王城
王都エンティ。ひときわ高い王城が、周囲を睥睨している。
大陸の大半を治める国王、ディド五世は多忙であった。王国の各地から上がってくる報告、陳情、それらを一日中処理をしている。
さらに今は、全土で魔物の動きが活発化していて、その対応にも追われていた。
現在の王国には、もっと大きな懸念もあるが、それへ対処する手立ては見つからないままだった。
ここしばらく、仕事が終わると夜になっている。
数十年間君臨してきた王の顔には、深い皺が刻まれている。その目の力は健在だが、老いは確実に忍び寄ってきている。
大臣が上奏する。
「再度のことになりますが、ソルティアとゼナガルドから、領主空位期間の延長を認めてほしいとの要望が来ております。どういたしましょうか……」
「領国がそう希望するなら、そのようにさせよ」
「しかし、どちらも、空位期間が一年近くになります。そろそろ、新領主を決めろと催促した方がいいのでは……」
「まだいい……。どちらも家臣団がしっかりしている。問題はない。それに……」
「?」
「いま領主を決めても、次に何かあれば、どうしようもないではないか……」
「はっ……」
大臣は頭を下げて、退去した。
ようやく仕事が終わった。
「ふう……」
国王はため息をつき、執務室を出た。書記が頭を下げて見送った。
少しして執務室に、硬い表情の人物が入ってきた。
「陛下はお帰りか?」
初老で、鋭い顔つきの武人。参謀長のワトーである。長年王家に仕える家の出で、国王の信頼も厚い人物だ。
「少し前にお出になられました」
ワトーは王を追った。
執務室から王の御座所まで廊下がある。外に面しており、途中にベランダがいくつかある。
「おや?」
ベランダの扉が開いていた。
王はベランダにいた。月を見ている。
「陛下、ここにおいででございましたか」
「ワトーか。なにか、用か?」
「はっ。畏れながら、ご報告が……」
「よい報告ではなかろうな……。まあ、聞こう」
ワトーは国王の耳に口を近づけた。
「北部の秘密基地が、変化兵の襲撃を受けました。全滅は免れたものの、被害は甚大とのことです」
王は大きなため息をついた。
「秘密基地までやられたか……。奴等には、何も、隠すことはできないようだ。魔術的な方法でもあるのか、すべて見通している」
剣士「黒水晶」やその手下たちが、王国に対してしばしば破壊行動を起こしていた。黒水晶本人が現れるのは月に一回、完全な新月の前後数十分に限られる。しかし手下とみられる「変化兵」は、一月に何度も襲撃を重ねていた。
王国でも対処を模索しているが、その情報は彼らにつつぬけだった。三回、討伐のための部隊を組織したが、いずれも感知され、襲撃されて悲惨な結果に終わっていた。
「黒水晶」の正体を確認した者はいないが、王国の主な者は確信していた。エンティスが「皇太子戦争」で滅ぼしたファガール国の、王子レイズであると。
彼は人を殺め、逃亡した。そして、どこかで魔の力を手に入れたのだろう。その力でエンティス王国に復讐しようとしているのだ。
国王は月を見上げた。
「手足をもがれるようだ……」
これまでに、王国の重臣、多くの都市、施設などが襲撃に遭っている。撃退できる場合もあるが、常にそうではない。そして、黒水晶本人が現れる襲撃では、撃退に成功したことはなかった。彼はあまりにも強く、勝つことも守ることもできなかった。黒水晶を退かせることができるのは、時間制限のみであった。
ワトーが言った。
「陛下、この寒さはお体に障ります。お入りください」
王はそれに答えず、言った。
「……月を見ると、安心するのだ。次の新月までは、黒水晶自身の襲撃はない。わしの命も、そこまではあるのだと……」
「……」
「やつの最終的な目標は、まちがいなく、わしだ。そして、そのときには、自身が出てくるはずだ。直接、わしを殺しに」
「何をおっしゃいますか。この王城には、我々武人たちも、魔法使いたちもおります。やつを近づけさせはいたしません」
「普通の敵なら、そうであろう。だがやつは違う。魔の力を持った者……。それも強大な……。いずれ、わしは殺されるだろう。それはしかたない。それだけのことをしてきたのだから。
だが、やつの行動はそれだけには留まらないだろう。王国全体の滅亡。そして……。その後はわからぬが、多くの者が死ぬであろう。もしかすると、あのときの戦争よりも……」
「……」
「ワトーよ」
「はっ」
「あの会議のことを、覚えているか?」
「勿論でございます。陛下の毅然としたご決断、目に焼き付いております」
「毅然とした決断などではない。あの時、わしは、迷っておった……。
和平を唱えるニモの言葉、どれも、その通りだと思った。ネスを殺したのは王族ではない。ネスは和平を願っていたと……。
あのときわしが選べば、和平が実現したはずだ。だが、それは、ネスを殺した者への復讐を、他人に委ねることになる……。
和平を選択すべきだと、何度も思った。それが正しいとわかっていた。しかし……復讐を委ねることが、我慢ならなかった……。そしてわしは戦争を選んだ……。わしはわしに負けたのだ」
「陛下……」
「その結果として、有能な臣下を、数多く失った。親を失った子供、子供を失った親たちを、数多く作り出してしまった。わしさえ我慢していれば、ネスだけで済んだものを……。さらに、ひとつの民族を滅ぼすという大罪までも……。
この老人の命を捧げれば済むのなら、すぐにでもそうするが……。それで許されるとは思えぬ。どうすればいいか、わからぬのだ……」
王はまた月を見た。
月の光が王を照らし、背後の壁に影を映していた。
横にいる参謀長ワトーにも、月の光が当たった。同じように、壁に影を映していた。
しかし、その影の口元が、歪んだ微笑みをたたえていることに、気がつく者は誰もいなかった。