第6話 言えないんだよ
「おはようございます」
気持ちのいい秋晴れの朝、店の前のパンジーに、ジョウロで水をかけている社長に言う。
「ああ、むっちゃん、おはよう」
このプランターに花を植えてから、社長は毎日朝一番に、お水をあげてくれるようになった。
「枯れてしまったら、かわいそうだからね」
そう言って、花を見下ろしながら、目を細める社長。まるで自分の子供を、優しく見つめるように。
あ、ダメだ。社長と娘さんの話を思い出して、涙腺ゆるんじゃう。
「ああ、そうだ。今日鷲尾くん、お休みだから」
「え?」
「風邪ひいて寝込んでるらしいよ」
めずらしいな。鷲尾くんが休むなんて。だいたい、なんとかは風邪ひかないって言うしねぇ。
そんなことを思っていた私に、社長がとんでもないことを言ってきた。
「だからさ、むっちゃん。ちょっと様子みてきてやってくれないかな?」
「へ?」
「ほら鷲尾くん、一人暮らしでしょ? 一人で苦しんでたら、かわいそうじゃない」
はぁ? なんで私が?
「大丈夫ですよぉ、社長。そんなに心配しなくても」
たかが風邪でしょ? 社長過保護過ぎ。
「でもこれ買っちゃったから」
社長の差し出したドラッグストアの袋には、薬やらのど飴やら、重たそうなスポーツドリンクやらがどっさり入っていた。
「鷲尾くんのアパート知ってるよね? 坂の上の」
「もちろん知ってますけど」
だってうちの物件だもの。急坂の上のね。
「僕みたいなおっさんが持って行くより、むっちゃんみたいな若い女の子が持って行ったほうが、鷲尾くんも喜ぶでしょ? だから、よろしく。ゆっくりしてきていいから」
社長に袋を渡される。思った通り、ずっしりと重い。これを持って、あの坂道をのぼるのかと思うと、気持ちまで重くなる。
だけど社長のにこやかな顔を見たら、やっぱり私は断れなかった。
荷物を持って坂道をのぼりながら、私は社長と鷲尾くんのことを考えていた。
あの二人って仲良いよね。社長は鷲尾くんに、過保護なほど優しいし、鷲尾くんだって、いっつも社長の味方してる。
なんか怪しくない? あの二人。
私の知らない秘密を共有しているような……もしかして鷲尾くんって、社長の隠し子とかだったりして。
「まさかね」
そうつぶやいて、思わず口元がゆるんだ時、私の目の前で声がした。
「なに一人で笑ってんの? 気持ちわりぃ」
「わ、鷲尾くんっ」
長い坂道の途中、ジャージ姿でちょっと髪の乱れた鷲尾くんが、私の前に立っていた。
「か、風邪ひいて寝込んでたんじゃないの?」
「寝込んでたよ? だけど腹減ったから、なんか買いに行こうと思って」
確かにいつもより眠そうな顔してるし、ちょっと顔色も悪い気するけど。
「これっ。社長から!」
私は手に持っていた袋を鷲尾くんに差し出す。
「これ食べて、薬飲んで、ちゃんと寝てなよ」
鷲尾くんは私の手から黙って袋を受けとった。
「じゃあ、お大事にね」
「帰っちゃうの?」
私の背中に声がかかる。ちょっとかすれた鷲尾くんの。
「だ、だって仕事中だし」
「そっか……」
ゆっくりと振り返ると、鷲尾くんが私を見てほんの少し笑った。
「ありがと。睦美さん」
そんな切ない声で、そんなこと言わないでよ。なんだかすごく調子狂う。
背中を向けて、坂道をのぼり始めた鷲尾くんに声をかける。
「お粥とか……作ってあげようか?」
私の声に鷲尾くんが振り返る。
「お腹減ってるんでしょ?」
鷲尾くんは何も言わないで、ただ静かに私に笑いかけた。
鷲尾くんが住んでいるアパートは、うちが管理している物件だ。
だけど鷲尾くんはちゃんと自分で、毎月家賃を払っているから、社宅として借り上げているわけでもないみたい。
でも社長の紹介で、ここに住み始めたのは間違いないと思う。
たぶん、鷲尾くんがうちの店で、働き始めたのと同じくらいから。
坂の上のアパートの、二階の一番奥の部屋のドアを、鷲尾くんが開ける。
建物の外観は古いけれど、日当たりが良くて見晴らしも良い、フローリングのワンルームだ。
部屋の中はベッドと低いテーブルと、テレビがあるくらい。
物があんまり置いてなくて、意外と綺麗に片付けられていたから、私は少し驚いた。
「けっこう綺麗にしてるんだ」
先に部屋に入った鷲尾くんが、テーブルの上に荷物を置く。
私はなんとなく居場所に困って、周りを見回しながら鷲尾くんの背中に言った。
「彼女が掃除してくれてたりして」
「彼女なんていませんから」
ずっと思ってたんだけど、ほんとなのかな、それ。
だって絶対モテそうな顔してるのに。ていうか、実際モテてるし。お客さんにだけど。
「睦美さん。俺、昨日の昼からなんにも食べてなくて」
「あ、そうだったよね」
私は社長にもらった袋の中をガサガサあさって、レトルトのお粥を取り出した。
「美味しいかな? これ」
「は? お粥作ってくれるってレトルトなわけ? そこは手作りじゃないの? フツー」
あー、もううるさいな。どうして男って、手作りにやたらこだわるんだろう。
「だって社長がせっかく買ってくれたのに、いただかなきゃ悪いじゃない。なんたってすぐにできるし。お腹すいてるんでしょ?」
「確かにすいてるけど。睦美さん、主婦だったんだよね? 料理とかちゃんとやってたの?」
鷲尾くんの一言が、私を過去に引きずり戻す。
料理、下手だった。部屋の中も、ここより散らかってた。
子供さえも――作ることができなかった。
「睦美さん?」
ふうっとため息のような息を吐き、私は冷たい床にペタンと座った。
「もしかして怒った?」
「別に。鷲尾くんの言う通りだもん。私ってなんにもできない、ダメ嫁だったから」
今でもたまに思うことがある。
私があの人の子供を、産んであげられたら。
あの人のお母さんに、孫の顔を見せてあげられたら。
私たちがこんなふうに別れることも、なかったのかなぁって。
「睦美さん……」
うつむいてしまった私に、鷲尾くんの心配そうな声がかかる。
だめだ、だめだ。うつむいたらだめ。
私は袋の中に手を入れて、入っているものをテーブルの上に並べながら、明るい声を作って言った。
「社長すごいね。こんなに買ってくれたよ? 鷲尾くんって、ほんとに社長に可愛がられてるよね?」
「ああ、社長は俺のことが好きだから」
あ、自覚してるのね。
鷲尾くんはベッドの上にぽすんと座って、私に笑いかける。
「だって俺って素直だし忠実だし、社長のこと、絶対裏切らないし」
「鷲尾くんも社長のことを、信頼してるんだ」
「なんたって俺の、命の恩人だからね」
「は?」
「命の恩人。社長がいなかったら俺、確実に死んでたもん」
はははっと笑って、鷲尾くんはベッドの上にどさっと仰向けになった。
なに言ってるんだろう、この人。
早くいつもみたいに、「冗談に決まってるじゃん」って言ってよ。「睦美さん、なに信じてるの?」って笑ってよ。
鷲尾くんは天井を見つめたまま、何も言わなくなった。
音の消えた狭い部屋。窓から差し込む日差しだけが、何事もないように明るく、この部屋を照らしている。
「睦美さんはさ……」
しばらく黙り込んだあと、鷲尾くんがポツリと言った。
「死のうって思ったことある?」
私は黙って鷲尾くんの横顔を見る。
「歩道橋の上から国道を見下ろして、あーここから飛び降りたら死ねるかなぁ、なんて思うとか、そんなレベルじゃなくて。手すりに手をかけて、よじ登って、体半分落ちかけて、あーこのままほんとに死ぬんだぁって、そういうくらいの……」
「そんなの、あるわけないでしょ!」
「俺、あるんだよね」
そうつぶやいて、鷲尾くんは、ふっと息を吐くように笑った。
「どうやってそこによじ登ったのか、そのへんよく覚えてないんだけど。気がついたら社長に引きずり降ろされて、なに考えてんだ、バカやろうって殴られて……あの温和な社長にだぞ?」
なに言ってるの、なに言ってるの、もうやめてよ。
「で、口元拭ったら血出てて、すっげえ痛くて、あーなんだ俺生きてるんだって思ったら、ものすごく怖くなって……」
ゆっくりと私を見た鷲尾くんと目が合う。
どうしたらいいのかわからなくて、ただ胸がすごくドキドキして、息をするのが苦しくなる。
「あ、なんかやばい。俺、泣くかも」
鷲尾くんはそう言うと、私に背中を向けて、薄い布団を頭からかぶった。
「鷲尾くん……」
わかんない。だっていつもの鷲尾くんは明るくて、冗談ばかり言ってて。
全然わかんないよ。いま私の目の前で震えてるのは、本当にあの鷲尾くんなの?
ゆっくりとベッドに近づいて、そっとその背中に触れてみる。
布団越しに伝わってくるその感覚に、胸がぎゅうっと痛くなる。
「我慢しないでいいよ」
いつか大家の佐藤さんも言ってた。
他人に弱みを見せるのは、カッコ悪いことじゃないって。
「泣きたい時は、泣けばいいんだよ」
両手を広げ、布団越しにその体を、包み込むように抱きしめた。
そうしたいと思ったから。
いま目の前にいる彼に、私がそうしてあげたいと思ったから。
冷たいものが頬に触れる。寝返りを打ちながら、ぼんやりと目を開くと、見慣れない天井が見えた。
ええっと、ここは……。
「俺んちですけど?」
ひいっと声にならない声を上げ、私はベッドの上に飛び起きる。
「な、なんでっ?」
「なんでじゃないでしょ。人のベッドでよく熟睡できるよな?」
は? 私、鷲尾くんのベッドで熟睡してた?
でもなんだかすごくここ、ぽかぽかして居心地良くて……。
「レトルトのお粥食べて、もらった薬飲んだらよくなったから、もう帰っていいよ」
「そ、そう?」
「あ、この栄養ドリンク、睦美さんにあげる。俺より睦美さんのほうが、よっぽど疲れてるみたいだから」
ベッドの上で、冷たく冷えた栄養ドリンクを受け取る。さっき頬に押し付けられたのは、これだったのね。というか――いったい私、何しにここに来たんだろう。
「……ヘンなこと、しなかったでしょうね?」
もそもそと乱れた服を整えながら、鷲尾くんを見上げる。
「はぁ? するわけないじゃん。看病しに来たくせに、病人のベッド占領して寝込んじゃう人なんて、全然俺のタイプじゃないですから」
何も言い返せないところが情けない。
「それに俺、好きな人いるし」
さらりと言って、小さく笑う鷲尾くん。
私はベッドから降りて、バッグの中に栄養ドリンクをしまうと、その顔を見つめてつぶやいた。
「好きな人って、誰?」
それを聞かなきゃって思った。
私はそれを、聞かなきゃいけないって、強く思った。
鷲尾くんはじっと私の顔を見て、そしてほんの少しだけ笑って答えた。
「社長の、娘さん」
ああ……やっぱりそうなんだ。なんとなく、そんな気がしてた。
「俺の彼女だった人。今はもう、この世にいないけど」
鷲尾くんの声が、すごく遠くに聞こえる。
切なくて、もどかしくて……それはダメなんだよ、ムリなんだよって言いたいけど、私にはそんなこと言えない。
……言えないんだよ。
アパートを出て、坂道を下った。
お腹すいたな、なんて思ったらもうすぐお昼だ。
ケータイを取り出し、社長に電話をかける。
「すみません。今からお店に戻ります」
私の耳に、社長のいつもと同じ、穏やかな声が聞こえてくる。
「いいよ、いいよ。それより鷲尾くん大丈夫だった?」
「はい。社長の差し入れいただいたら、もうすっかりよくなったって」
「そうか。ならよかった」
社長の安心したような声を胸の中にしまって、電話を切る。
バッグの中から栄養ドリンクを出して、坂道を歩きながら、それを一気に飲んだ。
頑張ろう。頑張って、前に進もうよ。
社長だってきっと、それを望んでいるんだよ? ねぇ、鷲尾くん。
見上げた空は、今日も青い。
少し歩いたら私の目に、色とりどりの花に囲まれた小さなお店が見えた。