II.天球の暦
オルゴールが鳴っている。アルビレオの聖歌が幾度も幾度も繰り返される様子をセアンはじっと見つめていた。
小さな突起の沢山付いた巨大な丸い銅版がゆっくりゆっくり音を刻む。少女の背の高さもあろう大きな木の箱は、天上の音楽でセアンを包み込んでいた。
回転する赤銅色の円盤。背もたれの高い椅子に腰掛けて、セアンは首から下げた螺子を知らず知らずに指でいじっていた。銀細工の鍵の形をした小さな螺子。捻り手中央に填め込まれた蒼い菫青石が、角度によって透明に光る。
「……誰かの涙みたい」
氷翠に言われた言葉が小さな硝子の破片になってセアンの胸を傷つけ続けていた。言われなければわからないことはあるもので、価値がないと言われることこそを自分は恐れていたのだとセアンは初めて知った。
今までは自由がない代わりに優しい父と母がいた。病による苦痛はあった。けれど、彼女の周りにはいつも上等の毛布と医療、温かい食事が用意されていた。それが当然だった。
自分には価値がない。
そんなことは考えたこともなかった。考える必要がなかったのだから。
「悪い所はなさそうね」
オルゴールボックスに油を差し、その具合を確かめる。それは氷翠が与えた仕事の一つでしかない。
氷翠は睡月湖亭の商品の一部の管理をセアンに任せたのだった。幾百とある品物を掃除したり調整したり――
そのためこの一カ月悩んだりしている暇はなかった。けれど今日、氷翠は用事で店を空けている。
黄色い光が茶色く煤けたカーテンの透き間から洩れていた。セアンは光を受けてきらめく埃の舞に目を向けた。
暖かい色の陽光は何故か死を予感させる。セアンも例外でなくぼんやりと自分の死について考え始めた。
例えば、明日自分が死んでしまうとする。すると何か変わるだろうか?
考えてセアンは首を振った。
ここには父も母もいない。悲しんでくれる人はいないのだ。ただ、ひっそりと息を引き取り、発した言葉だけが風に巻き取られてどこかで誰かの頬に触れるだろう。
急に孤独に苛まれる。オルゴールの音は美しいゆえに傷ついた心をさらに掻き毟った。
自分がいなくなっても世界は変わらない。毎日、同じように時間が流れ、どこかで人が笑い、どこかで人が泣き声を上げるだろう。永遠にその繰り返し。発条が切れるまで途切れることのない、久遠の営み。
円盤が動きを止めた。オルゴールの音が曲を最後まで演奏する事なく途絶える。
セアンは次の部屋に移動しようと立ち上がりかけ、丁度その時かすかな鐘の音を聞いた。
(お客が来たのかしら?)
氷翠の買い与えた白い綿のエプロンの裾をパタパタと払うと、セアンは出入り口の扉へ急いだ。
「……貴女は?」
入ってきた男はほんの一瞬だけしかめ面をしてすぐに笑顔に戻った。
「この店の者です」
頬がこけ、眉のいやに細い男は後退しつつある頭に手をやって笑い続けている。
「ああ、そうですか。いやなに、ここの主人が貴女のようなかわいいお嬢さんとは知りませんでしてね」
細身の男はひょろりと背が高かった。一般的な服装をした、二十代くらいのひょうきんそうな男。けれど、その姿はどこか蟷螂を思わせる。
「申し訳ありませんが今日、お店はお休みです。外に看板が出ていませんでしたか?」
青い光が大きく揺らめき、部屋の壁に同化している品物に波模様を描いた。
「どうしても今日必要なものがあるんです。そいつがないと親父に顔向けができなくてね」
笑みが消え、男はいかにも悔しそうな顔をした。
「『天球の暦』。それさえあれば何年も先の季節の風候を知ることができるっていうじゃないか。土地に蒔いた種にどう手を加えたらいいか分かれば、親父を喜ばせてやれる」
歯軋りさえ聞こえて来そうな男の様子に、セアンはこの数年、麦が不作続きであったこと思い出した。
「お父さんを喜ばせてあげたいんですか?」
男はさも当然とばかりに頷いた。
「一昨年は水が足りなかった。親父は井戸から水を汲んで地面を潤そうとしたが、それでも全然足らなかったんだ。そうかと用水を引いて田を潤せば、十年に一度の大雨。収穫はないも同然で、自給自足もままならない有り様さ」
溜め息が空間を満たした。
「今すぐほしいんだ。今日じゃないと」
すがるような男の視線にセアンは同情せずにはいられなかった。
「『天球の暦』ですか。ちょっと待っていてください」
「それじゃ……」
男の目が見る間に輝く。
「お父さんを喜ばせてあげてください」
そう言うとセアンは再び店の奥に姿を消した。男の口にした矛盾に全く気づきもせず。
床の下で沙翁が警告するように銀の腹をひるがえしていた。
セアンは大変機嫌が良かった。自分は良いことをしたのだと信じて疑わない。
(私はあの人の親孝行の手伝いができたんだ)
それはとても誇らしいことのように思えた。やる気が体に満ち、とても気分がいい。自然、掃除にも力が入った。
店の奥にある十九の部屋。品物達の部屋の丁度最後の部屋である十六番目の部屋にセアンはいた。
そこは罎の部屋だ。透明な罎、青い罎、緑の罎、茶色の瓶。それ以外にも大小様々な形の罎が四角く区切られた棚の中に綺麗に並べられている。罎の数が目の眩むほど多いこの部屋の掃除はいつも手を抜きがちだった。が、今日は丁寧にするつもりだ。
セアンはその中の一つを手に取った。自分の瞳と同じ淡い翠玉色の罎。張られたラベルは黄ばんでボロボロになっている。中身は空っぽで、緑色のインクで印刷された文字を目で追うとそこには『貘も食べるのをためらった悪夢の素』と書いてあった。
指紋がつかないように罎を磨き、元の場所へ収めて次の罎を手にする。
今度は青い瓶だ。そこには『希望する夢の素』の綴り。こちらもやはり瓶と同じ色のインクで印刷されている。
「この棚は『夢シリーズ』ね」
呟きつつ次は空色の『空飛ぶ夢の素』の罎。
これらの罎は古いものが多かったが、中でも古いのが一番上の棚に保管されている濃い青の石を加工して造られた親指ほどの大きさの罎だった。そこに張られたラベルの文字は最早読み取ることはできない。
氷翠という人物に謎が多いのと同じく、ここにある品々も不思議なものが多かった。一体、こんなものをどこから集めて来るのだろうか?
けれども今はそんなことはどうでもいいことだった。掃除は得意でないにしろセアンはこの罎の部屋が気に入っていた。否、この部屋だけではない。その他のどの部屋にも彼女は親しみを持っていた。
睡月湖亭にある品物にはそれぞれに物語があるようだった。
例えば一番目の楽器の部屋。
大きなオルゴールボックスのほかにもゴーシュ愛用のセロだとか、ハーメルンの銀の縦笛だとかがそこには収められていた。
例えば二番目の時計の部屋。
中でも素晴らしかったのが壁がけ用のカラクリ時計で、一刻が過ぎる毎に仕込まれたブリキの人形は王から与えられた作り物の心臓を大事そうに胸に抱えるのだった。
例えば三番目の部屋の玩具の部屋。
子供用にしては大きな木馬がここでは目を引いた。艶やかに仕上げられたその白い馬は、触れるとほのかに温かいような気がした。瞳には琥珀が埋め込まれ、下の反りの部分には水しぶきの彫り込みがあった。孤高な感じのする表情。その出来具合はとてもただの遊具には見えない。氷翠はこれを『時戻しの木馬』と呼んでいた。
例えば四番目の布の部屋。
裸の王様の衣装に使われた布や、アラジンの絨毯などがこの部屋にはあった。
例えば五番目の薬の部屋。
ここにはセアンを病気から救った麦粉や、マンドラゴラの根っこなど、薬草となり得るあらゆる植物が無造作に棚に陳列されていた。
例えば六番目のアンティークドールの部屋。
中でも一番小さかったのは、親指姫の抱き人形。
例えば七番目の精霊の部屋。
人が生身で空を飛ぶためのシルフィードの羽根や、ポセイドンが嵐を呼ぶときに使う深緑の色をした硝子のビー玉があるのがこの部屋。
例えば八番目のコインの部屋。
今では名前すら忘れ去られた過去の国の銀貨や銅貨。ランドオーバーの王位継承者に与えられるコインもここにあった。
例えば九番目の古書の部屋。
四方の壁は本に埋め尽くされ、背表紙に『DIE UNENDLICHE GESCHICHTE by Michael Ende』と、いかにも奇妙な形の飾り文字が銘打たれているものや、『THE FELLOWSHIP OF THE RING by J.R.R.Tolkien』と金で箔押しされているものやら、実に様々だった。
例えば十番目の顔料の部屋。
虹色に配置されている棚に詰め込まれた絵の具壷の数々。筆につけて均等に伸ばせば空にも絵が描けるという優れ物なのだそうだ。
例えば十一番目のレンズの部屋。
過去の一場面を写し取るカメラや、何千里も先を見通すことのできる望遠鏡などでこの部屋は埋め尽くされていた。
例えば十二番目の水パイプの部屋。
水をフィルター代わりにしてタバコを呑む装置、水パイプ。水の満たされているフィルターの中を煙が通り抜けるとき、利用者は使われている水の記憶をも呑むことになるという。
例えば十三番目の香の部屋。
ラムセスが体に塗ったミントの香油や亜芙蓉の他に、魔女達が傀儡に使用したアスガルドサボテンの根を干したものまである。
例えば十四番目の刃物の部屋。
切る度に鋭さを増す鋼の剣や、折れてもまた成長する黒鋼の槍。ここにある品物はどれも一度は使用されたことがあるらしい。
例えば十五番目の鉱石の部屋。
太古の木々が見た様々な事象を写し出す緑柱石の球体や、白金細工の小さな魚の置物などがここには保管されている。つい先日まであったソロモンの指輪は、買い手がついたためこの部屋にはない。
そして、今セアンがいる十六番目の罎の部屋。
形のない品物を閉じ込めておくのがここにある罎の役割だった。
「この列は終わり。次は、と」
今度の水晶の罎の一群には青く透明な液体が入っていた。これは『声シリーズ』であるらしく、並んでいる罎のラベルには『トロールの声』から『吟遊詩人の声』まで種類が豊富だった。
「セァン」
二、三本、罎を磨いたところで部屋のドアが空いた。罎磨きに熱中している間に氷翠は帰って来ていたらしい。
「……何?」
最初の印象が悪すぎてセアンは未だ氷翠と真っ向から顔を合わせるのが苦手だった。つい睨みつけてしまう。
「今日はもういい」
闇を凝縮させたような声にセアンの心臓は縮まった。勝手に店の品物を他人に譲ったことを見抜かれたかも知れない。
「食事だ」
氷翠の言葉に二度心臓が縮まる。夕飯の用意をセアンはまだしていなかった。
「用意をしてないわ」
「外で食べる。その必要はない」
セアンは言葉を聞き違えたのかと思った。何しろここへ来て初めてのことだったので。
「すぐ支度をしろ。まさかその格好では行けぬだろう」
機械油の染み付いたエプロンをつけている自分に気づいて、セアンは慌てて自分の部屋に戻った。
「何だってまた」
文句を言いながら、それでも一番上等の服に着替える。それは初日着ていた白いブラウスと茶色いつなぎのワンピースの揃えだった。
身支度を整えるとセアンは店先に急いだ。
「早かったな」
せかしたのは貴方でしょう? と、言いかけた言葉をセアンは慌てて飲み込んだ。言っても言わなくても、青年にはすべて分かっているように思われた。
氷翠は先に立って歩きだした。セアンがその後に続く。
「また気まぐれですか?」
セアンの皮肉を氷翠は鼻で笑った。
「いい勘だ」
扉を開き、外へ出る。
逃げ出そうとしたときいくら近づこうとしても近づけなかった扉をセアンは難無く通り抜けた。
「私には貴方が分からない」
氷翠が嫌な奴であるという見識は、管理されている温かい品物達によって微妙に変化しつつあった。
「人は自分のことすら十分に分からない。他人は尚更だ。お前は両親の心を全て理解していたか? していなかっただろう」
氷翠の言葉は一々もっともで、セアンはそういうとき言葉が返せなくなる。
「だが、そうでなければ人は生きてゆけぬ生き物だ」
セアンには氷翠がとても遠くの存在のように思えた。あまりにも視点が違いすぎる。
氷翠とは一体どんな存在なのだろう?
不意にセアンは気になった。幾光年も先を見ているような底のない青の瞳。それは全てを知る隠者の目だ。
月は半月よりも少しだけほっそりとした姿で中天に浮かんでいた。西にはまだ夕日の赤い光が地平にへばり付いている。
二人は家路につこうとしている者達に逆流する形で大通りを進んでいった。そして三番通りまで来ると、おもむろに左折した。
「この店だ」
ためらいもなく店に入ってゆく氷翠。セアンはその店の看板を仰ぎ見て圧倒された。
『飲食店セフィラ』
巨大なビアジョッキの形にくりぬかれた看板が二階のテラスからつるされてあり、そこに刻まれた文字を確認するとセアンは視線を落とした。
その名の通り、生命力みなぎる熱気が肌の表面を撫でるようだった。店の中からは地を揺るがすような笑い声が絶えず聞こえ、氷翠がこの店を選んだことが意外だった。
セアンは恐る恐る店に足を踏み入れた。途端にむせ返るような酒の匂い。喉から胃の腑に芳醇な香りがストンと落ちてくる。
「いらっしゃい」
威勢のいい声にセアンは悩んでいるのが莫迦らしく思えてきた。思えば病から解放された後、活気のある場所に足を踏み入れたのはこれが初めてだ。
「セァン、こっちだ」
一番奥の席で氷翠がセアンを呼ぶ。
「カモ料理にサラダのセットを三人前。それにアイオライトを一瓶」
近寄ってきたウェイトレスに注文すると、氷翠は椅子に深く座り直した。
セアンは何故三人前なのだろうと思ったが、それを聞く前に氷翠が話しかけてきた。
「こういうところに来るのは初めてだろう」
騒がしい店内にありながら氷翠の声は良く通った。
「……当たり前よ」
椅子に腰掛けると、ちょっと顔を背けてセアンは答えた。少女の様子には別段気も止めず、氷翠は運ばれて来たグラスの水に手を伸ばした。
細くしなやかな指がセアンの目の端に映る。大きな掌だった。長い黒髪が頬にかかり、深い青の瞳をさらに奥へ隠している。濃藍のローブの袖が重力にしたがって机の上から滑り落ち、彼女は布の描くカーブの美しさに目を取られていた。
「お前は今日一日、何を考えていた?」
唐突な質問にセアンは氷翠を観察するのをやめた。
「何故?」
答えはすぐ言えたがセアンは理由を聞きたかった。この一カ月、氷翠は彼女自身のことを何一つ聞いたことはなかったのだから。
「コレクションはコレクターに管理されなければならない」
聞くと同時にセアンは立ち上がっていた。
「私は生身の人間よ! 確かに私は貴方が言うように人間的には価値がないかもしれない。でも、私は――」
続く言葉が見つからなかった。言いたいことがあるはずなのに言葉にならない。悔しくて、言葉の代わりに涙が出た。
「……私は……」
泣き顔を見せまいと涙が滲む端から拭うが、嗚咽は止まらなかった。
「座れ」
素直に座るのは癪だった。しかし、セアンの声の大きさにあまりにも人の目が集まり過ぎていたので従う以外なかった。
「料理、ここに置いておきますね」
沈黙した二人の間に気まずそうなウェイターの言葉が流れた。セアンはうつむいたまま視線の先にある自分の膝を見つめた。
いたたまれなかった。この先、氷翠が自分を人として認めることはないのだろうか?
考えれば考えるほど心は沈んでゆく。
(帰りたい)
相変わらず店の中は賑やかで、そのことが一層セアンの孤独感を深めた。この明るく活気に満ちた空間の中において、彼女ほど場違いな所にいると感じている者はいなかった。
「あの……氷翠さんですか?」
会話は途切れたが、沈黙は長くは続かなかった。声があり、氷翠が顔を上げる。セアンは赤くこすれた顔を見せたくなくて下を向いていた。
「ああ」
氷翠が席を立ち、セアンの隣の椅子に移った。青年に代わって正面の席に声の主が座る。
「……」
前の席に座った人物は一言も声をかけずにセアンのことをじっと見ているようだった。
セアンはいよいよ気まずくなって顔が上げられずに困惑した。心臓が不整脈を打つ。
無言の食事が進んだ。
だが、あまりに長い沈黙に耐えられなくなってチラリと相手の顔を盗み見たセアンは、そのまま一気に顔を上げた。
頭の上の方にまとめられた焦げ茶の長い毛髪。未だ白さを誇る肌。顔には笑いジワが細かく刻まれている。セアンと同じ淡い緑の目を細め、優雅な物腰の婦人が木洩れ日のように微笑んでいた。
「お母さん」
懐かしさで胸が潰れそうだった。
一カ月。たった一カ月顔を見なかっただけなのに。止めたはずの涙が再びあふれ、しばらく止まりそうもなかった。
「積もる話もあるだろう。私は先に帰るがここでゆっくりして行くがいい。代金は先に払っておく。思う存分楽しむがよかろう」
酒を一瓶空けてしまうと氷翠はすぐに去っていった。
「どうして、ここに?」
嗚咽に途切れる言葉はひどく聞きづらい。けれど、セアンの母ルアは小さく頷いて答えた。
「あの人が帰った日の夜、氷翠さんの使いが知らせてくれたのよ。お前の身柄は自分が預かるから心配するなとね」
驚きに涙が止まり、セアンは先程まで青年の座っていた席に目を移した。
空っぽな席。そこにはもはや温もりすら残っていないように思える。
「お父さんは?」
「あの人はお前に会わす顔がないって、宿屋に」
料理にナイフを走らせながらルアは続けた。
「明日、街を発つの。アルビレオの方へね」
「引っ越すの?」
「ええ。もう前の家は売ったのよ」
母の言葉に衝撃を受けながらもセアンはそれを批判するつもりはなかった。氷翠の言葉を思い出したからだ。
「でも、アルビレオに行く前に氷翠さんに話を持ちかけて本当に良かったわ。また一緒にいられるわね、セアン」
本当に嬉しそうに話す母の姿を見ていたらセアンは申し訳ない気持ちで一杯になった。両親にはもちろん氷翠に対しても。
(自分の気持ちに振り回されるだけで私は誰の気持ちも思いやることができなかった。自分に向けられた思いやりにすら気付けなかった)
心の中で反省しながらもセアンは聞くべきことを口にした。
「どういう事なの? お母さん」
「お前は解放されたのよ」
言葉が時を止める。母の声は聞こえてはいたが、心が感情を生み出すのを忘れてしまったのかセアンは自分の気持ちがよく分からなかった。
「あの人、私のことが邪魔だったのかな」
一本調子な娘の声に、ルアは何か悟ったような顔になってゆっくりと首を振った。
「私がお前の代わりになるものを氷翠さんに払ったのよ」
つい数分前に帰りたいと思っていた心が突然かき消えた。
「お前はこのまま私達と一緒にこの街を出て行ってしまってもいいのよ?」
「行けないわ」
口をついて出た言葉を頭の中で反芻する。そう、このまま一緒に行くことなどできない。まだ自分は氷翠のことを何も知らない。
(私……)
こんな気持ちがいつ育ったのかセアンにはまるで覚えがなかった。
「どうして?」
悪戯っぽく笑いながら尋ねる母に首を傾げつつ、セアンはしばらく考えた。
「このまま帰ったら、私は一生後悔する。そんな気がするの」
それに、とセアンは続けた。
「もし戻っても私にはお父さんとうまくやっていく自信がない。きっと今までのようには戻れないから」
その言葉を聞いてルアは店の天井が抜けてしまいそうに明るい声で笑った。
「お前が十五を待たずに死ぬってお医者様から聞いたとき、私もラノスも魂が擦り切れるくらいお前の回復を神に祈ったわ。お前が普通の人のように六十年でも生きられるのなら他に何もいらないってね」
目尻に滲んだ涙は決して生理的なものだけではなかったが、ルアはうまくそれを隠した。
「お母さん」
「本当はお前が嫌がっても無理にでも連れていくつもりだったわ。けれどそれは無理みたいね」
目尻の涙を人差し指で拭いながらルアは続ける。
「生きていてくれればいいの。それだけでいいのよ。ラノスだってきっとそう思っているわ」
心配でないはずがなかった。無理に明るさを繕う母。どれだけ礼と詫びを言っても事足りない。
「……ごめんなさい……」
「何言ってるのよ。さ、楽しみましょう? 冷めてしまったらこの料理を作ってくれた方にも、この料理にも――何よりこの時間をくださったあの方にも失礼だもの」
セアンはにっこりと笑ったつもりだった。けれど、頬を水よりもずっと軽く温かい液体が流れてゆくのを彼女はどうにも止めることができなかった。
価値を見つける。
それが自らに課せた命題。
では、価値とはどこにあるのか?
それは世界の果てにあるものかも知れず、また、案外自分の背後にぴったりと寄り添うほど近い所にあるものかも知れなかった。
頬が夜風に冷える。帰り際、母に口づけされた部分だけがほんのりと温かい。
(私は信じるわ)
今まで見えていなかったことが見えるようになった。もちろん、認識は未だ不十分過ぎるだろう。それでも誰もが自らの価値を見つけ出せる可能性を持っているはずなのだ。
母との再会はこの一カ月の間セアンの胸にこびりついていた不安を払拭してくれた。
自分が塵のような存在に思え、どんなにあがいても心にできた闇の穴から抜け出せない気がしていた。心臓にヒビが入っているかのように常に胸が痛かった。あまりの忙しさにそれについて考える時間もなかったため、明確な形をなさない不安は逃げ出そうとするセアンの上にのし上がっては彼女の心を押し潰そうとしていた。
信じ続けること。
それはある意味、価値を見つけることよりも難しいことかもしれない。小さな傷が椀を割るようにささいな事で壊れてしまう氷の器だ。けれど……
――ティリリィィィン――
扉を開けるのは少々ためらわれた。
母はセアンの代償となるものを既に氷翠に払ったと言っていた。今更睡月湖亭に戻ったらこの店の主人は何と言うだろう?
「……セァン、か。帰らなかったのか?」
湖面のさざ波を思わせる靜かな声だった。感情は一切そこには含まれていないような印象を受ける。
「貴方こそここで何を? いつもなら部屋に入っている時間だわ。何故、広間にいるの?」
ひるまずに言い返すセアン。氷翠は腰掛けていたどっしりとした椅子から立ち上がった。
闇の中で月光の細い光だけが青く透き通り、氷翠の居場所を伝える。
「お前が戻ってくるような気がしていた」
心の琴線に、何かが触れた。
「何故?」
「何故だろうな。私にも分からない」
そのまま問い詰めてもこれ以上の答えは望めなかったので、セアンは質問を変えた。
「母は貴方に何を渡したの?」
「それはお前の目で確かめるがいい。その棚の上だ」
氷翠が右手に指し示した棚に近づく。棚の木目に沿って彫られた細工は、闇に沈んでほとんど見えなかった。
「……これは」
触れる。馴染み深い手触りに、セアンはすぐにそれが何であるか知った。
「お前のドールハウスだ」
屋根の角が少し欠け、二階部分の一番右端の窓の留め金がなくなってしまっている。それはセアンの宝物に間違いなかった。
「私の取引するものの中には、思い出という名の商品もある。これは、そこに分類されるものだな」
「……これは取引の材料にはできないわ」
セアンはドールハウスを両手でしっかりと抱き締めた。すると、この人形の家に染み付いた数々の思い出が滲み出しては再びセアンの中に帰って来るようだった。
「お前はここから出て行きたいのではなかったのか?」
もっともな意見にセアンは首を横に振った。
「つい先まではそう思ってた。けれど、私は分かったの。このままここを逃げ出しても私は今までのように何も考えず生きてはいけない。私はきっと考え続けるわ。私が何者であるか。価値や考え方に私なりの回答を見つけだすまで。そうするには打ってつけの場所でしょ? ここは」
「そうか」
布ずれの音がした。氷翠が歩き始めたのだ。
「お願い。ここにいさせて。掃除でも何でもするから……だからっ」
懇願する自分の姿は少なくとも初めてこの店の戸を叩いたときの自分よりは惨めではないだろう、とセアンは思った。今となってはあの時の態度は恥ずかしいばかりだ。
「セァン、お前の好きにするがいい」
一度だけ足を止めて氷翠は呟いた。溜め息交じりの温もりのある声だった。
「ありがとう」
その瞬間、冷たいだけだった青い光が清浄で心に染みとおる慈しみの光となってセアンの上に降り注いだ。神に対するときのような厳かでいて哀しい奇妙な感覚が体に満ちてゆく。魂の縁を捕らえられてギリギリと絞り上げられるような痛み。そこから沸き上がる諦めのように優しい切なさ。飴細工のようにもろくて美しいものが後から後から胸に込み上げてくる。
それはこの店の品物が触れる人に与える感覚的な影響とよく似ていた。
古くたわんだ長椅子のクッションの温かさ。オリーブの葉と一羽の鳥の彫り込みがある、銀の懐中時計のゼンマイの動く懐かしい振動のように。全ての品物に付随している各々の過去の時間のかけらがそれらの感覚を引き起こすのかもしれない。
今日は既に眠ってしまっているのか、沙翁はその姿を現さなかった。
マナーハ商隊が再びこの街を通過するという知らせは、先発隊が到着するや否やウェイの街に広がった。にわかに街は活気づき、地元の商店は店の棚にある商品の値段を落とした。楽士達はこぞって大通りに集まり、それぞれが得意とする楽器を演奏し始めた。家々の壁には色とりどりの広告用紙が糊付けされ、セピア色の街は手品師のように素早く衣装を脱ぎ代えたようだった。
後続の本隊が到着するまでまだ時間はあった。忙しく活気付いた街において、キャラバンを統べる長マナーハが先発隊の中に紛れ込んでいることに気づいた者はあまりなかった。
マナーハは自分の存在が周りに気づかれる前に指示を出さなければならなかった。すなわち、この街に逃げ込んだラノス夫妻を捕らえる命を。
橙の羅紗布で覆ったソファーの上に座り、大柄な体の男は自らが望んだものが手に入る様を明確に描こうとした。睡月湖亭にあるといわれている『天球の暦』。それが自分の手の中にあるというビジョンを。
けれど、マナーハはその実物を見たことがなかった。思うようにイメージがまとまらず、彼は眉間にしわを寄せたまま目を閉じた。
「失礼するよ」
闇の中から姿なき物をつかみ出そうとしていたマナーハは、精神の集中を乱されてビジョンを描くのを断念した。
「貴女は?」
ゆっくり目を開けると、天幕の入り口の所にほっそりとした女の影があった。夜明けの月のように白い肌。銀糸の光沢を持つ長い髪。ぴたりとしたクリーム色の服を身につけた二十そこそこの若い女だ。腰に佩いた繊細な造りの短剣すら、一世紀に一人いるかいないかの美麗な容姿の前では彼女の雰囲気を作り上げるための一要因に過ぎない。
水滴がしたたり落ちそうな琥珀色の瞳が夜行性の獣のようにじっと見つめている。マナーハは背筋を冷たい氷で撫でられるような扇情的な気持ちに襲われた。
「あんたが睡月湖亭の主人から『天球の暦』とやらを奪い取ろうとした男だね?」
会ったばかりの顔も知らない女に言い当てられて、マナーハは温厚そのものの顔を少しだけ歪めた。
「何をおっしゃっているのか私には少々分かりかねるのですが」
彼は困惑に見える程度にしか顔を崩さず、穏やかな姿勢を保ったまま続けた。
「お客様、マナーハ様をお待ちになっていただけませんか? 本隊はあと五日もせず着くでしょう。あの睡月湖亭の主人と取引をするほど酔狂な方は長様ぐらいしかいらっしゃいませんからね」
人違いを装おうとした男を女は一喝した。
「マナーハ、いいかげんにおし。私はあんたが雇っている男の姉だよ。昨日、あの役立たずは睡月湖亭に行ってね。一旦は『天球の暦』を手に入れたけれど、その日の夜、睡月湖亭の主人に再び奪われてしまったんだよ。全く情けない」
そう言うと女は不敵な笑みを浮かべた。
「莫迦な奴さ。不相応なもんに手を出したりするから右足の骨を痛めたりするんだ。私は弟の仕事を替わりに引き受けてやろうと思ってね」
楽しそうに笑う女の言葉が真実を語っていないことは、その態度から容易に推測できた。マナーハは女に自分と近しいものを感じていた。
「君はその秀麗な姿に似合わず残酷なことがお好きなようだ。弟さんの面倒、しっかり見てやりなさい。君のせいで一生立てなくなったらさすがに後味が悪かろう」
にこにこと笑いながら見た目だけの好々爺は立ち上がった。
「弟の仕事を奪い取ろうとはまあ……気に入った」
部屋の縁にひっそりと置いてあった緑晶塗りの二抱えほどの大きさの壷の蓋を開け、その中から何か塊を一つ二つ取り上げるとマナーハはそれを女に渡した。
「前金だ。早速やってもらいたいことがあるのだが、よいかな?」
女は手渡された宝玉に視線を落とし、にんまりと目を細めた。
「ええ。あたしの名はゾル。こちらこそよろしくお願いするわ」
女は名乗った後、何の汚れも知らないような聖母の微笑みを浮かべた。
夕暮れの強い陽光が一番西側にある鉱物の部屋を朱く朱く染め抜いている。
水晶の小箱の上を滑り落ちて跳ね返った光は、飛沫となって別の石を照らした。暖色系の色の石は窓の光が差す場所に、寒色系の色の石は影になるところに置かれている。そのため黄鉄鉱に結晶した淡い翠色のフォスフォフィライトや、蛍イカの光を凍らせたように青いアウインなどの石は影の中で靜かに輝いていた。
オルゴールが鉄板を弾く音が楽器の部屋から響いてくる。アルビレオの聖歌。その音律には、人一人の命が紡ぎ込まれていると言われている。この曲の作曲者は自ら命を断ち、自分の体にある骨の長さや数を組み合わせて音楽を作らせたのだという。
そのメロディーを聞きながらセアンは鉱物の上にかかっている埃を丁寧に落としていった。ゴツゴツとした剥き出しの天然石の置かれている棚は、特に慎重に埃を払わなければならなかった。
――ティリリィィィン――
鉱物標本の棚から宝飾品の棚に移ろうとしたとき、店の扉の鐘が鳴った。
「セァン、少し待ってもらうように」
奥の部屋から氷翠の低い声が聞こえてきたので、セアンは体についた埃を払うと青の間へ急いだ。
「申し訳ありませんが少々お待ちください」
早口で告げ顔を上げた途端、セアンは息を呑んだ。美しい女性だった。肩からこぼれ落ちる銀の髪も、艶やかな琥珀色の瞳も、人を魅了するためだけに生まれてきたように完璧だ。
「その必要はないわ。今日はマナーハの伝言を届けに来ただけだから。噂の“あの人”に逢いたいのも山々なんだけど」
氷翠をあの人と親しげに呼んだ女に対し、セアンは今までに感じたことのないものを覚えた。
「あんたがセアンね。ふーん……ねえ、あんた氷翠とはどこまでいってるの? 自分のコレクションに加えるくらいだもの。さぞかし深い仲なんでしょう?」
「深い仲って……」
セアンの戸惑う姿を見て、女はさらに疑問を投げかけた。
「まさか一カ月以上も一緒にいて何もなかったわけ?」
明らかに馬鹿にするように笑い出す女。セアンは恥ずかしさが身のうちに育ってゆくのを感じた。頬が一瞬にして熱くなる。自分の無知が暴かれて居ても立ってもいられなくなり、女の前から逃げ出したかった。だが、
「ちょっと待ってよ。あたしはあんたを馬鹿にしに来たわけじゃないの。あんたの両親の命について話しに来ただけ」
女の言葉を聞いて後退りしようとしていた足は止まった。
「無事に返してほしかったら明後日までに『天球の暦』を用意しておくこと。わかったわね?」
セアンは青ざめた。それは昨日、どこの誰とも知らぬ男に与えてしまったばかりの物だった。
「あの」
どうか別の物を替わりに。そう申し出ようとした時には既に女の姿はなかった。
「どうした? 客の姿がないようだが」
氷翠の声がしてセアンは体を強ばらせた。
「……はい」
歯切れの悪いセアンの心を読み取ったのか、氷翠は彼女のすぐ側に近寄ってこう言った。
「『天球の暦』は気候を調べるためだけの物ではない。あれにはこれから起こることすべてが記憶されている。正しく使えば幾人もの人の命を救うだろう。だが、あれは同時に多くの人の命や生活を奪いかねない、人の手には余るものだ」
「貴方は私があれを勝手に人にあげてしまったのを知って……」
氷翠は黙ったまま後ろ手に持っていた小さな地球儀をセアンの手に渡した。
「訳を話し取り戻してきた。これまでの駄賃にそれはお前にやろう。これはお前が招いた事態だ。後は委ねる。いいな?」
期待をかけられている。
直感的にセアンはそう感じた。
(この人に呆れられたくない)
「はい」
真っ向から視線を合わせると、胸が強く脈打つのがわかった。海溝より深い色の青の瞳が両目に焼き付いて離れない。
氷翠は踵を返し、いつものように奥へ引き込んでいった。
『まさか一カ月以上も一緒にいて何もなかったわけ?』
青年が去った後、不意に女の笑い声を思い出してセアンは顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて悔しくて、辛かった。
(この感情は何?)
新たな問が生まれ、頭の中で何度もリピートされる。アルビレオ聖歌のように。けれど、今はまだその答えは見つかりそうになかった。