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3.幼馴染の二人

 

 交通事故から一週間が経った。


 カーブに突っ込んだ車体の左側面は、ガードレールと接触してズタズタになったが、自走が不可能な程の損害でもなく、また幸いにして恋人に怪我はなかった。それだけが唯一の救いだった。


 だが俺は左足を骨折してしまった。事故の際、変な風に強く踏ん張ってしまったのが原因だ。呆気ない位に簡単に折れた。まるで俺と恋人の関係性みたい。


『……最低だよ、それって』


 あの後の車内の微妙な空気は、なかなか説明するのが難しい。事故に混乱していた恋人も、落ち着きを取り戻した後は、「足が折れたかもしれない」と言い救急車を呼んだ俺を心配もしたが――。


「何で、どうして? 眠たかったの?」

「いや、そういう訳じゃない」


「じゃあ、なんで……」

「……幼馴染の、幼馴染のことを……考えてたんだ」


 ――つい漏らしてしまった俺の一言に絶句した。


「へ? 幼馴染? え? えっ? そ、それって、男の子だよね……?」

「いや……違う」


 彼女はやがて、苦渋に満ちた俺の顔から何かを悟ったようになると、「なにそれ」と呆然自失となって呟き、「ありえない」を連呼し、次いで静かに俺を責め始めた。最終的には不機嫌な面で黙りこくってしまった。


 どうして俺は、本当のことを言ってしまったんだろう。俺の不注意で怖い思いをさせてしまった恋人を、どうして気遣ってやれなかったんだろう。今夜は彼女が、初めて俺の家に泊まりに来る日でもあった。


 ただ終わってしまった男女の間に流れる陰鬱な空気が、車内にはそっくり漂っていた。パトカーと救急車が来てその場で別れて以来、恋人とは会っていない。


 心残りがあるとすれば、彼女のご両親を心配させてしまい、俺が直接頭を下げに行けなかったこと。彼女の心を悪戯に傷つけてしまったこと。


 地元から駆けつけた我が家の両親が、動けない俺に代って彼女の家に謝りに行った。向こうの親御さんは、それほど大きな事故でもないから、どうぞ気になさらず……と歯切れ悪く言ったそうだ。彼女には会えなかったらしい。


 両親は俺を叱責するでもなく、気遣いの言葉を掛けてきた。国土交通省から請求されるガードレールの補修代金も、二人に払ってもらうことになった。


 自分がちっぽけな存在だということが、改めて身に沁みた。

 有難くて、だからこそ悔しくて……。



 ――気づけば俺は、病室で一人バレンタインを迎えていた。



「この、へたれ」


 その日の午後、交通の便の悪い場所にある病院にも関わらず、わざわざ夢子さんが見舞いに来てくれた。ギプスで固定した左足を吊上げている、情けない姿の俺を満足そうに眺めて言う。


 優しく俺をなじる言葉に、思わず苦笑がこぼれた。それは事故後に生まれた、自嘲以外の初めての笑みだった。


「今の俺に優しくしないで下さい。夢子さんに惚れてしまう自信があるので」


「はぁ? 何言ってるんだお前? 脳の検査はしたのか? 言っておくけど、バレンタインだからって義理チョコもないからな」


 大胆にいえば、それは俺にとって救いだった。俺は夢子さんとの関係性の中で、快活な俺を少しだけ取り戻した。


 だが夢子さんはやっぱり夢子さんで、それから十分後には、やって来た時と同じ唐突さで、


「それじゃ、お大事に」


 そう言って踵を返し、相部屋の病室から立ち去ろうとした。

 その間際――。


「あ、あの!?」

「ん? なんだ?」


 夢子さんの切れ長の目が、彼女に向けて手を伸ばした俺の無様な姿を映し出す。


 俺は俺自身の、衝動的な心の動きに驚いた。

 俺は夢子さんから、あかねのことを聞き出そうとしていたのだ。


 だけど結局、開きかけた口を躊躇いがちに閉じた。


「いえ……何でもないです。その、わざわざ有難う……ございました」


 手を元の位置に戻し、俯き、自分を持て余す。

 すると夢子さんは俺にツカツカと歩み寄って来た。反射的に顔を上げる。


「私の言ったこと、わかったか?」


 夢子さんは両腕を前に組むと、俺にそう訊ねてきた。


「え?」


 俺は瞬時にその意味を理解することが出来ず、間の抜けた声を上げる。彼女の顔を文字を読むような心地で眺めた。気圧されそうな程に澄み渡った美が、少しだけ立腹したような顔に表れている。


「私が前に言ったことが、わかったのかって聞いてるんだ」


 そこでようやく、その言葉の意味を悟った。

 夢子さんが言った言葉といえば、あれしかない。


 俺は泣きそうな顔で答えた。


「えぇ、痛いほどに」


 虚飾を交えない俺の本音。

 自然と再び俯いてしまい、苦み走った自嘲がこぼれた。


 悲しみはなく、痛みもなかった。

 ただ何かを取り落してしまったという喪失感だけが、耳に(うるさ)い。


 そんな俺を前に、夢子さんは視界の端でニヤリと笑った。


「そうか、よろしい」

「え?」


 視線を交錯させる。

 彼女の真っ暗な瞳孔の奥の水面で、得体の知れないものが揺らめいていた。


 やがて夢子さんは再び踵を返すと、片手を上げながら部屋を退出した。

 その男前な光景を、俺は黙って見届ける。


 バレンタインの病室には、相部屋にも関わらず俺しかいない。

 夢子さんが去ると、魂ごと裸にされてしまったかのような寂しさを覚えた。


『あかね、俺はお前が好きだ! そんな奴の隣にいるんじゃない!』


 心の中では叫べるのに、どうして声に出してそう言えないんだろう。

 俺は俺自身の弱さをじっと眺めた。


 …………答えは分かっていた。


 振られるのが怖いんだ。傷つきたくないんだ。

 そんなことをいう滑稽な自分も……許せない。


 女々しくて、ちっぽけなプライドばかりを気にする矮小な存在。

 それが俺。吉岡弘樹という存在。



「ば~~~~か」



 俺は、誰にともなく呟いた。



「ば~~~~~~~か」



 俺は、俺自身に呟いた。



「ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁか!」



 圧倒的に空しかった。無気力に黙り込む。

 自分の中でわだかまっている物憂い心持ちだけが、ただ一途に募っていった。


 ふと泣いてみようかという気分になった。

 そうすれば、随分と気持ちも楽に……。



「ば、バカじゃないもん!」

「は?」



 その時、突然――。


 病室のドアがスライドする音と共に、聞き慣れた声が俺の鼓膜を通過した。

 春夏秋冬が過ぎゆく中で、何度も聞いた誰かの声が。



『ひ~~ろきぃぃぃ!!』



 ハイヒールがリノリウムの床を打つ音が響く。

 俺は現実を恐れるような気持で迎えた。


 そこには、そこには――。











「私、弘樹が思ってる程にバカじゃないもん!」











 椎名あかねが、俺の、たった一人の幼馴染がいた。


 俺は呆然と口を開けてあかねを見た。

 視界が自然と潤み始め、瞳の奥が燃えるように熱くなり……。


「な、何でお前が、ここにいるんだよ!?」


 それを隠すようにそっぽを向いた。

 思わず、そんな素気ない言葉が口を衝いて出てしまう。


「え? あ……」


 あかねの声は当惑に震えた後、気落ちしたようにその場に落ちた。

 哀しそうな顔をしているのが、見ないでも分かった。


「その……弘樹が、事故で怪我したって夢子に聞いて、それで……」


 胸が鋭いもので刺し貫かれたかのように痛む。


 ――何やってんだよ、俺は。


 いつもそうだ。あかねを前にすると素直になれない。

 乱暴で我儘な一人の少年に戻ってしまい、ひどく幼く、悪態ばかりで……。


 喉を小さく鳴らす。ゆっくりと視線をあかねに据える。


 あかねは悄然としたように俯き、その頬はほんのり赤く、瞳は水分を含み潤んでいた。口元は、涙を堪えている少女特有の角度に引き絞られている。


「わたし、凄く、凄く心配で、弘樹が、事故したって聞いたとき、心臓が、止まるかと思っちゃって」


「あかね……」


 忸怩たる思いに塗りつぶされた黒い影が、俺の首を絞める。

 しゃくり上げるあかねの声が、不甲斐無い俺を小さく苛んだ。


 幼馴染の俺たち間に、様々な感慨を孕んだ無言が横たわる。

 沈黙に身を浸した俺は拳を握り込んだ後、決意の元に口を開こうと――。


「なぁ、あかね――」

「か、勝手なことしてごめん。ち、近寄るなって言われてるのに。恋人さんに悪いよね。わ、私もう帰るね! それじゃ」


 だがその言葉は、あかねによって妨げられた。

 俺は踵を返そうとするあいつに手を伸ばし、その華奢な腕を掴んだ。


「ま、待てよ! 別に……そんなのいいんだ!」

「え……?」


 あかねは驚いた目をして俺を見る。


 服を通して感じる、女性らしい柔らな腕の感触。

 その腕を掴んだのは、いつ以来だろう。


 そんな感慨を胸に、俺はゆっくりと手を放した。

 放心したような表情のあかねを前に、苦笑しながら言う。


「お前こそ……彼氏はいいのかよ」


 するとあかねは、(ただ)でさえ大きい瞳を更に大きくした後、急に挙動に落ち着きを無くし、


「え? あ、う、うん!」


 と答えた。

 再び無言が二人の間を満たす。


「あっ! そ、そうだ! リンゴ持ってきたから剥いてあげるね」


 やがてあかねは、新しくその場を支配しようとしている雰囲気に、出来るだけ優しい、冗談めいた性格を与えようと明るい声を上げた。


 ベッドの脇に折り畳まれている、面会者用のパイプ椅子を開いて腰かけ、大きなバックからビニール袋に入った林檎と、果物ナイフを取り出す。そして「えへへ」と照れ笑いを受かべた後、視線を手元に落とし、ショリショリと、林檎の皮をむき始めた。


 俺はあかねの存在を溶けそうな程に熱く意識しながら、天井を黙って見つめた。


 言いたいことがあった。でも言うのが怖かった。

 所在を無くした俺は、やがてあかねが林檎を剥く姿を眺め始める。


 先程までは泣きそうな顔をしていた癖に、今は嬉しそうに笑んでさえいる。

 求めていた幸福が、ここにはあった。


 ならこれ以上、何を求めることが――。


「ねぇ弘樹、ウサギさんでいいよね?」

「は? 何の話だ?」


 暖かく満ちた思いに包まれている俺に、あかねがそんな言葉を投げかけた。


「え? リンゴに決まってるでしょ」


 俺はあかねの間抜け面に、一種眩しいような何かを感じた。

 思わず鼻から息が漏れる。


「ウサギさんとか、小学生かよ」

「む、高校生の頃もウサギさんだったよ!」


「くっ、それ、じ、自慢するところじゃねぇだろ」


 弾んだ息が口の間からこぼれ落ちた。

 あかねも嬉しそうに笑い出す。


「ふっ、ははっ、ははははは」

「も~~笑わないでよ、ふふ、ふふふふ」


 懐かしい笑顔だった。

 無邪気で、優しくて、俺の心の(ひだ)を優しくなでる……。


 だが次の瞬間、たまらない自己嫌悪に襲われた。

 花が包みを閉じるように、口角が萎んでいく。


 俺は自分勝手にも、纏わり付かれるのが嫌であかねから逃げた。

 自分に酔った言い方をするなら、あかねを捨てた。


 なのに何でコイツは病室まで来て、林檎なんか剥いてやがんだ。

 俺に微笑みかけてやがんだ。おかしいだろ……。


 混乱した様々な心象が絡み合い、駆け廻る。

 気付けば俺は、以前から気になっていたことをあかねに尋ねていた。


「なぁ、あかね……」

「ん? どうしたの弘樹?」


 瞬きすら忘れたように、じっとあいつの顔を見つめる。

 俺の幼馴染で、俺の最愛の――。




「なんでお前は……俺なんかに構い続けてんだよ?」




 瞬間、あかねは驚きに目を見開いた。

 きょとんとした顔で俺を見つめ、長い睫に縁どられた瞳を(しばたた)かせる。

 

 だがやがて目尻と口角を柔らがせ、遠い昔を愛しく回顧するような面持ちになると、俺に向って答えた。




「そんなの決まってるよ。弘樹は私の王子様なんだから」




 その言葉を前に、思わず思案顔になって呟く。


「王子……様?」


 必死に思いを巡らせたが、手繰り寄せる記憶の糸の感触は虚ろで、心当たりには至らなかった。俺はあかねに、何か特別なことをしただろうか?


「もう忘れちゃった? 保育園の頃のこと」


 あかねは珍しく恥ずかしそうに、だが如何にも嬉しそうに笑ってみせた後、俺に保育園時代のことを語ってみせた。


 保育園年長の頃、あかねは一時(いっとき)、クラスの男たちに苛められていた。


 言われて俺も思い出した。

 そう、切っ掛けは……些細なことだ。


 お絵描きの時間。書いた絵を張る為に用意されていた画鋲の容れ物を、あかねが棚の上から落としてしまい、画鋲が教室の後方で散乱したことがあった。


 子供の手の届く所にそんなものを置いておくなって話だが、まぁそういう、ちょっと抜けたところがある先生が、俺たちの担任だったんだ。


 慌てて飛んできた先生と一緒になってあかねは画鋲を拾ったが、回収し切れなかった分があったらしい。その後、それをよりもよって意地悪で乱暴だった奴が踏んでしまい、ちょっとした騒動になった。


 それが切っ掛けとなり、あかねは男たちから意地悪をされるようになった。

 恰好をつけた当時の俺が、それを止めさせたんだ。


 記憶は湖の底に堆積した木の葉のように、所々が剥げ落ちながらも、意識の湖面にゆっくりと上がって来た。


 取っ組み合いの喧嘩になった気もするが、最終的には女の子や男の一部も俺に味方してくれて、以降あかねへのいじめは無くなった。


 先生も自分の不注意が一つの原因となった問題でもあり、解決した時にはホッとしていたことをよく覚えている。


 言われなくちゃずっと忘れていた、幼い日の小さな出来事。

 古い映画を思い返すような、遠い昔の話だ。


 俺はあかねがそれを嬉々として語るのを、苦痛に顔を歪ませながら聞いていた。


 苦痛? そう……心に亀裂が出来そうな苦痛。


 あかねの好意の一切がそこに起因していると分かった時から、俺は孤独の底に投げ込まれたような、心痛を覚えていたんだ。


 俺があかねを助けたのは、不純な動機によるものだった。

 担任の朝倉先生に、初恋の相手である彼女に、よく見られたかっただけなんだ。


 子供の頃のことだから、はっきりと覚えている訳じゃない。でも先生が困っていたのを知っていたから、幼い俺はいじめを止めさせた。それだけは確かだ。


 事実、それを契機として先生は、俺を特別視してくれるようになった。


「先生、助かっちゃった」


 そう言って俺に信頼を寄せ、時には皆に分からないよう、俺にだけ特別な優しさを見せてくれたこともあった。そして卒園式の日、さよならを言う俺を前に、情が昂ぶって泣き崩れていたんだ。


 その先生のことも……今では特別に言及されなくちゃ、改めて思い返しもしない。それを遠くの哀しい出来事を眺めるように思いながら、思考を現実に戻す。


 暗澹(あんたん)たるもの表情に滲ませながら、改めてあかねの顔を見た。

 あかねは幸せそうな顔を、満たされたような顔をしていた。


 十年近くに及ぶあかねの勘違いが、俺を遣る瀬無い気持ちにさせる。


 お前を助けたくて、助けた訳じゃないのに……なのになんでコイツは。いつもそうだ、無邪気に笑ってみせて、俺の、俺の醜いところとか知ってるはずなのに、笑って、いつも、いつも……。


 気付くと俺は、込み上げて来たものに胸を締め付けられ、泣き出したい気分に駆られていた。もどかしさが凝固し、腹の奥で嫌な熱を持ち始める。


 ――勘違いさせたままでいられたら、どれだけいいだろう。


 その矮小な考えを俺は憎んだ。或いは勘違いさせ続けることは、一つの強さなのかもしれない。相手が抱いた幻想をそのままにして、ただ一人、自分だけが真実を抱え続ける。


 口が自然と、苦笑の形に縁どられる。

 その強さを履行するだけのものが自分にはないことを、俺は静かに認めた。


 それに何よりも……。

 あかねが愛しいからこそ、いつまでも勘違いさせておくことは出来なかった。


 俺が本当のことを告げるとあいつは、やっぱり驚くだろうか。

 絶句して、否定して、でもそれがどうしようもない事実だと分かると……。


 全てはあかねの思い込みから始まったことだ。


 でも、あいつはそれで、泣くかもしれない。

 それはとてつもなく、俺にとっては辛いことだ。


 だけど……俺は――。


「なぁ、あかね」

「ん? どうしたの弘樹?」


 憤りで胸が焦げ付きそうになりながら、あかねの澄んだ目を見て口を開いた。




「俺がお前を助けたのは、ただ単に、先生によく見られたかっただけなんだ」

「……え?」




 二人の関係性が、真っ二つに折れようとする乾いた音が、何処からか聞こえてきた気がした。押し潰されそうな心の痛みを、微笑を浮かべることで和らげようと試みる。



「だから俺は、お前の王子様じゃないんだ」



 するとあかねは整った奇麗な眉を上げ、信じられないことを聞いたとでも言うばかりに、驚愕に目を見開き――。
















「そんなの知ってたよ? 何言ってんの弘樹?」













 と言った。



「…………へ?」



 俺はその言葉に呆気に取られ、間の抜けた声を上げる。

 知ってたって……お前……は?


「いや、おまえ、知ってたって。え? はぁぁぁぁぁ!?」


 嘗て経験したことのない混乱が、俺の中で縦横無尽に暴れまわる。

 金魚のように口をパクパクさせている俺を前に、あかねは続ける。


「弘樹って、昔からそうだったよね。格好つけで、奇麗な人に弱くて、俺は何でも知ってんだぜ~って顔してるけど、ちょっと抜けてて」


 その一言に、俺は呆然としたり、愕然としたり憮然としたりするのに忙しい。

 自分にまとまりを着けるのに暫くの時間を要する。


 知ってたって……なんで? え? 見抜かれてた?


 その事実を認識した途端、羞恥に背中が熱くなり、冬の室内だというのに汗を覚えた。恐る恐るといった表情であかねを見ると、あいつは一点の曇りもない笑顔を俺に向けて輝かせる。


「は……はははは」


 直後、堪らない心労を覚えたようになった。今までの人生で吐き出したことがない位に長く、尾を引くため息が漏れる。


 俺の一大決心はなんだったんだ……いや、本当に。


 その間にもあかねは、


「ふふ、本当。懐かしいな」


 と、カナリヤが囀るように楽しげに歌う。

 俺は曖昧な笑みを浮かべながら、そんなあいつを見て……。


「ん? ちょっと待てよ」


 そこで俺は胸中に生まれた疑問を、独り言を呟くように口にした。


「でも、それなら何でお前は俺のことを……」


 するとあかねは、光を呑み込んだかのように、顔を輝かせて言った。感じている不確かなものを確かにするような、溢れんばかりの笑顔で。


「そんなの決まってるよ」


 そう前置いて。















「だってそんな弘樹が、私は大好きだから!」














 俺は驚きのあまり唖然となり、間の抜けた表情をあかねに晒す。

 そんな顔に次に表れたのは、愛しさから来る苦笑だった。


「知ってる? 弘樹がどんな気持ちであっても、私を助けてくれたことに変わりはないんだよ? だから私の王子様なの!」


 あかねは俺と微笑みを交換すると、続けてそんなことを言った。

 その無垢さが俺をたまらない気持にさせ、思わず片手で顔を覆う。


 なんだよ、その理由。支離滅裂じゃないか。全然、理解ができねぇ。

 なのに……なのに……。


 ――なんでこんなに、涙が出るほどに嬉しいんだよ。


 衝動的に漏れそうになる嗚咽を、俺は必死になって耐えた。

 そして考える。


 どうして人間には、こんなにも深い喜びが与えられているのかと。

 どうしてあかねと言う存在が、俺なんかに……与えられているのかと。


 だってあり得ないだろ? 俺は一個の凡人だ。矮小で、自分のことばっかり考えて、そこそこずる賢く、人のことは平気で傷つけ、そのくせ自分が傷つくのは嫌で、人に厳しくて自分に甘い、おまけに女々しくて。


 なのにあかねは、そんな俺を無条件で受け入れてくれる。

 俺を肯定してくれる。そんなのって、そんなのって……。


 俺はあかねから顔を背け、覆っていた手を降ろし、鼻をすすった。

 そして前髪で表情を隠しながら、ひっそりと熱い感慨を涙にして流す。


 嬉しいのか、悔しいのか、恥ずかしいのか、それとも安心したのか。

 おそらく、その全てだったんだと思う。


 あかねはそんな俺を気にするでもなく、鼻歌を歌いながら再び林檎を剥き始めたようだった。俺はその間、さめざめと涙にくれた。


「はい、弘樹。あ~~んして」


 やがてあかねは持参した林檎を全てうさぎ形に剥き終えたようで、紙皿に整列させた内の一つに爪楊枝を刺し、俺に向けて差し出した。


 俺は少しばかり赤くなった眼であいつを見据えた後、そっぽを向いた。


「いらん」


 するとあかねから抗議の声が上げる。


「も~~弘樹ったら~」


 いつの間にか俺たちは、以前の俺たちに戻っていた。

 昔から変わることのない、幼馴染の俺たちに。


 そのことがしみじみと無限に喜ばしく、自然と頬が緩んだ。愛しさに胸を締め付けられながら、頬を膨らませて甘ったるい声を上げるあかねに言ってやる。


「今は、リンゴって気分じゃないんだよ」

「え~~~? もう、じゃあ何なら食べるの?」


 一度あかねに視線を集めるものの、気恥ずかしさに逸らす。

 そして言った。



「……今日はバレンタインだろ。チョコレートなら食ってやる」



 あかねは俺の言葉を「へ?」と、驚いた顔で迎えた。だがやがて花の蕾が開くように頬笑むと、椅子に腰かけたまま、足元に置かれたバッグに手を伸ばした。


 今度は逆に、発言者である俺が驚いてしまった。

 まさか、こいつ俺にチョコレートを……。


 その時、不意にこの場に注がれている視線の存在に気づいた俺は、反射的に首を病室の入り口に向ける。


 いつの間に入り込んだのか、夢子さんが病室の扉に背を預け、両腕を組みながら、俺たちを満足そうな顔で眺めていた。


 あかねは彼女の存在に気付かず、大きなバッグの中身をごそごそと漁っている。

 俺と目が合った夢子さんは、ゆっくりと口を開いた。


「ば~~か」


 そして声を出さずに、口の動きだけでそんな言葉を伝えてくる。


 視線を下げ、苦笑を禁じ得ない俺。しかし次の瞬間、突如として、ある理解が直感を覚えるように俺の体を刺し貫いた。目が驚愕に見開かれる。


『私が前に言ったことが、わかったのかって聞いてるんだ』

『そうか、よろしい』


 それは夢子さんと入れ替わるようにあかねがやって来た時から、意識の隅で考えていたことでもあった。


 その感覚のままに、再び視線を夢子さんへと向ける。

 彼女は方頬を窪ませた、含み笑いを俺に返した。


 するとあかねに彼氏が出来たと聞いた時から覚え続けていた、自分でも気付かないような小さな違和感が、一つの意味として忽然と立ち上がって来る。


 そうか……やっぱりあんたが、全部仕組んでたんだな。

 お笑いだ。こんな古典的な手に引っ掛かるなんて。


 ドラマや漫画の呑気な鑑賞者となっている時には、どうしてそんな単純な手に騙されるのかと訝しむこともある。だが当事者になって実感した。現実が認め難ければ認め難い程に、思考に余裕はなくなる。


 そうなってしまうと……いや、もうそのことは言うまい。

 今はただ、あかねの大切さを気づかせてくれた夢子さんに感謝しよう。


 俺は夢子さんに向け、潔い微笑を浮かべた。

 彼女は眉を少しだけ上げて驚いた後、ゆっくりと頷く。


「あった!」


 その時になってあかねがようやく、奇麗にラッピングされた、いかにもチョコレートが入っていそうな箱をバッグから取り出した。



「はい! 私の手作りチョコレートだよ」



 そのチョコレートを俺は、気恥ずかしさから来るぶっきら棒な態度で受け取り、ラッピングを剥がし始める。


 ――そうか……やっぱり持って来てやがったんだな。ははっ、ったくよ。


 去年も、その前の年も、いやあかねが初めて手作りに挑戦した小学校三年の頃からずっと変わらない、手作りのチョコレート。


 俺はマジマジと、一年ぶりに対面したそのハート形のチョコレートを眺める。

 思わず息を飲んだ。この味も当然、俺は知りつくしている。


 期待に目を輝かせるあかねの視線が面映(おもは)ゆく、一度頬を掻いた。

 だが覚悟を決めると、ハート形の先端に齧りつき――。



「……っ!? ってお前! これ甘すぎだろ!?」



 例年通りのことを言ってやった。

 するとあかねもまた、例年通りのことを言うんだ。


 嬉しそうな顔をしてさ。






「え? だって……」






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