レドウ修道会(2)
「黒水晶……!!」
修道士たちの死体が散らばっている。
黒鉄の鎧を着込み、黒水晶の面頬をつけた剣士が、その中に立っている。
父を殺し、討伐隊の仲間を殺し、ウィリアを二度も犯した、不倶戴天の敵。黒水晶の剣士だった。
「……!!」
ウィリアの頭の中は混乱した。
殺したい。
だが一方で、理性が彼女を止めた。
黒水晶の力は強大だ。いくら修行を重ねた今でも、相手にならない。負ける。負けて殺される。
黒水晶はウィリアを見た。
水晶の奥で、眼が光ったような気がした。
ウィリアは逃げた。
いまは、黒水晶には勝てない。
戦ってはいけない。逃げるほかはない。
黒水晶が追ってきた。音でわかる。
逃げる。
だが、奴の方が速い。
追いつかれる。
黒水晶の剣が、背後からウィリアの首を狙う。
見なくても、剣の殺気は感じられる。
ウィリアは壁を蹴り、横に跳んだ。
黒水晶の剣が空を切った。
「ほう?」
黒水晶は意外そうな声を出した。
ウィリアの体が転がる。
起き上がる。
黒水晶がいた。
こちらを睨んでいる。
ウィリアも、黒水晶を睨み返した。
走って逃げることは不可能だ。
剣を構える。
黒水晶が口を開いた。
「……フォルティスの、娘だな?」
「……」
「やはり妊娠はしなかったようだな。……忘れたか? 三回目はないと言っていたはずだ」
ウィリアは眼に力を入れて、黒水晶を見た。
黒水晶はウィリアに左手を突き出した。
左手に念を込める。
麻痺の妖術だ。
しかし、麻痺よけの効果を肉体化しているウィリアには効かなかった。
黒水晶は意外という口調で言った。
「麻痺よけを肉体化していたか。それに前に会ったときより、だいぶ腕を上げたようだ。たいしたものだ。だがな……」
黒水晶は、持っていた剣をなぜか鞘にしまった。
次の瞬間、ありえないほど高速に動いて、拳でウィリアの腹部を殴った。
「ぐふっ!!」
ウィリアの体が大きく飛んで、通路に転がった。
黒水晶は倒れたウィリアを足蹴にした。脇腹にあたり、肋骨の折れる感触がした。
黒水晶は、ウィリアの胸ぐらをつかみ、持ち上げた。
「わかっているんだろう? 俺の強さは? その程度の腕では、まったく相手にならないということが」
ウィリアはまだ剣を握っていた。
黒水晶を突こうとした。
だがその寸前に、黒水晶はその腕を握り上げた。
骨の折れる音がした。
「うあっ!」
黒水晶はもう一度ウィリアを蹴飛ばした。体が転がる。
「報告は受けている。フェリク、タイガ、そしてギネオンもか? 部下をやってくれたようだな。本当にたいしたものだ。お前は偉いな。父の仇をとるためにすべてを捨てたのだろう? しかし……」
さらに蹴った。
「俺はそういう奴を、何人も倒してきた。父の仇、母の仇、主君の仇などとほざきながら、向かってきた奴をすべて殺した。わかるか? 恨みだろうが、執念だろうが関係ない。強い者が勝って、弱い者は死ぬんだ」
もう一度大きく蹴った。体が遠くに飛ばされた。
「……」
黒水晶が近づいてくる。
ウィリアは、左手で懐を探し、ジェンからもらった魔法札を取った。
それを振って、剣にまとわせた。
折れた右手に渾身の力を込めた。振り向きざま、黒水晶に向かって魔法剣を放った。
魔法剣の力が黒水晶に向かった。
黒水晶は直前にそれを察知し、体を動かした。
魔法剣はわずかに、黒水晶の右手に当たった。二本の指が落ちた。
「……!」
当たった……!
わずかなりとも、黒水晶に傷をつけることができた。
しかし……。
「……」
黒水晶は、斬られた指の断面を見つめた。
手に力を込めた。
見る見る、指は再生した。
「あ……」
魔法剣さえも、効かなかった。
もはや、何もできない。
黒水晶は、自分の再生した指を見た。そして、笑い出した。
「あははははは」
ウィリアに近づき、まだ剣を握っている右手を蹴り飛ばした。また骨が折れた。剣は向こうに落ちた。
「お前には感心させられる……。フォルティスの娘よ。人間で、この俺に三回会ったのは、お前が唯一だ。そして、傷をつけたのも唯一だ」
もう一度胸ぐらをつかみ、顔を覗き込んだ。
「褒美に、死ぬ前に好きなことを言わせてやる。言い残したことがあれば言え」
ウィリアの目の前に黒水晶がいる。
何もできなかった。
何もできないまま、殺される。
死ぬ。
「……」
なぜか、以前の時とは異なる感情が湧いてきた。
死にたくない。
生きていたい。
だが、死ななければならない。
涙が溢れた。
自分は、死にたくないという恐怖に苦しみながら、死ぬのだ。
ウィリアは全身の痛みをこらえながら言った。
「……言い残すことは何もない。殺すがいい」
「……おまえ、泣いているのか?」
「……」
「死ぬのが怖くて、泣いているのか? すべてを捨てたおまえが?」
「……そうだ。わたしは、死ぬのが怖い。すべてを捨て、修行を重ねた結果が、このざまだ。笑うがいい。これがわたしの到達点だ。さあ、殺せ」
「……」
黒水晶は、少しの間、無言だった。
ウィリアは死を覚悟していた。
死ぬ。
死にたくない。
せめて、一目会いたい。一目会って死にたい……。
涙は溢れ続けた。
「ははははは」
黒水晶は哄笑した。
「正直な奴だ。気に入った」
黒水晶は、ウィリアを床に放り投げた。
そして体の上に乗った。
「な……何を!」
「もう一回だけ、花嫁にしてやる。どうせ子供は産まれないだろうがな!」
黒水晶はウィリアの鎧と服を引きちぎった。胸から下半身までが露わになった。
「や! やめろ! もてあそぶくらいなら、すぐに、殺せ!!」
ウィリアは痛む全身をねじらせながら、はかない抵抗を試みた。
「……すでに汚れたおまえが、なぜ、拒む?」
「……」
「好きな男でもできたか?」
「……そんなのは、いない……」
「では、抱いてやる」
「や、やめろ! いや!」
そのとき、通路の向こうから足音がした。
黒水晶がそれに気付いた。
「邪魔を……」
立ち上がり、そちらに向かおうとする。
ウィリアははっとした。
この修道会に来るとしたら、ジェンに違いない。
ウィリアは精一杯の声をあげた。
「来ないでーっ!! 来ちゃだめーっ!!」
しかし、足音は早がけで近づいてきた。
黒水晶が何歩かそちらに向かった。
そのとき、黒水晶に異変が起きた。
「うっ……!!」
動きが止まった。
「……」
黒水晶はウィリアを振り返った。
「……運のいいやつだ……」
そう言うと、黒水晶は剣で壁を破壊した。そして建物の中から去って行った。
入れ違いに、通路の向こうからジェンが走って来た。
「ウィリア!」
「ジェンさん……!」
駆け寄ってくる。
ウィリアはとっさに、露わになった自分の体を、ジェンから隠した。
「み……見ないで! 見ないでえ……!」
ジェンの足が止まった。
「おねがい……! 見ないで……!」
不思議な感情だった。
ジェンにはすでに、自分の裸体を見せている。いまさら隠しても、何も意味はないはずだ。
しかし、黒水晶に顕わにされた体を、ジェンに見せるのだけはどうしても嫌だった。
ジェンは遠くから、治癒魔法を使ってウィリアを治癒し、服と鎧を再生した。
ジェンが駆け寄ってきた。
「ウィリア……!」
「……」
「黒水晶……なのか……?」
ウィリアは、ジェンの胸に抱きついて、泣いた。
暗い空間であった。
黒水晶の剣士は、膝を抱えて座っていた。
話しかける者がいた。
〈親友よ……〉
「……」
〈あまり遊ぶものではない。地上に長くいるのは、我にとっても苦しい。太陽の光もそうだが、月の波動……。それによって、我の中にある大量の魔力が湧き上がる……。苦しくてたまらぬ……。早めに切り上げてくれ……〉
「……わかっている。苦しいのは俺も同じだ」
〈それに……。あの女に、情けをかけたか? 刹那もかからずに殺せたはずだ。脅かす者の芽は、すぐに摘んだ方がよい……。あれは、取るに足らぬものではない。下っ端とは言え部下を倒されている……。見逃さず、殺せ……〉
「情けではない。ただの気まぐれだ……。次に会ったら見逃しはしない。必ず殺す」
殺された修道士の中で、蘇生できる者はいなかった。
二人は山道を下った。できるだけ早く、レドウ修道院が壊滅したことを知らせなければならない。
「……」
ウィリアは無言だった。
いままで、命を捨てる覚悟で修行をしてきた。だが、黒水晶には、まったく歯が立たなかった。奴が気まぐれを起こしていなければ、すでに命はなかった。
ぽつりと、言った。
「ジェンさん……」
「ん?」
「まったく、相手になりませんでした……」
「……」
「剣も、魔法剣も……。わたしがしてきた修行は、無駄だったようです……」
「……」
「どうしたら、奴を倒せるのでしょうか……。どうしたら……。どうしたら……」
ウィリアの眼から涙がこぼれた。
ジェンもまた、無言のまま歩いた。
しばらくして、言った。
「知恵をお借りしよう」
ウィリアはジェンの顔を見た。
「お借りしよう……って、誰に?」
ジェンは真顔になり言った。
「ウィリア、行こう。僕の師匠、『森の魔女さま』のところへ……」