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祈りの海

呂夕伝説~祈りの海外伝~

作者: 須藤鵜鷺

 義陵処刑―――その知らせが呂夕の耳に入ったのは、刑の執行当日のことだった。

 切り立った岬を臨む入り江近くの田舎町―――そこの領主、大江兼朋の娘として生まれたのが呂夕だった。兼朋には呂夕以外に子供がおらず、呂夕は婿をとって領家を継ぐことがさだめられていた。その宿命が、呂夕の運命を大きく揺るがすことになる。

 呂夕は出会ってしまったのだ。義陵という男に。

 義陵は町の商人の息子で、月一回領主への献上品を運んでくるときに領家にやって来た。献上品は、裏門から程なく建っている蔵に、すべて運び込まれた。義陵も他の商人とともに、商家から引いてきた荷車と蔵の間を往復していた。しかし、この時はまだ呂夕との面識はなかった。幼い日の呂夕は、領家の屋敷で最も蔵から離れた桔稜殿で、多くの女官に守り育てられていた。領家のしきたりで、家の子息女はみな、初めの通過儀礼を終えるまで、桔稜殿で過ごすのである。しかしその後も、呂夕の姿を見るものはいなかった。呂夕は一日の大半を内奥の南殿で過ごし、外まで出てくることはなかった。特に、町の者が領家に出入りする献上日には、南殿の御簾はすっかり下ろされ、その様子を窺い知ることもできない。それには、大江家の特別な事情が絡んでいた。呂夕は、家外の人と会うことを許されていないのだ。そんな二人が出会ったのは、呂夕成人の儀礼の折だった。

 呂夕はまた、町の娘の中で一番の美女でもあった。儀礼は領家で行われるのだが、この日限りは領家が開放される。成人の儀礼は多くの町人の前で、厳かに行われるのが慣わしだった。女官の一人が長い書状を読み上げると、普段以上に着飾った呂夕が正殿の奥から姿を現した。そのとたん、正殿の表にはいつもとは違う空気が流れる。町の者はみな、呂夕の姿を見るのは初めてである。その美しさに見とれる者、感嘆する者がその場の大半を占めた。呂夕もまた、これほどの大人数を目の前にするのは初めてである。彼らの反応に戸惑いながら、辺りを見渡した。その中でふと、人込みの一番奥に佇んでいる青年に目が留まった。目が合ったのかも分からない。ただ呂夕の目は、彼を見た瞬間に、周りを見渡すことをやめてしまった。大勢の畏敬や羨望のまなざしの中に、あるいはそれらとは違った雰囲気を感じ取ったからかもしれない。呂夕が青年のほうを見つめていると、その青年は我に帰ったように少し驚きの表情を見せ、そのまま門のほうへ消えてしまった。この青年が義陵だった。

 数日後、呂夕に宛てた書状が一通、大江家に届いた。それは、義陵が書いたものだった。呂夕に文が届くことなど、今まではなかった。呂夕の身辺を世話している女官がその中身を確認すると、それは呂夕との謁見を求める内容だった。女官はその文を呂夕には見せず、兼朋に伺いを立てた。しかし、兼朋はこれを承知しなかった。書状をその場で破り捨て、呂夕にはそんな書状が届いたことさえも伝えなかった。

 兼朋は町の者からは名主と謳われている。彼のような者は、こんな片田舎の領主で納まっているのは勿体ないと言う者さえいる。彼に対する信頼と期待は大きい。しかし、そんな彼には息子がいない。彼にとって、それは名声の中の、唯一の汚点だった。そのためだろうか、彼は家内の細事に関しては冷酷だった。彼の妻、礼氏は南殿のさらに奥、「光楼殿」と呼ばれる一間に住んでいるが、ほとんど幽閉されているような状態で、彼女の様子を知るのは、身の回りを世話している数人の女官だけである。部屋の前には楼間という官の小部屋があり、出入りは兼朋にすべて管理されている。その態度は、娘の呂夕に対しても、あまり変わらない。兼朋は呂夕を個人的に誰かと面会させるようなことはしなかった。

 それでも、領家には抜け道があった。大勢の女官の中には、兼朋に対して反意を抱いている者もいた。また、呂夕付の女官たちは、呂夕を哀れんでもいた。そんな女官の一人が、ある日届いた書状を兼朋には見せず、密かに呂夕に渡したのである。

 呂夕は書状を読み、すぐにそれが儀礼の日に呂夕が見た青年であると分かった。彼も同じように、呂夕を見つめていたのだ。そこには、苦しいまでに呂夕に惹かれた義陵の想いが綴られていた。呂夕は、文を読みすすめているうちに、はたと気づいた。呂夕もまた、彼に知らず惹かれていたのだと。それは、直感のようなものだったが、あの時、他の誰とも違う視線を送っていた青年。その青年に、この文に綴られた思いと似た感情を抱いていたのだと、それを読んで初めて気づいた。洗練された文章とはとても言えなかったが、その文からは呂夕への細やかな気遣いが感じられた。その気遣いが、呂夕には嬉しかった。そのような言葉を掛けられたことが、今までになかった。

 呂夕はこの時初めて、人に想われるということを知った。父親である兼朋は呂夕と直接話したことはなかったし、母親の礼氏とは、幼いときに共に過ごしただけなので、記憶にあまり残っていない。呂夕の話し相手はいつも、世話役の女官たちだった。しかし彼女たちとの会話は、丁寧に飾られ、とても真心のこもったものとは言えない。呂夕はそのことに、この文の義陵の言葉に触れて、初めて気づいたのだ。義陵の飾らない、率直な言葉。呂夕は一人その書状を読み、言葉をなくすほどの感動を覚えた。本当の人の温もりは、こんなに心を動かすものなのか。それは呂夕が今まで経験したことのないものだった。

 翌晩、呂夕は書状の返事を書いた。言葉を選びながら、その先にいる相手を想いながら。呂夕は自分の素直な気持ちを書いた。その返事は、再び女官の助けで、義陵のもとへ届けられた。それから二人は、官の手助けを得ながら、文を交換しあった。それぞれを想い、お互いに慈しみあうような文だった。

 そんな日が、長くは続かなかった。周りの官から、義陵と文を交わしていることが、兼朋に知れてしまった。兼朋は激怒し、義陵を処刑すると言い出した。罪状もないのに処刑などしたら、兼朋の信用に関わると、多くの官は兼朋をなだめようとした。しかし、兼朋はそれを聞き入れようとしない。結局、献上品に毒を混ぜて兼朋を暗殺しようとしたという、根も葉もない罪状で、義陵は捕らえられた。このことは、呂夕には一切知らされなかった。


「おやめください!」

 呂夕が現れたことは、その場を騒然とさせた。特に驚いたのは、正殿の正面に座り、処刑を言い渡そうとしていた兼朋であった。呂夕は女官の一人から、このことを聞いた。兼朋の直近の官でさえ、今回のことはあまりにも酷だと感じていた。みなが、呂夕を不憫に思っていた。そんな心から、堅く口止めされていた処刑のことを、呂夕に漏らしたのだ。

 義陵は打ち縄をかけられ、官に押さえられて正座していた。呂夕は彼に走り寄った。官の一人が思わず退いて呂夕に場所を譲った。兼朋は表情を凍りつかせたまま、言葉を失っている。

「義陵が――この若者が、何をしたというのですか。いきなりこんな酷な刑を科すとは。父上ともあろうお方が、こんな理不尽な刑を執行されるおつもりですか」

 呂夕も多少は、兼朋の執政を知っている。それが、どんな評判なのかも。こんなに急に刑が決まることは、今までなかった。

「それは、お前が一番知っておろう。呂夕」

 兼朋は冷たく笑う。呂夕はそこで、義陵ははめられたのだと気づいた。この刑は、呂夕と義陵が交わしていた文に端を発するのだと。本当の刑の目的は、二人を引き離すためなのだと。

「ならば、何故義陵だけが咎を受けるのですか。文を取り交わしたのは、私の責任です。彼が罪を問われるなら、私とて同罪のはず。義陵を刑に処すとおっしゃるのなら、私も処刑なさいませ」

「お前を殺すことはできぬ。私には、跡継ぎがいないのだからな」

 呂夕は、これまでにない怒りを覚えた。兼朋はただ二人を引き離すという目的だけで、目の前の義陵を処刑しようとしている。こんなことが、まかり通っていいはずがない。呂夕は、兼朋を鋭く睨みつけたまま、その場に対峙していた。

「もうよいのです。呂夕様」

 小さな声で、言ったのは義陵だった。呂夕はちらと義陵の方を見た。

「そのお気持ちだけで、十分です」

 義陵は、呂夕を巻き込みたくないと思っていた。だからこそ、こんな理不尽な刑も甘んじて受けたのである。しかし呂夕は、どうしても納得することができない。自分のために、目の前の大切な人は、命を落とすのである。それだけは、どうしても避けなければならない。官の一人が、呂夕をその場から連れ出そうとした。しかし、呂夕はなおも食い下がる。呂夕は官の持っていた小刀を奪い、それを自分の首に突きつけた。そのまま、義陵を殺せば自分も死ぬと、兼朋を睨みつけた。

 結局、兼朋が折れた。義陵は処刑を免れた。しかし、一切無罪放免になったわけではない。彼は北方の孤島へ流されることになったのだ。

 その日、呂夕は義陵が出る船場に来ていた。見送りのためだ。このような形で別れることになってしまったのが、惜しまれてならない。

「義陵」

 悲しみを堪えて、呂夕は声をかけた。

「私は、きっとあなたが帰ってくるのを、待っています。ここでまた会える日が来るのを、必ず――」

 義陵は深くうなずいた。そして官に導かれるままに、船に乗り込んだ。呂夕はその船が見えなくなるまで、ずっと海を見つめていた。


 後日、呂夕は隣の領地を治める領家の御曹司と縁談を交わした。名は泰信といった。もちろんそこに呂夕の意思などなく、兼朋が有無を言わさず決めたことであった。こうして呂夕は、領家後継の妻となったのである。しかし呂夕は、跡継ぎとして泰信とともに歩んでいく気はなかった。呂夕は南殿にこもり、泰信の来訪を丸二年拒み続けた。しかしその後、兼朋が突如病に倒れ、泰信が大江家に入ることが決まると、拒み続けることはできなくなった。

 泰信が大江家に正式に入る前、呂夕は泰信の元を訪れた。折り入って、話があると言って。彼は快くそれに応じた。

「もしも望みを聞き入れてくださるのなら、お願いです。私が領家を離れることをお許しください」

 泰信はこれを聞いて唖然とした。泰信は義陵の一件については何も知らず、何故呂夕がこのようなことを言い出すのか、理解に苦しんだ。呂夕はなおも頭を下げる。自分を自由にしてくれたら、領家の全権は泰信に譲ると。泰信はどうしたものかと頭を抱えた。だが、呂夕があまりにも切実に頭を下げるので、泰信は最後には承諾した。こうして呂夕は、領家を出たのだ。

 領家を出て呂夕が向かったのは、祈祷師の住む山里だった。祈祷師は大江家と親交があり、災いや病があったときは、領家にやってきて祈祷をした。呂夕も何度か、会ったことがある。祈祷師の家を尋ねると、彼女はたいそう驚いて呂夕を迎えた。呂夕は、祈祷師に頼みがあると言い出した。それは、呪符を書くことだった。それも、自分の霊魂を土地に縛り付けておく札を書いて欲しいと、呂夕は言うのである。祈祷師は青い顔をして、それはできないといった。霊魂を土地に縛るということは、呂夕は死に、しかも転生できなくなるということだ。祈祷師はなんとか呂夕を思いとどまらせようと説得した。どんなに辛いことがあったとしても、自分の人生を生き、正しく転生するのが人の道です、祈祷師ともあろうが、たとえ呂夕の願いだとしても、呪い殺すようなまねはできません、と。

「でも私は、約束したのです。ここで必ず、待っていると」

 呂夕が呪符を欲するのは、義陵との約束のためであった。いつ帰るかわからぬ義陵。そして、泰信と縁談を交わしてしまった自分。今、ただ待っているのでは約束を果たせそうにない。

「だから、もし義陵が帰ってきたら、呪符のありかを教えてください。そうすれば、私の魂は、彼とともにあることができるから」

 祈祷師は、呂夕の強い思いを知って、呪符を書くことを承諾した。もちろん、気は進まなかったが、彼女も呂夕を不憫に思う一人であった。できれば、もっと違う形で、呂夕の幸せを願いたかった。

 祈祷師が書いた呪符を持ち、呂夕は岬へとやって来た。よく晴れた、澄んだ空の下は、広大な海。その青を見渡して、呂夕は少し安堵した。これで、きっと約束は果たされるのだと。呂夕はただ義陵への思いを抱えて、呪符とともに海へと舞った。花のように落ち、高いしぶきを上げて、散った。

 呪符を書いた祈祷師は、罪悪感にさいなまれ、呂夕の後を追おうかと考えた。しかしそれは、呂夕の望みではない。彼女は、山里の奥の奥に社を建て、呂夕を祀った。そして自分は巫女となり、生涯を呂夕の侍者として捧げた。

 結局、巫女となった祈祷師が生涯を終えるまで、義陵は帰らなかった。社では、代々の巫女が呂夕の話を語り継ぎ、伝説となってしまった今も、呂夕に代わって義陵の帰りを待っている。そして、呂夕が飛び降りた岬――呂夕岬の海底には、未だにその魂を縛る札が沈んでいるのである。これが、呂夕岬にまつわる入水伝説の、顛末である。

お読みいただきありがとうございました。

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