第1話 アパートひと部屋ご契約
「今日もいい天気だねぇ……」
電卓を叩く私の耳に、のん気な声が響いてくる。
「こんな天気のいい日はアレだね。海にでも行って、ひと泳ぎしたいところだね」
ぴたりと電卓の上で指を止め、私は顔を上げて声の主をにらむ。
「そんな暇はありません! ちょっと黙っててもらえませんか? 社長!」
私の鬼気迫る声に恐れをなしたか、社長はメタボ気味な体を椅子の上でギシリと動かし、小さな声で「はい」と返事をした。
気を取り直して机に向かい、電卓と帳簿を見下ろす。
確かに外はいい天気だけど。店にお客さんはいないけれど。私だって海に行って、ひと泳ぎしたいところだけど。
月末の今日、私にはやらなきゃいけない事務仕事が山ほどあるのだ。
「……むっちゃん」
再び電卓を叩き始めた私に、社長の遠慮がちな声が聞こえてくる。
「お茶、いれてくれないかなぁ? 熱いヤツ」
顔を上げて、社長のことをにらみつける。
「あ、やっぱ無理だよね。自分でいれます」
今年六十になる我が社の社長は、私に苦笑いしながら、自分でお茶をいれ始めた。
小さな町の片隅に、ひっそりと建っているこの店――大河内不動産。
扱っている賃貸物件は、近隣の学校へ通う学生さんや、一人暮らしを始める単身者向けのワンルームがほとんどだ。
お客様に、心から喜んでいただけるようなお部屋を探してあげる、お客様第一の店……っていうのが社長の売りだけど、お店は小さくて狭くて古い。
べたべたと物件の間取り図が張られたガラス窓。その隙間から覗きこんだ店内には、二つの事務机とカウンター代わりの長い机があって、いつもそこに社長が暇そうに座っている。
一度入ったら、二度と出てこられないような入りにくい店――私がお客さんだったら、絶対そんなふうに思うと思う。
働いているのは、十年前に奥さんを亡くした独り身の社長と、バツイチ子供なしの事務員の私。
それから今ちょうど、物件案内に出ている営業担当の男性社員。
その三人だけ。
ほとんどお客さんは来ないから、これだけいれば十分なんだけど。
「そういえば、鷲尾くん、遅いですね」
私は時計を見上げながら、お茶をすすっている社長に言う。
「お客さん、若い女の子だったからねぇ……二人で仲良くお茶でもしちゃってるんじゃないの?」
「そんなこと、するわけないじゃないですか!」
と言いつつも、ありえないことでもないかな、なんて思ったりもしてる。
社長お気に入りの社員、鷲尾くんは、私より二つ年下の二十六歳。正直、黙っていればイイ男、ではある。ちなみに独身、彼女なし。
だけど彼が黙っているはずはなく、生まれ持ったその甘い顔立ちと、嘘と紙一重の調子のいい話術で、我が社の営業を全部任されている。
そして大河内不動産の社運は、この若き営業マン、鷲尾くんの腕にかかっていると言っても過言ではない。
「それじゃ僕は、アパートの巡回にでも、行ってきますか」
社長が「よっこらしょ」っと、見た目も実際も重たそうな腰を上げる。
毎日社長は「巡回」という名目で、うちが管理しているアパートを巡り、大家さんや入居者さんと立ち話をしてくる。
まぁ、それが非常に長くて、ほとんど一日つぶれちゃうんだけど。
だけど社長は毎回、大家さんの話も入居者さんの話も丁寧に聞いて、困ったことがあれば円満に解決してきてくれる。
それによって、大家さんは気持ちよくお部屋を貸すことができて、入居者さんは気持ちよくお部屋に住めることになるのだ。
「じゃあむっちゃん、あとよろしくね」
「はぁい。行ってらっしゃい」
社長が店を出て行ったのを確認し、家賃精算の続きを始めようとした時、店のガラス戸がカラリと開いた。
「ただいま戻りましたぁ! 睦美さん!」
そう言いながらにこやかに現れたのは――我が社期待の営業マン、鷲尾くんだ。
「お帰り、鷲尾くん。ていうか、一人? お客さんは?」
「あ、この後、別の業者の物件見て回るらしくて、駅前の不動産屋に降ろして来てあげました」
「はぁ? わざわざうちのお客さんを別の店まで送ってあげたの?」
「いや、だって、通り道だったし」
まぁ、親切というか、人が良いっていうか。
「あっちー、外マジで暑いっすよ。睦美さん、なんか飲み物ちょうだい」
鷲尾くんはネクタイを緩めながら、エアコンの前の椅子にドカッと座りこむ。
うん、確かに外回りは大変だろうけど。
「お客さんの反応どうだった?」
「うーん、どうだろ。家賃的には満足だったみたいだけど。古いからね、うちの物件」
そうなのだ。確かにうちの物件は、どれも昔ながらのアパートって感じで古い。
だから今どきの若い子たちは、オシャレなマンションを数多く取り揃えている、駅前の大きな不動産会社へと、どうしても流れてしまう。
だけどそれでも私たちは、そんな我が社の物件を、胸を張って紹介できる。
確かに建物は古いけど、巡回に回った社長は、空き部屋をいつも綺麗に掃除しているし、傷んだ箇所は自分で丁寧に直している。
大家さんも他の住人さんも、悪い人はいないって保障するし、とにかく家賃がどこよりもお手頃。
「あっち! なんだコレ!」
私がいれてあげたお茶を手に取った鷲尾くんが叫ぶ。
「このクソ暑い日に日本茶かよ? アイスコーヒーとかないのー?」
「なっ……」
人がせっかくいれてあげたお茶を……。
「いらないなら飲まなくてけっこうです! そこの自販機で缶コーヒーでも買って来れば!」
「あ、うそうそ。ごめんなさい、睦美さん」
鷲尾くんはそう言うと、にこっと笑って私を見る。
ちょっとやめてよ、そんな笑顔で人のこと見ないでよ。
その笑顔に何人もの女の子が惑わされたか、私は知っているんだから。
「すみません……」
その時、店のガラス戸が開いた。
ちょっと恥ずかしそうな顔をした、若い女の子が立っている。
あ、さっき鷲尾くんが案内したお客さんだ。
「い、いらっしゃいませ!」
女の子は私のことは見向きもせず、まっすぐ鷲尾くんの前に進んで言う。
「あの、さっきのお部屋、お借りしたいんですけど」
ちょっと驚いたような顔をしたあと、鷲尾くんはとっておきのスマイルを彼女に見せる。
「ありがとうございます!」
「やっぱり、鷲尾さんに紹介してもらったお部屋が一番いいと思って」
「そうでしょうね! なんせ、我が社の一押し物件ですよ。大家さんが一緒に住んでるから、女の子の一人暮らしだって安心、立地条件も文句ないし、日当たり良好。お日様の良く当たる部屋は、なんたって気分が明るくなりますから!」
調子のいいことを言いながら、鷲尾くんは彼女をさりげなくエスコートして椅子に座らせる。
「あ、睦美さん! アイスコーヒーひとつ……いや、ふたつお願いしますっ!」
私にピースサインを出しながら、鷲尾くんは勝ち誇ったような笑顔で言う。
あの、うちは喫茶店じゃないんですけど……ま、いいか。
申し込みを済ませたお客さんが無事に帰ったあと、私は店頭の間取り図に「お申込済」と書かれたシールをぺたっと貼った。
アパートひと部屋ご契約。理由はともあれ、めでたいことだ。
「お、その部屋決まったの?」
掃除道具を両手に持った社長が私に言う。
タオルを鉢巻みたいに額に巻いて、作業着姿で、汗をいっぱいかいている社長は、今日もお部屋を綺麗に掃除してきてくれたんだろう。
お客さんが、いつでも気持ちよくお部屋に住めるように。
「はい。鷲尾くんが決めてくれました」
「さすが鷲尾くんだねぇ。かわいかったしね、あのお客さん」
かわいかったから……張り切って案内しちゃったってわけですか?
「むっちゃん、お茶いれてくれない? あっついヤツね」
「はぁい」
社長と一緒にお店へ入る。
空は夕焼け。明日もいい天気になりそうだ。