怪老人の出現
ベットで横になったは良いものの、目を閉じても事件のことばかり考えて眠れない。腕時計に目をやると、短針は12を指している。日をまたいでいた。
なかなか眠りに就けないから、ずっと横になっていては暇で仕方が無い。ベットから起き上がり、部屋の電気を点けずに窓を開けた。夜風が今は気持ちよかった。
四階からの景色は息を飲むほど美しく、山奥の村だけあって空気が澄んでいる。殺人事件発生に伴って仕事でこの村に来るのではなく、プライベートの休暇で二葉村を訪れたかった。休暇だったら、殺人事件のことなど微塵も考えることはなく二葉村を満喫出来たのにな。
「寒っ!」
さすがに強風が部屋の中に侵入してくると、寒さに耐えることはせずに窓を閉じた。
次にコートを羽織り、庭に出るために扉を開けた瞬間だった。突然、目の前の廊下を走り抜けていった者がいた。幸い部屋の電気を点けずにいたから、暗闇に目が慣れていた。その目は、廊下を走り抜ける老人を捉えた。頭髪からもみあげ、顎髭に至るまで全ての髪という髪が白く染まっていた。衣服までは見る余裕はなかったが、かなり俊敏な老人だった。目元も一瞬見えたのだが、あの目は二葉家にいる事件関係者の中で見たこともなかった。つまり、容疑者の誰かが変装していたわけではなさそうだ。あの老人が真犯人である可能性は極めて高く感じた。
ここまで思考するのに、老人を目にしてから一秒掛かった。それからは体が自然と、老人を追いかけだした。しかし、一秒の間に相当な差をつけられて取り逃がしてしまった。
収穫という収穫は、あの怪老人が走っている中途で落としていた紙切れ一枚だった。その紙切れには文字が書かれていることがわかったが、老眼のために文字を理解するまでに一分を要していた。やっとの思いで読み取った文字は『一郎太は死んだ』の七文字だった。
この紙切れに怪老人の指紋が付着しているかもしれないが、正直あまり期待は出来なかった。それでも、明智なら100%の確率で『指紋を調べろ』と言うはずだから丁寧に保管しておく必要がある。ちょうど、捨てようと思っていた煙草の空き箱がポケットから出てきて、サイズもピッタリということで紙切れを空き箱の中に放り込んだ。
そして、これは早く明智に言わなくてはいけないことだと悟り、駆け足で明智の寝ている部屋の扉を叩いた。
「明智! 明智、起きろ!」
十回も扉を叩いた頃には、半ギレした明智が顔を覗かせた。
「警部、いくらなんでも起こさないでくださいよ。今の時刻はわかってますか? 深夜の一時近いんですよ!?」
「そんなことより、さっき老人がここの廊下を走ってたんだよ!」
「老人!」明智の目は、推理に熱中する時の輝きを取り戻した。「部屋に入ってください。お話しを伺いましょう」
「ああ」
明智は俺を部屋に入れると、直ぐさま扉を施錠した。「物騒ですから、ロックは当然のことかと」
「そんなことよりだな、あの老人が犯人かもしれないんだぞ!?」
「その老人に繫がる手掛かりはありましたか?」
「それが、紙切れを落としていった」
「紙切れ? 拝見したいです」
俺は煙草の空き箱を、明智に手渡した。
「ここに入っているんですね? 何か文字とかは書かれていましたか?」
「紙切れに『一郎太は死んだ』と書かれていた。もしかすると、指紋が付着しているかもしれんぞ」
「なら、不用意に触らない方が良いでしょう」
「そうだな。朝一で鑑識に指紋採取をやらせよう」
「ええ。犯人に繫がる手掛かりが、指紋以外にも検出されることも視野に入れるべきですから」
「これから、どうすればいいんだ?」
「どうすればいいんだ、ですか? 夜明けまで眠るしかないですよ」
「寝られる雰囲気だと思うか?」
「寝られる雰囲気ではないとは思いますよ」
「だよな。朝まで怪老人のことを話すことにしないか?」
「何でですか?」
「お互い眠れない雰囲気なんだろ?」
「まあ、そうです」
「二人でいた方が格段に安全だ」
明智は悩んだ末に、二人固まってオセロをすることになった。オセロは、スマートフォンの中でそういう対戦型のアプリがあった。
太陽が顔を出すまでオセロを続け、日が差し込んできたら活動を開始した。俺の部下を呼び集め、鑑識に回すように紙切れを渡した。その後、部下達と協力して廊下から怪老人の手掛かりを探し、理詰めで怪老人の正体についても散々議論した。
同日午前九時頃には、紙切れから俺以外の指紋が採取出来たことが報告された。これで事件は収束に向かうだろうと安堵した。
「明智。紙切れから指紋が検出されたってさ」
「それは良かったですね。誰の指紋でしたか?」
「事件関係者に、該当する指紋の持ち主はいなかった。今はデータベースで過去の犯罪者の指紋と照らし合わせて指紋の持ち主を捜索中だとさ」
「筆跡はどうでしょうか?」
「筆跡については、もうじき結果が来るはずだ」
「一件落着とまではいきませんが、犯人は捕まりそうですね」
「今日中には家に帰れると思うぜ」
俺の考えは甘かった。この後に、思い知ることになる。一日二日では、この殺人事件は終わるわけがなかった。