2.吉岡弘樹
夏休みの間に恋人と別れた俺は帰省もせず、一人暮らしのマンションの一室でダラダラとしていた。
寂しさと退屈からくる鬱屈した気分が、あかねと連絡を取ろうかなんて気を迷わせたこともあった。
しかしその考えを振り切り、思い立って居酒屋のバイトを始めた。サークルには気まずさから顔も出さなかったが、大学で出来た男友達と遊んだりもした。
そして夏休みが明けて久しぶりにキャンパスに顔を出し……。
――その光景を目撃した。
長身で爽やかなイケメンと、あかねが肩を並べて親しげに歩いていた。
「え……」
俺にしか見せたことのない、親愛の情が灯った笑顔をそいつに向けながら。
思わず息を呑み、その場に立ち止まる。
するとその気配に気づいたあかねが、口を驚きの形に変えて俺を見た。
瞬間、二人の間で時間が止まったようになる。
「よ、よぉ、あかね。久しぶり」
俺は努めて明るく、笑顔で挨拶出来た……と思う。
顔は引き攣っていたかもしれないが。
「は、はぁい。弘樹」
あかねは迷ったような素振りを見せた後、作り笑顔で応じた。
「ひょ、」
俺は二人に近づきながら、口を開く。
狼狽し、震えている自分を否応なく自覚する。
「ひょっとして……彼氏……か?」
するとあかねは、苦しそうに表情を歪めた後、何かを恐れるようにゆっくりと俯いた。そしてある決定的な言葉を紡いだ。
「……うん」と。
多分、その時の俺は息をすることを忘れていたと思う。
だが次の場面では――。
「は、はは、そ、そうか。よかったな」
動揺と困惑が交雑した感慨そのままに、口の端を無理やり引き上げ、木枯らしのように乾いた笑いをもらした。
あかねは痛ましいものでも見るような眼差しで俺を見ている。
「あっ、このもっさり女……って失礼。あかねは俺の幼馴染なんですよ」
そんなあかねの姿を視界の端に捕えながら、努めて明るく男に話しかける。少しばかり警戒していた彼も、そうすると安心したのか、「あ、そうなんですか」と柔らかな声で応えた。
空元気を発揮した俺は、あかねと自分は幼馴染に過ぎないということを強調しながら、過去のことなんかを面白おかしく話してみせた。
体の内を風が吹き抜けるように空虚さが通ったが、その虚しさを見まいとした。
結果、切れ長の目をした男と幾つかの頬笑みを交換した。少しは打ち解けたと言ってもいい。対してあかねは、その間ずっと沈黙を保っていた。話を振っても曖昧な笑顔を浮かべるだけで、話に参加しようとはしなかった。
そして最後に俺は、
「よかったな、あかね。こんな素敵な恋人が出来るなんてよ。ははっ、お、俺も嬉しいぜ」
「弘樹……」
「あ、俺はこの辺で失礼するわ。彼女と待ち合わせしてるから、じゃ~な~!」
そんな言葉を残し、逃げるようにしてその場を去った。
当然ながら、そんな約束なんて存在しない。
硝子を振りまいたような陽光から隠れるべく、俺は走って図書館脇のベンチに向かった。無性に一人になりたかった。
心臓が早鐘を打つように鼓動する。心と感情。その二つが密接に絡み合うどこかで、酷く曖昧な何かが、締め付けるような憂愁となって俺にその存在を知らせる。
人気がないベンチ付近に辿り着いた俺は、荒い息に肩を上下させた。唾を飲み下し、その場に一人、待ちぼうけたように佇む。
そして冷めた目で、俺自身の心の動きをじっと眺めた。
『ひぃ~ろきぃぃ!』
そうやって走ったのは久しぶりのことで、高校時代にあかねが俺を追い掛け回していたことが想起された。最悪のタイミングで……。
暑さと新しく遣って来た現実とで、眩暈がしそうだった。
悪い夢でも見ているような気分になる。
「は、ははは」
思わず片手で顔を覆った。乾いた自嘲がその場に滴り落ちる。
やがて刺すような激しい痛みを伴って、一つの考えが俺を貫いた。
「――くっ!」
だが俺は必死にその考えから目を背け、もう片方の手で拳を作った。身勝手な自分と言う存在を持て余し、毛穴から滲み出た自己嫌悪でじっとりと体を濡らす。
そうして俺は、あかねを失った。
# # # #
あの日あの後、俺がどうしたのかはまるで記憶にない。
ただ翌日からは、現実から逃げるように恋人作りに躍起になった。
俺という器に孤独が、寂しさが、空虚さが入り込まないように必死だった。油断するとそいつらは、いつだって俺に襲いかかって来る。
大学では、気配を殺して生きることに努めた。出来るだけあかねと講義が被らないように、後期の履修登録は最終日に余った科目を選択するようにした。
それでも例えば友達と、或いは新しく出来た恋人とキャンパスを歩いている時に、あかねと出会ってしまうこともある。
躊躇うような息遣い。あかねの横には夢子さんか、あのイケメンがいた。
時には三人で歩いている時も。
――そこは、俺なんだ! 俺の場所だったんだ!
すれ違いざま、思わずあかね達を振り返ったこともあった。胸中に生まれた吼え立てるような声に気づき、自分自身に愕然とした。
「弘樹くん? どうしたの?」
「…………いや、何でもない」
出来た恋人は大切にした。俺に変な後ろめたさがある分だけ、卑屈なくらい大切にした。でも決まって……次第に何だか上手くいかなくなった。
人間は、お互いを苦しめ合うために生まれて来たのかと思わせるような、酷い恋愛を重ねた。お互いを傷つけるだけの、本当に……。
夢子さんとは、暇潰しの為に訪れた図書館で何度か会った。大学一年にして将来を見据えている彼女は、実家の事務所を継ぐべく、司法書士になる為の勉強をしているようだった。
親との確執も今は過去。自主勉強で基礎力を着けた後は、ダブルスクール通いをするらしい。本当、立派な人だよ。
見知ったシルエットを初めて図書館で目にした時は、思わぬ動悸を覚えた。しかし夢子さんが一人だと分かると、途端に安堵したようになる。
まったく……俺は何を恐れているんだか。
机で勉強している彼女に挨拶をしようと近づく。
すると俺の気配に気づいた夢子さんが、面を上げた。
視線が交錯する。
俺が口を開くよりも先に、夢子さんは呆れたように鼻から息を抜くと、俺に半眼を向けながら言った。
「へたれ」
「……え?」
思わず歩みが止まり、驚きに目を見開いた。
単純なはずの言葉の意味を、俺は見失ったようになる。
夢子さんは言い終わると満足したのか、ふんと鼻で笑った。
俺はただ、弱く、曖昧に笑うことだけしか出来なかった。
時間だけは片時も止まらず、進み続ける。
夏の終わりから秋へ、秋から冬へ。
クリスマスの時期にも恋人はいた。だけど、その頃の自分がどんな気持ちでいたのか、何を考えていたのかは……判然としない。
はっきりと思い出せるのは、クリスマスイブのホテルのベッドで、横に眠る恋人の深い吐息を聞きながら、じっと自分自身を眺めていたことだ。仄暗い天井の幾何学模様を見ながら。
『ひ~~ろきぃぃ!』
『失うと分かる。自分が何気なく所有していた物を、一体、自分がどれだけ情熱的に求めていたかということが……でも、その時には遅いんだ』
記憶は、遠い順から思い出に変わっていくことは避けられない。果たして俺は、あかねとのことを、単なる思い出にしてしまっていいのだろうか……。
煩悶に夜を食い潰されそうになりながら、小さく死んでいる恋人に顔を向ける。
あかねも、あの男の隣で同じように吐息を立てているのだろうかと考えると、やり切れない思いで胸が一杯になった。
その恋人とも、イブが過ぎるとあっけなく終わった。
年末や正月は適当な理由をつけて帰省もせず、バイトに明け暮れた。実家に帰れば、地元の友達と遊べば、そこには必ずあかねの話題がついて回る。今の俺はそれに耐えられそうになかった。
年の瀬に一人で紅白を見ていると、一年前のことが、追憶の底の遠い昔の出来事のように思えてきた。
『何だよ、戻ってこないのかよ?』
「あぁ、悪ぃ、そっちはそっちで楽しくやっててくれよ」
数日前、地元の友達と携帯電話越しにした会話を思い出す。
中学三年の頃に受験勉強を名目に集まって以降、大晦日は毎年のように俺の部屋に皆で集まった。気兼ねない小学校時代からの友人たち。俺とあかね、他に男二人と女一人が加わっての大騒ぎ。
普段からあかねに付き纏われて辟易していた俺も、その時ばかりは「まぁ、いいか」という気分になった。
女性陣の申し出で、大晦日は昼から我が家の大掃除をする。そして夕方になると近くのスーパーに五人で買い物に赴き、賑やかにすき焼きの材料を調達。
その後はグダグダだ。
紅白見ながらすき焼きを食べて、十二時近くになると神社に行って、カウントダウンして、「おめでとぉ!」とか言い合って、みかんとか菓子をもらって、家に帰ったらテレビ見ながらダベって、落ちて、起きたら我が家の雑煮を皆で食って、十時頃にようやく解散。
でもあかねは、必ず一時間後には俺の家に戻ってきやがる。
『弘樹っ! 初詣いこっ!』
奇麗に和服なんかに着替えちゃってさ、嫌がる俺を無理やり、それで俺は拒否して、でもあいつがせがむから、正月くらい、仕方なく……それで、それで……。
脈絡なく湧き起こる、甘いような、切ないような思いに当惑した。思い返しながら、自分がとんでもなく女々しい男だということを実感する。
でもきっと……男は全員女々しい生き物なんだ。
よく言うじゃないか、男は名前を着けて保存、女は上書き保存。
常に前に前にと、進んでいく染色体XX。
時に前の前のと、切りがない染色体XY。
渡したドレスもアドレスもしれっと消す、染色体XX。
褪せたスナップ写真すら捨てられない、 染色体XY。
今なら、そんな言葉の意味もよく分かる。
本当によく分かるんだ。あかね……。
# # # #
一人暮らしの人間には長く感じる、本当なら短いはずの大学の冬休み。
俺は持て余した時間で、自動車学校に通う計画を立てた。合宿なら、短期間で運転免許が取れることが分かったからだ。費用の半分はアルバイトで貯めた自分の金で用立て、もう半分は親から出してもらうことになった。
結果、大学が始まって暫くした一月の終わり頃には、無事に免許を得ていた。とんとん拍子で話が進み、車も親戚からお下がりを貰えることになった。
恋人もまた適当に作った。今度はバイト先の相手だ。ちょっと勝気なところが、ほんの少しだけあかねに似ている娘だった。
――そしてあの日が来てしまう。
俺は恋人を助手席に乗せて、海まで来ていた。
冬の海が見たいとか恋人が言うもんだから、ならドライブに丁度いいかってことで車を走らせた。
かなり前に発売された、セダンタイプの国産車。カーナビが古くて頼りにならず、スマートフォンをナビ代わりに使う。
初めて助手席に乗せる女性は……あかねがよかったな。
自然と浮かんでしまう感想を、必死で意識の片隅に追いやる。
あかねには、もう随分と会っていなかった。
ただその事実だけが、無彩色のマーブル模様となって意識に渦巻いていた。
海に面した田舎町の海岸には、昼過ぎに辿り着いた。貝殻を拾ったりして、冬の海でそれなりに楽しく遊ぶ。辺りが斜陽に燃え始めると、ゆっくりと帰宅の準備をした。
「そういえば、もうすぐバレンタインだね」
昼が眠り、空が夜で覆われる。ライトで便りなく照らされた海岸沿いの道を、車は進む。俺はハンドルを握りながら、視線を一瞬だけ助手席の恋人に向けた。
――バレンタインか……イベント時期に恋人がいて助かった。
そんな不遜なことを考えた俺は、やがて次々とやってくる過去の出来事に思いを捕らわれ始める。
『はい、ひろきくん!』
ここに来ても、あかね……か。
物悲しい慰めのない感情が、俺の胸を押し潰し始める。
小学校三年生の頃、初めてあかねは手作りチョコを俺にくれた。学校に持ってくるのが禁止されていた為、放課後、自宅に帰って直ぐに我が家にやって来たあかねから手渡された。
それは脳が揺さぶられる程に甘くて、でも嬉しかったもんだから、俺は玄関で笑顔のまま食べきってみせた。
果たしてチョコレートと関係があったのかは分からないが、直後に鼻血が出て大騒ぎしたのも今ではいい思い出だ。
それ以降、バレンタインにあかねの手作りチョコが途切れたことはなかった。料理は上手な筈なのに、それでもあかねがくれるチョコレートは、嫌がらせかと思う程に甘くて――。
『何でこんな甘いんだよ! 甘過ぎるにも程があるだろ!?』
そう俺が抗議すると、あいつは決まって言ってたな。
『え? だって――』
「弘樹くん!? 前っ、前、前、ちょ、前見てってばぁ!?」
「え? ――っ!?」
気付いた時には、カーブに設置されたガードレールが目前に迫っていた。背中から嫌な汗が一度に噴き出す。急いでハンドルを切り、ブレーキを――。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁああ!」
「――クソッ!」
車体がガードレールを削る、激しい不協和音が響き渡った。