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III.言の葉の森

 与えられた部屋にはベッドと棚がそれぞれ一つづつ備えられてあり、その他には古いドールハウスと飴色をした地球儀が一つあるばかりだった。

 朝日が少女の睫や頬の上を光の粒になって滑り落ちてゆく。陽光のきらめきに目を細めながら、セアンはゆっくりとその身を起こした。

 久しぶりに随分と長い夢を見た。だが、内容は思い出せない。ラクダの夢のような、半眠半醒の中途半端な夢。大切なものを夢に置き忘れてきたのか、思い出せないのがセアンにはもどかしくてたまらなかった。

 けれど、そんなことを悠長に考えている時間は今のセアンにはない。今日は約束の日なのだ。

 枕元に置いた地球儀を手元に引き寄せる。台座がなければ球体はセアンの手の中にすっぽりと収まってしまうほど小さかった。

 北極点と南極点を結んで黒く腐食した銀の目盛りがついている。半球を分ける赤道にも同じような銀の輪があり、それによってこの先起こる出来事の時間軸や場所を設定するらしかった。

「どうしたらいいんだろう……」

 答えはまだ出ていない。多くの見知らぬ人の命と、決別を自分から申し入れた、けれども掛け替えの無い父と母。どちらを選べばよいかなど簡単に決められることではない。

 地球儀を回してみる。乾いた音が空しく響いた。

「こんなもの、初めから存在しなければよかったのに」

 自らの言葉の内容にセアンは引っ掛かるものを感じた。

「価値があるからこそ、これは必要のないものなのだわ」

 今までの考え方の基準点がずれたようでセアンは困惑した。

 ならば、自分が見つけようとした価値とは一体何だったのか?

(必要とされない、価値あるもの)

 手の中にあるものが哀しい玩具に変化する。

 考えてみれば未来視ができるということは知らないことが日々起こらなくなるということだ。小さな驚き、発見や感動が一生得られなくなる……そこにどんな人生の楽しみがあるというのだろう?

 この機械は本来必要ないものなのだ。

 セアンは枕元に『天球の暦』を戻し、寝間着から普段着に着替えた。

(一体誰がこんなものを作ったんだろう)

 様々な思いが駆け巡った。しかし答えは出ない。

 セアンが十八の部屋の中にある品物の点検を終えた夕刻、扉は待ちくたびれたように訪れの鐘を鳴らした。

 セアンは迷っていた。解決となる手段は一つだけあった。けれど彼女は迷っていた。

 彼女はその商人に会ったことがなかった。マナーハの悪い噂は病に伏せている時でさえ聞こえてきていたが、実際にどんな男なのかは会って確かめるしかなかった。

 仮に噂通りの人物であるとすれば、最終的な手段を使わざるを得ないだろう。けれど、その手段を使用することは名前を失うことと同じだった。否、名前だけではない。それは居場所すら奪いかねなかった。

 だからこそセアンは答えを出せずにいた。

「こんにちわ。お待たせして申し訳ない」

 マナーハは六十代後半にしては大柄な男だった。淡い紫のビロードの服を着た笑顔の絶えない好々爺。こんな形で相対するのでなければこの男が噂に聞く『マナーハ』と同一人物だとは夢にも思わなかっただろう。それほど男は人好きのする雰囲気を持っていた。

「さて、条件は飲んでもらえたかね? セアンお嬢ちゃん」

 舌にツバが絡んだような口調で話しかけるマナーハ。背後には先日の女性が控えており、その更に後ろに指錠で束縛されて猿轡をかませられた両親の姿があった。

「その前に教えてほしいことがあるわ。貴方はあれを何に使おうというの?」

 恐る恐る尋ねると、マナーハは凄みのある微笑を浮かべた。

「お嬢ちゃんには聞く権利があるだろう。あれはあるお方が所望している品なんだよ。首都セレスタインを攻め入る隙を知るためにね」

 マナーハの後ろでラノスが目を見開く。彼はマナーハに『天球の暦』の用途までは聞き及んでいなかったらしい。

「そんな」

 セアンは弱々しく呟いた。マナーハはそんな彼女を無害なものと判断したようだった。気を呑んでしまえば抗うこともできまいといった風に硬い声で続ける。

「戦は相手がどう出るかで決まる。まあ、戦ともなれば我々商人も常にない利益を上げられて一石二鳥という訳だ」

 氷翠の言っていたことが現実に起こりつつある。そう感じて、セアンは右手の中に潜ませた物を汗ばみ始めた掌で強く握りしめた。

(やはり使わなければならない)

「父と母を解放して」

「では、渡してくれるのだね?」

 マナーハは満足そうに頷いた。セアンは無言で老商人の顔を見返した。

「ゾル、轡を外して差し上げなさい」

 マナーハが顎をしゃくると、ゾルと呼ばれた銀髪の女性はセアンを見て微笑した。

「セアン、早く助けてくれ。私はまだ死にたくない。お前は私達を見捨てるつもりか?」

 猿轡をはずされるや否や、哀れっぽくラノスは懇願した。ルアもまたヒステリックに叫ぶ。

「早くお渡しなさいっ。親の命よりも他人の命が大切だと言うの?」

「二人ともこうおっしゃっておられるが?」

 満足そうにセアンを促すマナーハ。先日の母の告白がなかったなら、彼女は両親の言葉を字面通りに受け止めていただろう。自分のことしか考えない発言に腹を立てていただろう。けれど……

「わかりました」

 二人は犠牲になろうとしている。次の世代のために。本当に守るべきものを伝えるためなら嫌悪されることなどさして重要ではないのだとセアンは悟った。でなければあんな言い方をするはずがない。

 汗ばんだ掌を開く。そこには宝石と白金で作られた魚が靜かに横たわっていた。魚は青い光を受け、水しぶきを弾くように美しい輝きを発した。

「それが『天球の暦』かね?」

 受け取ろうとセアンに近づくマナーハ。少女は怯えるように後退さった。

「もう一つ、聞きたいことがあるの」

 マナーハは濁った目でセアンをジロリと見た。

「貴方は忘却という言葉を知っている?」

 告げるや否やセアンは魚の目に埋め込まれた黄色いトパーズを強く押し込んだ。

「痛っ……」

 セアンの手の中で白金の魚は燃えるように爆発的に熱くなった。宝石の目が視細胞を焼き付くしかねない強い金の光を発し、三度にわたって明滅を繰り返す。

 すぐ側でマナーハのうめき声が聞こえた。少し離れたところからゾルの甲高い悲鳴も。

 しばらくすると、宝石細工の魚が発する高熱に耐え切れなくなってセアンはそれを床に落とした。

 白金の魚は床に落ちるとそのまま水晶の床に吸い込まれ、すぐ真下まで来ていた沙翁と一緒に地下湖へ姿を消した。

 セアンの右手は小さな虫が木の幹を喰い進むようにジリジリと痛んだ。声にならないうめき声が歯の透き間から漏れる。

 掌には魚の形に火傷の跡が残り、しばらくは使い物にならなさそうだった。

 目潰しを食らったマナーハ等は、最初のうち訳の分からぬ叫び声を上げていた。しかし、その声は徐々に小さくなり、最終的には明瞭な言葉を話すようになった。

 綴じたままで開けられなかった瞼も、何度か瞬きすると正常に戻ったようだった。

「ここは何処かね、お嬢さん」

 はっきりとした口調でマナーハはセアンに問いかけた。先程までの毒気はその顔からは想像できない。

 丁寧な物腰の老商人の声に重なって、

「あたし、何やってたのかしら」

 ゾルの少し間の抜けた声がした。見ると口をへの字に曲げて欠伸を必死にかみ殺している。

「ここは睡月湖亭です」

「睡月湖亭? はて、そんな食堂は知らないが……随分寂れた店のようだな。何故私がここにいるのかね?」

「よく分からないわね……」

 彼等は心底不思議そうに、自分が何故こんなところにいるのか思い出そうとしているようだった。

「こんなところで遊んでいる暇は無い。済まないが、私はこれで失敬するよ」

 マナーハはそう言い置くと足早に店から去って行った。

「一体何だったのかしら、あのジイサン」

 ゾルもまた、首を傾げたまま睡月湖亭を出て行った。

「君、こっちに来てこの指錠を外してはくれぬかね?」

 声がかけられ、セアンは束縛されている両親のもとに近寄った。

「はい」

 指錠の束縛を緩めるためのボタンを捜し当てると、セアンは父と母を理不尽な拘束から開放した。

「ありがとう。……あら、貴女。その掌」

 ルアは火傷に気付き、セアンの右手を取った。が、セアンはその手を握り締めた。

「何でもありません」

 父も母もセアンのことをすっかりと忘れているようだった。

 あの魚の装置はそういうものなのだ。それを使う人間が必要でないと判断した記憶をこの世から抹消する。白金の魚は忘却のシステムだった。

「失礼だが何が起こったのか教えてもらえぬかね?」

 自由になった手首を動かすラノス。セアンは出来る限りいい笑顔を浮かべた。

「ここでは何も起こりませんでした。先程の枷は手違いによるものです」

 唇がわななく。

「手違い?」

 ラノスは続けようとした言葉をルアに阻まれた。

「帰りましょう、あなた。何か事情があるのでしょう。このお嬢さんを困らせちゃ可哀想だわ」

 セアンは深く頭を下げた。二人の足音が遠ざかり、扉の閉まる音が聞こえるまで。


 ――――パタン――――


 扉が閉まると、一人広間に残されたセアンは痛みの残る右手をそのままに冷たい床に座り込んだ。

 最愛の父と母。けれど、今や家族の一員として彼等の間に入ることはない。彼等の記憶の中にあったセアンの面影は最早消えてしまったのだから。

 魚の存在を知りその効果を氷翠から教えてもらったとき、なんて恐ろしいものだろうとセアンは思った。永久に使うことがなければいい……そう思っていた。

「私は貴方達から愛情をもらいました。身に余るほどの愛をもらいました。感謝しています。私は貴方達に育ててもらい、とても幸せでした」

 空中に向かってセアンは言葉を発した。

 白金の魚は正常に作動したのだ。

(これで『天球の暦』のことも睡月湖亭のことも……私のことも、誰も知っている人はいなくなってしまったんだわ。けれど……)

 生きてくれているだけでいい。ただ生きていてくれさえすればいい。今ならば、母の言葉の意味が身に染みてわかる。

「私はいつまでも貴方達の娘です」

 こらえていた涙が零れた。胸の痛みに眉間に皺が寄る。掌の火傷よりよほど痛い。

 少しでも軽やかな空気を求めてセアンは天井を仰いだ。

 青い光がセアンに腕を差し伸べる。少女の体を優しく愛撫する光の波。神の御手をその波間から垣間見たような気がして、セアンは視界をふさいでいた涙を拭った。

「錯覚か」

 呟き、立ち上がろうとしてセアンは床に左手をついた。と、何かが彼女の手に当たり、硬質的な音を立てて床に転がった。

「青い小瓶? どうしてこんなところに……」

(あの手が?)

 確かに手は存在していたのだ。残された青い小瓶が何よりの証拠だった。

「セァン、終わったようだな」

 店の奥から氷翠の足音が聞こえてきて、セアンはとっさにその青い小瓶を袖の中に隠した。

「貴方にはあの魚の効力は及ばないのね」

 セアンは少しだけ安堵した。自分の存在を知っている人が一人でもいる。そう思うだけで、彼女の心は癒されるようだった。

「『忘却の魚』を使ったのか」

 自尊心の塊だった少女は自分を犠牲にすることで争いを回避したのだ。『天球の暦』を奪われることなく、父母の命も救って。

「はい」

 セアンは肯定すると、まだジクジクと痛む右掌を見せた。

「魚は床の下の地下湖に」

 透明な床に魚影はなかった。しかし、氷翠は頷いてセアンの右手の具合を看た。

「跡は残るが皮膚を移植しなければならないほど深いものではない。薬を塗っておけば痛みも熱もすぐに取れるだろう」

 部屋の隅の棚から口を封じてある貝の薬入れを取り出してきて、氷翠は軟膏をセアンの掌に塗った。その手つきは青い光の波よりも優しいように思えた。

「後で私の部屋へ来てほしい」

 氷翠が要求する。青年が人に何かを請う様を見るのはそれが初めてだった。

「……はい」

 セアンが頷くのを確認すると氷翠は広間から出て行った。考え事をしているようなゆったりとした足取りで。

 しばらくすると氷翠の姿は青い闇に飲み込まれ、完全に見えなくなった。


 氷翠の部屋は性格に負けず整然としていて、ガランとした空虚なものが満ちていた。形だけの生活臭の全くない部屋。ただ、正面の壁にかけてある等身大の絵画だけは別で、繊細なタッチで描かれた写実画は見る人に何かをささやきかけてくるようだった。所々に荒々しいなぐり描きのような線も交じっていたが、それもまたアクセントとなって程よい変化をつけている。

「森の絵?」

「ああ。これは言の葉の森だ」

 絵の前に立っていた氷翠はセアンに腕を差し伸べた。

「私と一緒に来てほしい」

 セアンは何か重大な儀式をしているような気持ちで差し伸べられた腕に自らの掌を重ねた。

「こっちだ」

 氷翠はセアンの手を引き、絵の方に近づいた。そして、真正面まで来るとためらいもなく絵の中へ一歩踏み出した。

 驚愕にセアンは言葉を失った。現実の世界と絵の中の世界の境目がこんなにも不安定だったとは……

 絵の中には緑色の世界が果てを知らないように広がっていた。絶え間無く光の粒子が降り注ぎ、それは葉の反照によるものであるらしい。

 反照? ただの葉がそこまで強い照り返しを生み出すだろうか?

 不思議に思って木々を眺めてみると、その枝についた葉は全て鉱石の光沢を放っているのが分かった。葉は全て翡翠でできていたのだ。

「ここは言の葉の森。人が発した言葉はここで結晶し、翡翠の葉となる」

 氷翠の言葉もまた、どんどん上に昇っていって数枚の葉を形成した。

 試しに手の届く高さにあった枝の葉に触れてみる。と、何者かの言葉がセアンの口を媒体にして、明瞭に流れ出た。

「『君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒く、食少なく世を送る者なり』」

「ここでは様々なことを知ることができる。だが、お前に渡したかったのはこの葉だ」

 さらに奥へ進み、氷翠は一枚の葉を摘み取ってセアンに渡した。

「『探求』」

 探求。さがし求めること。たったそれだけの意味の言葉なのに、その言の葉は何物にも代えがたいように思えた。

「お前に一番似合いの言葉だ」

 翡翠の葉は火傷した右の手にひんやりと心地よかった。

(今なら私の問いに答えてくれるかもしれない)

 セアンはふとそう思い、ずっと抱えていた疑問を氷翠にぶつけてみることにした。

 即ち、この絵画のことや不思議な力を持つ睡月湖亭の品々が一体何であるのかを。

 氷翠はゆっくり頷くと、一言ずつ区切りながら話し始めた。

「この世界は一人の男の夢なのだ。そのせいか、時折奇妙なものが生まれてくる。『天球の暦』は典型的な例だ。この世界の運命はその男が握っていると言っても過言ではない」

 セアンは氷翠の言葉の一言一言が言の葉の樹の一枚の葉になってゆくのを見るとはなしに見ていた。

 言葉は煙がくゆるように揺らめき立ちのぼり、枝に触れるや緑に輝く厚手の葉になった。その後、葉の縁は徐々に固まってゆき、最後には翡翠に変化した。

「その人は神なの?」

「そう言えるだろう。だが、彼は無責任なのだ。私達の存在を気にも止めず、自らの想像の世界を様々に広げて放っておくのだからな。私はそんな創造主が唯一意図的に作りあげた、この世界の傍観者であり管理者なのだ」

 セアンは言葉を失った。何もかも初めて聞くことだ。

「だから私は年を取ることはない。この店を放り出すこともな」

 抑揚のない声で氷翠は続けた。

「私もまた価値があって必要のないものだ。だから、お前が『天球の暦』をどう扱うか知りたかった。他人の手に委ねるのか、委ねることを拒むのか……お前がどちらを選んでいたにしろ私は満足しなかっただろう。だが、お前は自分の両親を救い、その上『天球の暦』をも守った」

 氷翠の感情のない顔に、セアンは不意に今朝見た夢の内容を思い出した。

 声を聞いた。ひどく老いた声だった。いつも床下で銀の腹をひるがえしている沙翁の住処と同じくらい深い所から聞こえた。

 声はセアンに告げた。高い棚にしまわれた青い小瓶のことを。あの、ラベルの読めない小瓶の中身のことを。

 セアンは袖に忍ばせた青い小瓶をそっと取り出した。

「あの人は貴方を解放することを望んでいたのね」

 青い小瓶を差し出すセアン。氷翠は小瓶の存在を初めて知ったらしく、少女と少女の手の中にあるものを交互に見比べた。

「これを飲んで」

 セアンの手から小瓶を受け取ると氷翠はしばらく小瓶を見つめていた。それから意を決したようにその中に入っていた液体を飲み下した。

「これは……」

 氷翠の頬を滑り落ちるものがあった。月長石のような銀の軌跡を描いて涙は紺の襟元を濡らす。

 初めて流す涙に氷翠は明らかに動揺していた。

「これは貴方の感情を封じていた小瓶よ」

 声は言った。

 氷翠の感情は今まで全てこの小瓶が吸い取っていたのだと。管理者として睡月湖亭に縛り付けるために。

「貴方はいつも皮肉げに笑うだけだった。心から楽しそうに笑うことはなかった。怒りを剥き出しにすることもなかった。悲しみを訴えることもなかった。喜びを伝えることもなかった。いつもどこか冷めた目で、刻を、闇を見つめていた。ただそれだけを」

 きらめき落ちてくる翡翠色の光の粒。セアンや氷翠の上に降り注いでは靜かに消えてゆく。

 セアンはすぐ近くにある樹の葉に手を伸ばした。

「『お前の役割はただ一つ。永遠に生き続け、万古を見定めることだ』」

 その葉に記憶されていた言葉がセアンの口を使って再生された。

「これは古い記憶。そしてこれが――」

 セアンには何故か再生すべき言の葉の場所が手に取るように分かった。迷わず芽吹いたばかりの新芽に手をやる。

「『私は一月も経ず命を落とすことになるだろう。――私は氷翠を解放したい。私は、私の感情とともに彼の感情もあのラベルのない青い小瓶に封じていた。だが、最早それも必要ない』」

 セアンの夢の中で語られた言葉の再現に、氷翠は音のない涙を零し続けた。

「『彼に伝えてほしい。私の無意識下で育った少女よ。自由に暮らせ、とね』」

 言の葉から手を放すとセアンは氷翠の顔を見つめて言った。

「『さようなら。もう一人の私……』」

 別れの言葉は直接セアンの口から紡がれた。そして言葉が紡がれた後、自分の体の中を何かが抜け出していったのがセアンにははっきりとわかった。

「私は解放されたのか……」

 脱力した氷翠をセアンは抱き締めた。帰る家を無くしてしまった子犬のように青年は小さく見えた。愛しくて放っておけなかった。

「セァン」

 セアンの行動に氷翠は驚いたようだった。彼女は少し気恥ずかしくなり、うつむいたまま言を紡いだ。

「私は貴方に価値がないと言われたとき、とても悔しかった。貴方を見返したいと思った。貴方は私のことなど気にも留めていないように見えたから」

 そのときの感情を思い出して唇を噛む。己の至らなさを省みるよりも、氷翠に怒りの矛先を向けることで自らを慰めていた。今ならばそれがわかる。

「でも、貴方を見ていて気付いた。私は自分の感情だけに振り回されて、貴方がどう思っていたかなんて考えもしなかった。愛されることが当然で、独りで生きることを選択せざるを得なかった人の気持ちなんて想像もできなかった」

 後悔の気持ちを飲み下し、少女は顔を上げた。氷翠の頬におずおずと手を差し伸べる。

「貴方の孤独を私に分けてくれる?」

 そのとき、一枚の木の葉が二人の上に舞い降りた。

「『私にはあなたが必要なの』」

 セアンはようやく答えを見つけた。たったの一言。けれど、その一言で十分だった。

 氷翠の腕がセアンを包み込む。少女は温かい雨が青年の瞳から降り注ぐのを、ただ黙って自分の頬に受け止めていた。

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