさい。

そう言っているように見えた。


ケイレブは目を伏せた。

「……謝るな」

震える声でそう言った。

「生きてるだけで……それでいい」



静かな夜だった。

雨はいつの間にか止んでいた。

タマラはまだ眠っている。

けれどその胸は確かに上下していた。

それだけが今はすべてだった。


翌朝、窓の外は白く霞んでいた。

雨はすっかり上がり、庭の木々が濡れた葉を揺らしている。

タマラはまだ眠っていた。

眠りは深いが、時折、まぶたがかすかに動く。


悪夢を見ているのか、それとも——

何も感じていないのか。


医師は小さく息を吐いた。

「命は助かりました」

その言葉に部屋の空気が少しだけ緩む。

「ですが……」

続く言葉にケイレブは身構えた。

「精神が深く疲弊しています。この年齢で、ここまで生きようとしないのは……」

医師は言葉を選んだ。

「危うい」



昼頃、タマラは目を覚ました。

天井が見知らぬ色をしている。

少しだけ首を動かし、部屋を見渡す。

カーテン。

椅子。

静かな空気。


(……どこ?)

声を出そうとして、喉がひりつく。


その小さな動きにケイレブが気づいた。

「……起きた?」


彼はそっと近づく。

タマラの目がゆっくり彼を捉える。

しばらく何も言わない。

——言えない。


「……ここは」

ようやく、かすれた声。

「俺の家だ」

一瞬、タマラの瞳が揺れる。

「……どうして」

ケイレブは応えに詰まる。

正しい言葉が見つからなかった。


「……道に倒れてた」

それだけ言った。

タマラは小さくうなずく。

「……そう」

それ以上、何も聞かなかった。



数日後。

タマラはゆっくりと歩けるようになった。

だが感情は戻らない。

笑わない。

泣かない。

怒らない。

礼儀正しく、静かで、何も欲しがらない。

侯爵夫人はそれが一番、胸に刺さった。


「……欲しいものは?」

そう尋ねてもタマラは首を振る。

「ありません」

その言葉が何度も繰り返される。


——あるはずなのに。



その日、客が訪れた。

小さな影が玄関に立っている。

「……姉を返してください」

異母弟だった。

二つ下の少年。

彼は強く拳を握っている。

「タマラは、うちの家の子です」


ケイレブは静かに彼を見た。

「……君は」


「いとこだと、ずっと言われていました」

声が震える。

「でも……違うと聞きました」

そこで初めて知った。

同じ父を持つことを。


「……返してください」

少年は必死だった。


ケイレブは一歩も退かなかった。

「返せない」

「どうして!」

「愛人の子だからといって、傷つけていい理由にはならない」


その言葉に少年の顔が歪む。

「……知らなかった」

その事実が彼を打ちのめした。



タマラが毒を飲んだと知らされたのはその夜だった。


部屋の中は静かだった。

薬草の匂いがまだ薄く残っている。

タマラはベッドに横たわっていた。

顔色は白いが、胸は確かに上下している。

それを確認した瞬間、ケイレブはようやく息を吐いた。


——生きている。

それだけで足の力が抜けそうになった。


医師は小さな瓶を布に包みながら言った。

「古い毒です。量も保存状態も悪い」

「……では」

「運が良かっただけです」

淡々とした声。

「助かったのは。生きていて良かった」

その言葉が妙に胸に残った。


生きていて良かった。


——だけど生き残ったのは望まれた結果ではない。


ケイレブはベッドの脇に置かれた小箱に目を向ける。


中には欠けた羽の木彫りの小鳥。

その下に布に包まれた小さな瓶。


(……前から持っていたんだ)


彼女はずっと準備していた。

誰にも言わずに。



タマラはゆっくりと目を開けた。

視界が定まるまで少し時間がかかる。


天井。

知らない部屋。


それでも驚かなかった。


「……起きたな」

ケイレブの声。


彼女はそちらを見る。


「……どうして」

声はほとんど息だった。


「生きてる」

それだけ答えた。


タマラは小さくうなずく。

「……そう」

それ以上、何も言わなかった。



その時、扉が開いた。

小さな影がおずおずと入ってくる。

「……姉さん」

異母弟だった。

十歳の、まだ細い肩。


彼はタマラを見るなり、立ち止まった。


「……ごめんなさい」

それだけ言って泣いた。

理由も、説明も、言葉にならないまま。


タマラは彼を見つめていた。

しばらくして、ゆっくりと口を開く。

「……泣かなくていいよ。

あなたは何もしてないじゃない」

それは慰めでも拒絶でもない。

ただの事実だった。


さらに扉の向こうに人影が見える。

担任のクレメンティーナ。

そして——父。


父は一歩も中へ入らなかった。

部屋の入口で立ち尽くしている。

視線はタマラに向いているのに近づかない。

彼の膝がゆっくりと折れた。

音もなく、その場に崩れる。

嗚咽が抑えきれず漏れる。

だが、「すまない」も「愛している」も口にしない。


言えないのだ。

言葉にすればすべてが嘘になると分かっているから。


クレメンティーナは静かに泣いていた。

——守れなかった。

それだけが胸に残っている。


タマラはその光景を見ていた。

泣く人たち。

崩れる大人。

自分のために。


不思議だった。

胸の奥が少しだけ重い。


(……私が生きているから)

そう思った。


——生きているから誰かが泣く。

それは今まで知らなかったことだった。


木彫りの小鳥をそっと胸に引き寄せる。


欠けた羽。

壊れたまま。


それでもここにある。


「……生きてみようかな」

誰に向けた言葉でもなく、ただ心の中で。

誰かに「生きていてよかった」と言ってもらえるように。

その日が来るかどうかは分からない。


でも——


タマラは目を閉じた。


まだ生きていた。


少しは恋愛要素あった?

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