表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/14

第6話 言えないんだよ

「おはようございます」

 気持ちのいい秋晴れの朝、店の前のパンジーに、ジョウロで水をかけている社長に言う。

「ああ、むっちゃん、おはよう」

 このプランターに花を植えてから、社長は毎日朝一番に、お水をあげてくれるようになった。

「枯れてしまったら、かわいそうだからね」

 そう言って、花を見下ろしながら、目を細める社長。まるで自分の子供を、優しく見つめるように。

 あ、ダメだ。社長と娘さんの話を思い出して、涙腺ゆるんじゃう。

「ああ、そうだ。今日鷲尾くん、お休みだから」

「え?」

「風邪ひいて寝込んでるらしいよ」

 めずらしいな。鷲尾くんが休むなんて。だいたい、なんとかは風邪ひかないって言うしねぇ。

 そんなことを思っていた私に、社長がとんでもないことを言ってきた。

「だからさ、むっちゃん。ちょっと様子みてきてやってくれないかな?」

「へ?」

「ほら鷲尾くん、一人暮らしでしょ? 一人で苦しんでたら、かわいそうじゃない」

 はぁ? なんで私が?

「大丈夫ですよぉ、社長。そんなに心配しなくても」

 たかが風邪でしょ? 社長過保護過ぎ。

「でもこれ買っちゃったから」

 社長の差し出したドラッグストアの袋には、薬やらのど飴やら、重たそうなスポーツドリンクやらがどっさり入っていた。

「鷲尾くんのアパート知ってるよね? 坂の上の」

「もちろん知ってますけど」

 だってうちの物件だもの。急坂の上のね。

「僕みたいなおっさんが持って行くより、むっちゃんみたいな若い女の子が持って行ったほうが、鷲尾くんも喜ぶでしょ? だから、よろしく。ゆっくりしてきていいから」

 社長に袋を渡される。思った通り、ずっしりと重い。これを持って、あの坂道をのぼるのかと思うと、気持ちまで重くなる。

 だけど社長のにこやかな顔を見たら、やっぱり私は断れなかった。


 荷物を持って坂道をのぼりながら、私は社長と鷲尾くんのことを考えていた。

 あの二人って仲良いよね。社長は鷲尾くんに、過保護なほど優しいし、鷲尾くんだって、いっつも社長の味方してる。

 なんか怪しくない? あの二人。

 私の知らない秘密を共有しているような……もしかして鷲尾くんって、社長の隠し子とかだったりして。

「まさかね」

 そうつぶやいて、思わず口元がゆるんだ時、私の目の前で声がした。

「なに一人で笑ってんの? 気持ちわりぃ」

「わ、鷲尾くんっ」

 長い坂道の途中、ジャージ姿でちょっと髪の乱れた鷲尾くんが、私の前に立っていた。


「か、風邪ひいて寝込んでたんじゃないの?」

「寝込んでたよ? だけど腹減ったから、なんか買いに行こうと思って」

 確かにいつもより眠そうな顔してるし、ちょっと顔色も悪い気するけど。

「これっ。社長から!」

 私は手に持っていた袋を鷲尾くんに差し出す。

「これ食べて、薬飲んで、ちゃんと寝てなよ」

 鷲尾くんは私の手から黙って袋を受けとった。

「じゃあ、お大事にね」

「帰っちゃうの?」

 私の背中に声がかかる。ちょっとかすれた鷲尾くんの。

「だ、だって仕事中だし」

「そっか……」

 ゆっくりと振り返ると、鷲尾くんが私を見てほんの少し笑った。

「ありがと。睦美さん」

 そんな切ない声で、そんなこと言わないでよ。なんだかすごく調子狂う。

 背中を向けて、坂道をのぼり始めた鷲尾くんに声をかける。

「お粥とか……作ってあげようか?」

 私の声に鷲尾くんが振り返る。

「お腹減ってるんでしょ?」

 鷲尾くんは何も言わないで、ただ静かに私に笑いかけた。


 鷲尾くんが住んでいるアパートは、うちが管理している物件だ。

 だけど鷲尾くんはちゃんと自分で、毎月家賃を払っているから、社宅として借り上げているわけでもないみたい。

 でも社長の紹介で、ここに住み始めたのは間違いないと思う。

 たぶん、鷲尾くんがうちの店で、働き始めたのと同じくらいから。


 坂の上のアパートの、二階の一番奥の部屋のドアを、鷲尾くんが開ける。

 建物の外観は古いけれど、日当たりが良くて見晴らしも良い、フローリングのワンルームだ。

 部屋の中はベッドと低いテーブルと、テレビがあるくらい。

 物があんまり置いてなくて、意外と綺麗に片付けられていたから、私は少し驚いた。

「けっこう綺麗にしてるんだ」

 先に部屋に入った鷲尾くんが、テーブルの上に荷物を置く。

 私はなんとなく居場所に困って、周りを見回しながら鷲尾くんの背中に言った。

「彼女が掃除してくれてたりして」

「彼女なんていませんから」

 ずっと思ってたんだけど、ほんとなのかな、それ。

 だって絶対モテそうな顔してるのに。ていうか、実際モテてるし。お客さんにだけど。

「睦美さん。俺、昨日の昼からなんにも食べてなくて」

「あ、そうだったよね」

 私は社長にもらった袋の中をガサガサあさって、レトルトのお粥を取り出した。

「美味しいかな? これ」

「は? お粥作ってくれるってレトルトなわけ? そこは手作りじゃないの? フツー」

 あー、もううるさいな。どうして男って、手作りにやたらこだわるんだろう。

「だって社長がせっかく買ってくれたのに、いただかなきゃ悪いじゃない。なんたってすぐにできるし。お腹すいてるんでしょ?」

「確かにすいてるけど。睦美さん、主婦だったんだよね? 料理とかちゃんとやってたの?」

 鷲尾くんの一言が、私を過去に引きずり戻す。

 料理、下手だった。部屋の中も、ここより散らかってた。

 子供さえも――作ることができなかった。

「睦美さん?」

 ふうっとため息のような息を吐き、私は冷たい床にペタンと座った。

「もしかして怒った?」

「別に。鷲尾くんの言う通りだもん。私ってなんにもできない、ダメ嫁だったから」

 今でもたまに思うことがある。

 私があの人の子供を、産んであげられたら。

 あの人のお母さんに、孫の顔を見せてあげられたら。

 私たちがこんなふうに別れることも、なかったのかなぁって。

「睦美さん……」

 うつむいてしまった私に、鷲尾くんの心配そうな声がかかる。

 だめだ、だめだ。うつむいたらだめ。

 私は袋の中に手を入れて、入っているものをテーブルの上に並べながら、明るい声を作って言った。


「社長すごいね。こんなに買ってくれたよ? 鷲尾くんって、ほんとに社長に可愛がられてるよね?」

「ああ、社長は俺のことが好きだから」

 あ、自覚してるのね。

 鷲尾くんはベッドの上にぽすんと座って、私に笑いかける。

「だって俺って素直だし忠実だし、社長のこと、絶対裏切らないし」

「鷲尾くんも社長のことを、信頼してるんだ」

「なんたって俺の、命の恩人だからね」

「は?」

「命の恩人。社長がいなかったら俺、確実に死んでたもん」

 はははっと笑って、鷲尾くんはベッドの上にどさっと仰向けになった。

 なに言ってるんだろう、この人。

 早くいつもみたいに、「冗談に決まってるじゃん」って言ってよ。「睦美さん、なに信じてるの?」って笑ってよ。

 鷲尾くんは天井を見つめたまま、何も言わなくなった。

 音の消えた狭い部屋。窓から差し込む日差しだけが、何事もないように明るく、この部屋を照らしている。

「睦美さんはさ……」

 しばらく黙り込んだあと、鷲尾くんがポツリと言った。

「死のうって思ったことある?」

 私は黙って鷲尾くんの横顔を見る。

「歩道橋の上から国道を見下ろして、あーここから飛び降りたら死ねるかなぁ、なんて思うとか、そんなレベルじゃなくて。手すりに手をかけて、よじ登って、体半分落ちかけて、あーこのままほんとに死ぬんだぁって、そういうくらいの……」

「そんなの、あるわけないでしょ!」

「俺、あるんだよね」

 そうつぶやいて、鷲尾くんは、ふっと息を吐くように笑った。

「どうやってそこによじ登ったのか、そのへんよく覚えてないんだけど。気がついたら社長に引きずり降ろされて、なに考えてんだ、バカやろうって殴られて……あの温和な社長にだぞ?」

 なに言ってるの、なに言ってるの、もうやめてよ。

「で、口元拭ったら血出てて、すっげえ痛くて、あーなんだ俺生きてるんだって思ったら、ものすごく怖くなって……」

 ゆっくりと私を見た鷲尾くんと目が合う。

 どうしたらいいのかわからなくて、ただ胸がすごくドキドキして、息をするのが苦しくなる。

「あ、なんかやばい。俺、泣くかも」

 鷲尾くんはそう言うと、私に背中を向けて、薄い布団を頭からかぶった。

「鷲尾くん……」

 わかんない。だっていつもの鷲尾くんは明るくて、冗談ばかり言ってて。

 全然わかんないよ。いま私の目の前で震えてるのは、本当にあの鷲尾くんなの?

 ゆっくりとベッドに近づいて、そっとその背中に触れてみる。

 布団越しに伝わってくるその感覚に、胸がぎゅうっと痛くなる。

「我慢しないでいいよ」

 いつか大家の佐藤さんも言ってた。

 他人に弱みを見せるのは、カッコ悪いことじゃないって。

「泣きたい時は、泣けばいいんだよ」

 両手を広げ、布団越しにその体を、包み込むように抱きしめた。

 そうしたいと思ったから。

 いま目の前にいる彼に、私がそうしてあげたいと思ったから。


 冷たいものが頬に触れる。寝返りを打ちながら、ぼんやりと目を開くと、見慣れない天井が見えた。

 ええっと、ここは……。

「俺んちですけど?」

 ひいっと声にならない声を上げ、私はベッドの上に飛び起きる。

「な、なんでっ?」

「なんでじゃないでしょ。人のベッドでよく熟睡できるよな?」

 は? 私、鷲尾くんのベッドで熟睡してた?

 でもなんだかすごくここ、ぽかぽかして居心地良くて……。

「レトルトのお粥食べて、もらった薬飲んだらよくなったから、もう帰っていいよ」

「そ、そう?」

「あ、この栄養ドリンク、睦美さんにあげる。俺より睦美さんのほうが、よっぽど疲れてるみたいだから」

 ベッドの上で、冷たく冷えた栄養ドリンクを受け取る。さっき頬に押し付けられたのは、これだったのね。というか――いったい私、何しにここに来たんだろう。

「……ヘンなこと、しなかったでしょうね?」

 もそもそと乱れた服を整えながら、鷲尾くんを見上げる。

「はぁ? するわけないじゃん。看病しに来たくせに、病人のベッド占領して寝込んじゃう人なんて、全然俺のタイプじゃないですから」

 何も言い返せないところが情けない。

「それに俺、好きな人いるし」

 さらりと言って、小さく笑う鷲尾くん。

 私はベッドから降りて、バッグの中に栄養ドリンクをしまうと、その顔を見つめてつぶやいた。

「好きな人って、誰?」

 それを聞かなきゃって思った。

 私はそれを、聞かなきゃいけないって、強く思った。

 鷲尾くんはじっと私の顔を見て、そしてほんの少しだけ笑って答えた。

「社長の、娘さん」

 ああ……やっぱりそうなんだ。なんとなく、そんな気がしてた。

「俺の彼女だった人。今はもう、この世にいないけど」

 鷲尾くんの声が、すごく遠くに聞こえる。

 切なくて、もどかしくて……それはダメなんだよ、ムリなんだよって言いたいけど、私にはそんなこと言えない。

 ……言えないんだよ。


 アパートを出て、坂道を下った。

 お腹すいたな、なんて思ったらもうすぐお昼だ。

 ケータイを取り出し、社長に電話をかける。

「すみません。今からお店に戻ります」

 私の耳に、社長のいつもと同じ、穏やかな声が聞こえてくる。

「いいよ、いいよ。それより鷲尾くん大丈夫だった?」

「はい。社長の差し入れいただいたら、もうすっかりよくなったって」

「そうか。ならよかった」

 社長の安心したような声を胸の中にしまって、電話を切る。

 バッグの中から栄養ドリンクを出して、坂道を歩きながら、それを一気に飲んだ。

 頑張ろう。頑張って、前に進もうよ。

 社長だってきっと、それを望んでいるんだよ? ねぇ、鷲尾くん。

 見上げた空は、今日も青い。

 少し歩いたら私の目に、色とりどりの花に囲まれた小さなお店が見えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ