第8話 もっと広い世界を
「はい、はい、では明日、お待ちしております」
ウキウキする気持ちを抑え、丁寧に受話器を置くと、私は目の前にいる鷲尾くんに言った。
「鷲尾くん! お客さん! うちのホームページ見て問い合わせしてきてくれたの! 明日実際にお部屋見せて欲しいって!」
鷲尾くんは読んでいた本から顔を上げると、ちらりと私を見てつぶやいた。
「マジですか?」
「マジマジ! ホームページリニューアルしたのが、よかったんじゃないのかなぁ?」
「そうかもしれないですね」
鷲尾くんはボソッと言うと、また本に視線を移した。
テンション低いなぁ……最近ずっと、鷲尾くんはこんな感じだ。
「ちょっと、なに読んでるの?」
私は鷲尾くんの手から、読んでいた本を取り上げる。
「あー、やめてくださいよ。宅建の勉強してるんですから」
ああ、そういえば、鷲尾くん資格取りたいって言ってたよね。
実は宅建の資格持ってるの、うちは社長だけで、お客さんに契約時の重要事項説明をするのは、資格を持っている社長しかできない。
だから鷲尾くんもその資格を取りたくて去年から受けてるんだけど……実は去年、落ちちゃったんだよね。
「今年は絶対受かりたいんです。社長のためにも」
「気持ちはわかるけど……今仕事中だよ?」
「いいんです。社長が店暇な時は、勉強していいって言ってくれたから」
相変わらず、社長は鷲尾くんに甘いよね。ていうか、ゆる過ぎじゃない? この会社。
その時、店のガラス戸がからりと開いた。
「いらっしゃいませ!」
「ああ、ごめん、ごめん。お客さんじゃなくて」
そう言って、私ににこやかに笑いかけてくるのは、駅の反対側にある大手不動産店『グリーンハウス』に勤めている、営業の和田さんだ。
和田さんは慣れた様子で店の中へ入ってくると、本を読んだままの鷲尾くんに声をかける。
「あ、勉強してるんだ。どう? 調子は?」
『グリーンハウス』と『大河内不動産』は、会社の規模こそ違うけど、社長同士がやはり昔からの知り合いで、けっこう交流が多い。
その中でも、私たちより少し年上の和田さんは、鷲尾くんのことをけっこう気にかけてくれていて、兄弟みたいな仲だった。
そんな和田さんの声に、鷲尾くんが面倒くさそうに顔を上げる。
「何しに来たんですか? 冷やかしだったら、帰ってくださいよ。僕いま、和田さんの暇つぶしに、付き合ってる暇ないんですから」
「相変わらず生意気な口きくなぁ、お前」
はははっと和田さんは笑って、さりげなく鷲尾くんの前に腰掛ける。
「どう? この間の話、考えといてくれた?」
鷲尾くんは何も言わずに、また本に視線を移す。
ふっと笑った和田さんは、鷲尾くんの肩をポンポンと叩いて言った。
「ま、よく考えて。絶対悪いようにはしないし、おたくの社長に言いにくかったら、俺が説得してやるから」
何の話? 私は意味のわからないまま、二人を見つめる。
すると鷲尾くんがもう一度顔を上げ、和田さんに向かって言った。
「和田さんの気持ちはありがたいですけど、俺、この店辞めるつもりないですから」
「えっ、辞める?」
思わず口を出してしまった私に、和田さんが笑いかけ、そして静かに立ち上がる。
「いいよ、そんなすぐに結論出さなくても。悪い条件じゃないはずなんだけどなぁ。まぁ、よく考えてみてよ」
和田さんは私に「お邪魔しました」と爽やかに挨拶すると、もう一度だけ、鷲尾くんを見て言った。
「と言うか、考えなくても本当はわかってるんだろ? お前はそんなにバカじゃないもんなぁ」
そう言って出て行く和田さんを見送る。鷲尾くんは黙って本を見下ろしたままだ。
私は息を一つ吐いてから、鷲尾くんに向かって聞いた。
「何の話?」
私の声に鷲尾くんは、わざとらしいほど大きなため息を吐く。
それから持っていた本を机の上に放り投げると、椅子の背もたれにどかっともたれかかって言った。
「まったく、どいつもこいつも……どうして人の勉強、邪魔するんですか!」
「だって……」
鷲尾くんはもう一度ため息を吐くと、天井をぼんやり見上げながらつぶやいた。
「グリーンハウスさんの社員が一人退社するらしくて……それで和田さんが俺に、うちで働かないかって」
「えっ、なにそれ! 引き抜き?」
「そんなんじゃないよ。それに俺、行くつもりもないし」
鷲尾くんはそう言うけど……『グリーンハウス』といえば、誰もが知っている大手の不動産店。うちとは比べものにならないほど、多くの物件を抱えていて、どれも綺麗で新しい建物ばかり。
お客さんだってたくさん来るんだろう。和田さんはいつも忙しそうにしている。
それに社員の待遇だって……社長には悪いけど……うちより全然いいんだろうし。
「社長に、恩があるから?」
「恩とか義理とか、そういうんじゃないんだよ。俺、単純に社長のこと、好きだから」
そう言って鷲尾くんは、私を見て小さく笑う。
「この前話しただろ? 俺、亡くなった彼女の後を追って、自分も死のうとした人間だよ? そんなヤツに社長は言うんだよ」
私は黙って鷲尾くんの声を聞く。
「頑張ろう。一緒に頑張ろう。僕たちが泣いている姿なんて、繭子はきっと見たくないから、って。全部捨てて来ちゃった俺に、住む所と仕事まで紹介してくれてさ……社長だって本当は、死にたい程つらかったはずなのに」
私はぼんやりとした頭で、社長のことを考える。そして鷲尾くんが住んでいるアパートを思い出す。
坂道の上にあるあの物件は、ちょっと不便な場所にあるけど、日当たりがすごく良くて見晴らしもいい。
――お日様の良く当たる部屋は、気分が明るくなりますから。
鷲尾くんがお客さんによく言っているこの言葉は、実は社長の受け売りだ。
社長は鷲尾くんに、元気を取り戻してもらいたくて、きっとあの部屋を紹介したんだろう。
だけど、それほど鷲尾くんのことを大事にしている社長だったら、きっと和田さんの下で働くことを、勧めるんじゃないだろうか……鷲尾くんの将来を思って。
ギシッと椅子の音を立てて、鷲尾くんが私に体を向ける。
「今の話、絶対社長には言うなよ?」
たぶん鷲尾くんもわかってる。
本当は自分がどうするべきかっていうこと。それをわかっているからこそ、社長には知られたくないんだ。
「ただいまぁ。いやー、今日はまいった、まいった」
外から風が吹き込んで、社長が店に入ってきた。
鷲尾くんは私から顔をそむけるように、パソコンのほうへ向きなおす。
「お帰りなさい、社長。どうしたんですか?」
「大家の佐藤さん。あの人につかまっちゃってさぁ。話が長いのなんのって」
そう言いながらも社長は、まんざらでもなさそうに笑っている。そんな社長に、鷲尾くんが声をかける。
「あ、社長。明日内見、入りますから」
「えっ」
社長が鷲尾くんのほうを向く。
「ホームページ見て、問い合わせが来たんですよ。やっぱ、リニューアルしたのがよかったのかなぁ」
「うん、うん」
あ、なにこいつ、ずるい。まるで全部、自分の手柄のように言ってる。
「明日お客さん連れて、うちのおすすめ全部回って、絶対申し込み入れてもらいますから」
「期待してるよ、鷲尾くん」
「任せといてください」
嬉しそうな社長の隣で、鷲尾くんは私を見てにやりと笑う。
また社長に気に入られようとしちゃって……ほんと調子いいんだから。
「あ、むっちゃん、お茶いれてくれる?」
「はぁい」
「睦美さん、この図面、整理しといてよ」
いつの間にか私の隣に来ていた鷲尾くんは、偉そうに山積みの図面を、どさっと私の机に置いた。
「ちょっ、それ、鷲尾くんがやるって言ったじゃない」
「俺、ちょっと契約書届けに行かなきゃいけないんで。睦美さん、暇でしょ?」
暇じゃありませんから!
鷲尾くんは車のキーを私の前でチャリンっとさせると「よろしく」と一言言って、さっさと店を出て行った。
「なんなの、あいつ。えっらそうにー」
「まあまあ、むっちゃん。落ち着いて」
社長は椅子に腰かけて、にこにこしながら私を見ている。
「なんだかんだ言っても、やっぱりうちは鷲尾くんに頼ってるところあるから」
私はゆっくりと社長のことを見る。
「あ、もちろん、むっちゃんにもね」
にっこり微笑んで、社長に熱いお茶をいれてあげる。
だけど私は思っていた。さっきの話、やっぱり社長に相談するべきじゃないかって。
鷲尾くんがいなくなってしまうのは困るけど、だけど彼はもっともっと、広い世界を知った方がいいんじゃないのかなって……そんな気がするから。