1.椎名あかね
俺には、椎名あかねという名前の幼馴染がいる。
太陽の下でも月の光に晒されてるみたいに肌が白く、顔も小さくて頭身も高い。茶色がかった腰までのもっさりロングヘアが特徴的で、そこそこ綺麗な……。
まぁ美人と言って差し支えない容姿をしてると思う。
だが控え目に言って、かなりアホだ。
もう一度言う、かなりアホだ。
例えば中学二年生の頃の話だ。部活がテスト週間で休みのため、仕方なく二人で帰宅することになったんだが、空は突然の雨模様。
二人とも傘を持って来てなくて、学校の玄関の軒先で途方に暮れていたら、
「そうだ! ミュージカルだと思って、雨に濡れて帰ればいいんだよ!」
あかねは「ラ~~ララ~~♪ さぁ、弘樹もおいでよ!」とか言いながら、雨の中でクルクルと踊り始めた。
俺は無言で踵を返し、職員室に傘を借りに行った。
「ちょ、弘樹? どこへ行く――おっと、弘樹~~♪ どこへ行くの~~♪ ラララララ~♪」
翌日、あかねは風邪をひいて学校を休んだ。
家が近いこともあり、俺は仕方なくプリントなどを手に、部屋を訪れた。
「や、役になり切れてなか……ハックシュン!」
前々からアホだと思っていたが、その考えはその時に確信に変わった。
その他にも小学校三年生の頃、あかねはクリスマスイブに栄養ドリンクまで飲んで、サンタさんを待っていたことがある。
部屋を訪れた親御サンタは、我が娘が目をギンギンに見開いているのに気づき、プレゼントを翌日の夜に見送ったそうだ。リビングにでも置いておけばいいものを……。
そのせいで――。
「ひぃろきぃぃ、うぇぇへぇん、サンタさん、サンタさん、こなかったぁよぉぉ」
翌日、あかねは泣きじゃくっていた。とっくの昔にサンタの正体に気づいていた当時の俺は、何と答えたものかと考えあぐねる。
「何で起きてたんだよ? 起きてる子のところには、サンタさんは来ないんだぞ」
するとあかねは、泣きはらした真っ赤な目を擦りながら答えた。
「だっでぇぇ、だっでえぇぇ、サンタさんに、ひっく、お、お礼言いたかったんだもん。いつも、ありがとうって、ごくろうさまですって」
…………これは、ちょっといい話だったな。
まぁ雨の中のミュージカルで、あかねのアホっぷりは伝わったと思う。
そんなあかねの性格を知らない奴は、あいつのことを平気で可愛いとか言いやがる。つきあってみてぇ、とか夢見るような顔でぬかしやがる。
だが俺から言わせれば、皆ダンスを踊ってんだ。
自分の想像の中のあかねと。
そこで踊ってるのは現実のあかねじゃない。思い込みが激しく、無駄な行動力と自信に充ち溢れ、粘着質なあかねじゃない。
ことある毎に俺に向かって、
『だって私たち、結婚するんだもん!』
とか言いやがる、あかねじゃないんだ。
あかねは何故か、保育園の頃から俺と結婚すると言って憚らなかった。そりゃ保育園の頃は、何となく嬉しかった気もするさ。むず痒い喜びってのを覚えもした。
だけど印象ってのは、どんどん変化するもんだ。
小学校低学年の頃には照れくさく、高学年の頃になると徐々に鬱陶しく感じ始め、中学に入るとその積極性に引き、高校では殆ど避けるようになっていた。
ちなみにあかねとは保育園から始まり、高校に至るまでずっと一緒の学校だ。
あかねから逃げたい一心で偏差値の高い公立高校に入学したにも関わらず、あいつは持ち前のストーカー気質……もとい、粘り強さを発揮して着いてきやがった。
「は~~あ」
机に頬杖をつきながら、物憂げな嘆息を一つ。すると図ったようなタイミングで、四時間目の授業終了を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。
教師にダラダラと挨拶をし、やがて昼休憩の喧騒がそこかしこで膨れ上がり始める。
例えばだ。例えばあかねが、もっと慎ましやかな女性だったら、俺だって淡い恋心を抱いていたかもしれない。
そう恋だ。不思議な力で惹きつけられ、やがて離れることが出来なくなる磁力のような力。小さい頃から一緒で、でもある時から異性として意識し始め、なかなか好きと言えずに……ってな展開だったらさ。
だけどあかねは、慎ましやかとは縁遠い性格をしている。
何所らへんが違うかと言うと、常に全速力で追って来るんだ。
――比喩じゃなく現実的に、二本の足で。
「ひ~~ろきぃぃぃ!!」
あいつのことを考えていると、ドドドドドと、地鳴りのような音と共に、俺を呼ぶ女性の声が三年の廊下に木霊した。
俺は反射的に肩を跳ね上げた後、辺りを伺い、教室後方――窓側にある掃除用具入れに目をつけると、そこに向って駆け、扉を開いた。素早く身を隠す。
「弘樹ぃ! 一緒にお弁当食べよ! って……あれ?」
俺が扉を閉めるのと同じタイミングで別のクラスのあかねが教室に乱入し、俺の不在を訝しむ声を上げた。
闖入者の登場にも関わらず、教室の皆が温かくその存在を迎えているような気がするのを、異臭が鼻を突く棺桶のような箱の中で察する。
非常に遺憾なことだが、俺があかねに追い回されるのはお馴染みの光景と化していた。
「あかねちゃん、今日も弘樹君探してるの?」
「うん! あれ~? でもおっかしいな。どこいったんだろ弘樹」
声をかけた女生徒がクスクスと、楽しそうに笑う。
「あかねちゃ~ん、あんな薄情者のことなんか放っておきなよ」
「え~だめだよ。だって弘樹は、将来私の旦那様になる人だもん」
俺と比較的仲のいい野郎の言葉を論ずるに値わずと切り捨てると、あかねは教室内をウロウロし始めた。
掃除用具入れ上部に刻まれている、線のように細い通気口から、息を飲んでその光景を見守る。
「むっ!? 椅子がまだ生暖かい。ならきっと、そう遠くには……」
嫌なあかねの一人言が聞こえてきた。
そして次の瞬間には「あっ!」と何かに気づいたような声を上げる。
――う……。
俺の胸中で、思わずたじろぐ声が漏れる。
教室中の視線が、このスチール製の棺桶に突き刺さってるような気がした。掃除用具入れと一体化した気分になり、漫画なら多分、その側面から汗が……って!?
「弘樹みっ~~けっ!!」
「げぇ!?」
次の瞬間には、死者の国のように暗闇に覆われた俺の世界に、光が溢れた。
もっと光を! ゲーテもご満悦な光景。だが俺は全然ご満悦じゃない!
そして目の前には、喜びに顔を輝かせる椎名あかねの顔が。
宝物を見つけた子供みたいな、俺の幼馴染の無邪気な顔が。
――だがな!
俺はあいつが満足げに「ふふん」と微笑んで、余裕をぶっこいた隙を衝くと、そこから抜け出した。
そのまま、全速力で教室外へと駆け出す。
「あっ!? 逃げた!」
掃除用具入れに逃げ込むのは失敗だった。
内心で舌打ちを打つ。
「まってよぉ! 弘樹ぃ! 一緒にお弁当食べようよぉ!」
すると後方から、俺を追い掛けて来たあかねの声が。
「ぜってぇやだ! って言うか、いい加減、俺に付きまとうのはやめろぉぉ!」
こうして今日もまた、昼休憩の逃走劇が始まる。
ちなみに高校では二人とも帰宅部だが、中学時代は陸上部だった。
俺は男ながらに、あいつに脚力やスタミナで勝てた試しがない。
更に言えば、あいつのせいで恋人が出来た試しもない。
あかねが俺に付き纏ったり、甲斐甲斐しく世話をする姿を見て、皆が付き合ってるもんだと勘違いする。
あぁ、そうだ。小学五年生の頃の沙織ちゃんとも、中学二年生の頃の晶子ちゃんとも、高校一年生の頃の桜ちゃんともいい感じだったのに……。
『あかねちゃんを、大切にしてあげなよ』
思い返してみると、最後には揃って同じようなことを口にしていた気がする。
何故かあかねは、あんな素っ頓狂な女なのに同級生から好かれていた。
――解せない、全くもって。
そんな煩悶を抱える俺の傍では、毎日のように青春が群れをなして歩いてる。
なのに何なんだ俺は? どうしてこうなったんだ?
「弘樹、はい、あ~~ん」
結局、俺は今日もあかねに捕獲された。息も絶え絶えな俺の腕を、汗一つかいてないあかねが取り、引きずるように連行する。
そして制服では少し肌寒い秋空の下、中庭のベンチに腰掛けさせる。手作りの弁当も、どういう訳か中身もぐちゃぐちゃになっておらず……。
「弘樹、はい、あ~~んだよ?」
「…………」
無駄な抵抗と知りつつも、俺はそっぽを向いて無言を決め込んだ。
だがあかねはそれに屈せず、再度――。
「はい、あ~~~ん」
「だぁぁぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁ!」
俺はたまらず、吼えるように叫び声を上げた。
「わっ! な、なに? どうしたの弘樹!?」
そして狼狽するあかねを半眼で見据える。
いっそコイツと付き合ってみようかと、本気で考えたこともある。もし人間のグランドデザイナーがいるとしたら、あかねはそいつから、そこそこ心血注がれて作られたような容姿をしている。
俺は目を細め、胡散臭い物を見るような目つきで、あかねを見つめ続ける。
すると――。
「も~~! やっだぁ! 弘樹ったらぁ! そんなに見つめないでよ!」
「ブヘシッ!?」
柄にもなく恥じらいを咲かせたあかねから、背中に強烈な一撃を見舞われた。
――あ~~やっぱ違う。コイツとはなんか違う。
俺は自らの気の迷いを恥じた。
# # # #
そんなんだから、大学に入ったらサクッと恋人を作ってやろうと思った。あかねは当然のように、俺が通う県内の私立大学に着いてきやがった。秀才の誉れ高い、あいつの親友と共に。
だが構うことはない。そうだ、俺は大学生になったんだ。中学や高校と違って個人の自由となる領域が広がり、学校に縛られることも少ないし、何よりもお手軽な恋がそこら辺に溢れてる。
サークル、バイト、ゼミ、キャンパスでの突発的な出会いだってある。
自惚れる訳じゃないが、俺の容姿だって決して悪い方じゃない……筈だ。
大学の近くで一人暮らしを始めた俺は、決してあかねには住所を教えず、一人期待に胸を膨らませていた。
そしてあかねの目を盗んで新歓コンパを梯子し、あっさり恋人をゲットした。
その呆気なさ、容易さに俺自身が驚いてしまった程だ。
大学生ってすげぇ。新歓コンパってマジすげぇ。
相手は一歳年上の、同じ経済学部で去年の準ミスキャンパスとかいう人だ。あかねに比べると化粧が濃い感じだが、まぁ正直、誰でもよかった。丁度、向こうも恋人と別れたばかりらしく、ノリが合ったから付き合ったって感じだ。
サークルは、確かラクロス部だったかな? 大学に入って直ぐに仲良くなった男友達と、手当たり次第に新歓コンパに顔を出していたから、サークルに対しては特に思い入れはなかった。
「ひ~~ろき! お昼、一緒にたべ……よ? え?」
「弘樹? 誰この娘?」
実家から通うあかねは、履修登録の中身まできっちり俺と被せてきやがった。
そして大学生になっても、手作り弁当持参で俺を誘い……。
「ん? あぁ、ただの幼馴染だよ。っていうかあかね、俺、恋人出来たから今後は絶対、ぜぇぇぇったい! に纏わり付くなよ」
「へ……ひ、弘樹?」
「恋人に悪いだろ。聞き分けてくれ。んじゃな~~」
恋人と肩を並べ、あかね一人を残してその場を立ち去る時、俺は酷く爽快で、晴れ晴れとした気持ちに包まれた。
あかねに対してすまないと思う気持ちは、ほんの少~~~~~しだけはあったようにも思う。だがあかねという長年の呪縛から解放された喜びの方が、遥かに勝っていた。
そしてあかねは俺の言葉を守り、中学高校時代の煩わしさが嘘のように付き纏わなくなった。恋人に悪いという言葉が、あかねの向こう見ずな性格にブレーキをかけたんだと思う。
「弘樹……お、おはよう!」
「ん? お~おはよさん」
講義が被ってしまうのは仕方ないが、それでも入口で適当に挨拶を交わす程度。そんな状況の中、あかねの友達である仙道夢子さんだけは、俺を見かける度に睨みつけるような眼差しを向けてきた。
黒髪をショートボブにした才女。スレンダーな体つきをした、目の覚めるような整った顔をした夢子さんは、あかねの唯一無二の親友だ。
夢子さんとは中学から同じ学校になったのだが、彼女は中学生とは思えない位に大人びていて、特定の誰かと仲良くしたりする素振りを見せなかった。
どうも小学生の頃からそんな感じらしく、頭も運動神経もよかったから、同級生は彼女に尊敬の念を覚えながらも、どこかで恐れていた。
そんな彼女は当初、同じ陸上部に所属し、能天気に話しかけてくるあかねを毛嫌いしていたように思える。だがある日を境に、あかねと親しくなった。
俺は実際にその場に居合わせた訳じゃないが、その切っ掛けとなった事件が中学一年の秋頃にあったらしい。
聞いた話によると、二人は黄昏色に染まる放課後の部室で、その場に居合わせた女子が凍りつく程の、ビンタの応酬を交えた激しい喧嘩をしたらしい。
喧嘩の原因は今もって教えてもらってない。しかしその事件を境にして、野良猫が人に懐くように、夢子さんが徐々にあかねに懐き、やがて傍から離れなくなったのも事実だ。
『あかねは……私にない物を沢山持ってるから。それを認めるのが、悔しかっただけなんだ』
いつだったか夢子さんは、そんな風に俺に漏らしたことがある。夢子さんがあかねの親友になって以来、俺も彼女と話をする位の間柄にはなっていた。
俺はある時、そんな彼女に呼びつけられた。
場所は大学中央にある図書館脇の、人目の少ないベンチ。
「なぁ弘樹、お前、本当によかったのか?」
「よかったのかって……何が、ですか?」
夢子さんはハスキーな声で、ちょっと独特な、男のような口調で喋る。
俺はそんな彼女と対面すると、何故かついつい敬語になってしまう。
あかねが太陽だとすると、夢子さんは月だ。初対面の時に比べて随分と角が取れたようにも思えるが、見る者に親しみの情を喚起させず、時に悲しげで、そして酷く美しい……。
「あかねのことだよ、決まってるだろ?」
そう問われて俺は思わず言葉を無くした。彼女の言及が、あかねを捨てたかのような俺の所業に向いていることは、明白だったからだ。
俺が答えに窮していると、隣に腰かけた夢子さんは蝶の羽ばたきのような溜息を一つ吐いた。そして両肘を抱えて立ち上がると、
「人間と言うのは、とても馬鹿な存在なんだ」
座った俺に振り返り、そんなことを言った。
「え……?」
俺が間の抜けた声を上げる間にも、夢子さんは言葉をその場に整列させていく。
「不満と言う観念一つとっても、それは何かを所有するという贅沢な行為の代償として生まれることにも気付かない。不幸だけを並べ立てて、幸福については数えようともしない。ちゃんと数えれば、誰にだって幸福が授けられていることが分かるのにな。本当……とても贅沢で馬鹿な生き物なんだ。私はそれを、あかねから教わった」
俺はその言葉の全て認識することが出来ず、端々だけを捉えるのに必死だった。
やがて一人言を呟くように、言葉を零す。
「あかねから教わったって……」
すると夢子さんは、遠くを見るように目を細めながら口を開いた。
「もっとも、あかねがそんな風に直接的に教えてくれた訳じゃないけどな。中学生の頃の話だ。私、家族と上手くいってなくて、それで……」
そこまで言うと、彼女は視線を逸らして言葉を切る。
二人の間に数秒の沈黙が通り過ぎる。
「すいません……俺には、よく分かりません」
俺が沈黙に耐えかねたように言葉を吐きだすと、夢子さんは切れ長の目で俺を睨みつけた。
「人は失ってからじゃないと、それが持つ本当の価値を、推し量ることが出来ないって言ってるんだよ」
「え?」
「失うと分かる。自分が何気なく所有していた物を、一体、自分がどれだけ情熱的に求めていたかということが……でも、その時には遅いんだ」
夢子さんはそれだけ言うと踵を返し、
「じゃあな」
とその場を後にした。
対して俺はといえば、両足の甲を杭で打ち着けられたみたいに、ベンチに腰かけたまま動けずにいた。
『不幸だけを並べ立てて、幸福については数えようともしない。ちゃんと数えれば、誰にだって幸福が授けられていることがわかるのにな』
先程の夢子さんの言葉が頭の中でリフレインし、平衡感覚を忘れたかのような、奇妙な感覚に苛まれる。
『人は失ってからじゃないと、それが持つ本当の価値を、推し量ることが出来ないって言ってるんだよ』
ぐるぐると世界が回り、やがてそれが収まると、自分が寂しい世界の中心に一人でいるような、寄る辺ない気持ちになった。
夢子さんの言葉が、錐のような鋭さで俺の意識に刺さり続けている。
でも……。
「あの人に、俺の何が分かるんだよ……偉そうに」
俺は乾いた笑みを無理やり顔に浮かべると、腰を上げ、恋人と合流すべく携帯を手に取った。
それから一週間後、初めて女性と、恋人と寝た。
呆気ないものだった。思ったより、嬉しくなかった。
それから四ヶ月後の夏休み中に、些細なことが理由で簡単に別れた。
そしてその一ヶ月後には…………。
――あかねに彼氏が出来ていた。