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1 白いうさぎは穴に落ちて

 『カラスとカキモノ机と似てるって、なーぜだ?』


 アリスはその日一日中、そんなことを考えていたんだ。もう十年も前になる、土手で見た長い夢を、アリスはまだ昨日のように思い出すことができた。だから今日、とても寝不足な午後一時半に、文章術の教本をほっぽり出して、そんなことを考えていたんだよ。もちろんちゃんとした答えがあるなんてアリス自身も思ってなかった。だっておかしな帽子屋がくれたものだもの。まともな答えがあるわけないんだから。

 それでもいろいろと忙しい日常を忘れて、眠りこけるにはちょうど良かった。アリスは最近、挿絵もセリフもない本を読むことになって、一日のほとんどをそれと、面倒くさい人付き合いに費やしていたんだ。それもこれも、全部時間のせい。気づいたらいつの間にか、学校の勉強は難しくなっていたし、キティとスノードロップは老猫になっちゃって、昔のような元気さがどっかにいってしまった。以前のようにぺろぺろと手をなめてくれることなんてほとんどなくなっちゃって、えさの時間まで、のっそのっそとでぶった身体を怠惰に動かしてるだけになってしまった。

 アリス自身も、老いた。まあ、老いたというにはまだ、十七歳ぽっちりだから、全然若いという自覚はあるんだけど、それでも昔みたいに、不思議の国や鏡の国の夢を見るなんてことはなくなってしまったんだね。最近見る夢はもっぱら、教本を池に落としちゃう夢とか、大事な鍵をなくしちゃう夢とか、そういうどうでもいい短い夢になって、しかも内容も全然覚えていないんだ。変に思って友達に聞いても、どうやらそれが普通らしくて、結局、自分の意志でまたあそこに行くことは、諦めたんだ。同じ夢の続きなんて、ほとんど見れないってことなんだね。事実はきっとそうだし、アリスもきっとそう思ってしまったから、あのわくわくとどきどきに満ちた冒険は、あの二つっきりになってしまったんだ。

 そうしていると、だんだんとうとうとしてくる。どうでもいいことを、どうでもいい時間に考えると、不思議と、眠気が湧いてくる。眠気は便利なものだ。最近、学校の勉強が嫌になったときに、よく使う。そうすると、心なしか、すっかりその問題を解決したような気持になるんだ。

 そういうわけで、アリスがテーブルの上でうとうとしていると、後ろから声がかかった。


「おい、起きろ。まだ昼だぞ」


 この端正な声は、きっと王子様だろう。アリスはそう思った。

 なに、王子様と言っても別に何かのたとえというわけじゃないんだよ。アリスは自分の後ろにいるお人を、ヴィクトリア女王の第四王子、レオポルド王子その人だと思っていたんだから。

 そして実際、それはそうだった。レオポルドはまだうとうとしているアリスの背中を、ちょこんと、優しく一、二度つっついた。そうするとやっとアリスも眠るのをやめて、彼の方を見ることになった。


「……レオ、隈ができてるわ」


 まだぼんやりとした意識のまま、やっぱりぼんやりとした声で、アリスはそんなことを言った。休みの時間を邪魔されて結構おかんむりになっちゃって、仕返しのつもりだったんだ。

 でも、レオポルド王子はそんなことぜんぜん気にしなかった。彼は昨日の夜中一日中、マーティノー博士と唯物論について議論をしていたわけで、そんなこんなでできたこの隈を、どこか名誉の傷のように思っていたんだ。それに彼にとっては目の下の隈よりも、抱えてる話題の方が重要で、だから彼はもう一度だけ寝ぼけまなこのアリスをペチリと叩いたんだ。

 アリスはうーうー唸りながら、彼にまた反抗した。


「レオ、頼むからほっておいて。私は今シェイクスピアの殺害計画を練っているのよ」


「変なことを言ってないでさっさと起きろ。今日の昼に寝ぼけてたら起こすようにと頼んだのはお前だぞ」


 レオナルドは面倒くさげに言った。そしてその言葉に、アリスは結構おどろいた。


「そんなこと……そんなことあるはずがないわ。私は何よりも睡眠が好きなんだもの。未来の私が眠れなくなるようなことを、あなたに頼むはずがないわ」


 言っていて、いつからこんなに怠惰な性格になってしまったんだろうと、アリスは心の内で悲しんだ。昔はもうちょっと、私だって活力に満ち溢れていたはずなのに、今ではこんなセリフも違和感なく言えてしまう。


「はあ。そうだったかな。確かに俺は、昨日お前に『明日の昼に私の姉さんが来るの。絶対私は寝てると思うから、たたき起こしてちょうだい!』と頼まれたはずなんだが……」


 その言葉を聞いて、アリスはびくんと飛び起きた。そうだ、今日は一年ぶりに姉さんが帰ってくる日だった。姉さんは五年前に、お嫁に出されて遠いスコットランドの近くに移り住んでしまった。帰ってくるのは二、三年に一度あればいい方で、しかもクライストチャーチに帰ってくるたび、たった三日でまたとんぼ返りしてしまうんだ。

 だからアリスは、姉さんが帰ってくる今日という日をとっても大切に、楽しみにしていたんだ。まあ、それも睡魔でほとんど忘れてしまっていたのだけれど、どれもこれも時間が悪いっていう事で考えを結論づけて、アリスはとりあえず、姉さんを迎えに行く支度をすることにしたんだ。


「ごめん、レオ。出てって!」


「『出てって』って……。なんというか、やはり君はヘンなところがあるよな……」


 アリスが思わず言ってしまった言葉に、レオポルド王子は幾分か傷ついた表情になりながら、しぶしぶドアのノブに手をかけた。そこで、言い忘れていたことに気が付いて、口を開けた。


「そうだ、シャルロッテ嬢が三時から茶会でもどうかとお誘いが……おっと」


 彼はそのまま振り返ろうとしたんだけど、もうすでにアリスは着替えを初めていたから、彼は慌てて前を向く羽目になった。


「あ、行くって伝えておいて!」


 そしてその背中に、アリスの大きな声がぶつかったんだ。




 ――――アリスがクライストチャーチで受けている教育は、あくまでアリスの興味が湧いた分野の先生に、興味の湧いた分野だけを教えてもらう感じのものだった。この頃は女性の教育に関してはまだまだ偏見の眼が残っていたし、アリス自身にもそういう思いがあったから、つまりアリスの受けている教育は、あまり高等なものじゃなかったんだ。

 でもじゃあなんで、アリスは文字ばっかりの本に悩まされて、睡眠不足になっているかと疑問に思うかもしれないけど、それは文学がアリスの好きな授業に密接にかかわってきたからなんだ。アリスは文芸に関してはからっきしだったけど、音楽や絵画とかに関しては人一倍学習意欲があった。で、その音楽とか絵画とかの授業を家で受けていたら、曲や絵のテーマとして、キリスト教的な道徳とか、シェークスピアが描いた悲恋とか、そういうのが取り上げられ始めて、結局アリスは文芸に精通しなければならなくなったんだ。だから今、アリスは寝る暇も惜しんで文字ばっかりの本を読んでいるわけで、そろそろ『音楽も絵画も齧った程度でやめておけばよかったかな』なんて思い始めてきたころだった。

 だから、アリスにとって気分転換というのは今何よりも価値がある行為だった。そして姉さんとの再会なんてのは、全くその通りのもので、つまりアリスにとってフランス語の講義を休みにしてでも満喫しないといけないぐらい大切なものだったんだ。

 先月のはじめにくれた手紙によると、アリスの姉さんはもう今日の朝にはクライストチャーチにいるはずだ。でもいろいろと挨拶をしなければいけない人がいるらしくて、アリスと再会して、遊ぶのはきっかり午後からという事になってしまった。

 そんなことになって、アリスの逸る気持ちが抑えきれるわけがなくて、アリスはずいぶん前から、今日の昼のことを計画していたんだ。つまり、姉さんをそこまで迎えに行ってやろうという話なんだ。

 姉さんは今、クライストチャーチの最も東端にある第二学舎にいるはず。アリスはそこを目指して、広い構内を心なしか速めに歩いていた。

 すると、ちょうどカレッジの中心部あたりになって、アリスの隣にあった茂みがガサガサと揺れた。アリスはびっくりして、とっさに飛びのいてしまった。


 ぴょこん。


 茂みから出てきたのは、一匹の白いうさぎだった。ピンクの眼をしたもふもふとしたうさぎで、口元には草の欠片がぽつりとついていた。別に「遅刻だ!」なんて叫んでいるわけではないようだけど、ここにそのウサギがいること自体がおかしなことだったから、アリスはまたびっくりしてしまった。


「あら、リーベ。どうしてここに?」


 そのうさぎは、実はここで飼われているうさぎだったんだ。生物学の講義の時に、ときたまモデルとして挙げられるこのうさぎは、生徒からはドイツ語で「愛する」という意味があるらしいリーベなんて名前で呼ばれていたわけだ。けれど、飼育小屋からここまではだいぶ離れているわけで、だからこそアリスは脱走したんだと合点して、すぐさまそのうさぎを捕まえようとしたんだ。もちろん、ちょっとはそのもふもふとした身体に触りたくなった思いがあったかもしれないけど。


「ほら、リーベこっち。私よ、アリスよ」


 アリスはそこまで身体能力に自信があるわけじゃなかったから、飛びついて腕の中に収めてしまおうとは思わなかった。その代わりに、優しい声でリーベと会話して、彼の方から私の腕の中に来てもらおうとした。

 リーベは鼻をぴくぴくとさせた後、だんだんとアリスの方へと近づいてきた。ぴょこんぴょこんと、文字通りのうさぎ跳びで、アリスの手のひらのすぐ近くまで来たときに――――。


 ワシャ!


 さっきうさぎが飛び出てきた茂みが、今度はとんでもない揺れ方をしたんだ。うさぎもアリスも、何か熊でも現れたんじゃないかと思って、一瞬で背筋を凍らせた。そしてうさぎは残念なことに、アリスのそばを離れて、大急ぎでどこかへと走り去ってしまった。

 そして、茂みからまた何かが現れた。それは予測していた通りのクマ――――。


「あっ、また逃がしてしまいましたわ!」


 ――――なんかじゃなくて、ちゃんとアリスの知っている女の子だった。

 アリスはすっかり腰を抜かしちゃって、立てずにいたんだけど、でも挨拶は忘れまいと、白うさぎの背中を見つめる女の子に声をかけた。


「えっと、こんにちは、エイダ」


 長い巻き毛が印象的なその女の子は、アリスの小さいころからの友達である、エイダだった。アリスよりも高い階級の家の子で、ときたま貴族の遊びなんかを教えてもらうような間柄だ。

 エイダもその挨拶でやっと、アリスに気が付いたようだった。


「あら、アリスじゃない、こんにちは。本当は今からでも貴方とチェスをしたいのだけれど、ごめんなさい。今はそれどころじゃないのよ」


「リーベを追っているの?」


 アリスは当然の帰結としてそう聞いた。


「そう、そうなのよ。リーべったら、私が餌を取り換えているすきに、飼育小屋から脱走してしまったの。あそこまで授業中に暴れない子は希少なんだから、絶対捕まえて戻さないといけないわ」


 エイダはそういうと、一直線にうさぎの逃げた方向へと駆け出して行ってしまった。残されたアリスは、依然として腰が抜けていたんだけど、しばらくして、そういえば急いでいたんだってことに気が付いた。そして腰に力を入れて立ち上がると、さっきよりも素早く、姉さんのいる場所へと歩き始め直したのだ。


「まったく、驚いてばっかりだったわ。幽霊話じゃないんだから……」


 さっきまでの話に、納得のいっていなかったアリスは、歩いている途中、ぶつくさそんなことを言っていた。

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