第2話 小さな寝息
「このへんでどう? 睦美さん」
「うーん、もうちょっと右かな?」
大河内不動産の店頭で、脚立に乗った鷲尾くんを見上げて言う。
平屋建ての古いお店を、少しでも見栄えよくしたくて、メインの仕事の合間に一週間かけ、新しいカラー図面をパソコンで作り直した。
カラフルなポップも一緒に飾って、ちょっとでも若い子が立ち寄ってくれるよう、オシャレな雰囲気にしたつもりだけど……。
「こんな感じでどうですか?」
「うん。オッケー。ありがと、鷲尾くん」
「しっかし、張り紙取り替えたくらいで、お客さん増えますかねぇ」
ちょっ……人がこんなに苦労して作った図面になんてこと……。
「すみませんね、張り紙作るくらいしかできなくて。私は鷲尾くんみたいに、お客さんを引き寄せられる、お顔もお口も持っていませんから」
「あー、そんなことないでしょ。ほら、睦美さんのオトナの魅力で、男の客をメロメロにさせちゃえばいいじゃないですか」
お、オトナの魅力って……私あんたと二歳しか違わないですから! それにだいたいうちは不動産屋でしょう? 根本的に何かが違う気がするんですけど。
「睦美さんってさぁ……」
窓ガラスに貼られた図面を見上げながら、鷲尾くんがつぶやく。
「結婚してたんでしょ? なんで別れたの?」
とくんっと胸の奥が音を立てる。鷲尾くんがゆっくりと振り返って私を見る。
「そ、そういうデリケートなこと、単刀直入に聞くかなぁ? フツー」
そう言ってる自分の声が、なんだか微妙に震えている。
「あ、ごめん。言いたくないなら、言わなくてもいいけど」
いつもの調子で軽く笑って、鷲尾くんは店の中へ入ってしまった。
胸の鼓動が速くなる。大きく息を吸い込んで、それをゆっくりと吐く。
普通に、普通に、普通にしなきゃ。別に隠すような理由でもない。
子供が欲しかった夫の家族と、子供を作ることができなかった私。
別れた理由はたったそれだけ――それだけのこと。
「あのっ!」
背中にかかった声にハッとする。
振り向くと、赤ちゃんを抱いた人が、息を切らしながら立っている。まだ十代にも見える、ちょっと派手目な若い女の子だ。
「あのっ、部屋を借りたいんですけど」
「あ、はい。いらっしゃいませ!」
私は笑顔を作ってそう言うと、彼女をお店の中へ案内した。
「この子と二人で住みたいんです! できるだけ安いところで! 今日からでも!」
カウンターの前に座った彼女は、興奮したような様子でそう言った。
「お二人で、ですか? あの失礼ですけど、旦那様は?」
いきなりストレートに突っ込んでいる鷲尾くんにひやひやする。そんなこと、聞かなくてもだいたいわかるでしょう?
「旦那はいません! 結婚しないでこの子を産みました! ダメですか?」
「いや、ダメじゃないですよ」
「保証人とかいりますか? 親とケンカして飛び出してきたんで、そういうの無理なんですけど」
彼女の腕の中で、赤ちゃんが泣き出した。揺さぶるようにあやす彼女は、本当に家を飛び出して来たような、そのままの格好だった。
「お仕事は?」
「してます。それなのに親がうるさいんです。お前も親になったんだから、もっとちゃんとしろとかなんとか……あたしだって、ちゃんとやってるつもりなのに。だからあの家出たいんです」
「お仕事してるなら、保証人いなくてもなんとかなりますよ。保証会社に入ってもらいますけど」
私は彼女の前にお茶を差し出しながら、二人の会話を聞いていた。赤ちゃんは、彼女の腕の中で泣き止もうとしない。
「あの……」
私はそんな彼女に、思わず口を出した。
「お仕事されながら、お一人でお子さん育てるつもりなんですよね? 保育所に預けて、お家賃も払って……」
彼女がちらりと私を見る。
「それって、すごく大変なことだと思うんです。お子さん、まだ小さいし。だから、ご実家があるのなら、やっぱりそちらにいらしたほうがいいと思うんですよね、せめてお子さんがもう少し大きくなるまで」
「あたしが家賃払えないとでも言いたいんですか!」
彼女はそう言って私のことを睨みつけた。
「ち、違います。そんなつもりで言ったんじゃ……」
「あたし、一人でもちゃんとこの子を育てられます! あなた子供育てたことあるんですか?」
彼女の言った一言が、私の胸につきささるように響いた。
「……ありません」
「だったら、わかったようなこと、言わないでください!」
うつむいた私を、鷲尾くんが見ているのがわかった。
「まあまあ、落ち着いて。じゃあとりあえず、お部屋見に行ってみます? おすすめのいい部屋あるんですよー」
鷲尾くんはいつもの口調でそう言うと、彼女の背中をそっと押した。
「睦美さん、ちょっと行ってきます。店番、お願いしますね」
「……はい」
鷲尾くんと赤ちゃんを抱いた彼女が店を出て行く。私はその場にぼうっと突っ立っていた。
余計なこと、言っちゃったかな。せっかくお部屋を借りたいって来てくれたお客さんに、実家に帰れなんて勧めて、怒らせちゃって……私、何やってるんだろう。
ギシリと音を立てて椅子に座る。ガラス窓に張られた新しい張り紙を眺めていたら、なんだか涙が出てきた。
「ただいまぁ、むっちゃん」
突然ガラス戸が開いて、社長が現れる。私はあわてて涙をふいて、いつものように笑ってみせた。
「お帰りなさい」
「鷲尾くんは?」
「お客さん、案内に行きました」
そう言ってから、私はちょっとうつむいてつぶやく。
「社長……うちって、売上よりも何よりも、お客さん第一のお店なんですよね?」
社長が私に振り向いて、少し笑って答える。
「そうだよ? どうかしたの、むっちゃん」
「私、お客さんのことを思って言ったつもりだったんですけど……やっぱり間違ってたのかなぁ……」
社長は黙って私のことを見ていた。店の中は静かで、エアコンの風を送る音だけがかすかに聞こえる。
「僕はむっちゃんのこと、信じてるから。むっちゃんがお客さんのためと思ったことなら、それはきっと間違いじゃないよ」
ゆっくりと顔を上げて社長を見る。社長はにこやかに私に笑いかける。
「社長……」
その時店の前に車が止まって、カラリとガラス戸が開いた。
「ただいまぁ、睦美さん」
「鷲尾くん……お客さんは?」
「実家まで送ってきました」
鷲尾くんはにこにこしながらそんなことを言う。
「彼女、本当に家飛び出して来たばかりみたいで、興奮してたでしょ? とりあえず家に帰って親御さんとよく話し合うように言いました」
私はぼんやりと鷲尾くんのことを見る。
「そんでもし本当に家を出たいのなら、もう一度うちの店に来てくださいって。とっておきの物件用意しておくからって」
「それで彼女……言うこと聞いたの?」
「はい」
にこやかな笑顔の鷲尾くんの前で、私は黙って立ち上がる。
「私の言うことは聞いてくれないのに、鷲尾くんの言うことは聞いてくれるんだ」
「睦美さん?」
「やっぱりダメだね。私」
そう言ってバッグを持つと、鷲尾くんと社長の前を逃げるように通り過ぎ、店のガラス戸を開いた。
「すみません。私、今日はあがらせてもらいます!」
「あ、むっちゃん!」
社長の引き止めるような声が聞こえたけど、私は振り向かないで店を出た。
空は夕焼け色だった。
こんなふうに仕事をほっぽりだして飛び出して来ちゃうなんて、私、あの若いお母さんと同じじゃない。
どこがオトナの魅力なんだか……さっきの言葉を思い出して笑えてくる。
「睦美さん」
背中に鷲尾くんの声が聞こえた。だけど私は振り向けない。自分のことが情けなくて……振り向くことなんて、できないよ。
「睦美さんってば!」
急に腕をつかまれた。びっくりして立ち止って、隣に立つ鷲尾くんを見る。
鷲尾くんはいつものようににっこり笑って、そしてすっと指を伸ばした。
「見て。あの店。なんかおしゃれになってない?」
ゆっくりと顔を上げて、鷲尾くんの指の先を目で追う。
夕暮れの町にぽっかりと浮かぶように建っている一軒の店。ガラス窓には、私が作った図面が綺麗に貼られている。
「なんの店だろう。思わず入ってみたくなっちゃう店だよね」
「……バカ」
おかしそうに笑った鷲尾くんの手が、そっと私から離れた。
「睦美さんの言ったことは間違ってないと思うよ。だから俺、彼女を家まで送っていったんだ」
「もういいよ。わかったから」
「そう?」
鷲尾くんは小さく笑って、そして私に軽く手を振る。
「そんじゃ、お疲れさま。睦美さん」
私に背中を向けて、また店に戻って行く鷲尾くん。その背中が、ほんのりオレンジ色に染まっている。
「わ、鷲尾くん! あの……ありがとう!」
振り返った鷲尾くんは、私に向かって、もう一度手を振った。
数日後、赤ちゃんを抱いた彼女は、ご両親と一緒にうちの店を訪れた。
家族で話し合いをした結果、お父さんを保証人に立てて、部屋を借りたいという。
親から自立して、一人で子供を育ててみたいという彼女の気持ちは、本物だったのだ。
確かに、彼女がこれから暮らしていくのは、大変なことかもしれない。だけど彼女が自分で決めたことだ。私はもう口出しはしない。
「何か困ったことがあったら、何でも相談してくださいね」
契約が終わった彼女に私が言うと、彼女は小さく微笑んでうなずいた。
「この前はイライラしてて……言い過ぎました。よろしくお願いします」
その日、彼女の腕の中で、赤ちゃんはすやすやと小さな寝息を立てていた。