第12話 大丈夫だよ
その二人がうちの店へ来たのは、秋も深まった日曜日の午後だった。
「二人で暮らす、新居を探しているんです」
私は呆然と二人の前に立ち、その言葉を聞く。
「来春、結婚を考えているもので。僕たちの新居を、探してくれませんか?」
そう言って元夫の雅人さんは、私に向かって微笑んで見せた。
「それで睦美さん、なんて言ったんですか?」
たまたま外回りに出ていた鷲尾くんは、二人に会うことはなかった。
「なんてって……普通にわかりましたって言って、資料渡して。だって一応お客さんだし」
鷲尾くんは私の前で、大きくため息を吐く。
「お客さんのわけないじゃないですか。元妻の働く不動産屋に、再婚相手連れて新居探しに来ますか? 来ないでしょ、フツー」
「それは……」
「どういう理由で別れたかは知りませんけど。それ、睦美さんに対する当てつけとしか思えません。とにかく、ありえないですから」
鷲尾くんは一気にそこまで言うと、もう一度、はぁーってため息を吐いた。
「この前、睦美さんが倒れたの、その人が来たあと、ですよね?」
そう、雅人さんがうちの店に来たあの雨の日――彼は私に「やり直したい」と言って、私は「無理よ」と答えた。
離婚した時だって同じ。私からあの人に「別れたい」って言ったのだ。
だから彼に新しい相手ができて、その人と結婚すると言われても、私には口出しする権利なんてないんだ。
ただ一つ気になるのは……「やり直したい」と言われたあの日から、まだ一か月あまりしか経っていないということ。
「睦美さん、我慢しすぎじゃないんですか?」
「我慢なんて、してないよ。『別れたい』って言ったのは私だし、向こうはそれを受け入れてくれたんだし」
「じゃあなんで『別れたい』って言ったの? それまで我慢していたことが、あったんじゃないの?」
私の頭に、雅人さんの隣にいた、見知らぬ女の人の姿が浮かぶ。
あの人は、雅人さんの子供を……あの家の後継ぎを、産んでくれるのだろうか。
黙り込んだ私から目をそらし、鷲尾くんはパソコンのディスプレイを眺めながら言う。
「今度その元夫が来たら、俺が対応しますから。睦美さんは、引っ込んでてくださいよ?」
「え、でも」
「引っ込んでてください」
「う、うん」
なんとなく機嫌の悪そうな鷲尾くんに返事をして、自分の仕事を始める。
だけどその日はやっぱり、全く仕事にならなかった。
あの人と別れて二年。一人ぼっちのアパートへ帰る生活にも、もう慣れたはず。
鍵を回してドアを開け、真っ暗な部屋に灯りをつける。一目で全部が見渡せるほどの、小さなワンルーム。
スーパーの袋を床に置いて、自分もぼんやりとその隣に座った。
なにげなくリモコンを手に取ってテレビをつけたら、やたらと明るいお笑い番組の笑い声が、狭い部屋の中に響いた。
翌朝、店先の掃除をしていた私に声がかかった。
「おはようございます」
振り返ると、雅人さんが立っていた。
私は一瞬息を呑み、けれど平静を装って言った。
「すみません。まだ開店前なので……でも今すぐ、お店開けますから」
「睦美」
名前を呼ばれて動きを止めた。ゆっくりと振り返って、彼の顔を見つめる。
「客として来るのなら、かまわないんだろ?」
「……かまいません」
そう答えて、雅人さんから視線をそらす。
「どこか、気に入ったお部屋、ありましたか?」
「ああ……」
「ご入居の予定は……」
言いかけて言葉を切った。雅人さんの手が、私の腕をつかんでいた。
「何にも気にならないんだな?」
わずかに口元をゆるめて、雅人さんがつぶやく。
「俺が結婚するって言っても、睦美は何にも気にならないんだな?」
気にならないわけはない。
本当にあの人と結婚するの? どこで知り合ったの? いつ知り合ったの? 「やり直したい」って言ったあの言葉は……何だったの?
「睦美……俺は」
「離してください」
「俺は、まだお前のこと……」
「離してください!」
思わず声を上げていた。私の腕をつかんだ雅人さんの手に、ぎゅっと力がこもる。
「何してるんですか?」
その声にハッとする。顔を上げたら鷲尾くんの姿が見えた。
「新居をお探しのお客さんですよね? 僕でよければご案内しますよ?」
雅人さんの手が、さりげなく私から離れる。
「いや、もうけっこうです」
「どうしてですか? ご結婚されるんでしょう?」
「はい、します。数か月前に見合いした相手ですけど」
雅人さんのその答えが、私に向けられているってわかる。
「だけど、部屋探しはもういいんです。彼女の気持ちが、もうはっきりわかりましたから」
雅人さんがそう言って私を見る。私はそっと視線をはずした。
「つまり睦美さんを試したわけですね?」
「試した?」
「そうでしょう? わざわざ見合い相手まで連れてきて、睦美さんの反応をうかがおうとしたんでしょう? うちで新居探すつもりなんてないくせに」
「ちょっと、鷲尾くん……」
「睦美さんは引っ込んでてください」
私をちらりと見てそう言うと、鷲尾くんはまた雅人さんに向かって言った。
「そういうやり方は失礼ですよ。睦美さんにも、その見合い相手の人にも」
「な、なんであんたにそこまで言われなきゃ……」
「なんなら、もう一言、言いましょうか?」
両手を握りしめ、体を震わせている雅人さんの前で、鷲尾くんがほんの少し口元をゆるませる。
「しつこい男は嫌われますよ?」
「な……」
「ていうか、もう嫌われてんの、わかんないの?」
「わ、鷲尾くん!」
私の声と同時に、雅人さんの手が鷲尾くんの胸元をつかむ。
え、ちょっと、やだ……。
「やめて!」
雅人さんの振りあがった手が止まる。そして自分で自分に驚いたような顔をして、雅人さんはゆっくりとその手をおろす。
「雅人さん……」
いつだって穏やかで、たとえ怒っても、絶対手なんて上げるような人じゃなかった。それなのに……。
鷲尾くんから離れた雅人さんが、うなだれるようにして背中を向ける。
その背中がとてもとても小さく見えて……私は思わず駆け寄っていた。
「雅人さん、ごめんなさい」
振り向いた彼が私を見る。
「雅人さんとの子供、作ってあげられなくて……ごめんなさい」
ずっと言いたくて言えなかった言葉。
今さら言っても、どうしようもない言葉だとわかっているのに。
「……もう忘れるよ」
雅人さんが消えそうな声でつぶやいた。
「もう、睦美のことは忘れるから……だから安心して」
その声は、私のよく知っている彼の声で。だけどそれは、哀しいほど細く震えていた。
「なに謝ってんの?」
雅人さんの姿が私の視界から消えた時、鷲尾くんの声が聞こえた。
鷲尾くんは乱れたネクタイを整えながら、不機嫌そうな顔をしている。
「子供作ってあげられなくて、とか。なんで睦美さんが謝ってんの? それって、謝ることじゃないんじゃない?」
「……だって」
「睦美さんが何か悪いことしたの?」
悪いとか、悪くないとか、そんな簡単な話じゃない。
「鷲尾くんにはわかんないんだよ。結婚したこともないくせに」
そこまで言ってハッとする。鷲尾くんは完全に怒った顔で私を見ている。
「ご、ごめん」
「だから謝るなって言ってんだろ! 勝手にしろ!」
あ、怒らせちゃった……。
そうだよね。私のことかばってくれたのに……それなのに。
鷲尾くんが店の中へ入って行く。私もその後を追って店へ入る。
だけどその日からずっと、鷲尾くんは私と口をきいてくれなくなった。
「鷲尾くん?」
パソコンの前に座っている鷲尾くんに、そうっと近寄る。
「この契約書の特約の部分、ちょっと違うんじゃないかと……」
鷲尾くんは私の手から契約書をひったくると、パソコンに向かって打ち直し始めた。
やっぱり……まだ怒ってる。
「あ、あの、鷲尾くん?」
ガタンっと大げさな音を立てて、鷲尾くんが立ちあがる。そして私の前を素通りすると、ちょうど戻ってきた社長に「お先にっ」と言って、店を出て行ってしまった。
「どうしたの? まだケンカしてるの?」
あきれたような社長の声。私も思わずため息をもらした。
「私が悪いんです。私が鷲尾くん、怒らせちゃって」
「じゃあ謝っちゃえば?」
「いえ、謝ると怒られるんです」
社長はわけがわからないと言った顔つきをしたあと、ふっと笑って私にビニール傘を差し出した。
「外、雨降ってきたよ」
「え?」
「鷲尾くん、傘持ってなかった」
社長が私に無理やり傘を持たせる。
「女の子に傘差し掛けられて、嫌がる男はいないよ?」
「そ、そうですか?」
「試してみて?」
社長に背中を押され、強引に外へ出された。
降り出した大粒の雨が、コンクリートを濡らし始める。それを見た私は傘を開き、あの坂道に向かって走り出していた。
坂道を駆け上がり、鷲尾くんに追いついて傘を差し出す。
ちょっと驚いた顔をした鷲尾くんは、すぐにそっぽを向いて、その足を速める。
私が夢中で追いかけて、傘を差し掛けると、鷲尾くんは逃げるようにさらに足を速めた。
な、なんなのよっ! そういう小学生みたいなイジメ方、やめてもらえないかな?
「鷲尾くん!」
もう一度追いついて、名前を呼んだ。
すぐ隣に見える鷲尾くんの肩が、雨で濡れている。
「どうしてもこれだけは言わせて欲しいの!」
ごめんね、って言いたいところをぐっと抑えて、前を向いたままの鷲尾くんに言う。
「この前は……ありがとう!」
私の声が雨の音と重なる。鷲尾くんはその場に立ち止って、ゆっくりと私に振り向いた。
「……ほんとに、そう思ってる?」
「え?」
「俺、なんにもわかってないよ?」
小さな傘の中で、鷲尾くんの顔を見る。
「睦美さん、言ったじゃん? 結婚したこともないくせにって。確かに俺、なんにもわかってなかったと思う」
「鷲尾くん……」
「あーなんか俺、余計なことしちゃったなぁって……自分で自分がものすごく嫌になった」
「そんなこと……ないよ?」
照れたように顔をそむけた、鷲尾くんの横顔に言う。
「鷲尾くんの気持ち、すごく嬉しかった」
どうしよう。どうしよう。いま、私の隣でそっぽを向いてるこの人のことが、どうしようもなく愛しく思えてくる。
「傘、ないんでしょ? 送るよ、家まで」
「え、いいよ」
「いいの。たまにはそうしたい時もあるの」
鷲尾くんが、何も言わないで前を向く。私はそっと傘を傾けて、ゆっくりと坂道を歩き出す。
「俺、難しいことは、よくわかんないけど」
雨音の響く傘の中で、私は鷲尾くんの声を聞く。
「大丈夫だよ、睦美さんは。そのままで、きっと」
気にしないつもりでいたけれど、いつもどこかで気になっていた。
子供を作ることは難しいと言われた、私の体のこと。
雅人さんとお義母さんへ対する申し訳なさ。これから先、誰かを好きになってしまった時の不安。
「大丈夫、なのかな……こんな私で」
「大丈夫だよ」
「私、他の人が当たり前にしていることが、できないんだよ?」
「大丈夫だって」
立ち止まった鷲尾くんの手が、ほんの一瞬私の手に触れる。そしてその手は、私の手からさりげなく傘を奪って、私に向けて差し掛けられた。
「睦美さんがこの先フラれ続けて、おばあさんになっても一人で寂しくしていたら、俺がもらってやるからさ」
「なんなの? それ」
「その頃には、俺もじじいになってるけどな」
おかしそうに笑った鷲尾くんが、雨の中へ一歩を踏み出す。今度は私の歩幅に合わせるように、ゆっくりとゆっくりと。
そうだね。なにも焦ることはないんだね。
私も、鷲尾くんも、ゆっくりと進んで行けばいい。
たとえ大雨が降って、前に進めなくなりそうな時でも、こんなふうに誰かがきっと、傘を差し掛けてくれるはずだから。
鷲尾くんのアパートの前で別れた。
帰りの夜道は一人だったけれど、なんだか胸の奥がほんわかと温かかった。




