5 お茶会
アリス達が悲鳴のしたところである資料室へとついた時、そこにはもうすでに人だかりができていた。次の教室へと向かおうとしていたクライストチャーチの生徒達だろう、みんなが物珍しそうに人衆の中央を眺めていた。
アリス達は、人混みをやんややんやと掻き分けて中に入っていった。途中、すでに対応していた警備員さんに止められたりもしたけれど、レオポルドが顔を見せれば、その人もすぐさまどいてくれた。
「姉さん!」
果たして、人混みの中央にはアリスのお姉さんが倒れていた。胸部から服に血が滲んでいるのがわかる。どうやら怪我をしているようで、微かにうめき声をあげていた。居合わせた人たちが懸命に応急処置を施そうとしているようだったけれど、みんな経験がないのか、あたふたしているだけであった。
「下がれ下手くそどもめ! 俺がやる!」
そこで声を荒げたのは、まさかのリバーだった。彼はアリスの姉さんに駆け寄ると、周囲の人からハンカチやタオルを奪い取り、慣れた手つきで出血を抑えた。
「救急医ぐらいは呼んでるんだろうな?」
「いえ……」
「ちっ、アホどもめ! すぐに探して連れてこい! ただし消毒法をよくわかってるやつだけだ!」
リバーはそう言って、適当に野次馬を二人ほど指名して救急医を呼びに行かせた。それからリバー自身はアリスの姉さんの体を刺激しないように、安定した体勢にした。
結局、それから5分ぐらいで救急医が来て、アリスの姉さんは医務室へと運ばれていった。アリスはこの一連の出来事を、懸命に接するリバーの後ろで、ただ現実味のない恐怖と呆然に包まれているしかなかった。
「豚の赤子?」
「ええ、現場には子豚を象った置物が置いてあったそうです。第一発見者が保管していました。……それと、凶器と見られるナイフもそばにあったそうですが、そちらは触らずに置いていたようです」
「そうか……。アリス、これもお前の夢の見立てなのか?」
まだ現実味を取り戻していないアリスには、レオポルドの言葉にうなづくことが精一杯だった。そうだ、今度は姉さんが襲われた。幸い傷が浅くて大事には至らなかったようだけれど、多分また、命が狙われた結果なのだろう。
自分の見た夢に従って、自分の大切な人や物が傷つけられていく。更には犯人もわからない。ーーーーアリスはここに来て、この事件について考えるのをやめたくなってしまうほど激しい恐怖にさらされた。
「今回の事件は今までとは違う……完全に犯人候補がいない衆人密室か……」
レオポルドは苛立たしげにそう呟いた。今回の事件、アリスの姉さんが倒れていた資料室へと繋がる通路全てに、無関係であろう人達がいた。その人たちの証言を総合すれば、『アリスの姉さんは一人で資料室へと向かった。そのあと悲鳴が聞こえるまで誰も資料室へは行かなかった』と言うことになる。つまり誰にも犯行が不可能な事件だったのだ。
唯一の手がかりとなりそうだったアリスの姉さんの証言も、「部屋に入ったら中央に変な置物が置いてあって、それを手に取って眺めてたらいきなり後ろから殴られて、振り返ったところをナイフで刺された。犯人は黒ずくめの衣装を着ていた程度で、顔も体型もわからない」という、なんとも頼りのないものしかなかった。当然通路にいた人たちは逃げていく人など見ていないと言っているわけで、あまりに調査のしようがない。アリスの話を知っているとされる人々はみんな事件当日理科実験室にいたわけであり、つまりこれはもう完全にお手上げの状態であった。
「姉さん、大丈夫?」
「ええ、まだ痛むけど、だいぶよくなってきたわ。リバーさんの処置のおかげね。今度あったらお礼しなくちゃ……」
毒入りケーキの時とは真逆。ベットに仰向けでいる姉さんを、アリスはさっきからつきっきりで見守っていた。アリスは心の中で何処か、事件が続いたとしても、もう毒が盛られるみたいな危険なことなんて起きないだろうと言う根拠のない思いがあったから、それが裏切られて、また泣きそうな気持ちになっていた。
しかも、今までとは違って、犯人の候補すら出てこないときたら、アリスの頭の中はもう精一杯だった。そのせいでアリスは『不思議の国の住民達が、最近行ってあげれていないせいで、癇癪を起こしてこんなことをしてるんだ』なんて全く御伽噺のような考えを、半ば本気で信じ始めていた。
「……私のせいだわ」
姉さんに聞こえないようにアリスは呟く。小さなアリスのベットにいる姉さんは、なんだか儚げで、とことんまで元気がないように見えた。
姉さんがこうなったのは、自分のせいなのだ。でも、どうしよう、もう私は、不思議の国にはいけないのよ。ーーーー大切な姉さんが傷つけられたと言うのに、何も出来ないのが、歯痒くて、歯痒くて、アリスの頬にはやっぱり、涙が伝い始めてしまった。
「たいへんだ! たいへんだ!」
ふと、声が聞こえた。
「遅刻しそうだ!」
アリスはすぐに声のしたーーーー窓の外の方ーーーーを見た。そこには確かにあの白うさぎが、懐中時計を見つめながら、何処かへと急ぐ姿があった。
「まずいまずい! 帽子屋に足だけのキーホルダーにされちまう!」
アリスは何も言わずに、何も考えずに、自然にその白うさぎの後を追っていた。まるでそうしなければならない使命を負ったように、そこに行けば、全部解決するのだと確信を持ったように、とっても確かな足取りだった。
七歳の時とは違って、もはや走る必要もなかった。それで、アリスはいつのまにか大穴の前にいて、そして何も疑わずに、そこに飛び込んだ。
アリスは、見覚えのある家の庭に立っていた。木陰にテーブルが置いてあって、ハッタとヘイヤが座って茶を飲んでいた。二人の間にはネムリネズミがいて、前みたいにひじ掛けにされていた。あとからさっきの白うさぎがやってきて、ハッタの対面の、空いていた席に座った。アリスもなんとなく、その白うさぎの隣の大きな肘掛椅子に座った。ハッタもヘイヤも白うさぎも、その様子をじっと眺めていたけど、何も言わなかった。気まずくなって、アリスはテーブルの上をぐるりと見まわしてみた。前の時とは違って紅茶だけというわけじゃなくて、いくつかの卵料理が置かれていた。
「どうしたの? これ。気が利くじゃない」 とアリスが言った。
「きみ、久しぶりに茶会に来たと思えば、第一声がそれかい」
ウカレウサギにしてはとってもまともなことをヘイヤは言う。
「あら、あなたにしてはまともなことを言うじゃない。まだ今日は四月よ」
「ここに今日も昨日もあるものかい。時間さんはまだ働いてないんだぜ」
「そう、そうだったわね」
久しぶりすぎて、いろいろと忘れていたけれど、アリスはだんだんと、この世界のことを思い出してきたんだ。
「それで、これはどうしたの?」
「なに、ハンプティ・ダンプティのやつがまた滑り落ちたんだ」
「じゃあ、これ、全部あいつなの? やだわ。私あんまりあの卵好きじゃないもの」
「可哀想にな、あいつは案外お前思いの奴だったんだが」
ヘイヤはそういって肩をすくめると、自分のカップに残っていた紅茶をすすり始めた。そこでやっと、アリスは帽子屋が静かなのに気が付いた。
「あれ、ハッタ。前みたいに会話に入ってこないのね」 とアリスが話を振ると、
「ん、おや! おまえさん、久しぶりじゃないか! 今までどこをほっつき歩いていたんだ!」 と大袈裟にハッタが驚いた。アリスは「今更なの?」という疑問を抱かざるを得なかった。
「はは、おまえさん、髪を切ったろう。うん、うん、不思議の国を救った英雄殿にふさわしいお姿だ。アリス、万歳!」
また大袈裟な様子でハッタが言うので、アリスはなんだか辟易してしまった。第一、アリスは別に自分の夢の世界を救った覚えはない。明らかにとんでもなさそうな燻り狂えるバンダースナッチとか、ジャバウォックとか、そういうものは完全に無視して、ここまで生きてきてしまったんだから。
「あら、私なんて別に英雄じゃないのよ。ただのしがないアリスだわ」 アリスは仕方なく、謙遜した。
「しがないアリスだって? じゃあなんだい、あれは全部嘘だったってのかい」
「全部嘘? なんのことよ」 とアリスが問うと、
「つまりハッタは、きみが『あなたたちなんて、ぜんぶトランプじゃない!』といって赤の女王を打ち負かしたのが、まるっきり嘘だったんじゃないかって言ってるんだぜ」 とヘイヤが説明した。彼は中身入りのティーカップの持ち手の部分だけを指にかけて、クルクルと回していた。
「嘘だって指摘したことを嘘だったんじゃないかって指摘されたの? そんなことできるわけないじゃない」
アリスはそこまで言って、自分の思考にストップをかけた。そうだ、この感覚、この世界において忘れてはいけないものは、まだまだ存在するじゃあないか。
「ああ、なるほど、言葉遊びね。しがないアリス。Cがないアリス。CがないAlice。つまり、A lie、一つの嘘っていうことね」
アリスはこのひらめきは、自分のアイデアだとしてもすごくて、自慢できるんじゃないかと思った。けれど、それは全然違くて、まったく非難轟々なものだった。
「おまえさん、つまらなくなったな」 とハッタ。
「きみ、それを自分で言ってておかしいことに気が付かないのかな……。まあ、いいけど……」 とヘイヤ。
「なんだ、なんだ、興がそがれるなあ」 と今まで黙っていた白うさぎまで批判する。
「ちょっと、そんなにいう事ないじゃない」
アリスはびっくりして、思わず反発してしまったけれど、言ってからこの場所が道理の通じない不思議の国の、更に道理の通じない狂ったお茶会だって言うことに気がついたんだ。
「はあ、さっきまでのお前さんなら、こんな言葉遊びにも乗っかって、それでぷりぷりと怒るマネをしてくれたものなんだがな」 とハッタは長く残念がる。
「やだわ、別に怒るマネをしていたんじゃないわよ。あれは本気で怒っていたのよ」
「あれで本気?」 と白うさぎが茶化す。「それはないだろう。あれで本気なら、女王の癇癪は一体何になるんだか」
「また、嘘をついたな」 とハッタが反応し、
「なるほど、これでTwo lieってことになるのかい?」 それにヘイヤが乗っかる。
「もうっ! いいわよ、別にそれでも。だって今日は、そんな話をしに来たんじゃないんだから!」 アリスは叫んで、無理やり自分の用事へと話を切り替えることにした。彼らに付き合っていたら、いくら時間が止まっていると言っても日が暮れてしまうと思ったんだ。
「ほう、物語を持ってきたって言うのか!」
ハッタがいきなり喜び一色の顔になる。「さぞや面白い話を持ってきたんだろうな」
「ええ、謎に満ちたお話よ、狂ったあなたたちには面白いと感じられるでしょうね!」
アリスは自分の中でも精一杯の皮肉を浴びせたんだけど、彼らは全く意に返さず、ただ眠りネズミの耳がぴょこんと反応しただけだった。
「ーーーーってなことがあったのよ。どうかしら?」
「どうって言われても……」
アリスが現実でのことを喋っている間中、彼らは珍しく全く口を挟むことはなかった。アリスに反応を求められて、初めてヘイヤが言葉を発したんだ。
「……つまらない話だな」
「そうだな、つまらない話だな」
「そうだねぇ」
ヘイヤに続いて、残る二人も続々と不満を表明した。アリスはその反応に、口をあんぐりと開けて驚くしかなかった。あいつら、私と私の仲間が襲われたって言うのに、それをつまらないと言うなんて!
「つまらなくないわよ! これは深刻な話なのよ!」
「でも、実際つまらないじゃないか」 とハッタがじとと蔑むような目のままに言う。
「深刻な話だからつまらないんだろう」 ヘイヤは冷静に分析をしているようだった。
「もう……わかったわよ。どうせあなたたちはそう言う動物なのだものね、期待するだけ無駄だったわ」
アリスは一人諦観に包まれていた。明日の夕飯はうさぎ鍋にでもしてもらおうかしらなんて考えながら。
「もっと面白い話をすれば良いじゃないか」 アリスを哀れんだのか、白うさぎが口を挟んだ。
「でも、じゃあ、あなたたちが面白いって思う話はなんなのよ」
「『夢みたのはどっち?』」 食い気味にハッタが言う。
「これは良い! シェイクスピアの戯曲ぐらい興味深い話だろう?」
「何よ、それ。まったく無茶苦茶だわ」 さっきの彼のように、アリスは蔑んだ眼をした。
「無茶苦茶なもんがあるもんか。この世界は夢の世界だ。そして夢の世界なら夢を見ている奴がいるはずだ。では、夢を見ているのは誰か? うん、少なくとも誰が毒を盛ったとか、誰がおまえの姉さんを襲ったとか、そんな話よりかは格段に面白いな」
「どこが?」 アリスは純粋に不思議に思って聞いた。
「先がある」 ハッタは紅茶を飲んだ後に言葉をつづける。「つまり、生産性があるってことさ。どうやって生きるかとか、どうやって良い事をするかとか、考え事をするならそうでなくちゃいけないはずさ」
アリスには誰が夢を見ているかなんて疑問がどうして人間の生き方とか、善い事をするかとか、そういう話に関連するかはちっとも検討が付かなかった。けれど、どうせ狂った帽子屋のいう事だから真に受けても仕方がない。そう思って、とりあえずそれを正しいと思うことにした。それさえ乗り越えれれば、まあ確かに、彼のいう事にも一理ある。
「でも、事件の犯人が誰かっていう話にも生産性があるわよ」
「どこが?」
「そりゃあ……」
ハッタの疑問にアリスはすぐさま返そうとして、でもいい言葉が見つからなくて戸惑った。そして語彙の探索を進めようとしたときに、今度はヘイヤが言葉を挟んだんだ。
「たとえその話をしたとして、犯人がわかったとしようじゃないか。それで何になるというんだい?」
「えっと、犯人をとっちめられるわ」
「はっはっは!」
ハッタとヘイヤと白うさぎは、その言葉を聞くや否や笑い転げ始めた。ずいぶんとおかしかったのか、ハッタはかぶっていた帽子が脱げても、ヘイヤは指を通していたティーカップが飛んで、割れても、白うさぎは机に頭をゴンとぶつけても、まだみんな笑い続けていた。そうしてひとしきりツボに入った後は、笑い涙が出たらしい瞼をそっと手で拭って、しこく真面目そうな顔をするように努めようとしたんだと見えたんだけど、でもまだまだみんな半笑いのままだった。
「なんだ、やっぱり面白い話じゃないか! 騙された!」 とヘッタが言う。
「ははっ。その、君は本当にとっちめれるやつが犯人だと思っているのかい?」 とヘッタよりは真面目な態度で、ヘイヤが聞く。
「ええ。だって、エイダもシャルロッテもレオポルドも姉さんも、みんなそういうことをする人じゃないもの。そうね、リバー辺りがやっぱり怪しいんじゃないかしら。あんな胡散臭いんだし……。ああ、でも、アリバイがあるっていっていたわね……。っていうか、そうよ。あんな不可解な犯行、現実にいるみんなができるわけないんだわ。あなたたちの方の誰かがこっちまでやってきて、あんな事件をおこしたんじゃないの?」
自分の言葉をいきなり笑われて、ちょっと怒っていたアリスは、比較的まともに話を聞いてくれたヘッタの疑問にだけ答えた。アリスなりのちょっとした犯行だった。
「それは心外だな」 と一転してヘイヤは面白くなさそうな顔をした。
「きみ、大丈夫かい? 夢と現実をごっちゃにしてはいけないよ」 と白うさぎのほうは心配そうな顔までしてくる。
「大丈夫だわ。でも、そうとしか考えられないじゃない。最後に起こった姉さんの事件なんか、誰も姉さんのことが襲えない状況で、事件が起きてるのよ。こんなことできるのは、みんな狂ってる夢の国の住人じゃないとできないわよ」
「はあ……」 ヘッタも、やっと笑うのをやめて、呆れ始めた。
「仕方がない。きみが大馬鹿真面目に、そんなことを考えているっていうなら、ちょっとは話に乗ってやらないとだめなんだろうな」 とヘイヤはつまらなそうにティーカップに茶を注ぎながら言った。たぶん自分用なんだろうけど、そのティーカップはネムリネズミのために用意されたものだった。
「残念ながら僕たち全員にはアリバイがある。そうだろう、みんな」
「ああ」
「まあ、そうだな」
白うさぎとヘッタはヘイヤの言葉に同調する。
「はい、という事で僕たちに犯行は不可能。この話は終わり」
「ちょっと、どういう事よ!」
あんまりにも雑な言い方に、アリスは憤慨するほかなかった。面倒くさそうにヘイヤが言葉をつづける。
「だって、僕たちは時間君と決別してしまったんだからね。いつまでたっても六時のまま。君も聞いたろう? 六時に君と出会っているんだから、六時に起きた事件に僕たちが関与できるわけないんだ」
「六時に起きた事件なんてないわよ。昨日ウサギが逃げ出したのは昼の1時だし、毒を盛られたのは3時くらい。本が濡らされたのが4時くらいで、今日姉さんが襲われたのは昼前の11時くらいのことよ」
「君ね。どこまで行っても時間君は同じだと思っているんじゃあないだろうね」
そう思っている。アリスは実際そう思っているから、違っていて当然だという口調のヘイヤの言葉に、反応することができなかった。
「はあ、無学な君に教えてあげよう。実は時間君はそいつがどこにいるかによって変わるものなんだ。まあ、これは当然のことだよな。例えばお嬢さんのことを前から見たらちょっとかわいい顔立ちをした平々凡々な女だ。だが後ろから見たら、髪だけしか見えないから、そっちの方がよりかわいいし、そっちの方がより美しい」
「失礼なウサギね」 だいぶ暴言を吐かれたアリスだけど、目の前のとち狂ったウサギのことを真に受けて傷つくほど、やわなメンタルはしていなかった。
「同じことだ。時間君も見る場所によって姿が違う。例えば彼を君がよくいる学校から見た時と、そっからすこし遠くにある日本という場所からみた場合じゃ、九時間も時間君の姿が変わるんだよ」
「へえ、そうなの」 口では感嘆したような声を出しておきながら、アリスは内心では「本当かしら?」なんて思っていた。
「それじゃあ、ここから時間君の姿を見た場合は? とうぜん、六時だ。いつまでたっても六時。だから、お嬢さんが毒を盛られたのもそっちでは三時で、こっちからしら六時。本が濡らされたのもそっちからしたら四時で、こっちからしたら六時って寸法さ。それで事件発生時刻の六時に君は僕たちを見ているわけなんだから、つまり僕たちのアリバイは、君が確認しているってことなのさ」
「ああ、もう、聞いていて頭がおかしくなりそうだわ」
アリスはそこでやっと、彼らを事件の犯人候補に含めることの愚かさがわかった。あんな何でもありな論法を大真面目に使っているというんなら、例えあいつらが犯人だったとしても、それを立証するなんて全くもって不可能ってことじゃないか。そんなのは悪魔や神の試練を犯人候補に含めるのと同じことで、つまりは論理的に考えようとする段階においては、甚だ不誠実なものなのだ。
「ええ、そうね。よくわかったわ。あなたたちは犯人じゃない。じゃあ、犯人を見つける手伝いをしてもらってもいいかしら」
「はっはっは」 ハッタが乾いた笑いをする。
「お前さん、さっきと同じことを聞いてやろうか。例え犯人がわかったとして、お前さんはどうするんだ?」
「だから、そいつをとっちめるのよ」
「気づいてないのか?」 横から、白うさぎが驚いた声を発した。
「お前さん、考えてみろよ。お前さんが想定している犯人から、アリバイがあるやつをのぞいたら、残りは誰だ?」
「え?」
そんなこと。
「エイダ、シャルロッテ、レオポルド、姉さん……」
「を、とっちめるってわけかい?」
「そんな!」
そんなことじゃ、ない。アリスは犯人をとっちめるって言ったのであって、友達をとっちめるとか、そういう話はしていなくて……。
「でも、そういう事じゃあないか。君があげたうちの誰かが犯人だ。で、君は犯人をとっちめるって言ってるんだから、つまりその中の誰かをコテンパンにしようっていってるわけだな?」
「……」
アリスにはもう、彼の言う事を理解しないという事はできなかった。狂ったウサギの発言だというのに、そのすべての道理がわかってしまって、自分こそが狂人ではないかという問いを突き付けられた気持ちになった。
「ほら、結局きみは、犯人を見つけたとしても、そいつをとっちめることができないんだ。そして、じゃあどうするかと言えば、その見つけた犯人を許すという道しか残されていない。そして暴き出してしまった真実を抱えながら、そいつと君は今までとちょっと違う気まずい日常を送ることになるってわけさ。な? 犯人を見つけたところで、何も変わらないんだ。全く先がない。全く、面白くない話だ」
ヘイヤはそれだけ言い切ると、フォークで刺した目玉焼きを口に運んで、もぐもぐと咀嚼し始めた。アリスは何もいう事はできなくて、一時気まずい沈黙がテーブルを包んだ。
「ほら、じゃあ、さっきの面白い話をしようじゃないか」 白うさぎが見かねたように口を開く。「『夢みたのはどっち?』という話題について、哲学的論理学的議論を重ねようじゃないか」
「俺は赤の王様だと思うがね」とヘッタ。
「じゃあ僕はお嬢さん派ということになるね」とちょっと不満そうに白うさぎが返す。「三月うさぎ、君は?」
ヘイヤはごっくんと目玉焼きを食べ終わった後、しばらく味の余韻を楽しんでから、当然というように答えた。
「こいつだ」
彼が指さした先にはネムリネズミがいた。
「えっ、ネムリネズミかい? それまたどうして」と白うさぎが聞く。そこからしばらく、彼の意見を飲み込めない白うさぎとヘイヤとの問答が続いた。
「簡単だ。眠っているのは、彼しかいない。だから、夢を見ているのは彼だ」
「おいおい、ネムリネズミが眠っているのは、夢の世界の話じゃないか。夢の世界にいるやつが、自分が夢の世界にいて、夢の世界の夢を見ている夢を見ているっていうのかい?」
「是。よくわかってるじゃないか」
「いいや、よくわかっていないね。じゃあ仮に、彼が夢を見た犯人だというのなら、なんで彼は自分の夢の中で夢を見る必要があるんだ? それじゃあ、まるで自分が夢を見たやつだって教えてることになるじゃあないか」
「そこにこいつの仕掛けた落とし穴があるんだ」 ヘイヤはネムリネズミの背中を強めに叩く。「つまりな、夢の中で夢を見れば、ネムリネズミこそが夢を見ている張本鼠だって、誰も思わないというわけだ。そんな意識を利用して、やつはうまく夢を見ているってわけだよ」
「そんな!」 白うさぎは口では冗談に堪えたような声を上げたが、どうやら内心では納得しているようだった。「自分を犯人だって指摘されないために、そんなリスクを負うなんて! まったく馬鹿げてる!」
そしてついに、白うさぎはアリスに目を向けた。「アリス! 君はどう思うんだい!」
真理を突き付けられて呆然としているところに、突然始まった意味不明な議論。アリスは全くと言っていいほど理解してはいなかったけれど、でも、最後に白うさぎが言った言葉だけが嫌に耳に残って、無意識のうちに反芻していた。
『自分を犯人だって指摘されないために、そんなリスクを負うなんて! まったく馬鹿げてる!』
そうだろう。自分が何かの犯人だと指摘されることを避けるためだけに、それと吊り合わないようなことをしでかすような人は馬鹿だというしかないだろう。
でも、犯人がその馬鹿だとしたら? それでまさかそんなことないって、その可能性を無視してしまったら? 結局その事件の犯人はわからずじまいだ。
盲点。絶対に犯人になりえない人物。でも、犯人はそれを想定していたのであれば?
この事件の犯人は……。
「私、ちょっと用事ができたみたい」
アリスは突然頭がさえた気持がして、そして自分がしなければならないことが全部わかったような気がした。
「帰らなくちゃいけなくなったの。ごめんなさいね、途中で席を立つなんて、淑女のやることじゃないけれど」
アリスは席を立った。帰り方はわかる。もう二回もここから帰ってるんだから。
「おいおい、事件の犯人について閃きでもしたのか? それならさっき言った通り、見つけたってお前の現状は何も変わっていないんだぜ。それならもうちょっとゆっくりしていってもいいんじゃないか?」 と、ヘイヤは今まで通りのやる気なさげな口調でアリスを引き留める。
「ううん、大丈夫。やった方がいいってっことを見つけたの。帰ったら、それをやろうと思うわ」
「そうか」
その時だけ、アリスの耳には、ヘイヤの言葉がとても残念そうな感情をもっているような気がした。
「じゃあ、さようならだ」
「ええ、さようなら」
アリスはできるだけ友達との夕方の別れと同じような、日常のような口調で、別れの挨拶を済ませた。別れを言葉にしてくれたのはヘイヤだけだったけれど、なんとなくヘッタも、白うさぎも、ネムリネズミも、果てにはここにいないはずの、赤の女王や、白の騎士や、チェシャ猫や、ウミガメモドキやグリフォンだって、自分の後ろで手を振ってくれているような気がした。
アリスは直感的に、これが彼らとの一生涯の別れだと理解できた。たぶん、アリスがここですべきことは、全部終わったんだろうね。それでアリスがここに来る必要も、手段も、全部なくなってしまったわけだから、残されたのは現実行きの一方通行ってわけさ。
たぶん、もう、アリスは不思議の国の夢を見ないことを不思議がることはないんだろう。もう、アリスは鏡を見て、鏡の国の物語を思い出すこともないんだろう。
だって、もうすべてそれは、懐かしいものになってしまったから。置いてきてしまったから。二回の戸棚にしまい込んだ、おもちゃ箱になってしまったから。
「さようなら、アリス」
最後に目の前から猫の声が聞こえて、アリスは叫んだ。
「あんたらみんな、夢物語だったじゃない!」