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ヒグラシ

作者: 赤井楓仙

 しんしんと、薄闇に覆われた森の中をヒグラシの声が響く。

 耳に届くと切なくなるような、悲しくなるような、この声が昔から好きだった。

 自己の存在をこれでもかと誇示する、昼間の蝉の声はあまり好きじゃなかった。

 自己の存在を示したくて、それでも昼間は周りの同胞達におされて何も出来なくて、青い夕闇の中細々と、でも確かな命を示すような、そんな物悲しい声が好きだった。

 

 その理由は、おそらく、

 幼心に、彼等と自分の心を重ね合わせて、どこか似ていると感じていたからなのだろう。





「………………」

 僕はただ一人、僕を覆い尽くす森の中に佇む。

 辺りは既に、空の蒼と夜の藍が混ざった、海の底のような薄い暗色に包まれていた。 頭上を仰げば木々に囲まれた穴の向こうには、夕焼けの朱のない空がどこまでも青く、深く続いていて、まるで本当に海……いや、まるで空の底に自分が沈んでいるような錯覚を覚える。

 此処は、空の底にぽっかりと空いた穴で。

 どんなに空の上に憧れても、もう二度と浮き上がる事はない。

 もし其処を住処にした深海魚が浮き上がろうとしても、待っているのは破滅だけ。  光を失ったが故に光を求めて生きる深海魚は、既に底に生きるが故にもはや光を得る事は叶わない。

 こんな僕には、お似合いの生き方かもしれなかった。


 手には白い錠剤の詰まった瓶。別段僕にとっては珍しい物ではない。睡眠薬なんていつも処方してもらっているし、自分でもいつも買っているものだ。

 ただ、流石にこんな使い方をしようとするのは初めてだけれど。


 自殺。もう下らないくらいに聞きなれた言葉だ。表現は悪いけれど、もう流行と言っても差し支えないだろう。既に、自殺志願者が集って自殺をする世の中なのだから。

 実際僕も一度だけ、そういうサイトにいった事がある。はたしてこの世界には、僕みたいな人間もいるのだろうかと思って。

 結果は或る意味予測通りのものだった。僕はここでも、余計に自分と世界との隔たりを切に感じる事しか叶わなかった。

 生きる希望を失った。もう何もかもに絶望した。生きる気力がもう残っていない――

 僕には不思議だった。何故、そんなものが生きるのに必要なのかが理解できなかった。別にそんなものを持たなくても、人は最低限の生活水準を満たしてやれば生きられる筈だ。事実、僕はこうして生きている。

 だからと言って何も僕は仙人のような生き方をしている訳じゃない。人並みに学校へ通い、人並みに受験し、人並みに就職して働いている。恋人付き合いや結婚こそ相手のためにならないだろうと思ってしてはいないものの、それ以外はいたって普通の、何処にでもいるような人間だ。

 何故ならそれが、僕にとっての「最低限」だったから。


 だから、今日ここに来たのも別に大した理由があった訳じゃない。単に、そろそろ死んでもいいのだろうかと思ったから。本当にそれだけだ。

 つまらない訳じゃない。辛い訳じゃない。 

 ただ僕には、願望とか欲望とか、そういった「生きるために必要な精神」が欠落していただけのこと。

 周囲の蝋燭は確かに強く輝いているのに、僕だけただ一人、今にも消えそうな炎を抱いて、それを護る事自体に意義を見出すなんていうまるで循環論法みたいな存在過程を歩んできた。

 でも、それも今日で仕舞い。

 循環するものは、何処かが壊れれば全てが止まる。


 すっと、目に付いた木の根元に座り込んで再び空を見上げる。ここまで来れば、もう誰も僕が死ぬ前に見つけたりはしないだろうと思った。

 藍色の水色が辺りを包む。夕暮れの青。木々に隠された太陽は、その朱をここまで届かせる事は叶わない。

 朱色の夕暮れより、僕はこんな青い夕暮れが好きだった。いつもそこにあるのに、紅い光に隠されて誰も顧みない夕暮れ。朝と夜の境界を朱よりも判りやすく示している筈なのに、誰も気付いてくれない蒼。それは何処か、

 僕と、似ていて

 

 ふいに、ヒグラシではない、

「――――どうして、そんなに啼いているんですか――――」

 そんな場違いな声が、僕の耳に届いた。





「え………………?」

 声に曳かれて視線を戻した瞬間、僕は言葉を失った。

 白い、白い絵画。

 匂い立つような緑の中、ただ一点、まるで雪の如く白く染め上げられた造形美。

 彼女は、そこに在るのが当然のように自然に、不自然に存在していて。

 それはとても、生き物だとは思えなかった。

 

 肌は白磁。髪は白絹のように柔らかく流れ、森を微かにざわめかせる風に身を委ねる。その白い肌を覆うのはまた白い、薄手のワンピース。華奢な白い手首辺りまで少女を覆うそれは、まるで死に装束のよう。

 睫はまた白く長く。色素の薄い唇は、言葉を紡ぐだけで崩れてしまいそうな程に儚い。頬には赤みなど微塵もなく、その下を通う筈の生命の循環など存在しないようにすら思える。

 そして、何より異常なのは、その双眸。

 確かにこちらを見据えるその瞳は、それもまた限りなく白に近い灰。そこに濁りはなく、明らかに白内障などではない、純粋な『白い瞳孔』がそこにはあった。

 

 死者。

 彼女を見た瞬間の印象は、間違いなくそちらへ向かうだろう。ここまで純粋に白い生物など、この世に存在する筈がない。たとえ先天的に色素を持たない生物だって、その内に生の証たる赤色を持つ筈だ。こんな生物は、この世界に存在していい筈がないのだ。

 

 でも、何故だろう。

 にも関わらず。何故か、僕は。

「……僕が、啼いているだって……?」

 この目の前の少女に、周囲を覆う緑と似た、匂い立つ程の『生』を感じている――

 

「……ご自分でお気づきになっていなかったのですか? 啼いている、心に」

 不思議そうに、不可思議な事を問うてくる少女。

 状況、容姿、言動、何処をとっても異常。非現実的。

 何故彼女はこんな所にいるのだ。何故自分は彼女に今の今まで気が付かなかった。彼女の容姿は本当にこの世に存在し得るものなのか。赤の他人である自分に、突然この少女は何を言い出すのだ。

 疑問は絶えず、畏怖のような心さえ内には生まれている。

 だが、それでも僕の口はまるで僕の心とは切り離されてしまったかのように言葉を紡いだ。

「啼く、とはどういう事なんだ? 僕にはそれがどういう事なのか……いや、それ以前に僕には自分の心なんて理解出来ない。僕の心は、壊れているんだ」

 きっとそれを問うた時、僕は切羽詰ったような、欠片程の余裕もない表情をしていたのだろう。戸惑う心とは別の何処かで、僕は確かに心の底からその答えを求めていた。

 問いかけに答えず、こちらへと歩みを進める少女。ぱきり、ぱきり、と彼女の白い素足の下で折れた枝の欠片が音を奏でる。

 そして隣まで歩みを進めた少女はふわりと、僕と同じ木を背に腰掛けて薄暗い空を見上げた。


「……蝉達が、何故啼くのかご存知ですか?」

 吸い込まれるように彼女の横顔に見入っていた僕は、その問いかけで我に返った。

「あ、ああ、蝉は確か雌を呼ぶ為に啼いているんだろう? 雌を呼び、地上に上がった後の短い期間で自らの子孫を残す為に。だからこそ啼くのは雄だけなんだろうし」

 別段咎められた訳ではないのに、僕は酷くバツの悪い気分になって慌てて答えを返す。その様子が可笑しかったのか、彼女は色の無い指を唇にあてがいクスリと笑った。視線は、未だ空へ向いている。

「ふふっ……ええ、正解です、と答えたいですけれど……本当は、少しだけ違います」

「え?」

 その視線が、すう、とこちらへ向く。薄い灰色の瞳孔が、僕をとらえた。

「蝉達は、仲間を、自分と同じ何かを激しく求めて啼いているんです。何年もの間その瞬間だけを夢みて、自らの命が尽きるまでの刹那の世界を、孤独だったそれまでの時間を埋める為だけに生きるんです。……燃え尽きる寸前の、蝋燭の炎の激しさのように」

 

 ……息を、呑んだ。

 まさか、それはつまり。

「……まさか君は、僕も同じだと言いたいのか?」

「判りません……それは、貴方だけが持ち得る答えの筈ですから」

 肯定とも否定とも取れる曖昧な微笑を浮かべたまま、少女はこちらを見透かすようにただ見つめる。

 それが何だか、やけに癪に障った。

「判ったような口を聞かないでくれ! 会ったばかりの君に僕の何が判る? 僕は何も求めてなんかいない! 僕は、何も求められない! 何も、何も――」

 

 本当に、そうだろうか。

 例えば、あの自殺志願者が集うサイトにいった時。

 はたして、僕は本当に、欲望を排した純粋な思いで、並ぶ文字の羅列を眺めていたのだろうか――

 理解、出来なかった。

 

「っ、僕は、僕は…………」

 言葉が続けられない。悲しい訳ではない。苦しい訳ではない。単に、判らない。

 何という言葉を続けるのが正しいのか、自分が何故続ける言葉が見つけられないのか、何故自分は今こんなにも感情を揺らがせているのか――

「僕は――」

 それでも何か虚ろな強迫観念に押しつぶされて、僕は何とか言葉を紡ごうとして……


「……ごめん、なさい」

 刹那、柔らかな感触が僕を包み込んでいた。


「……え?」

 自分が少女に抱き締められている事に気がついたのは、数瞬の後。気付けなかったのはおそらく。

 彼女の身体が、不思議なくらいに温かくて。


「……ごめんなさい、気付いていた筈なのに……貴方の心を、不用意に揺らがせてしまって……」

「あ、ああ……」

 目を上げれば、そこには悲しそうに目を伏せる白い少女の姿。そこには儚さなんてなくて、確かに、初めに感じた匂い立つ程の『生』を、より一層僕に感じさせた。


「……本当は、私は、貴方が羨ましいんです」

 僕を抱き締めたまま。

「自らの力で啼いて、私を呼び寄せられる貴方が羨ましい。私には、その力がないから。こんなにも、私は孤独だったのに」

 縋り付くように、震える声で囁く少女。

「私一人だけ、いつまでもいつまでも暗い孤独に取り残されて、みんな私を置き去りにして命を散らせて」

 心の内を吐露するその心情は、きっと。

「……今までずっと、私に啼いてくれる方は、誰もいなかった――」

 何処か、僕と似ている――


 

 空に響き渡るような遠い音が、僕の耳に届いた。


「…………花火、か……?」

「え……?」

 僕が突然喋った事を不思議に思ったのか、少女はゆっくりと縋る手を離して僕を見つめる。

「ああ、そういえば今日はこの近くで祭りをやるんだったっけ……」

 そう言えば、そんな事を知らせるビラがあちらこちらに貼ってあった記憶がある。まだ薄明るいのだが、少し早めに始める予定だったのだろう。

 一瞬その灯りを探し求めるように空を見上げるが、背の高い樹木に縁取られた空はとてもではないが、そんな遠い空まで伸びている筈もなかった。刹那でも探し求めて視線を彷徨わせてしまった自分に苦笑して、視界を元の高さまで引き戻す。

 と、

「ハナビ、マツリ……?」

 目の前の少女は不思議そうに、ハナビ、マツリ、と、舌の上で慣れない言葉を転がすように繰り返していた。……まさか、とは思う。だが、まさか――

「……君、もしかして花火と祭りを知らないのか?」

「あ、はい、先程も言いましたけれど私は、ずっと一人で篭っていましたから……」

「いや、端的に言えば祭りっていうのは多くの人間が集まって騒ぐ機会を提供するイベントで、花火っていうのは空に火薬を打ち上げて爆発させて、光を愉しむものなんだけど」

「へぇ……」 

 ……驚いた。至極普通に驚いた。元々の雰囲気自体浮世離れしてはいたが、まさかそんな事すら知らないとは。そんな事一つとっても、やはりこの少女は何処か異常だ。それは確信を持って言える。

 だが、それよりも驚いたのは。

 そう言った少女の顔が、なんだか何処にでもいるような、ありきたりな少女のものに見えた事で。


「……いってみたいかい?」

 ……僕の口が、極々自然にこんな事を口走っている事こそ、驚愕に値する。



「え……連れて行って、くれるんですか?」

 少女の顔が、まるで年相応の普通の少女であるかのような驚きに染まる。そこに直前までの神秘的な雰囲気はなく、僕は酷くほっとしている自分に気がついた。

「ああ、別に構わない、と言いたい所だけど……残念ながら祭りの方は行けないかもしれないな。この辺りは田舎だからね。僕は車も持っていないし、多分この時間だともうバスは止まっていると思う。だからせめて、花火の見える所にいこうか」

 

 元より、大した理由もない自殺。ならばここで多少寄り道をしたって問題も何もありはしない。だから、

「はい、私も、見てみたいです――」 

 まあ最後くらい、この見知らぬ少女を喜ばせてやろうと思ったり。

 こんな気紛れも、悪くはないかもしれない……





 遠くの空に弾けるは、刹那に咲き散る焔の徒花。

 微かな青さを保つ夜空は、故に余計に燃え散る花の明るさを際立てる。

 その灯りは夜空を染め上げ、

「…………………」

 言葉もなくそれを見つめる白い少女に、刹那の色彩を与えていく。


 連れてきた瞬間から、少女は声もなく、ただ食い入るように一瞬の生涯を終える花々を見つめていた。

 その横顔を見つめながら、ふと僕は最初に感じた不自然な程強く匂い立つ『生』が、薄らいでいるような、妙な感覚を覚えた。

 彼女そのものが希薄になってきているような、理由の判らない焦燥を促す感覚。

 それを振り払うように僕は彼女の存在がそこに在る事を確認しようとして、

 ふと、未だに彼女の名前も知らない自分がいる事に気がついた。

「……なあ、一つ、聞いていいかな」

「…………え? なんですか?」

 ふと命を取り戻したようにこちらを振り向く彼女に、拭えない一抹の不安を抱く。

 ここで仮に誰何して、それで何が変わるのだろうか。ここで名前を知ったところで、それで彼女を固定出来る確信など何処にもない。名は、所詮名に過ぎない。騙れるものだし、事実として存在しないモノもあるだろう。

 むしろここでもし、彼女が答えなかったならば、

 その時こそ、彼女は完全に希釈され、『此処』から消え去ってしまうような――


「……どうかしましたか?」 

「え? あ、ああ……」 

 そんな思考の螺旋を巡っていた俺を、彼女の鈴振るような声が現実へ引き戻した。

「……っくく」

 思わず失笑が漏れる。ずっと非現実的だのなんだのと感じてきた彼女の声によって現実に引き戻されるなんて、何という皮肉だろうか。結局、誰よりも常と異なるのは、他ならぬ僕自身なのだろう。……それで、下らない思考を止める決心がついた。

「……?」

 突如笑い出した僕を不思議そうに見つめる少女を、僕もまた真っ直ぐに見据える。

 すう、と息を吸い込んで。まるで恋の告白をする少年のように強張った喉で問う。

「君の、名前は――?」

 白い彼女の横顔を、刹那の花が染めていく。

 不思議そうな表情を、微かな笑みに変えて。

 遠くの花火の音にすらかき消されそうな程、微かな声で。

「…………そうですね、コト、と。そう呼んで頂ければ――」

 今にも消えそうな少女は、確かに、答えた……

 


 

 見上げる空は既に青の欠片も残してはおらず、空の花の咲き誇る刻ももはや終わりを告げようとしていた。

 僕達の間には声もなく、ただ辺りを包むヒグラシの声だけが静寂を乱し、同時に新たな類の静寂を生み出している。

「……あの」

「ん?」

 ふと、その静寂を破って語りかけてくる声があった。

 横を見れば、もはやその白さも判別できない程に闇に融けた少女。先程まで再び無言で空を眺めていたその薄い灰色の瞳が、何処か儚げにこちらを見つめていた。

「私は、貴方に会えてよかったのでしょうか……?」

「……よかった?」

 今までにも増して不可思議な問いは、もはや僕の心を揺らがす事はない。けれど――

今回の問いは、何故だか僕の中の不安を一気にかき立てた。

「……僕には判らない。だって、それはさっき君自身が言ったように、それは君自身しか持ち得ない答えだから」

「判っています。判っているんです……」

 けど、と、コトは訴える。酷く、優しげで、儚げな笑みと共に。

「だって、私にも判らないんです。他のみんなは私がこうしている間、命を次へと繋ぐ為だけに呼ばれ、ただ遮二無二生きて死んでゆく……だけど私はこうして、何もしないまま、次へと繋がる事もなく消えていく――それは、悲しい事なんでしょうか? 皆と異なるのは、寂しい事なんでしょうか?」

「それは…………」

 また、言葉に詰まった。ああ、彼女の問いは本当に僕の心に突き刺さる。常とは異なる個体。それは、まるで、

 僕と、同じじゃないか。

 

 だからこそ、この問いの答えは持たない筈だった。僕自身がきっと、いつまでも探していた答えだから。僕自身がずっと、ただ一つの欲望として欲し続けてきた答えだから。

 ……だからこそ、その答えは、元より僕の中にあったのかもしれない――


「それは、きっと、寂しい事でもない。悲しい事でもない。それは、きっと、そこに在る事が答えなんだ」

「そこに、ある……?」

「君が他と異なる事が、君自身に寂しさを生み出す事はあるかもしれない。悲しみを生み出す事もあるかもしれない。でも事実、今君は確かに此処にいて、それは他でもない君自身が選択した『常』なんだ。たとえ同じ君が何回その岐路に立ったとしても、その選択を誤る事はない。『異常』は、異常とは違う。もし君が同じ岐路で違う選択をしたならば、その時初めて君は『異常』になるんだ。そしてその時こそ、君は本当に孤独になる」

 滔々と、自らの探し続けていた答えがいともあっけなく自分の口から流れ出すのを、僕は半ば他人事のように眺めていた。

 ぼくは、観客だった。

「たとえ寂しさや悲しさを感じる事があったとしても、それはそれ自身が悲しい事である訳じゃない。悲しむのは、君なんだから。だからそれは『常』で、きっと悲しい事なんかじゃない筈なんだ。普通である事が悲しいなんて、そんなのは不自然だから」

 でも、と。僕の口は勝手に言葉を紡いでゆく。

「でももし、それでも耐えられない程悲しいのなら。悲しむ事を止められないのなら……その時は、僕に頼ってくれていい。僕は君と同じだから。よく異常と異常だからと言って相容れる事はないって言うけれど、そんなのは嘘だ。常ではないもの同士である以上、間違いなくそこには交えるものがある筈なんだ。少なくとも、僕は君にそう感じている。だから恐がらなくていい。君が在る限り――僕が、君の傍らにいる。……だから、頼むから、そんな、今にも消えそうな顔をしないでくれ――」

 傍から聞けば、なんとも安っぽい告白の言葉のようにしか聞こえないだろう。でも、それでもいい。たとえそう取られようとも構わない。

 彼女にはこう言ったけど、本当は。

 僕自身が、彼女と共に在る事を切に願っているのだから。



 言葉もなく、彼女の頭が僕の右肩に寄り添う。すこし戸惑ったけれど、既に僕が語るべき言葉は一つもなくて、素直にそれに従った。

「…………………貴方の」

「え?」

 ふいに。

「貴方の啼いている声に惹かれた理由が、今理解できた気がします……」

 本当に、心の底から。

「他のみんながどういう基準で惹かれているのか、それは判りません」

 嬉しそうに、安堵したように。

「でも、私に限って言えば、それは、きっと――」

 感情の色を、乗せた声で。

「貴方しか、啼いている声が聞こえなかったからなのかもしれません――」

 色の無い少女は、問いかける。

「……貴方の名前は、なんですか…………?」

 色を乗せた、微笑みと共に――



「……僕の、名前は――――」

 答えようとして。

 ふいに。

 本当にふいに。

 

 空に響く音と同時に。

 

 重みが、消えた。








「…………」

 ただ、その場から動けなかった。呆然と、ではない。予想外の事象などではないから。むしろ、きっとそれが、当然だと思っていたから。

 ただ、眺めていた。 




 足元の草には、空っぽの空蝉。

 傍らには、羽化したばかりなのだろう、何もかも真っ白な、ヒグラシ。

 それは羽化したばかりにも関わらず匂い立つような『生』を感じさせる事はない。

 理由など明らか。

 ぴくりとも動かないそれに、『生』など感じる筈もない。

 短い、本当に刹那の生涯。

 長い時を生きた筈なのに、その生涯は、あまりに少ない。

 啼く事は叶わず、産む事すら叶わなかった、一匹の雌のヒグラシ。

 その生涯は、本当に、あまりに短すぎて。

 

 故に、零れ落ちる程の生に満ちていたのかもしれない。







「……ああ、そうだ」

 今日は祭り。

 ならば僕は、このヒグラシを祀らなくては。

 それが、僕の祭りだから。


 立ち上がる。目から零れ落ちるモノはない。

 判っていた。理解していた。だから、悲しくはない。

 これが、僕の『常』。



 そっと、地面に横たわる白いヒグラシを手に取り、僕は歩き出す。



 生きる事に、意味はない。



 けれど。



 後幾許か、僕の人生には意義がある。

ふと思いついたものに過ぎないのですが、何故かこんなに暗い話になってしまった……ちなみに「コト」というのは、自分の地元の辺りでの蝉の幼虫の呼び名からもらったものです。

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