エピローグ
オルゴールの音が止まり、老人は白濁した瞳を開けた。
長い夢を見ていた。長い長い夢だった。若いころに切り捨てたはずの感情が今更のように胸に沸き上がってきて、乾き切った瞼を熱く濡らした。
無くしていたものの蓋を開け放ったように、懐かしさと後悔が入り交じった気持ちが胸を満たしている。蜘蛛の巣の張った心が軋み音をあげる。
老人はもう何年も闇に溶け込んで生きてきた。光に憧れ、焦がれながら闇の中にいた。安寧の闇に包まれていることは楽で、そうしていれば人生の様々な苦を感じなくてもよかった。しかし、
「青い小瓶を、私はどこへやったかな」
娘が家を出、妻に先立たれた今、老人の側には古ぼけたオルゴールボックスしかなかった。
――ティリリィィィン――
久方ぶりに来客を告げる鐘の音が鳴った。留め金が錆びてなくてよかったと、老人は弱々しく笑った。
カチャリと音を立て、部屋のドアが開く。
「おじいちゃん、こんにちは」
明るい笑顔が目に飛び込んできた。柔らかそうな頬をした十歳前後の少女。
随分昔、こうして娘の子供も部屋の中に飛び込んできたことがあった。
老人はこれが最期のときなのだろうと漠然と感じた。でなければ来訪者などあるはずがない。しかも、老人の孫は既に二十になろうとしていた。
「こんにちは、もう一人のお父さん」
後から部屋の中へ入ってきた人物を見て老人は己が目を疑った。そこにいたのは夢の中の少女と青年。自分の空想の中で育った架空の人物達。
「お前達は……」
涙を拭って老人は慌ててベッドから半身を起こした。
「貴方に生きていてほしくて私達は貴方の夢から抜け出してきたのです」
先程の夢よりもずっと大人びた少女は、娘を連れて老人のベッドに近づいた。
「貴方には私達の物語を完結する義務がある」
氷翠が老人に青い小瓶を渡す。老人は震える手でそれを受け取った。未だ信じられずに。
「私はまだ自分に本当の価値を見つけていません。これから先もきっと捜し続けるでしょう。貴方と同じように」
にっこりと笑う少女の顔に老人は実の娘の面影を見つけた。
「このオルゴール、発条を巻いておきますね。いつでも貴方が楽しむことができるように」
セアンは首に下げた螺子をオルゴールの木箱の小さな穴に差し込み、それを丁寧に回した。歯車の噛み合う音がしなくなるまで。
「さあ、これでいいわ」
再びメロディーが流れ出す。
ワンフレーズも進まないうちに三人の姿は宙にかき消えていった。青い小瓶だけが老人の手に残される。
今目覚めたように老人はベッドから立ち上がった。
「私には未だやり残したことがある」
何年も使っていなかった机に紙を広げてインクを用意する。随分久しくインク独特の匂いが鼻をついた。
―― 汝、孤りなる者よ ――
青インクの文字を紙の上に走らせる。
「私は必要とされていたのだな、お前達に」
後悔の涙を流しながらも老人は文字を綴っていった。
置き忘れてきたものが次々と甦って感情を抑制する柵を奪い去る。
もう、時は永遠も一瞬のようにその輝きを取り戻したようだった。