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第10話 優しい嘘

 あ、頭痛くなりそう。

 銀行へ入る手前で立ち止まる。頭痛薬、バッグに入ってたっけ? と探してみる。

 昔から頭痛持ちだったけど、最近その頻度が高くなったような気がする。

 今日みたいに、はっきりしない天気の日は特に。

 疲れているのかな……なんて言うほど、忙しいわけではないんだけれど。


 大家さんへの家賃の振込を終えて、店に戻った私に鷲尾くんが言った。

「さっき、長谷川さんって人が来ましたよ?」

「えっ」

 その名前に、心臓がとくんっと音を立てる。

「睦美さんに、話したいことがあったみたいだけど。今出かけてるって言ったら、じゃあいいですって」

「そう」

「あの人……睦美さんの元夫なんだって?」

「うん」

 小さく答えていつもの席に座る。

 今さら私に、何の話があるって言うんだろう。

「今度また、睦美さんがいない時に来たら、どうする?」

「ど、どうするって?」

 鷲尾くんは私を見ないで、パソコンに向かったまま言う。

「すぐにケータイで睦美さんを呼ぶ? それとも、もう来るなって追い返す?」

「お、追い返さなくても……」

「じゃあ睦美さんが戻るまで待っててもらう?」

「別に待っててもらわなくても……」

 鷲尾くんはわざとらしいため息を一つ吐くと、椅子の背にもたれかかって私を見た。

「どっちなんだよ? 会いたいの? 会いたくないの? 元旦那に」

 どっちって聞かれても困る。そんな簡単に、この気持ちは答えられない。

「ごめん。よくわからない、自分でも」

 鷲尾くんは何も言わないで、私からそっと目をそらす。

 私は帳簿を引き出しから出して、黙って仕事の続きを始める。

 朝から曇りがちだった空は、どんよりと厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうだった。


「降ってきちゃったぁ」

 仕事が終わる頃、やっぱり雨が降ってきた。置き傘を探したけど見当たらず、この前使ったあと、家に置きっ放しだったことに気づく。

「店に傘一本ありますよ」

 鷲尾くんがそう言って、私にビニール傘を差し出す。

「鷲尾くんは?」

「俺は大丈夫です。走って帰るから」

「え、でも、けっこう降ってるよ?」

「俺まだやることあるし。仕事終わった人はさっさと帰ってくださいよ、邪魔だから」

 鷲尾くんは頬杖をついて、パソコンの画面を眺めている。

 まだやることなんて、ないくせに。

 邪魔だから、の一言が多いけど、実はさりげなく優しかったりするんだよね、鷲尾くんって。

「じゃあ遠慮なく借りてくよ?」

「どうぞー」

「ありがとう。お先に」

 そう言って、店の外へ出ようとした私の目に、傘を差して立っている、別れた夫の姿が見えた。


 雅人さんの傘に入って、雨の町を歩く。

 ビニール傘は鷲尾くんに渡してきた。

 一つの傘を差して、この人とこうやって歩くのなんて、何年ぶりだろう。

「突然職場まで来たりして……悪かったな」

 傘の中で聞く、雅人さんの声。

 ああ、この人のこんな優しい声が好きだったな、なんてなんとなく考える。

「私に話って?」

 私が聞くと、雅人さんは真っ直ぐ前を見たままつぶやいた。

「この前偶然睦美に会って……どうしてももう一度、会いたくなった」

 雅人さんの声が、雨音と重なる。

「やり直せるものなら、やり直したいって……思った」

 私は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。

 雨の粒が傘に当たる。その音だけが私たちの間に響く。

 町は薄暗く、雨でしっとりと濡れていた。

「子供のことなんだけど」

 隣から聞こえたその言葉にハッとする。体が無意識のうちに、こわばっているのがわかる。

「母さんとも、もう一度話したんだ。俺たちに子供ができないんだったら、養子をもらうとか、方法はまだあるんじゃないかって」

 その瞬間、私の中でほんの一瞬芽生え始めていた、甘い想いが消え去った。

「だったら、私じゃなくてもいいじゃない」

 立ち止まって私は言う。

「やっぱり雅人さんとお義母さんが欲しいのは、あの店を継ぐ跡取りなんでしょ? だったら私じゃなくても」

「もうやめてくれ!」

 雨の中に彼の叫ぶような声が響く。

「またその話の繰り返しか? 俺はそんな話をしたいんじゃない。俺はただ、睦美とやり直したくて」

「無理よ」

 私たちの間に子供ができない限り……ううん、たとえできたとしても私はもう……。

「睦美……どうして」

 いつから、いつからこんなふうになってしまったんだろう。

「俺たちはもう、あの頃みたいには、戻れないのか? 高校生の頃みたいに、ただ会えるだけで幸せだった、あの頃みたいに」

 あなたは何も変わっていない。

 その優しい声も、温かな眼差しも、私への真っ直ぐな想いも……。

 だけどね、結婚っていうものは、それだけじゃ上手くいかないの。

 高校を卒業して、勤め始めた会社をすぐに辞め、雅人さんと結婚した私。あの頃は確かに私も若くて、ただ彼を好きな気持ちだけで、幸せになれると思っていた。

 だけど、私が嫁いだ家は、この辺りでは有名な老舗の和菓子店。

 代々その味は、店を継ぐ子供へと受け継がれていくことになっていて、だからもちろん一人息子の彼も、いずれは父親の後を継ぎ、店を任される運命となっていた。

 ただ問題はそれだけではなく、気が早い彼の母親は、結婚した当初から私に「早く子供を」「できれば男の子を」というプレッシャーをかけ続けていた。

 そして、まだ若かった私たちの結婚を簡単に認めてくれたのも、若いうちのほうが子供もできやすいだろうという理由だったと、後から知らされたのだ。

 結婚して二年が過ぎた頃、不妊症を疑って病院へ通い始めた私に、気にしすぎだと言った彼。

 私が不安を口に出し、手に負えなくなると、母さんに相談するよ、の一言。

 私はあなたに相談しているのに。

 優しかった彼が、お坊ちゃんで頼りない人に思えてくる。

 それがすごく悲しくて、これ以上、彼を嫌いになりたくなかった。

 別れたい――そう告げたのは私のほうだ。

 それをきっと、彼も彼のお母さんも、私の単なるわがままだと思ったことだろう。


「……ごめんなさい」

 そうつぶやいて、雅人さんの持つ傘から出る。

「もう店へは来ないで」

「睦美……」

 振り返らずに、雨の中を歩いた。

 髪に肩に服に、雨が浸み込んでいって、胸の中と頭の奥がずきずきと痛む。

 私、間違っているのかな。意地を張っているだけなのかな。

 わからない。わからない。わからない。

 一人ぼっちのアパートへ帰り、シャワーを浴びる。

 頭痛薬を飲んで眠ろうとしたけれど、今夜も眠ることができなかった。


「睦美さん、俺の話、聞いてます?」

 鷲尾くんの声にハッとする。苦笑いでごまかしながら、鷲尾くんの顔を見る。

「ごめん、聞いてなかった」

「睦美さん最近、ぼうっとしすぎじゃないですか?」

 確かに鷲尾くんの言う通り。頭痛薬飲み過ぎかな。かえってだるくて調子が悪い。

「俺、明日の日曜、試験で来れないから。睦美さん、店頼みますよ?」

「あ、そうか。宅建の試験、もう明日なんだっけ」

「大丈夫かなぁ。朝一度、店に寄りますよ」

「平気、平気。しっかりやるから。鷲尾くんは試験に集中してよ」

「……大丈夫かなぁ」

 鷲尾くんは私を見て、また同じ言葉を繰り返す。

 そんなに私、頼りない顔してるかな……。


 次の朝、私はいつものように出勤した。

 いつものように店先を掃除して、朝からアパートの巡回に出かけた社長の代わりに、お花に水をあげて……。

 いつもと同じはずだった。はずだったのに。

 あれ、頭がなんだかくらくらする。慌てて両足を踏ん張ったつもりだったけど、それよりも頭が重くて、手からジョウロが落ちて、青い空がぐるりと回った。

「睦美さん!」

 どこかすごく遠くから、鷲尾くんの声が聞こえた気がする。


「むっちゃん! 大丈夫?」

 うっすらと開けていく視界に、社長の顔が見えた。

「……社長?」

「ああ、よかった。びっくりしたよ、ほんとに」

 わけがわからないまま、社長の声を聞く。

「覚えてない? 店の前で倒れちゃったんだよ、むっちゃん」

 ああ、そうなんだ……そういえば、ここはどこ?

「ここは病院。ずっと眠ってたんだよ」

 ゆっくりと頭が回転し始めて、自分の現状がわかってくる。

 見慣れない天井、白い壁……私は病院のベッドに横たわり、腕には点滴がつながっていた。

「すみません。ご迷惑をおかけして……」

 起き上がろうとした私を社長が止める。

「いいから、まだ寝てて。たいしたことはないみたいだけど」

 そう言ってから社長はじっと私の顔を見る。

「むっちゃん、最近、具合悪かったの?」

「……はい、まぁ、少し」

「夜はちゃんと眠れてた?」

「……あんまり」

「ご飯は? ちゃんと食べてたの?」

 黙り込んだ私の前で、社長は小さくため息をつく。

「だめだよ、むっちゃん。自分の体をいじめたら」

 そう言ってから、社長は私に、いつもの穏やかな笑顔を見せる。

「むっちゃんはちょっと頑張り過ぎだね。しばらく休んでもらおうかな」

「だ、大丈夫です。それよりお店は?」

「ああ、気にしないで。今日は臨時休業にしておいたから」

「すみません……私、社長に迷惑かけっぱなしですね」

「いや、そうじゃないんだよ。僕は何もしてないんだ。さっきここにきたばかりで」

 え? じゃあ、私、どうやってここに?

「鷲尾くんがね、ここに連れてきてくれて、ずっと付き添ってくれてたんだ」

「わ、鷲尾くんが?」

 私はぼんやりした頭をフル回転させる。でも確か今日は、試験の日じゃなかったっけ?

「朝、店に寄ろうと思って通りかかったら、むっちゃんが倒れちゃったらしくて。彼も相当あせったみたいでね。僕の携帯に何度も電話くれてたんだけど、気づかなくて。ほんとに悪いことをしたよ」

「あ、あのっ、でも今日、試験じゃ……」

「うん。僕と入れ替わりに急いで行った。間に合ってればいいけど」

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。私のせいだ。私のせいで……。

「むっちゃん、大丈夫だよ」

 両手で顔を覆った私に、社長が優しく声をかけてくれる。

「鷲尾くんね、試験のことより、むっちゃんのこと心配してた。だから早く元気になって、いつもみたいに笑ってあげてよ」

 社長、笑うことなんてできないよ。

 鷲尾くん、あんなに頑張って勉強してたのに。今年は絶対受かりたいって言ってたのに。

 そんなことを思ったら、どうしようもなく涙が出てきた。社長に背中を向けて、布団の中にもぐりこむ。

 社長はそんな私の背中を、大きな手で、優しくさすってくれた。


 点滴が終わって病院を出た。

 社長が、家まで送るよと言ってくれたけど、丁寧にお断りして、一人でタクシーに乗った。

 そして私は家へは帰ろうとせず、タクシーの運転手さんに行き先を告げた。

 あの坂の上のアパートまで、連れて行ってください、と。


「睦美さん?」

 アパートの一番奥の部屋のドアが開くと、鷲尾くんが驚いた顔で私を見た。

「わ、鷲尾くん。あのっ、今日、試験……」

「あー……」

 鷲尾くんは頭をかくようなしぐさをしてから、私にいつものように笑いかける。

「余裕で着くはずだったんだよ。なのにさ、電車が遅れて。人身事故? 俺が電車に乗ろうとする、今日に限って。ありえないでしょ?」

 嘘だ。そんなの嘘。

「間に……合わなかったの?」

 鷲尾くんが私を見る。そしてふっと安心したように微笑んで、こう言った。

「試験なんて、また来年受ければいいよ。それより、なんとか大丈夫そうでよかった。睦美さん、死んじゃったかと思っちゃったもん」

「そんな簡単に……死ぬわけないよ」

 私の前で鷲尾くんが、おかしそうに笑う。その声を聞いていたら、どうしようもない想いがこみあげてきた。

「睦美さん?」

 鷲尾くんの胸に飛び込んでしがみつく。ぎゅっとそのシャツを握りしめる私の手が、すごく震えている。

「まったく……しょうがない人だなぁ……」

 まためそめそと泣き出した私の頭を、鷲尾くんがふわふわとなでてくれた。

 ごめんね、ごめんね、ごめんなさい。声にならない言葉を、心の中で何回も繰り返す。

「睦美さん」

 やがて、泣きじゃくる私の体が、鷲尾くんの手でそっと離された。

「もう、帰った方がいいよ」

 泣き顔のまま、鷲尾くんを見上げる。

「これ以上抱きつかれると、ちょっとやばい。俺も一応、男だから」

 え、あ、どうしよう……。

 パッと離れた私を見て、鷲尾くんはまたおかしそうに笑って言った。

「送るよ、家まで。チャリでだけど」


 星空の下、鷲尾くんの自転車の後ろに乗って、坂道をくだる。

 自転車の二人乗りなんて、中学生みたいで、なんだか恥ずかしい。

 しかも、どこにつかまればいいのかわからなくて、うろたえている私。

 荷台をつかんでいるだけじゃ、不安定だし、かといってその背中に抱きついたら、また何か言われそう。

 仕方なく、遠慮がちに、鷲尾くんのシャツをちょっとだけつかんだ。

 背中を向けたままの鷲尾くんが、笑いをこらえているのがわかる。

「睦美さんってさぁ」

「えー?」

 夜風を切りながら、私はその声を聞く。

「見た目細いのに、意外と重いのな」

 荷台に乗った自分の体重。さらには今朝、どうやって私は病院まで運ばれたんだろうって考えると、異常に顔がほてってきた。

「あんたはいつも、一言多いの!」

「いって!」

 鷲尾くんの脇腹をぎゅっとつねる。一瞬蛇行した自転車がまた元に戻る。

「あっぶねーなー、もう」

 鷲尾くんの声を聞きながら、自然と笑いがもれた。真っすぐ前を見つめている鷲尾くんも、きっと笑っている。

 その夜、私は自分のベッドで、久しぶりにぐっすり眠ることができた。

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