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第5話 守ってあげたい

 彼女の姿を見たのは、九月に入って最初の雨の日だった。

 その日、朝から社長は作業着姿で、アパートのリフォームをすると張り切って出かけて行った。あんまり役には立ちそうにない、鷲尾くんのことを助手として連れて。

 だから私が銀行へ行っている間、店には誰もいなくて、その彼女は雨に濡れながら、パンジーの花が咲く店先に立ち、じっとアパートの間取り図を見つめていた。

「あの、お部屋をお探しですか?」

 私は彼女に駆け寄って、持っていた傘を差し掛ける。あわてて振り向いた彼女は、驚いた顔で私を見ている。

「すみません。この店のものです。今みんな出払っていて……あ、すぐに店開けますので」

「あの……」

「お部屋探してなくてもいいです。とにかく中へお入りください。タオルくらいはお貸ししますから」

 私はそっと、髪も服もびしょ濡れの彼女の背中を押した。

「……すみません」

 彼女は消えそうな声でそうつぶやくと、素直に店の中へ入ってくれた。


 夏が終わったばかりだというのに、その日はずいぶん涼しい日だった。

 私は彼女にタオルを貸して、それから温かいコーヒーをいれてあげた。

「本当にすみません」

「いえ、寒くないですか?」

 こくんとうなずいた彼女は、雨で濡れた長袖のカーディガンを脱ごうとしない。首に巻かれた薄いストールも、雨に濡れて冷たいだろうと思うのに。

「お部屋借りるのに……お金、どのくらいかかりますか?」

「あ、えっと、お家賃にもよりますが……ワンルームをお探しですか?」

「はい……夫と離婚したいもので」

 ああ、そうなんだ。彼女の不安げな姿が、何年か前の自分の姿と重なる。

「ご予算はいくらくらいですか?」

「できるだけ安いところで……」

 うつむきがちな彼女の声は、今にも消えそうにか細い。雨でぺたりと張り付いた長い髪に隠れるように、うっすらと頬に赤い痣が見えた。

「あ……」

 彼女は私の視線に気がついたのか、あわててそれを隠すように手で押さえた。

「出がけにドアにぶつかっちゃって……」

「大丈夫……ですか?」

「……はい」

 すぐにでも家を出たいという彼女は、いくつかの物件の資料を見て、一番安いところに決めると言う。

「中をご覧にならなくていいんですか?」

「ここでいいです。今度お金持ってくるので、契約に必要なもの教えてください」

「わかりました。とりあえず、ここにお名前とご連絡先を」

 彼女は申込書に名前と携帯番号を書いた。私はペンを動かす彼女の手先をぼんやりと見ていた。


「大丈夫かな……木嶋さん」

「木嶋さんって、その離婚したいっていうお客さん?」

 社長より一足先に帰ってきた鷲尾くんに、私は木嶋さんのことを伝えた。

「うん、彼女ね、旦那に暴力とか振るわれてるんじゃないかなぁって思うの」

 鷲尾くんは羽織っていた、社長に借りた作業着を脱ぐと、椅子に座って私を見上げた。

「なんでそんなのわかるの?」

「だって顔に痣があったし、絶対上着脱ごうとしなかったけど、袖口からおんなじような痣が見えた。あれきっと、隠れたところにたくさんついてるよ」

 鷲尾くんは何も答えなかった。椅子を回してパソコンのほうへ向くと、どうでもいいようにマウスをかちゃかちゃと動かし始める。

「ちょっと、聞いてるの? 私の話」

「聞いてますよ。でもお客さんのプライベートに首突っ込むなって言ったの、睦美さんでしょ?」

 それはそうだけど……でも彼女のこと、ほっとけないよ。

「俺たちにできるのは、部屋を探してあげることだけ。オートロック付きのマンションでも勧めてあげれば? うちの物件にはないけど」

 鷲尾くんの声を聞きながら、ため息をつく。外はまだ、しとしとと雨が降り続いていた。


 次の日も、社長と鷲尾くんは朝からいなかった。

 私はまだ雨の止まない空を見上げながら、木嶋さんのことを考えていた。

「すみません」

 その時店に、サラリーマン風の男の人が入ってきた。

「あ、いらっしゃいませ」

「わたくし、こういうものですが」

 いきなり名刺を差し出す姿を見て、どこかの営業さんかなとも思った。だけどその名刺に書かれた名前を見て、私の体がぎゅっとこわばった。

「木嶋悟……さん?」

「はい。昨日こちらに、うちの妻の木嶋順子が来店したと報告があったんですが」

 え、報告? なんの? なんかこの人怪しい。

「来ましたでしょう? 木嶋順子。うちの妻です」

 にこやかな笑顔を作っているけれど、この人の目は全然笑っていなかった。

「来ていません」

「は?」

「そんなお客様は、来ていません」

 木嶋さんの夫は、「そんなはずはないでしょう?」と言って、あきれたように笑い出す。

「いやね、確かに夫婦喧嘩はしましたよ? だけど僕は彼女に謝りたくて探しているんです。電話もね、勝手に番号変えたらしいし。こちらに新しい連絡先、書いていったでしょう?」

「知りません。申し訳ありませんが、お引き取り願えますか?」

 夫の表情が変わった。私をにらみつけて言う。

「どうして隠すんですか? 僕は夫ですよ? 妻の連絡先、早く教えてください!」

「知りません! 帰ってください!」

 その時はまだ、もしかしたら私が間違っているのかも、と思っていた。

 本当にこの人はいい人で、彼女と仲直りしたいだけで……彼女のことをものすごく心配して探しているのかもしれない、と。

 だけど次の瞬間、そんな私のかすかな願いは、はじけるように消えてなくなった。

「教えろって言ってるだろ!」

 突然怒鳴った夫の声が、店の中に響く。

「いい加減にしろ! 隠してんじゃねぇよ! 俺を怒らせるとどうなると思ってんだ!」

 夫の手が、私の目の前で振りあがった。

 やだ、なにこれ、怖い怖い怖い……。

 私は思わず目をつぶり、両手で頭を抱える。

 だけどその手が、私に振り下ろされることはなかった。

「うちの店で、何やってるんですか? お客さん」

 こわごわと目を開けると、鷲尾くんが夫の手をつかんでいた。

「うちの従業員が、何かご迷惑かけましたか?」

「ちっ」

 夫は舌打ちをして、鷲尾くんの手を乱暴に振り払う。

「覚えてろよ! また来るからな!」

 そして捨て台詞を残すと、店の外へ出て行った。


「大丈夫? 睦美さん」

「……うん」

 そう言ってうなずいたけど、自分の手が自分のものとは思えないほど震えている。

「なにかされた?」

「なにも……」

 でもものすごく怖かった。あんなふうに怒鳴られて、その上、手を上げられたら、誰だって彼女のように逃げ出したくなる。

 気がついたら涙がこぼれそうになって、私はあわてて顔をそむけた。

 鷲尾くんの前で泣きたくなんてない。今は仕事中だし、私のほうが年上なんだから、しっかりしなくちゃ。

「しっかし、きったねー男だよなぁ、あいつ。女の人には偉そうな態度で暴力ふるうくせに、男が来た途端、さっさと逃げやがって」

 私のすぐそばで鷲尾くんの声が聞こえた。気がつくと私の頭を、鷲尾くんの手がふわふわとなでている。

 え、ちょっとなに? 私もしかして慰められてる?

 だけどなんかこういうの、懐かしいというか、ほっとするというか……なんだかすごく、気持ちがいい。

「ちょっ、ちょっと? 鷲尾くん?」

 ふわふわとなでていた鷲尾くんの手が、次第にぐしゃぐしゃと私の頭をかきまわす。

「ちょっと、やめてよ! 髪ぐしゃぐしゃになっちゃう」

「ははっ。もうぐしゃぐしゃですけど?」

 な、なんなのよ、もう。人のこといい気分にさせたと思ったら、いきなりこんな……。

「あーもう、ひどーい」

 鏡の前で髪の毛を整える。そんな私を見ながら鷲尾くんが笑っている。

「ところで社長は?」

「え、あっ、やべっ! 釘持って来いって言われて、取りに来たんだっけ」

 鷲尾くんはあわてて社長の引き出しから釘を見つけ、店を飛び出そうとして振り返る。

「睦美さん! またなんかあったら俺のケータイに電話して! それかケーサツ! わかった?」

「う、うん。わかった」

「じゃあ!」

 雨の中に鷲尾くんが出て行く。私はその背中をぼんやりと見送る。

 まだ収まろうとしないこの胸のドキドキは……一体何のせいなんだろう。


 数日後、木嶋順子さんが再びうちの店に現れた。

 彼女はずっと、夫から隠れるようにしながら、ホテルを転々としていたという。

「この間うちのお店に、旦那様がみえました」

 彼女の前に腰掛けて、出来るだけ穏やかな口調でそう言った。

 すると彼女の顔がみるみる青ざめて、頭を下げながら、「すみません、すみません」と何度も言った。

「うちは大丈夫ですよ、木嶋さん。お顔を上げてください」

 私の前で顔を上げた木嶋さんは、呆然とした表情だった。

「あの、余計なお世話かもしれませんが……」

 私はそこまで言って、パソコンの前に座っている鷲尾くんをちらりと見る。

 鷲尾くんは黙ってパソコンを見ているけど、きっと私の話を聞いている。

 私は木嶋さんに向き直して、その目をしっかり見つめて言った。

「木嶋さんにお部屋をお貸しすることは簡単ですが、きっとすぐに、旦那様に見つかってしまうと思うんです」

 木嶋さんが怯えたように、小さく震えた。

「どこかもっと遠くの……ご実家とか、信頼できるお友達とかに、相談することはできないんですか?」

「無理です……そんなことしたら、その人たちに迷惑がかかります」

 きっと木嶋さんはこんなふうに気を使って、誰にも相談できずに一人で震えていたんだ。

 私は机の下で、ぎゅっと両手を握りしめた。

「逃げましょう! もっと遠くへ!」

「え……」

「そういう人を助けてくれるような専門的な場所に、相談したことありますか?」

 木嶋さんは黙ってうつむいた。きっとわかっていても、一歩を踏み出す勇気が出なかったのかもしれない。

 私だって、ずっとそうだったから。

「うちの物件で暮らすより、もっと安心して住める場所があると思うんです。だから……」

 だからお願い、勇気を出して。

「うちの店まで来れたんです。木嶋さんなら大丈夫。自分の心と体を、一番大切にして」

 私の前でうつむいていた彼女が、静かに顔を上げた。

「……はい」

 彼女の声が耳に響く。小さく細く震えた声が。

 ごめんね……私が守ってあげられなくて。


「そうと決まったら、さっそく行きましょう!」

 突然立ち上がった鷲尾くんが、私たちに言う。

「いつまでもこんな所にいたら、また旦那に見つかっちゃいますよ。だからさっさと相談しに行きましょう。僕、車で送りますから」

「え、でも、鷲尾くん?」

 鷲尾くんは私に小さく笑いかけると、たった今パソコンからプリントアウトされたばかりの紙を手にとった。

「大丈夫です。そういう所の場所も連絡先もちゃんと調べてありますから」

 鷲尾くん、いつの間に……。

「大丈夫。僕が安全な所まで、木嶋さんを必ず送り届けます」

 不安そうな顔つきの木嶋さんに向かって鷲尾くんが言う。

 黙り込んでいた木嶋さんは、やがて静かに立ち上がり、「よろしくお願いします」と鷲尾くんにつぶやいた。

「じゃあちょっと待っててください。今、店の前まで車持って来ますから」

 そう言って出ていく鷲尾くんを見送っていると、私に向かって木嶋さんが言った。

「本当に申し訳ございませんでした。でもまたあの人がここに来たりしたら、ご迷惑をおかけすることになるんじゃ……」

 その時、作業着にタオルの鉢巻を巻いた、体だけは大きな社長が現れた。

「あ、お客さん? いらっしゃいませ」

 社長がお腹をゆらして、木嶋さんに声をかける。私は小さく笑って、ぼうっとしている木嶋さんに言う。

「大丈夫ですよ。うちにはものすごく頼りになる、男の人がいますから」

 意味のわからない顔をしている社長の前で、なんとなく納得したような木嶋さんが、ほんの少しだけ微笑む。

「木嶋さん、どうぞ」

 鷲尾くんにうながされ、木嶋さんは私と社長に小さく頭を下げて、車に乗り込んだ。

 うん、鷲尾くんだって、なかなか頼りになるしね。


 走り去って行く車を見送りながら、社長が聞いた。

「物件案内?」

「まあ、そんなとこです」

 ごめんなさい、社長。うちの物件じゃないんですけど。

 心の中で謝りながら、私は言う。

「お茶いれましょうか?」

「うん、熱いヤツね」

「わかってます」

 ずっと降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。

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