第3話 おはぎの味
正木さんというそのおじいさんが、うちの店に来るようになって、もう一週間が経つ。
「孫もわしに寄りつかなくなってなぁ、ばあさんも去年死んじまったし、嫁さんに気を遣うあの家では、もう暮らせないんですわ」
正木さんは私のいれたお茶をすすりながら、もう二時間もここにいる。そんな毎日が一週間も続いているのだ。
「いろいろと大変なんですねぇ……」
「長生きなんて、するもんじゃないよ。お兄さん」
二時間ずっと、正木さんの相手をしているのは鷲尾くんだ。だけど鷲尾くんは、全然嫌がった様子はない。
カウンター代わりの机に向き合って座って、正木さんが持参した、赤坂屋さんのおはぎを食べながらお茶を飲んで……。
穏やかに談笑する二人は、まるでおじいさんと孫みたい。それはなんとなく微笑ましい光景だけど、ここは不動産屋ってこと、忘れてない?
五時のチャイムが聞こえると、いつものように正木さんは席を立つ。
「いい部屋あったら、よろしく頼むよ」
「はい。わかりました!」
そう言って敬礼みたいなポーズをする鷲尾くんに微笑むと、正木さんは静かにお店を出て行った。
「ねぇ、正木さんってさ。ほんとに部屋借りる気あるのかなぁ」
ため息まじりに私が言うと、最後のおはぎをパクっと口に入れて、鷲尾くんが答えた。
「どっちでもいいんじゃないの? 相手してあげれば」
「でもうちは不動産屋だよ? お年寄りのおしゃべりの相手する場所じゃないんだから」
私の言葉に鷲尾くんが笑う。
「俺はべつにいいよ、ヒマだし」
確かに暇だ。この一週間、正木さん以外にお客さんは来ない。
アパートの巡回に回る社長と、事務的な仕事をしている私は、それなりにやることはあるけど、鷲尾くんは見るからに暇そうだ。
「俺は好きだけどなぁ……あのおじいちゃん」
鷲尾くんののん気な声を聞きながら、私はもう一度ため息をついた。
次の日もやっぱり正木さんは来た。
鷲尾くんとおしゃべりする内容は、いつもと同じ。あの家は住みにくくなったから、一人暮らししたいということ。だけど具体的に部屋を探そうとする気配はない。
「わしは年金暮らしだがね、貯金もかなりあるんだよ」
「へぇ、そうなんですか」
「家賃もちゃんと払えるよ。ボケてもいないしなぁ」
そんなことを言ってハハハと笑う正木さんと一緒に、鷲尾くんも笑っている。
今日も平和だ……平和だけどさ。
その時、穏やかな空気を引き裂くように、乱暴に店のガラス戸が開いた。
「おじいちゃん! こんなところにいたのね!」
女の人が怒ったような顔で正木さんに言う。
「駅前の不動産屋さんに行かなくなったと思ったら、今度はこんな所に……もういい加減にしてください!」
どうでもいいけど……「こんな所」ってちょっと失礼じゃない?
「あ、あのぅ……」
立ち上がった鷲尾くんを見て、女の人がハッとする。
「あ、すみません、突然。この人、義理の父なんです。嫁がうるさいから、家を出たいとか言ってましたでしょう?」
「はぁ、まぁ……」
ちょっ……鷲尾くん。そこは否定するところでしょう?
女の人――正木さんちのお嫁さんは、大きく私たちの前でため息をつく。正木さんは椅子に座って、黙り込んだままだ。
「義父はちょっとボケてるもんで。あんまり本気にしないでください。ご迷惑をおかけしました」
そう言ってお嫁さんは正木さんの腕をつかむ。
「さ、おじいちゃん、帰りますよ。もういい加減にしてください」
強引に立ち上がらされた正木さんは、文句も言わずにお嫁さんについて行く。
「もし義父がまた来たら、ここに連絡してください。すぐに迎えに来ますから」
お嫁さんはそう言って、携帯電話の番号と住所を残し、正木さんと一緒に出て行った。
「行っちゃったね。正木さん」
ぼうっと店の外を眺めている鷲尾くんに、私は言う。
「なんか……かわいそうだな」
「うん。でも仕方ないよ。あのお嫁さんが言ってることが、もしかしたら本当かもしれないし」
「じゃあ睦美さんは、正木さんがボケてると思ってるわけ?」
「そうじゃないけど。正木さんの言い分だけじゃなく、お嫁さんの言い分も聞いてあげてってこと」
「なんだ。結局睦美さんは、あの怖いお嫁さんの味方なんだ」
「だからそんなこと言ってないでしょ!」
私が言ったら、鷲尾くんはふんって顔をして、ぷいっと横を向いた。
くうー、やなヤツ。
「どうしたの? 二人とも」
いつの間にか帰ってきていた社長が、私たちに聞く。
「なんでもありませーん。このおばさんがわからずやなだけですー」
「ちょっ、わからずやってなによ! てか、おばさんって誰のこと!」
すっと立てた人差し指を、鷲尾くんは私に向けると、「コーヒー買ってきまーす」とか言って店を出て行った。
鷲尾めー、絶対許さないから!
そんな私たちを見て、社長はおかしそうに笑っていた。
次の日、朝一番にやってきたのはあの正木さんだった。
「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
ほうきで店を掃いていた私に笑いかけると、正木さんはいつものように椅子に腰かけた。
だけど今日の正木さんはいつもとなんか違う。あ、赤坂屋のおはぎを持ってない。その代わりに今日は、ビジネスマンが持つような、見慣れないカバンを持っていた。
「部屋をお借りしたいんだが」
正木さんは鷲尾くんに向かってそう言った。
「はい」
「今日は本気だよ。契約金は、このくらいで足りるかね?」
正木さんがバッグを開けて、何かを机の上に置いた。
「へっ?」
素っ頓狂な声を上げた鷲尾くんは、それを手に取ってぱらぱらと指でめくる。
うそっ。帯付きの、一万円の札束だ。
「ほ、本物ですか?」
「当たり前だろう? 今、銀行で下してきたばかりだ」
「貯金、本当にあったんですねぇ」
ちょっと、ちょっと、感心してる場合じゃないでしょう? 鷲尾くん。
「あのっ」
私はほうきを持ったまま、二人の間に割り込んだ。
「ご契約していただけるのは大変嬉しいのですが、ご家族の方のご承諾は……」
正木さんが私の顔を見て黙り込む。なんだかとても悲しそうな顔をして。
私が言葉をつまらせたら、鷲尾くんが立ちあがって言った。
「じゃあさっそく、お部屋を見に行きましょう! 正木さんにぴったりな物件があるんですよ。二十四時間スーパーの近くだから買い物に便利だし、一階だから階段上らないでいいし、病院までも歩いて五分で行けるんです!」
今にも正木さんを連れて出かけようとしている鷲尾くんを、私は止めた。
「ちょっと待って! お嫁さんに連絡しないと……」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ! 言われたでしょう? 連絡くださいって」
そう言いながら電話をかけようとした私の手から、鷲尾くんはメモを取り上げた。
「正木さんは部屋を借りたいって言ってるんだ。だから部屋を探してあげるのが俺たちの仕事だろっ」
「だ、だけどっ」
受話器を置いて、私は鷲尾くんに言い返す。
「やっぱり家族に相談してからじゃないと」
「反対されるに決まってる」
「反対されたら説得してあげればいいじゃない。勝手に契約なんかして、何かあっても、私たちは責任とれないでしょ!」
「何かってなんだよ?」
私は小さく息を吐き、今度は正木さんに向かって言った。
「私は心配してるんです。正木さんがお元気で、しっかりされているのはわかってますけど……一人暮らしの高齢者の方が、アパートの一室で孤独死とか……そういうの、現実にはけっこうあるんです」
正木さんは黙って私を見ていた。そしてふうっとひとつため息を吐くと、目の前にあったお金をカバンの中に戻した。
「お姉さんのおっしゃることはよくわかりました。お宅にご迷惑もかけたくありませんし……もう一度、家族と話し合ってきます」
そう言って、私たちに背中を向けた正木さんは、なんだかすごく小さく見えた。
その日からぱったり、正木さんは来なくなった。
私は電卓を叩く手を止めて、さっきからずっと、パソコンの同じ画面を見つめている鷲尾くんに声をかけた。
「あのさ、ちょっとは営業活動とか、したほうがいいんじゃないかな?」
「営業活動って?」
正木さんが来なくなってからの鷲尾くんは、まるで魂が抜けたみたいに、ずうっとぼんやりとしている。
「ホームページ更新するとか、他の業者さんにチラシ配って、うちの物件紹介してもらうとか」
「そんなの、睦美さんがやったら?」
あんたの仕事でしょうが! そう言いたい気持ちをぐっと抑えて、私は席を立ち上がった。
「私は銀行行ってくるから。店番お願いね」
鷲尾くんは返事もしないで、またパソコンの画面をぼんやりと見つめる。私は小さくため息をついて、鷲尾くんを残して店を出た。
私だって、心配していないわけじゃない。あれから来なくなった正木さんのこと。
だけどしょうがないじゃない。私たちが正木さんの家のことに、これ以上口出しするわけにはいかないんだし。
銀行で用事を済ませて外へ出る。駅前にあるのは、テレビのCMでもおなじみの、有名な不動産店。
ふとその店先を見た私の目に、店員さんに追い出されるように出てきたおじいさんの姿が見えた。
「悪いけどね、今度おじいさんが来ても、帰ってもらうように言われてるんですよ」
店員さんはやんわりとだけど、おじいさんを帰らそうとしている。
「正木さん!」
私は思わず叫んでかけよった。見慣れた赤坂屋の袋を持った正木さんが、私を見て少しだけ笑った。
「正木さん、またお部屋探してたんですか?」
うちのお店まで連れてきて、私は正木さんにお茶を差し出した。
「ああ、そうだねぇ」
曖昧な返事をしながら、正木さんは袋の中からおはぎを取り出す。
「今日は、あのお兄さん、いないんだね」
「あ、ええ。そうですね」
私が店に戻った時、鷲尾くんの姿はなかった。
正木さんは小さく笑って私に言う。
「お姉さん、よかったらこのおはぎ、食べて」
「はい。ありがとうございます」
私が言うと、正木さんは嬉しそうに微笑む。
「このおはぎ、孫がすごく好きでねぇ」
「お孫さんが? 一緒に住んでらっしゃるんですよね?」
「ああ、そうなんだけど。もうこんなじいさんと話もしてくれないよ」
正木さんは、今度は寂しそうに笑った。
「小さい頃はなぁ、じいちゃんじいちゃんって言って、このおはぎを美味しそうに食べてたんだけどなぁ」
懐かしそうな表情の正木さん。私は黙ってそんな正木さんの顔を見つめる。
「もう一緒になんか、食べてくれんだろうねぇ」
「そんなことないですよ」
正木さんがゆっくりと私を見る。
「お孫さんにそのお気持ち、話されたんですか?」
「いやぁ、孫は勉強に忙しそうで悪いだろう?」
「でも話さなければ伝わりませんよ。一緒におはぎを食べるくらいの時間は、きっとあると思いますよ?」
正木さんはきっと寂しかったんだ。だけど家族に遠慮して、自分の気持ちも言えないで……だからいつもうちに来て、鷲尾くんにお孫さんの姿を重ね合わせていたんだ。
「おうちを出るのは、お孫さんに正木さんのお気持ちを、ちゃんと伝えてからでも遅くはないと思います」
正木さんが私のことをじっと見る。私も黙って、正木さんの顔を見つめた。
「じいちゃん……」
その時、私たちの後ろから声が聞こえた。開けっ放しだったガラス戸の向こうに、若い男の子が立っている。
「じいちゃん、迎えに来たよ」
「健太郎……」
健太郎と呼ばれた男の子が、ちょっと照れくさそうに笑う。
「なんだそんなこと、言ってくれればいいのに。言ってくれないとわかんないじゃん、じいちゃん」
健太郎くんはそう言うと、正木さんの前のおはぎをひとつ手に取った。
「懐かしいなぁ、これ。昔よく食べたよな、じいちゃんと」
「健太郎……」
「ひとつ食べてもいい?」
「ああ、もちろんだよ」
健太郎くんは正木さんに笑いかけ、「いただきまぁす」と言っておはぎを頬張る。
「うまいか?」
「うん、うまい。変わってないね、この味」
なんだ、いいお孫さんじゃない。
ちょっとしたすれ違いがあっただけで、正木さんの居場所はちゃんとある。
「だけど健太郎。なんでここに?」
「あ、あのお兄さんがうちに来て、じいちゃんと一度ちゃんと話してみてって言うから、一緒にじいちゃんのこと捜してたんだ」
健太郎くんがそう言って店の外を見る。壁際に隠れるようにして立っている鷲尾くんが、私を見て照れたように笑った。
健太郎くんと並んで、正木さんが帰って行く。
よかったね、正木さん。お孫さんの気持ちがわかれば、もう寂しくなんてないね。
店先で二人を見送ったあと、私は鷲尾くんに振り向いて、その手から一枚のメモを奪った。
「なにお客さんの家まで行ってんのよ?」
鷲尾くんの持っていたのは、お嫁さんが書いた正木さんちの住所だ。
「お客さんのプライベートまで、うちが首突っ込むことないでしょう?」
「でも俺、正木さんのこと、なんかほっとけなくて」
それは私だってそうだけど。
「正木さんって、俺のじいちゃんに似てるんだよなぁ……」
鷲尾くんがそう言って、すがすがしい顔をして空を見上げる。私もその隣で、鷲尾くんと同じ空を見る。
今日も空は夕焼け色だ。明日もきっと晴れるだろう。
一週間後、大河内不動産の店内には、やっぱり正木さんがいた。
「健太郎は勉強が忙しくてなぁ、やっぱりわしの話し相手にはならんのだよ」
そう言って正木さんは、鷲尾くんの前におはぎを広げる。
「よかったら一緒に食べてくれんかね?」
「そんじゃ、遠慮なく。あ、睦美さんも一緒にどうですか?」
私は小さくため息をついたあと、にっこり正木さんに笑いかける。
「じゃあ私もご一緒させていただきます」
「どうぞ、どうぞ」
だけど正木さんは、部屋を探しているとは言わなくなった。きっと自分の家に居場所を見つけられたんだろう。だったらこの店に来る意味もないんだけどね。
正木さんと鷲尾くんと食べるおはぎは、とっても甘い味がした。