しだれ桜は風になぐ
「振り向いちゃだめ」
夕焼けを背にした横顔は表情が見えない。
山の中腹にあるスキージャンプ台がきらりと夕陽をはじき、横顔は口をほんのわずかに動かす程度にささやく。
「目があったら頭からがぶりだよ」
息をのむとつないだ手にぎゅうと力が加わった。
「だいじょぶ。ぼくといれば」
小さな私の小さなともだち。
顔もなまえも覚えてはいない。
母ですら記憶にないというその子はもしかしたらイマジナリーフレンドだったのかと今では思う。
「で、その相続した家ってでかいの」
彼はふくらませた枕にひじをのせて煙草に火をつけた。
そのがっしりとした肩とベッドの隙間に頭をこすりつけながら耳を彼の胸にあてる。うん。この位置。
「まあ、広さはそこそこあるんだけど……ふっるいのよ。ねえ、みたことある? 縁側があるの」
「縁側!」
北海道に縁側のある家はそう多くはない。瓦屋根も同様。断熱的に少し問題のある仕様だからだ。
幼いころ住んでいたその家は母の実家。今はもう誰も住んではいない。
母が今どこに住んでいるかは知らない。生きているのかどうなのかも。放蕩娘をとびこして祖母は私にその家と相続に問題ない程度の現金を遺した。
昔はそれなりに土地をもっていた地主だったという話だけど、まあ、古さと狭い町を嫌って飛び出した娘をひきとめることもできない程度の家で終わった。祖母とはずっと連絡すらとっていなかったけど、去年の年末に凍った雪道を転がり落ちてそのまま亡くなったらしい。
山の中の小さな町。急こう配で入り組んだ細い道路は車がすれ違うこともできず、お見合いした車のどちらかがバックして道を譲るのが日常の光景。その町の一番高い位置に陣取った家は、さびれたスキージャンプ台に見おろされていた。
山と庭の境目はなく、草むしりは大きなしだれ桜を目安にしていた。
花の盛りの時期でも北海道の夜は冷え込む。
身震いしながらトイレを目指して渡る縁側からは、月明かりに白々とひかり花びらを散らすしだれ桜が見えたのを覚えている。
「引っ越すのか?」
「まさか!仕事に通えないよ」
「じゃあ売るとか?」
「売れるのかなぁ……週末に片づけの下見しにいくけど来る?」
んー、と気乗りしない声をくぐもらせて彼は煙草の火を消した。このはなしはこれでおしまいの合図。
朝早くから車を出して、田舎過ぎてナビも役に立たない道を何度か行きつ戻りつしながらうっすらとした記憶を頼りになんとか山の家にたどり着いたのは朝の10時少し前だった。玄関のがたがたと渋る引き戸をこじ開けて上がり込むとざらざらと砂の膜が床一面にはっているのがわかる。人の住んでいない家は1か月で荒れるって本当なんだとひとりごちる。
隙間風ひどいこの家が半年近く放置されていればこうもなる。靴下の替え、持ってきてよかった。
茶の間の中心からすこしはずれた位置にすえられた木炭ストーブ。今どきのブームにのったおしゃれなものではない煤だらけのいかついもの。使い方も知らないが、カンカンと蒸気をあげる鍋を載せたストーブの肌にすれすれまで手を近づけさせられて「触ったら熱いからな?な?熱いべさ、近寄んなよ」と祖母に教えられたのは覚えてる。触れるとひんやりと冷たい。今日は引き戸と少し格闘したくらいで汗ばむ陽気だけど、雨戸を閉め切ったままのこの家は、年末の雪の冷気を遺している。
縁側と茶の間を隔てる障子を開け、雨戸に手をかける。……また格闘か。
罵り言葉をまき散らしながらやっと雨戸を開け放つと、あのしだれ桜が満開で出迎えてくれた。
私の住む町ではとっくに終わったはずだけれど、このあたりではまだ盛りだったらしい。さあっとはしる涼やかな風が汗ばんだ肌に花びらをはりつけていった。
ネイチャーゲームの木の鼓動というプログラムがあると知ったのは大人になってからだったろうか。
なんだか胡散臭い自然派活動的な印象は生理的に受け付けなかったので詳しいことは知らない。知らないが、その「木の脈」は聞いたことがある。家の中の砂や泥だけでもと、一通り掃き出したときはもう昼を過ぎていた。来るときにふもとのコンビニで買ってきた缶コーヒーと菓子パンをもって桜の下に腰を下ろす。
ごつごつした樹の肌に耳をあてた日。息を詰めて聞き取った、ざぁっざぁっと流れる音。
この町内に小学校はない。同じ年頃の子供は同じ町内にはいなかったから。子供の足では少しきつい坂道を下り、町の端をかすめる路線バスで山向こうの小学校に通う私には普段遊ぶ友達はいなかった。二年生になる前に私を連れて母はこの町を出たから、一年生の時、一年間だけの話だ。
移り住んだアパートには男が一人すでに住んでいた。細いふちの眼鏡をしたその男は近所の浅黒いしわを刻まれた年寄りたちとは違って色白で線が細かった。多分その「都会ぽさ」に母は惹かれたのだろう。大人になってから考えるとその町だってこの山とは五十歩百歩だった。何せ平地とはいえ住所上は隣町でしかない。母は愛情表現がおおらかな人で、私にもことあるごとに頬にキスしろとねだり、ほらおじさんにもね、と促した。習慣化した挨拶に思うことなど何もなかった。
それでも、ある朝くちびるのぬるりとした感触で目覚めたとき、視界いっぱいにその男の顔があったときは鳥肌がたった。その鳥肌の意味もわからなかったし、別にそのことがトラウマだったりもしないし、それ以上のことはなかったし、確か男はしばらくして姿を消した。なんか最近見ないなぁっと気付いたのが三年生の夏が始まる前くらいだったように思うので、おそらくその男は1年ちょっとしかいなかっただろう。その男のことよりイラつきがちになった母のほうが厄介だった。
しゃら、しゃらら。
桜の葉擦れが耳に心地よい。
どうせ片づけは一日では終わらない覚悟をしていたし、来週も来るつもりではいたけど来週だともう桜は終わっているだろう。
明日また来ることにして日の暮れる前に山を下りた。ナビにマークしたからもう迷わない。
家に戻ると彼がお笑い番組を肴に缶ビールを空けていた。ゆうべ作り置いておいた唐揚げの皿も空いている。今夜甘酢かけにするつもりだったのに。おかえりと巻きつく腕をそっと外し、汚れてるからとシャワーを浴びた。
「明日も行くのか?」
「うん。半年近くも放っておいたから荒れ放題なんだもん」
「どうせつぶして売るんだろ?」
「まだ売れるかどうかわかんないよ。あんな山の中の土地。売るにしたって片づけなきゃでしょ」
売れるといいな、と肩を抱きよせられてそのまま頭をその肩に預ける。
こつ、こつ、と窓が小さな音を立てているのに気づき布団から這い出る。隣の部屋から、ザザザっとテレビの砂嵐の音が聞こえる。また母と男が酒を飲みながら寝てしまったのだろう。そっとカーテンの下にもぐりこみ暗闇に目をこらした。窓のさんに小さな指がかかっているのが見え、その向こうにぎょろりとふたつの緑の光。きらきらと濃淡に輝く。きしまないように窓を開けた。
「どうしたの」
しぃっとその子は人差し指を私の唇にあてた。その小さな指先には似合わないように思える黒く伸びた爪。
「ひっこしてきたの?」
お互いの額を寄せてささやきあう。
「ううん。でもここは近いからすぐこれる」
「そなの?とおくないの?バス乗ったよ」
「ぼくならこれる。でもきみはひとりじゃ無理」
「えー」
「あのね、おぼえてる?暗くなったらおそとにでちゃいけないよ。怖いのがくるから」
「うん。おぼえてる」
「やくそくね」
「やくそく」
小指を絡めてこつんこつんと額をぶつけあった。
台所から勢いよく水の音。どちらかが目を覚ましたんだろう。戻って、とささやかれて布団に飛び込む。
「だいじょぶ。ぼくがいるからね」
カーテンをふくらませる風にのって聞こえた言葉。
待って、と声をあげようとして目が覚めた。
横に寝ていたはずの彼がいない。
「……ねぇ?」
暗がりで箪笥の引き出しをあさる影がびくりと震えた。
「なに、してるの」
枕元の明かりをつけると彼の手には通帳。
「ほら、知り合いのさ、詳しいやつがさ、家売るとなると税金とかいろいろかかるからって」
「で?」
「相談にのってもらうには、ほら、いくらもってるかとかいろいろ」
「でもそれあなたには関係ないよね?」
じりじりと近づいてくる彼の顔はまだ暗くて見えない。
「来ないで」
「そんな言い方ないだろ」
視界は真っ暗な闇に落ちた。
ざぁっ
ざぁっ
ざらざらとした何かが耳に触れている。
頭を持ち上げようとして痛みに気がついた。
こめかみに指で触れるとぬるりと滑った。ふわりと風が指の間を抜けその冷たさで指が濡れていることがわかる。
さっきまでの流れる音はこれだろうか。
違う。
灰色のカーテンがひかれるように差し込んだ月明かりに、穴を掘る人間の姿が浮き上がった。
指先にひとひら花びらが触れ、赤く染まっていくのも見えた。
ああ、馬鹿ね。私が死んだと思ったのね。きっと。
だから埋めようとしてるのね。
ナビでこの山に連れてきて、この山に埋めようとしてるのね。
籍をいれてるわけでもない私を殺したところで何が手に入るわけでもないでしょうに。
通帳になんてその罪と引き換えるほどのお金なんてはいっていないのに。
死んでるかどうかもわからないなんて。
なんて馬鹿な人。
「暗くなったらおそとでちゃだめって約束したでしょ」
耳元に懐かしいささやき声。
緑の輝きがふたつ覗き込んでるのが横目にみえた。
しぃっと鋭く黒い爪の人差し指をたてて私の小さなともだちはいう。
「でもだいじょぶ。ぼくがいるからね」
もぞりとゆっくり脈打つように耳の下でうごめいたのは、しだれ桜の根。
一心不乱に穴を掘り続ける彼にむかって、地面が一筋土を盛り上げながら進んでいく。
大きなみみずが進むように、ゆっくりと脈打つ血管が地の下を這っていき、ゆるく私の頭も上下させる。
「いたくない?」
「いたい」
「かわいそうに」
そっと根と私の間に膝をすべりこませてくれた。
「人間はぼくがお昼寝してる間におっきくなっちゃう」
「あなたは変わらないのね」
名前は覚えてないんじゃなかった。いつも二人だけだったから名前を呼ぶ必要がなかったってことを思い出した。
「君のおばあちゃんもそういった」
「そう。おかあさんは?」
緑の目が少し細まった。
「あの娘はぼくがみえなかった」
息を引くような小さな悲鳴らしきものが聞こえた瞬間、彼の全身が太い根に巻きつかれそのまま地面に吸い込まれた。
「私も死んじゃう?」
「君が? ぼくがいるから怖いのは来ない。だいじょうぶ」
優しく、優しく、私のこめかみを撫でる。
「怖いのから、ずっと守ってくれてた?」
「ぼくが起きてるときは」
ざぁっ
ざぁっ
私の小さなともだちの胸から聞こえる。
あの日聞いた脈の音。
「ねえ、来週はまだ起きている?」
「来週?わかんない」
「そっか。じゃあ来週は仕事休もうかな」
「あそぶ?」
「うん。でもちょっと今は眠い」
抱え込んでくれる小さな体に頭を預ける。
ざぁっ
ざぁっ
おやすみなさい
私の小さなともだち