小さく大きなボトルレター
これは嫌味なラブレター。きっとあなたは読んでくれないと思うけど。
肌に張り付くような生ぬるい風が頬を撫でる。空はどんよりとした鉛色。田舎の小さな漁港の桟橋の先に僕は独りで立っていた。遠洋がしけで荒れていて、誰もいない中、波の音だけが支配している。あなたといた場所、あなたがいた場所、いるはずもないのに、会えるだけの気持ちも決まっていないのに、あなたの姿を無意識に探してしまう。まだそこにあなたがいるような気がして。僕は握りしめていた小さな瓶に一枚の手紙を丸めて入れてコルク栓をしっかりと閉め、力いっぱいにそれを海に向けて投げ捨てた。僕は何をどこでどう間違えたのだろう。そんな迷いを振り切るように。
最近はもう見なくなっただろう、ボトルレター。その手紙の宛先はあなたの名前だった。
拝啓
きっとこの手紙はあなたに届くことは無いのでしょう。この想いはあなたに届くことは無いのでしょう。しかし僕はあなたに徹底的に拒絶されなければ、折れることができないほどあなたを愛してしまった。あなたは優しい人だ。こんな僕でさえ拒絶なんてできないのだろう。そんな優しい所も好きなのだ。でもそんな優しさが今はとても痛いのだ。それは時として割れたガラスのように僕の心に棘を刺す。それに耐えて近づくと、傷薬を塗るためにあなたはその傷をえぐるのだ。
僕はそんなあなたから逃げてしまった。その日から恋慕は恐怖に変わってしまった。それからの日々は生きている実感すら失うほどに。あなたを失うことがこんなにも耐え難いものだとそれまでの僕には気づけなかったのだ。僕は馬鹿だ。なぜ逃げたのだ、と自分を責め、逃げてしまった後ろめたさは、あなたを見かけるだけで、嬉しさと後悔を生み出し、胸が痛くなった。
いつか僕の中からあなたは消え、あなたの中から僕は消えるのだろう。それは何も特別なことなどではないのは、頭でわかっていても、心はそれを嫌がる。願うことならいつまでも、好きになんかなってくれなくてもいい、僕の想いに応えてくれる必要なんてない、あなたのそばにいて、あなたの笑顔を見ていたいのだ。他人は笑うかもしれないがそれだけでいいのだ。そんな小さな願いさえも、もう叶えることができないのは自業自得なのだろう。
「あなたを好きになったこと」は、時間が経てば忘れて消えてなくなる。僕はそれが嫌だからこの手紙を綴った。嫌だから、なんて幼稚な理由だろう。しかしあなたの前では素直な僕でいられる気がしたのだ。それは恋慕というよりも家族愛に近いものだったのかもしれない。
もしいつか綺麗にすべてを忘れてしまったとしても、この手紙はこの世界のどこかに存在し続ける。それは僕があなたを愛した証であり、忘れることは失うことではないと自分自身に言い聞かせるためのものだ。
遠い昔に無くしてしまったはずの感情を、あなたは取り戻させてくれた。もう誰も愛することなどないと思っていた僕に、あなたは人を好きになる幸福を教えてくれた。だから僕はあなたにどれほど感謝してもしきることはない。
ありがとう さようなら いつかもう一度会えた時は一番の笑顔で会いたい
これは僕の最愛の人に贈る最後の手紙。
敬具
ボトルは波に乗って桟橋から離れていく。まるでその手紙が僕自身であるかのような、感覚に囚われて、見失えばそこで僕が死んでしまうような、そんな感覚。
だがこれは必要なこと。僕が愛したあなたの為にも僕は次に進む。そのための儀式。波間に消えていくボトルをじっと見つめていたその先に、あたたかな光が差し込む。ふと見上げると天使の梯子が海に向けて差し込んでいた。そして、その梯子を駆け上る僕の姿が見えた気がした。
忘れたくないと思うことも、消え去りたいと思うこともどちらも僕の本心でどちらも未来の僕につながるというのなら、あなたを愛したことは何一つ間違っていなかった。
6月上旬の夕風は、冷たさを取り戻し、火照った身体を冷ましていく。もうここに来ることはない、そう覚悟を決め、僕は帰路についた。