第4話 彼女の咲かせた花
「社長ちょっと提案なんですけど」
夏の終わりの良く晴れた朝。暇そうに椅子に座り、日本茶をすすりながら新聞を読んでいる社長に、私は言った。
「この店、リフォームとか、してみませんか?」
私の声に、社長はゆっくりと新聞をずらす。パソコンの画面をぼんやり見ていた鷲尾くんも、ちらりと私のことを見た。
「だってもうずっとお客さん来ないじゃないですか。やっぱりこのボロい、いえ、古い店構えが良くないんじゃないかなぁ、なんて思うんです。小さくてもいいから、もうちょっと新しい感じにして、若い人にも入りやすい雰囲気にしたらどうでしょうか?」
「……リフォームねぇ」
社長がぽつりとつぶやく。するとそんな社長の代わりに鷲尾くんが口を出した。
「リフォームなんて、そんな金、どこにあるんですか?」
私は社長から鷲尾くんに視線を移す。
「先月赤字で、今月だってどうせ赤字でしょ? リフォームなんてする金、どこにもないっしょ」
「だから……赤字だからこそ、なんとかしてお客さんを増やすしかないんじゃないの」
「リフォームなんてしなくたって、なんとかなるって。駅前の不動産屋の前で待ち伏せて、あの店に寄ってきた客、うちに連れてきてよ。そしたら俺、絶対契約決めてやるから」
「ちょっと、なにそれ。お客さん横取りして来いって言うの?」
「そのくらいしてよ。睦美さんだって暇してるでしょ?」
暇じゃありません! 私はあんたと違って!
「あ、社長?」
そんな私たちを無視するように、社長が席を立ち上がった。
「ちょっと巡回行ってくるから。まぁ、若い二人で、いい方法考えといてよ」
「え、ちょっと待って、社長ー」
社長は返事もしないで、私たちを残して出て行ってしまった。
「社長はさ」
呆然としている私に鷲尾くんが言う。
「絶対この店、リフォームなんてしないよ」
私はゆっくりと顔を向け、鷲尾くんを見る。
「どうして?」
鷲尾くんは小さく笑って私に答える。
「この店は、奥さんと二人で作った店だから」
亡くなった、社長の奥さんと?
「社長はまだ奥さんのこと、愛してるんだよ。だからそんな簡単に、リフォームなんてしないんですっ」
私はぼんやりと鷲尾くんの顔を見つめていた。
幼馴染だったという奥さんと、めでたく結婚した社長。そんな社長が、奥さんと一緒に生まれ育ったこの町で、一から不動産屋を始めたっていう話は、私も聞いたことがある。
奥さんと二人で協力し合って、この店の信頼を、ここまで築き上げてきたんだって。
「なに? 睦美さん」
じっと鷲尾くんの顔を見つめていたことに気がつき、私はあわてて顔をそむける。
「わ、わかったけど。『愛してる』とかそういう言葉、よくそうすらすらと出てくるよねぇ」
そんな言葉、もう何年も言ってないし、言われてもいない。
「はぁ? べつに俺、睦美さんに『愛してる』って言ったわけじゃないし。なに勘違いしてんの?」
「するか! バカっ」
私が言ったら鷲尾くんは笑いながら、「睦美さん、顔赤い」って言った。
その日私は、お弁当を食べながら考えた。
そういえば私、社長のことよく知らない。はっきり知っているのは、十年前に奥さんを亡くしたってことくらい。
社長は普段、どうやって生活してるんだろう。だって六十男の一人暮らしでしょ? お子さんはいないみたいだし。ご飯とか作れるのかな、あの社長……謎すぎる。
そして私は鷲尾くんのことも、よく知らないってことに気づく。
二年前、離婚した私がこの店の従業員になった時、鷲尾くんはすでにいた。私よりも、三年位先輩なんだって、威張られたことがある。
「ただいま、むっちゃん」
「あ、お帰りなさい、社長」
社長はいつものように額に巻いていたタオルをするりと外しながら言った。
「鷲尾くんは?」
「お昼食べに行ってます。今日は駅前のラーメン屋さんが替え玉無料だって、張り切ってました」
「そっか。だったら僕も、あの店に行けばよかったなぁ」
そう言って笑う社長に、私は言う。
「社長。今朝は、すみませんでした」
「え、なにが?」
「リフォームすればいいなんて、勝手なこと言って。このお店は社長と奥様の、大事なお店なのに」
社長が私の前で、少し照れくさそうに微笑む。
「むっちゃんが謝ることないでしょ? 確かにこの店古いからね。建て替えたほうがいいんだってことはわかってるんだ」
「いいんです、やっぱりこのままで。だってなんか素敵ですから。そんなに奥様のことを想っている社長も、想われている奥様も」
そう言ったあと、恐ろしく恥ずかしくなった。私なんか、すごいこと言ってない?
社長は穏やかな表情のまま椅子に座ると、重たそうな体でキイッと椅子を回してからつぶやいた。
「想い続けることが、素敵とは限らないよ」
「え?」
どういうこと?
社長はふっと私に笑いかけて言う。
「場合によってはね、いつまでも想い続けていてはいけないんだよ。過去の人間ばかり想っていても、前には進めないから」
「社長は……前に進んでないんですか?」
「……僕のことじゃない」
意味の分からない私を残して、社長はゆっくりと立ち上がる。
「むっちゃん」
「はい」
「今日はもう上がらせてもらうから。この書類、大家の佐藤さんに届けてくれないかな」
「わかりました」
私に書類を渡すと、小さく「よろしく」とつぶやいて、社長は黙って外へ出た。
こんなアンニュイな社長……初めて見たよ。
だけど、「僕のことじゃない」って……じゃあ、誰のことなの?
書類を机の端において、お弁当の続きを食べた。お弁当を食べながら、私はなんとなく鷲尾くんのことを想っていた。
午後、社長に頼まれた書類を届けに、大家の佐藤さんの家へ行く。
佐藤さんは社長と同年代の、おしゃべり好きなおばさんだ。
店からはほんの十分ほどの距離。天気もいいし、私は歩いて行くことにした。
「あら、わざわざ持って来てくれたの? 悪かったねぇ」
「いいえ」
佐藤さんに笑いかけて、私は書類を渡す。
小さな犬を抱いて出てきた佐藤さんは、いつものようにワンちゃんの話をしたあと、私に言った。
「真ちゃんにも、また寄ってって、伝えておいてよ」
真ちゃんというのは、うちの社長のことだ。
ちなみに社長の名前は『大河内真之助』――ずいぶん偉そうな名前である。そして佐藤さんと社長もまた、幼馴染なんだそうだ。
「元気にやってるんでしょ? 真ちゃん」
「はい」
「でも、もうちょっとダイエットしたほうがいいかもね」
「そうですね」
激しく同感。
「だけどまあ、奥さんもいないし、大変なんだろうけど。繭ちゃんもねぇ……ああ、あれからもう、五年が経つのか……」
繭ちゃん? 五年? 何のこと?
「えっと……あの、繭ちゃんって」
「あ、あなた、知らなかったの?」
佐藤さんはちょっと驚いた顔をしたあと、声を落とし、ため息をもらすように言う。
「繭子ちゃんは、真ちゃんの一人娘。五年前にね、国道の交差点で、交通事故に遭って亡くなったんだけど……まだ二十歳そこそこだったんじゃないかなぁ」
知らない、知らない、そんなの。
社長に娘さんがいたことも。その娘さんが亡くなっていたことも。
「すごく可愛くていい子だったんだよ。奥さんが亡くなってからは、父と娘の二人暮らしで、お店の手伝いもしてくれてたし……でも、あの人はそういうこと、誰にも話さないでしょ?」
「はい、全く知りませんでした」
佐藤さんはうつむきがちに、腕の中のワンちゃんを優しくなでながら言う。
「そういう人なんだよ、昔から。他人に弱みを見せることが、カッコ悪いと思ってるの。そんなことないのにね……」
そして私の顔を見て、佐藤さんがふっと微笑む。
「ほんと、バカだよ……男って」
私はぼうっとしたまま佐藤さんを見ていた。
佐藤さんは私に笑いかけると、いつもみたいに明るく言った。
「ごめん、ごめん! 今話したこと、誰にも言わないでね。また余計なことベラベラしゃべったって、真ちゃんに怒られちゃうから」
「はい、わかりました」
佐藤さんが笑顔で手をふる。私はぺこりと頭を下げて、背中を向けて歩きだす。
空はよく晴れていた。憎らしいほどの青空だった。
店までの道をぼんやりと歩く。
社長のあんな過去を知ってしまって、これからどんな顔して会えばいいのか、わからないよ。
私の目に、見慣れたお店が見えてきた。社長と奥さんの、大切な大切なお店だ。
そしてその店の前で、ワイシャツを腕まくりした鷲尾くんが、何かを一生懸命運んでいた。
「なにしてるの?」
「あ、お帰りー、睦美さん」
鷲尾くんが運んでいたのは、プランターだった。土の入ったそれを店の前に二つ並べ、満足そうに汚れた両手をはらう。
「ここに花でも植えたらどうかなー、なんて。裏にプランターがあったから、とりあえず持ってきた」
よく見ると、店の反対側にも、あと二つプランターが置いてある。
「あとはさ、この張り紙だけど。あんまり貼り過ぎると、中見えなくなっちゃって怪しいだろ? もう少し減らして、中も見やすくしたら、お客さん入りやすいんじゃないかなぁ」
鷲尾くん、ちゃんと考えてくれてたんだ。今朝私が、リフォームの話なんかしたから。
「そうだね。私明日、お花買ってくるよ」
プランターの前にしゃがみ込み、さらりと土を手にとった私に、鷲尾くんが言った。
「昔はさ、この店の前、すっごくいっぱい、花が咲いてたんだよ」
「え、そうなの?」
もしかして奥さんがいたころは、そうだったのかな。だとしたら、今とずいぶん違う雰囲気だったのかも。
「俺と社長だけになって、誰も世話しなくなったから、全部枯れちゃったけど」
え、ちょっと待って。
私は店の中へ入ろうとしている、鷲尾くんの背中に聞く。
「お花いっぱい咲いてたのって、十年位前の話じゃないの?」
「いや、五年前の話」
五年前……さっきの佐藤さんの話とつながる。
この店に、お花をいっぱい咲かせていたのは――社長の娘さんだ。
「わ、鷲尾くん!」
私は思わず、鷲尾くんのシャツを引っ張っていた。
鷲尾くんは知ってるんだ。このお店で働き始めたの、五年位前のはずだから、きっと社長の娘さんのことも……。
「なんですか? 睦美さん」
振り向いた鷲尾くんと目が合う。その瞬間、佐藤さんの言葉が頭の中に浮かんだ。
――今話したこと、誰にも言わないでね。
そうだよね……社長が口にしたわけでもないのに、娘さんのこと、あれこれ詮索するのは失礼だよね。
私はそっと、鷲尾くんから手を離した。
「何でもない」
「へんなの」
そうつぶやいた鷲尾くんの顔を見た。鷲尾くんはほんの少しだけ私に笑いかけ、また背中を向ける。
「睦美さん」
「な、なあに?」
「パンジーって花知ってる?」
「知ってるに決まってるでしょ」
いくらガーデニングにうとい私でも、そのくらいは。
「じゃあそれにして。いろんな色のね」
「別にいいけど。どうして?」
もう一度振り返った鷲尾くんが、私の顔を見て言った。
「五年前、それが咲いてた。このプランターにいっぱい」
お店の前に咲いていた、色とりどりのパンジーの花。
その頃、社長も、社長の娘さんも、この店の前で笑っていたんだろうか。
「だからさ、よろしく。睦美さん」
鷲尾くんがそう言って、私に小さく笑いかける。
どうしてだろう。あんな話を聞いたあとだからかな……鷲尾くんの笑顔が、なんだかすごくせつなく見えるよ。
誰もいなくなった店先でプランターを見下ろす。
私にできること、もっとないかな。
社長に心から笑ってもらって、天国にいる奥さんにも娘さんにも笑ってもらって……お客さんにも喜んでもらえるようなそんなお店、作れないかな。
明日朝一番にホームセンターに行って、パンジーの苗を探そう。
日の暮れかけた空を見上げながら、私はそんなことを思っていた。