七色の瞳の乙女と守護する者
神崎シオンは女子トイレの鏡を覗き込んでいた。
会社の同僚に『眼の色が変だ』と言われたのである。
シオンはため息をついた。
…困ったなぁ…。
今日は寝過してしまって、コンタクトレンズを入れ忘れた。
瞳の色がコロコロ変わるシオンにとって、黒色のコンタクトレンズは必須アイテムなのだ。
どうして私の瞳は、色が変わるんだろう。
小さい頃はそれが変だなんて、微塵も感じなかった。
喜怒哀楽を感じる度に瞳の色が変わることを知っていたのは、自分と両親だけであった。
昔から何度も病院で検査をしたものの、一度たりとも異常が認められた事はなかった。
それどころか、視力は常に人並み以上である。
眼に異常がないと分かると両親は安心し、あっけらかんとシオンにこう言った。
「異常がなくて良かったじゃない。それどころかさ、瞳の色が一色じゃないなんて珍しいしぃ!」
「いやぁ全くだよ。シオンに何かあったら、パパ泣いちゃうからね。シオンの眼の色なんてどんな色でもいいさ!見えてるんだからさー」
そ、そんなんでいいのかぁ?
若干の違和感を覚えたものの、両親の意見もそう間違ってはいないと思い、シオンはそれ以上の診察を希望しなかった。
…まぁいっか、痛くもないし眼も見えてるし。
「…ちょっとシオン、平気?」
トイレの入り口のドアを開けながら、六条香は親友のシオンに声をかけた。
香はシオンの幼馴染で、彼女の瞳の色が変化することを知っている。
「ったく、気を付けてよね」
香は鏡に写った自分の顔を見つめながらシオンにそう言うと、少し口を尖らせた。
「なんで香がそんな事言うのよ?」
すると香は、若干イラッとしたように眉間を動かして、シオンに向き直った。
「あのね、シオン。いつも言ってるでしょ?」
それからグイッと自分の顔をシオンに近づけ、声を落とした。
「あんたのその瞳。その瞳はすごい力があんの!あらゆる者があんたの力を手に入れたがるわ。それは人間だけじゃない。いいえ、むしろ人間よりも魔物、神々、常識では考えられないような世界に住んでる者達よ」
…はいはい、そうでした、そうでした…。
シオンは耳にタコができるほど、香のその言葉を聞いているのに、どうしてまたこんな質問をしてしまったのかと後悔した。
香はシオンの手を取り、心配でたまらないといったように長い睫毛を震わせた。
「シオン、あなたは特別な存在なのよ」
シオンはそんな香を見つめ、彼女の手を握り返した。
ふたりは幼いころからの付き合いである。
同じ会社に就職できたのは、ひとえに香の父親のお陰である。
「うーん、シオンちゃんは秘書検定もってるんだって?
うちは商社だから英語が話せるのもポイント高いよ。
それにシオンちゃんはスタイルのいい美人さんだしね!
まあ、人事部長に僕から推しておくよ。面接受けてみて」
子供の頃の香は病弱で、いつも青白かった。
体が弱いのに、なぜかいつもシオンの後にくっついてまわり、シオンは気が気ではなかった。
いつも香は、私を気にかけてくれている。
「ありがと、香」
香はシオンの瞳を見つめながら昔を思い出していた。
昔―そう、とても昔だ。
まだ、人間と神々がもっと近い距離にいた頃。
神々だけではない。
魔性と呼ばれる種類の者達も、人と近かった頃。
香は覚えているのだ。
自分が何度も何度も生まれ変わりながら、七色の瞳の乙女を守ってきた事を。
それが自分の存在の意味であり、使命であると知っているのだ。
けれど何故、輪廻転生し続けているのを覚えているのかと聞かれても、答えようがない。
最初はみんながそうなのだと思っていたが、ある時、その事について話し出すと不思議そうにされたり、気味悪がられたりしたのをきっかけに、他人と自分が違う事に気付いた。
それ以来、誰にも話していない。
「…香?」
シオンは、急に黙り込んだ香に声をかけた。
「さ、帰ろ」
香はうんと言いながら、急に空気がヒヤリとするのを感じた。
久々だったが、気配を感じたのだ。
集中しようとして無意識に眉を寄せる。
誰かが…シオンを狙っている。
七色の瞳の乙女を。
香は、天井に眼を向け大きく息を吸い込んだ。
◇◇◇◇
アイーダはギクリとし、心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。
ようやく七色の瞳の乙女を探し当てたと思ったら、とてつもなく強い力を持った者に、しっかりと守られているではないか。
人間世界に降り立ち、七色の瞳の乙女が生きている時代を覗き込んだ途端、『守護する者』とも出くわしてしまったのだ。
く、人間風情が!
しかしこの『守護する者』には、超自然的な、強大な力があるのが見て取れる。
このままでは、七色の瞳の乙女を連れ去ることなど出来ない。
かといって守護する者をあっさりと殺すだけの力は、自分にはない。
特にこの場所では。
人間界では自分の力が最大限に使えないのだ。
下手をすると深手を負わされかねない。
アイーダは、シオンと呼ばれた女と香と呼ばれた女を忌々しそうに睨み付けた。
香は、人間界に裂け目をいけ、そこから覗き込む魔性と眼が合い、咄嗟に身構えた。
「お前は誰だ!何者だ!?」
「私はアイーダ」
苛立たしげに大きな漆黒の瞳を瞬かせて、魔性はこちらを睨みつけている。
反射的に香はシオンと魔性の間に割って入ったが、魔性はシオンよりもむしろ、香を凝視している。
香は息を吸い込むと両手を大きく広げて、アイーダと名乗った魔性を『千年火花』で焼いてしまおうとした。
…焼かれる!
アイーダは咄嗟に後方へ跳び退いたが、次は必ず仕留められてしまうと感じ、焦った。
どうするか?
このままでは、魂ごと焼かれてしまう。
この人間界で、ここまでの力を持つ者には勝てない。
ましてやそれが 『守護する者』なのだから始末が悪い。
どうする、どうする!?
ならば…!
ひらめいたただ一つの方法に、アイーダは賭けた。
ここで無理なら…連れ去ってやろうではないか!
多少の痛手はやむを得ない。
アイーダは薔薇のように美しい唇を引き上げ、こう言い放った。
『来い!七色の瞳の乙女!』
アイーダは黒い風を巻き起こしながら、香とシオンに覆いかぶさった。
世界樹ユグドラシルの腕輪をシャラリと揺らし、二人をミッドガルド(人間界)から自分が暮らす世界、ジュードヘイムへと連れ去るために。
「きゃああああ!」
シオンは突然黒い煙のような風に包まれ、その猛烈な勢いに体中が引き裂かれそうになった。
「シオン、私に掴まって!おのれ魔性…!千年花火!」
香と他の誰かの悲鳴のような声を聞きながら、シオンは自分の体が引きちぎられるような痛みを感じ、そのまま訳が分からなくなり、意識が途切れた。
◇◇◇◇
……っく…!
アイーダは、痛む全身に顔をしかめた。
守護する者め…!
アイーダの美しく白い肌は焼け焦げ、所々皮膚が裂け、魔性特有の黒い血がドクドクと流れ出ていた。
やっとの思いで首だけを上げると、そこが自分の世界である事が分かった。
ジュードヘイムでしか咲かぬ、アヴィの花が彼女の頬のすぐ近くで揺れているからだ。
…どこだ…?七色の瞳の乙女は?
まさか自分だけが舞い戻ったのではあるまいな…?
アイーダは、世界樹ユグドラシルの根で作られた腕輪を反対側の手で確認し、ホッと息をついた。
良かった、腕輪を失ってはいない。
世界樹ユグドラシルの根の下には、過去、現在、未来、そして神々の世界をはじめ、人間界やそれ以外のあらゆる世界がひろがっている。
その世界樹ユグドラシルの根で作られた装飾品を身に着けた者は、全ての世界を自由に行き来する事が出来るのだ。
アイーダは、ホッとしつつも七色の瞳の乙女を見失ってしまった事を悔み、唇を噛み締めた。
ああ、このまま私は一体どうなってしまうのだろう。
守護する者に深手を負わされ、このまま恋しい黄金族人間の王子ファルにも会えず、朽ち果てるのだろうか。
嫌だ、王子ファルに会いたい。
彼を……彼の……愛が欲しい。
アイーダはギュッと眉根を寄せ、起き上がることも出来ない身体を震わせた。




