2 ケーキは自ら食べられて
「姉さん!」
「あら、久しぶりアリス。元気だった?」
白うさぎとエイダに時間を取られたからか、アリスが第二学舎についたころには、姉さんはすでに学舎の外に出ていたんだ。姉さんは花壇に咲いた綺麗なピンク色の花を、優しく手に取って観察していたもんだから、アリスはなんとなく嫉妬しちゃって、いつもより大きな声で姉さんのことを呼んだんだ。
「元気よ、元気。それはもう。姉さんは?」
その時アリスは姉さんに会えた喜びで、最近の疲れなんかはもうすっかり吹き飛んで、頭の中から綺麗に消え去っていたんだ。
健気なアリスがはしゃぎながら答えると、姉さんは対照的に、疲れたような目じりで話した。
「私はあんまり。結婚するって、思ったより疲れることなのね。ただ愛しい妹に会いに来るだけで、こんなにも疲れなきゃいけないなんて」
確かに、今となってはアリスと姉さんとの距離は、埋めるのにとても労力がいるようになってしまった。手紙だと、姉さんはここに来るまでにも相当な時間、馬車とできたばかりの鉄道に揺られているらしくて、三歳の時にロンドンからここに来るまでに経験した馬車のつらさをいまだ覚えているアリスにとっては、とっても恐ろしくつらい事のように感じられたんだ。
アリスが内心でうぇーと舌を出していると、姉さんは止まらずに話をつづけた。
「結婚するって、本当に疲れるわ。何が疲れるって、自分が結婚してしまったっていう事実に、一番疲れるの。昔は、アリスと土手でおしゃべりしているだけで、平和なものだったのに。あーあ、いったいいつの間に、私は大人になってしまったのかな」
そんなぼやきを聞いたとき、アリスは心の底から同調した。
本当に、そう。いったいいつの間に、私たちはこんなにも育ってしまったのかしら。嫌になっちゃう。それもこれも、全部時間のせいなんだわ。
「ふふっ、アリスったら。あなたはまだ子供でしょう?」
内心で思っていたことが、どうやら全部漏れ出ていたらしくて、アリスは姉さんに頭をぽかっとつつかれた。
「あらやだ、姉さん。あたしだってもう、結構大人になったのよ。だって――――」
それでムキになったアリスは、姉さんに最近の勉強の事とか、勉強の事とかを、じっくりきかせてあげることにしたんだ。姉さんはその間中、ずうっとニコニコした顔で聞いてくれて、妹の近況のことを、ほんとに楽しんで聞いているだなあと思った。それで、アリスも楽しくなってきちゃって、ライン川ほとりの幽霊話とか、メイベルの色恋沙汰とか、いろんなことを話すことになっていったんだ。
そして、そんなこんなで姉さんとの久々の時間は、のどかな雰囲気で過ぎていったんだ。
「おーい、アリスー!」
そんなこんなで、アリスが次にハッと意識を取り戻したのは、もう午後三時を十五分ぐらいも過ぎたころだった。そこで、どこからかエイダの声が聞こえてきて、やっと自分の口が疲れていることに気づいたんだよ。
「はっ、喋りすぎた」
「あら、エイダじゃない。こっちにおいで」
姉さんは遠くにエイダの姿が見えたらしくて、彼女をこちらへと呼び寄せた。アリスは呼びかけられた者として、エイダの方に意識を向けなければいけなかった。
エイダは、自慢の巻き毛をゆらゆら揺らして、アリス達のほうへと近づいてきた。
「久しぶりですわ、アリスのお姉様」
「久しぶり。その様子だと、アリスを探していたのかしら」
アリスが話している途中、二人は木製のベンチに座っていたんだけど、エイダが来たものだから、二人ともそばに詰めて三人分座れるようにした。エイダはそこに座ると、ふぅと大きな息をついた後アリスを責めるような口調で言った。
「そう、そうなのよ。……アリス、あなた、レオポルド王子をナチュラルに使いっぱしりにしておきながら、肝心のお茶会を忘れてるんじゃないわよ」
そこでアリスは、なんでエイダがここまでやって来たかを悟ったんだ。
「……シャルロッテのお茶会! そうだわ、姉さんとの話に夢中で忘れてた!」
アリスはその用事を思い出して、立ち上がり、ぽんと手を打った。そして、慌ててお茶会の準備を始めようとして、でも勿論周りには花しかないわけだから、体をわたわたとさせるしかなかった。
「どうしよう。早く準備しないと!」
「大丈夫よ。レオポルドも私も、どうせそんな事だろうと思って、お茶会の開始時刻を遅くしておいて差し上げましたから」
アリスはその言葉を聞いて、心の底から友情というものに感謝したんだ
「ありがとうエイダ! でもあんまりみんなを待たせるわけにもいかないから、すぐに戻らなくちゃ」
そこまで言ってアリスは自分の家がある方向に身体を向けたんだけど、どうしても気になることが出て、一つだけ質問をすることにしたんだ。
「あれ、そういえば、その口ぶりだと、エイダもレオポルドも来るの?」
「そうよ、ちょうどみんな暇だったらしくて。……そうだ、どうせなら、アリスのお姉様も茶会に参加しませんこと?」
姉さんはその言葉を聞いて、すこし考えるそぶりをしたあと、
「そうね。レオポルド王子にも挨拶をしておきたいし、そちらがよろしいなら、参加させていただこうかしら」
みたいな事を言って、おもむろにベンチから立ち上がったのさ。
「やった! 姉さま、一緒に準備をしましょう。まだ語り足りないことがいっぱいあったの!」
アリスは喜んで、立ち上がった姉さんの服の袖を握った。
「それじゃあ、積もる話はその時にしましょう。エイダ」
「ええ。ではお二方、またあとで」
そのまま、姉さんはアリスにずるずると引きずられて、エイダの前から姿を消した。その様子を見て、エイダはちょっとうらやましく感じたんだ。何しろ、エイダは一人っ子だったから、そういう、姉妹愛みたいなものを今まで実感できたことがなかったんだよ。
「……ほんと、可愛らしいお二人ですわ」
心の底からしみじみと、エイダはそう呟いた。
「ええっと、それじゃ、お茶会を始めさせていただきますぅ……」
お茶会は、シャルロッテの尻すぼみな言葉から始まることになった。何かを始める景気の良い声には、全く思えないものだったけど、このか細い声こそがシャルロッテの内気な性質をよく表している気がして、アリスはとても好きだ。そういうところが、彼女のかわいらしさを引き立てているような気がするのだから。
「ごめんなさいね。待たせちゃって」
アリスはとりあえず、謝るところから始めた。あの後、今度は外行きの服装を整えるのに、また結構な時間がかかっちゃって、みんなを待たせてしまったんだ。ずいぶん図太くなったアリスだけど、そこらへんを謝らないと、良心が痛むから、マイナスな話題ではあることはわかっていたけれども、謝罪をせずにはいられなかったんだ。
「大丈夫ですわよ。実はあの後、茶会に出すケーキがまだ焼きあがっていないことに気がつきまして。アリスの姉様の分も用意する必要ができましたし……。アリスが時間をかけてくれたおかげで、全部きれいに焼き上げられたのですわ。ほら」
そんなアリスの謝罪も、エイダにはさらりと受け流される。アリスの遅刻を許すばかりか、かえって良い事であったかのように言葉を回して、お茶会の場を和やかに進めているのだ。
なんてまあ、上品な仕草なんでしょう。とアリスはとても驚いた。自分だったら、こんなことはできやしない。きっと遅刻してきた奴に腹を立てて、せっかくの紅茶をまずくしてしまうはずだ。……そう考えると、やっぱりエイダって、私と比べて大人だなあと、同い年なのにアリスは、そんなことを思ってしまったんだ。
エイダはシャルロッテと協力してお茶会の準備を進めていたらしくて、訳知り顔で、シャルロッテの使用人を呼び寄せた。
使用人の手には、きれいに焼きあがった丸い小さなケーキがいくつも並べられていた。それぞれのケーキごとに色が変わっていて、どうやら味もそれぞれ違うらしかった。
「好きなものをおとりになって。……そうね、私はチーズケーキをもらいましょう」
「なら、私は干しブドウのケーキを」
集まったみんなはそれぞれ、思い思いのケーキを手に取った。エイダはチーズ、アリスは干しブドウ。姉さんはりんご、レオポルド王子は梨。最後に残ったいちごのケーキを、シャルロッテが遠慮がちに手に取った。
「おいしいわ、これ。干しブドウの酸味と生地の甘さがうまくマッチしていて、更にざらざらとした砂糖が食感のアクセントになってる。紅茶とも合うし、毎日でも食べたくなっちゃう」
「よかったぁ。実はそれ、今度うちの商会で新しく発売する商品なんです」
「あら、そうなの。そうね、きっとたくさん売れると思うわ」
「ふふ、アリスのお墨付きをもらっちゃったわね、シャルロッテ」
アリスとシャルロッテ、そしてエイダはすぐにおいしいケーキに夢中になった。そして三人で長い間、このケーキについて語り合うことになったんだ。一方で、レオポルド王子はアリスの姉さんに話しかけていた。
「お久しぶりです、ロリーナ嬢。三年前の観劇以来でしたか?」
ロリーナというのは、アリスの姉さんの名前だ。
「そうなりますわね、レオポルド王子様。いつも妹がお世話になっています」
必然的に、二人の話題は共に見知っているアリスのことになる。でもその間中、アリスはケーキの話に注目していたから、二人の話を理解することはなかったんだ。
「アリスはまだまだ子供っぽいところが抜けていないようで……。どうでしょう、ご迷惑を駆けてはいませんか」
「ははは、迷惑という点では、確かに彼女にはかけられっぱなしではありますね。でも、彼女もだんだんと成長してきていますよ。前みたいに文芸の講義をバックレるなんてことはなくなりましたから」
「あらまあ、アリスったらそんなことを……――――」
そんな何かを含んだような、ちょっと剣呑な雰囲気さえ感じる二人の会話の横で、アリス達のケーキ談義はまだまだ続いていた。
「ケーキはおやつに丁度いい食べ物なんですが、実際おやつにするにはホールケーキは大きすぎるんですよね。かといって小分けにして保存しておくにも、素材のせいですぐにダメになっちゃうんです。それで、結局みんなを招いて茶会を開かなくちゃいけなくなるのですが、でも私たちって小食じゃないですか。だからこういう、小さくていくつも食べられて、味がいくつもあって飽きがこない、っていう風なケーキを思いついたんです」
「勿論、以前にもこういう形のケーキはありましたけど、どれも小さすぎてケーキというよりは焼き菓子を食べている気分になるようなものばっかりだったですの。その点、このケーキってしっとりとした部分が残っていますから……。うん、やっぱり売れますわよ、これ。早めに買い占めておこうかしら」
「もう、エイダったら。買い占めるなんてことしちゃ、さすがに食べきれないでしょう?」
「そうでもないわ。私だって結構大食いなのですわ」
エイダはそういいながら、チーズケーキをまたパクリとした。確かに、彼女の身長はこの中では高い方だし、発育もいい気がする。それもこれも、もしかしたら大食いなところがかかわっていたのかなと、アリスはそんなことを思ったんだ。
さて、エイダはチーズケーキを嚥下し終わった後、落ち着いたように自分のスプーンをテーブルにおいた。そして名案を思い付いた風に、あることを提案してきた。
「……そうですわ、アリス。ちょっとだけ互いのケーキを交換しないかしら?」
「いいわね! 他の味も気になってきたところだったのよ」
その頃には、アリスもエイダがおいしそうに食べるチーズケーキがとっても気になっていたから、すぐさまそれを受けることにしたんだ。
「ふふ、じゃあ、はいこれ」
エイダは懐から別のスプーンを取り出して、自分のチーズケーキをちょっぴり切り取って、アリスの皿にのせた。アリスはそれを見て、自分がスプーンを一つしか持っていないことに気が付いたんだけど、わざわざ取りに戻るのも面倒くさい気がして、ちょっと失礼なこととは思いつつも、その代わりにちょっと多めに干しブドウのケーキを切り取ってあげた。それで許してほしいってことなんだけど、まあエイダの方も全然気にしている様子はなかった。
アリスが貰ったチーズケーキを口に入れると、まず口いっぱいにチーズの香りが広がった。そして生地のしっとりとした食感と、焼かれたチーズのねっとりした口ざわり、それと、振りかかっていた粉砂糖らしき白い粉のざらざら感が層となって合わさって、高級なものを食べているんだっていう幸福感がアリスの頭をいっぱいにした。
「おいしい! それにこれ、私の好きなチェダーチーズね!」
「あっ、わかりますか! そうなんです。結構素材にもこだわってるんですよ!」
アリスが興奮気味にまくしたてると、シャルロッテも同じように喜んだ。隠れたこだわりを探し当てられた料理人というのは、用意した謎を解いてもらったクイズの出題者のような心境なんだろうね。
「それじゃあ、私の干しブドウも?」
「そうですそうです。本場フランスの方から取り寄せたけっこう高い奴を使ってるんですよっ!」
「すっごい!」
食の好みがあった二人は食事中なのを忘れて、何かのマニアのように興奮していた。アリスはここら辺ではグルメなことで有名で、それだからこそ久しぶりに味わったこのおいしさというものを誰かに表現したくて仕方がなかったんだ。
だからアリスはシャルロッテの他にも、同じケーキを食べたエイダに話しかけた。
「ねぇ、エイダ。あなたの方はどう?」
アリスは語彙力というものに自信がなかった。だからエイダが、しっかりとした食レポをしてくれることに期待したんだ。
でも、アリスがエイダの方を見た時、彼女はおなかを抑えてうずくまっていたんだ。
「……どうしたの、エイダ?」
おなかでも冷やしてしまったのかしら。一瞬アリスがそう思った時、エイダの身体がふらりと揺れた。
ガタン。
彼女の身体が床に落ちた。手に持っていたらしいスプーンが宙を舞って、紅茶の入ったカップに当たって甲高い金属音を鳴らした。
「へ……?」
アリスはしばらくの間、何が起こったのかを理解できなかった。
「……ケーキを食べるな!」
レオポルド王子が叫んだ。姉さまもシャルロッテも、何が起こったのかわからないままにスプーンから手を離した。そしてそこでやっとアリスは、友人が倒れたんだという事を認識したんだ。
毒……?
次に浮かんだのはそんな言葉だった。だからアリスはエイダのことが心配になって、彼女のもとに駆け寄ろうとした。
ふらり、とアリスの視界が揺れた。
「アリス!」
姉さんも叫んだ。アリスの視界はそこにきてぐにゃりと、ありとあらゆるものの輪郭を認識できなくなった。一瞬、自分が巨人にでもなったかのように、視界に映るすべてが小さくなった。一瞬、自分が小人にでもなったかのように、視界に映るすべてが大きくなった。アリスにはそれが、目のせいだとわからなかった。ただいつの日かにあの不思議の国に迷い込んだときのような、得体のしれない浮遊感が、アリスの身体を包み込んだ。
そうして、もやもやした感覚がアリスを包み切ったとき、視界も全部真っ黒になってしまった。