第9話 一目惚れなんです
ぽっかりした日差しが、今日も店の中へ入ってくる。
私は電卓を叩いていた手を止め、ちらりとパソコンの前に座る鷲尾くんのことを見る。
今日も鷲尾くんは問題集を広げていた。宅建の試験が近いから、鷲尾くんは最近ずっとこんな感じだ。
仕事をしている時間より、勉強をしている時間のほうが多いんじゃないかな。これじゃ、会社に来る意味、ないような気もするけど。
社長は相変わらず何も言わないし、私もあきらめたというか、まぁやるからには頑張って欲しいと思う。
その時突然、鷲尾くんが立ちあがった。
「やばい」
窓の外を見つめたまま、小さくそうつぶやくと、問題集を片づけ車のキーを取り出して、外へ出て行こうとする。
もしかして、また?
「こんにちはー!」
しかし鷲尾くんの行き先は塞がれた。外へ出ようとした鷲尾くんの前に、彼女が立っていた。
彼女――三井桃子ちゃん。近くにある大学に通う女子大生。
二週間ほど前、ホームページを見て来店されたお客さんで、鷲尾くんが案内した物件を気に入ってくれて、その日のうちに申し込みをしてくれた。
そして今は引っ越しも終え、アパートで念願の一人暮らしを始めたわけなんだけど。
「あ、鷲尾さん、ちょうどよかったですぅー」
「な、なんですか? 三井さん」
「ちょっと鷲尾さんに、お聞きしたいことがありましてー」
桃子ちゃんは鷲尾くんを見て、にこにこ嬉しそうに笑っている。
彼女はこんなふうにほとんど毎日、空き時間があればすぐに、うちのお店に現れるのだ。
もちろん目当ては鷲尾くん。
「ねぇ、鷲尾さん。この辺りで美味しいイタリアンのお店、知りません?」
「はぁ? イタリアンですか?」
「そうです。私いま、すっごくイタリアンが食べたくて。でも引っ越したばかりで、この町のこと何にもわからないでしょ? だから鷲尾さんに教えてもらおうと思って」
「はぁ……」
鷲尾くんはため息のような返事をすると、しぶしぶパソコンの前へ引き返してきた。
「駅の反対側にイタリアンの店ありますよ。けっこう美味しいです」
「えー、そこ、案内してもらえます?」
「地図印刷しますから、自分で行ってください」
そりゃあそうだよね。うち不動産屋だもん。物件案内はするけど、イタリアンのお店まではねぇ……。
「えー、私、わかりませんー」
「いや、わかりますって。ほら、地図」
「私地図読めませんー。鷲尾さん、一緒に行ってくださいよ。ちょうどもうお昼ですし」
彼女の策略なのか知らないけど、ちょうどタイミングよく、お昼のチャイムが町に響く。
「鷲尾くん、行ってあげれば? お店の方は大丈夫だから」
「へ?」
私が横から口を出したら、鷲尾くんはあせった顔をして小声で言った。
「ちょっと睦美さん、勘弁してくださいよ」
鷲尾くんは、どうも桃子ちゃんが苦手なようだ。可愛い顔してるんだけどな。この積極的さが、ダメなのかなぁ。
「鷲尾さーん、イタリアン! 一緒に食べましょう?」
「ほら、鷲尾くん。連れてってあげなよ」
いつもの仕返しとばかり、私はちょっと意地悪く言った。
すると鷲尾くんは桃子ちゃんに振り返り、真面目くさった顔で言い切った。
「三井さん。悪いけど、そういうのは無理です。僕、彼女いますから」
「えっ、嘘。いないって言った。最初にアパート案内してくれた時」
そんな話までしてたのね。
「いや、あれは嘘です。僕、この人と付き合っているんです」
急に体が何かに引き寄せられた。気がついたら私、鷲尾くんに肩を抱かれている。
えー、なに! 付き合ってるって……私と?
「そういうわけなんで、イタリアン行けません」
桃子ちゃんがぶうっとふくれて、私のことをじっと見る。
怒ったような、悲しそうな、すごく微妙な表情で。
「ちょっと鷲尾くん! さっきの何?」
何事もなかったように問題集を開き、おにぎりを頬張っている鷲尾くんに私は言う。
桃子ちゃんはあの後、しょんぼりして帰ってしまった。
「いいじゃないですか。睦美さんだって、困ってたでしょ? 三井さんに毎日押しかけられて、仕事にならないって言ってたじゃないですか」
「そ、それは言ったけど」
「もう来ないですよ。きっと」
私は黙って鷲尾くんを見る。問題集をにらみつけていた鷲尾くんは、ゆっくりと顔を上げ、私に言った。
「なに? なんか文句あるんですか?」
「だって……何にも感じないの? 彼女、すごく寂しそうにしてた」
「仕方ないでしょ。じゃあ俺は毎回、あの子と飯食いに行かなきゃなんないんですか?」
「そうは言ってないけど。もしかしたら彼女、本気で鷲尾くんのこと、好きだったのかもしれないよ?」
私の言葉に、鷲尾くんが軽く笑った。
「ありえない、それ。会ってまだ数日しか経ってないのに、なんで俺のこと好きになれるの?」
「ひ、一目惚れってあるでしょう?」
「はぁ? なにそれ。顔見ただけで、俺の何がわかるっていうんだよ」
鷲尾くんはそこまで言うと、私からぷいっと顔をそむけた。
なによ、なによ。そりゃあ、顔見ただけじゃ鷲尾くんのすべてなんてわからないけど。
だけどそういうことあるじゃない? 一目見ただけで、その人のこと好きになっちゃう気持ち。理屈とか、そういうの何にも考えずに。
人を好きになるって――だいたいがそんなふうに始まるんじゃないのかなぁ。
一週間後、仕事帰りに寄ったコンビニで、私は偶然桃子ちゃんに会った。
桃子ちゃんはあれきり、うちの店へは来ていない。
「あ、あのっ」
思わず声をかけたのは私のほうだ。だってずっと気になっていたから。
だけど桃子ちゃんは私から逃げるように店を出て行く。
「み、三井さん! ちょっと待って!」
追いかけて、彼女の肩にそっと触れる。振り返った彼女の目には、じんわり涙がたまっていた。
「ごめんなさい!」
無理やり桃子ちゃんを引き止めて、駅前のコーヒーショップに誘った。
向かい合って座る彼女は、いまにも泣き出しそうな顔で私を見ている。
早く早く、誤解を解かなきゃ。
「鷲尾くんが言ったことは嘘なの。私たち、付き合ってなんかないの」
「え……」
「あれはね、その、なんていうか、いや、悪気はなかったと思うんだけどね」
「私が迷惑だったってことですよね」
「そ、そういうわけじゃ……」
「いいんです。わかってますから」
桃子ちゃんは大きく一回ため息を吐くと、目の前のアイスコーヒーをストローで一気に飲んだ。
「私よく、友達から言われるんですけど、惚れっぽいみたいなんですよね」
顔を上げた桃子ちゃんは、もう吹っ切れたような顔をしていた。
「ちょっと優しくされると、勘違いしちゃって、すぐその人のこと好きになっちゃうんです。鷲尾さんが私に優しくしてくれたのは、お仕事だからだって、わかってるんですけど」
桃子ちゃんがそう言って、私に笑いかける。
「で、好きになるともう止まらなくなっちゃって、いっつもウザいって引かれちゃうんですよね。毎回これの繰り返し。自分で自分が嫌になっちゃう」
ふっと笑った桃子ちゃんは、氷しか残っていないグラスを、カラカラとかき混ぜる。
「私は……」
そんな桃子ちゃんに私は言う。
「私はうらやましいと思うな。そんなふうに素直に自分の想いを伝えられる人って」
私は全然ダメだ。思ったことの半分も伝えられない。
「そんなことないですよぉ。鷲尾さんだって、私のこと嫌ってたでしょう?」
「嫌ってなんかないよ。ただ……ただ鷲尾くん、今は誰とも付き合う気がないんだと思う」
「どうしてですか?」
「それは……」
言葉を切った私を見つめ、桃子ちゃんはにっこり微笑む。
「いいです。聞きたくなったら、自分で聞きますから」
最初はちょっと圧倒されちゃって、誤解を受けやすいかもしれないけど、本当はとっても素直ないい子なんだよね、桃子ちゃんって。
翌朝、いつものように会社へ向かうと、店の前に立つ鷲尾くんの背中が見えた。
いつも遅刻寸前に駆け込んでくるくせに。今日はどうしたんだろう。
鷲尾くんはぼんやりと、店先に咲く色とりどりの花を見下ろしている。
「鷲尾くん!」
私はそんな鷲尾くんに声をかけた。振り向いた鷲尾くんは、いつもと同じように、私に笑いかける。
「あ、睦美さん。おはようございます」
「おはよ。今朝はずいぶん早いんだね」
「べつに、フツーですよ? 睦美さんが遅いんでしょ」
まったく、その一言がかわいくないんだよね。
鷲尾くんはふっと私に笑いかけると、背中を向けてつぶやいた。
「睦美さんはさ、一目惚れだったの?」
「え?」
急になんの話?
「別れた旦那さんのこと。一目惚れで、好きになったの?」
その瞬間、私の記憶が、何年も前にさかのぼる。思い出したくないのに、思い出してしまうのは、私も彼も高校生だったあの頃。
「もう、忘れちゃったよ。あの人と最初に会ったの、高校生の頃だったし」
「そんな頃から付き合ってたの?」
鷲尾くんが振り返って私を見る。私はゆっくりとゆっくりと、彼と過ごした日々を思い浮かべる。
「付き合ってなかったよ。先輩後輩の仲ではあったけど。それからなんとなく時間が過ぎて、ちゃんと付き合い始めたのは、私が高校卒業してから。だから一目惚れとか、そういうんじゃないと思う」
「ふうん……」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「睦美さんが言ったんでしょ。一目惚れってあるって」
それは言ったけど。だって鷲尾くんが、そんなのありえないって言うから。
「俺もやっぱり、そういうのあると思う」
「え」
私はぼんやりと立ち尽くす。目の前にいる鷲尾くんは、そんな私を見て少しだけ微笑む。
「この店の前で、彼女を見かけたんだ。普通に、花に水やってるだけだったんだけど、なんかいいなぁなんて思っちゃって。それから毎朝その時間に合わせてここを通って、それでなんとなく話しかけてみたりして。『その花、綺麗ですね。なんて名前の花ですか?』ってね」
鷲尾くんの声が、少しだけかすれてる。
「そういうの、一目惚れって言うんだろ?」
私は鷲尾くんの前でうなずいた。鷲尾くんは笑って空を仰ぐ。
私たちの上に広がる空は、今日も青い。それはいつもと同じで……同じなんだけど、ちょっとだけ切ない。
「あっ」
突然鷲尾くんが声を上げた。私が鷲尾くんに合わせて視線を下すと、そこに桃子ちゃんの姿が見えた。
「鷲尾さん」
「は、はい?」
真剣な顔つきをしていた桃子ちゃんが、ふわっと表情をゆるめる。
「鷲尾さんは嘘つきですねぇ?」
「え?」
「鷲尾さん、睦美さんと付き合ってなんかないんでしょ? 他に好きな人がいるんでしょ?」
鷲尾くんは観念したように笑って、桃子ちゃんに向かって「そうです」って言った。
「僕は嘘つきなんです」
桃子ちゃんがくすっと笑い、それから私のことをちらりと見た。
「残念だけど、私、鷲尾さんのことはあきらめます。嘘つきな人は、好きじゃないんで」
「そ、そうですか」
「さようなら。不動産屋さん」
桃子ちゃんはそう言って、鷲尾くんに向かって小さく手を振ると、背中を向けて去って行った。
「ちょっと後悔したりしてない?」
そんな桃子ちゃんを見送る鷲尾くんに、私は言う。
「実は素直で可愛い、いい子なんだよねぇ、あの子」
「べつに。後悔なんてしませんから」
だけどその一週間後、鷲尾くんは非常に悔しい思いをするはめになる。
「全然納得できないんですけど! なんで俺の次が和田さんなんですか!」
さっき、何の用事もないのにうちに寄った和田さんは、鷲尾くんの前でこんな話をした。
「いやね、ハンカチ拾ってやっただけなのにね。その子、俺に惚れちゃったみたいで。いやぁ、まいった、まいった、桃ちゃんには」
和田さんは全然困った様子もなく、むしろ嬉しそうにその話をした。
鷲尾くんの次は和田さんか。ほんと、惚れっぽいのね、あの子。
「でもね、けっこう可愛い子なんだよね、それが。場合によっては、付き合ってやってもいいかなぁ、なんて」
「勝手にしてください! てか、さぼってないで、さっさと仕事しろ!」
「ああ、悪かったね、彼女いない人にこんな話。お邪魔しましたー」
和田さんを追い返した鷲尾くんは、機嫌が悪い。私はそんな鷲尾くんに言ってやる。
「私は納得できるけど? だって和田さんってイケメンだし、エリートだし、なんたって鷲尾くんと違ってオトナだしねぇ? 桃子ちゃんが惚れちゃう気持ちもわかるわぁ」
「どこが。和田さんなんか、ただのおっさんじゃん。あの女、全然見る目ねーし」
あ、ふてくされてる。やっぱり悔しいんだ。
私が笑ったら、鷲尾くんは「飯食ってくる」って言って出て行った。
私はそんな鷲尾くんの背中を見送りながら、考える。
でもね、鷲尾くん。新しい恋を始めるのも、悪くはないと思うんだけどな。
天国にいる彼女だって、鷲尾くんの幸せを、きっと願っているはずだから。
店の外へ出て空を見上げた。今日も気持ちのいい青空だ。
私の足元では、優しい風に吹かれて、パンジーの花が揺れていた。