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I.青い闇の住人

 マナーハの商隊が滞在しているため、ウェイの街は常よりも大きな活気に包まれていた。

 時間軸の早いうちに作られた街、ウェイ。古い建物が多く、鄙びた感じがする街だ。遥か上空から見下ろしたなら、馬車の轍のはっきり刻まれた石組みの舗装の道が、街を東と西に両断しているのが分かる。

 道を南に抜ければ三年前に遷都されたセレスタインが、北に抜ければ聖地アルビレオがある。そのため道は街に富をもたらし、古くから人々がここに集ったのはそういう立地条件にあった。

 ウェイの街の白亜の壁は、東から吹く黄土混じりの風に染め抜かれている。結果、キャラバンが滞在するときに限り、様々な色のテントが張られ、彩りが添えられるのだった。

「あの男の店は西側の八番通りでよかったかね?」

 道の両脇を固める、マナーハ商隊の露店の数々。大道芸の見世物のテント。西国で買い付けた、べっ甲細工の装飾を扱う天幕。その種類は、実に様々である。

 けれど、先に口を開いた男はそれらには全く関心を示してはいないようだ。

 焦げ茶色の髪に白いものが混じり始めた、初老の男だった。短い髪を青と黄色の塗料で縞に染めたターバンで覆っている。同じ模様のチョッキを白い木綿の服の上から着込み、胸にマナーハ商隊の印章を付けていた。男が商人であることは疑いようもない。

「へえ……しかし旦那さん。あそこは止した方が……何を取られるかわかりませんぜ?」

 道を尋ねられた通行人の男は、痩せてシミの浮いた顔を歪めてみせた。

「あんた、見たところ裕福そうじゃないか。みすみす人生に水を差さんでも良かろうに」

 だが、商人の男はさもしたり顔で頷いた。

「わかっている。しかし、私も頼まれたことなのでね。約束を破るわけにはいかんのだ」

 礼を言い置き、商人の男は西側に位置する八番目の路地を進んでいった。


 何故かその路地には全く人気がなかった。あまり陽光も差し込まず、青い影が男の周りを付きまとっている。大通りの騒がしさも、さすがにここまでは届かないようだった。

 商人の男はふと寒気を感じて腕をさすった。中央通りには陽炎すら発生しているというのに、路地は天井のない洞窟のように寒かったのだ。

「……早く用を済ませてしまおう」

 一息ついて路地の突き当りまで進む。すると、見るからに怪しい屋敷がそこにはあった。

 扉には引き裂かれた黒っぽい襤褸(ボロ)が、絡み付いたクモの巣と一緒に風に揺れている。壁には何度も修復した跡があり、子供が戯れに砂で作る城よりも粗末で、不出来に見えた。

 だが、商人の男はその見せかけの様相には目もくれず、自分が引くべき真鍮製の取っ手と、扉の蝶番にこそ注目していた。どちらも使い込まれた金色の光沢を放っている。それはここが廃墟ではないことを無言で物語っていた。


 ――ティリリィィィン――


 金具が噛み合う音と共に、小さな鐘の音が靜かで暗い室内に響く。

 男は少しだけ顎を上げた。

 闇が店内に降り注いでいた。否、それは魂までも染め抜きそうに透明な青の光。体の底に沈殿してゆく、何処までも深い菫青石の色。天窓に填め込まれた青い硝子による演出は、湖の底よりも靜かな空間をさらに奥行きのあるものにしていた。

 男は息を呑んだ。高い天井からかかる光の梯子は音も無く舞い降り、その手を差し伸べる。目は釘付けになっていた。

「何の用だ」

 突然の低い呼びかけに男は我に返った。手放した魂を引き寄せるように深呼吸を一つし、見くびられぬよう野太い声を出す。

「商談を持ってきたのだ」

 闇の中にいる相手の顔を見定めるため、商人の男は目を細めた。

 輪郭がおぼろげに浮かび上がる。顎の線の鋭さ、通った鼻梁。彫の深すぎない顔かたち。青い光を受け、時折光る双眸。その人物は、長いローブを波のように揺らめかせ、足から根でも生えているのか、微動だにしなかった。

「人にものを頼むときは自分で来いと主に伝えるがいい」

 言い置くと踵を返し、店の主人は去って行こうとした。商人の男は闇の中に溶け込もうとする相手の足に慌てて縋り付いた。

「待ってくれ。御主人様は――マナーハ様は代わりに、どんなものでも貴殿に進呈すると申しておった。嘘ではない。ここに預かった封書も印章もある」

 引き留めながら、男は胸の印章を千切り取って相手に差し出した。

「氷翠よ。どうか申し出を断らんでくれ」

 声を震わせ懇願する様は先程までの態度と打って変わりなんとも弱々しいものだった。無防備な、年の割にはあまりにも無防備なその姿。

 氷翠と呼ばれた男は小さな溜め息を吐いた。

「娘が病か。年の頃は十五、六……花嫁姿も見られぬのはさぞ口惜しかろう、ラノス」

 言い当てられてラノスと呼ばれた商人の男は目を見開いた。

「私との商談を成功できたのであれば、病の治療に必要な物資はマナーハが負担する。そう取り決めがなされているようだな」

 ラノスは答えなかった。それが答えだった。

「体裁を繕わぬ親バカ振りが気に入った。お前には薬をやろう」

 だが、と氷翠は付け加えた。

「商談のことは忘れるがいい。自分の足を使わぬ輩は問題外だ」

 ラノスは氷翠の足を離したが、不安そうに氷翠を見上げて言った。

「代金は……」

「気にするな。ほんの気まぐれだ」

 無関心そうな響きに商人の男は口をつぐんだ。氷翠の心変わりを恐れて。

「ここで少し待っていろ」

 足音も無く奥へ引き込んでゆく氷翠の背中をラノスは不可解な気持ちで見つめ続けた。

 床の下の銀のひらめきに、男は気づかなかった。


 時間という観念が無意味化している正午。空を流れる雲を眺めていると、時は昨夜の夢よりも早く過ぎてゆくようだった。取り留めも無い考えが次々に湧き起こり、肉体の存在を忘れさせる。

 陽光によって茶色に透けている髪に一陣の風が吹き付けた。頬をくすぐる細い毛先を掻き上げながら少女は淡い翠玉の瞳を下方へ向けた。

 何もかもが小さかった。幼いころ父に買ってもらったドールハウスのセットのように。

「本当にいろんな色の天幕があるわ……」

 大通りに面した宿屋の窓からキャラバンの様子をうかがうのが彼女の唯一の楽しみだった。聞こえてくるざわめき声や音楽。風に微かに混ざった香辛料の匂い。それらはいつも少女の心を沸き立たせる。

「セアン、入るよ」

 再び想いを廻らそうとしたとき、来客が部屋のドアを叩いた。

「どうぞ、お父さん」

 慌ててベッドに戻り、少女セアンは首元まで上掛けを引き寄せた。

「どうだい? 調子は」

 扉の前には少し腹の出た中年の男がいた。両手に小さなトレイ。父と呼ばれた栗毛の男は気遣いの言葉を投げかけながら、ベッドの側にある介護テーブルの上に運んできた水差しとグラスとを置いた。

「今日はとても気分がいいわ。……ねえ、お父さん。外に行ってもいいでしょう?」

 猫なで声で甘えると、男は小さく肩をすくめた。

「薬の時間だ。どちらにしろまずはこれを飲んでからだよ」

 白い包みをセアンに渡すラノス。すると少女は細い眉を寄せた。あからさまに不快感を訴える。

「苦いのは嫌」

 どんなに上手く飲み下そうとしても大抵の場合、薬は喉に張り付いてなかなか落ちていってくれない。苦さが最低一時間以上は口に残るので、日に三回の薬の時間をセアンは一番の苦手としていた。

「またそんなことを言って……投薬を続けなくてこの間のように熱が下がらなくなってしまってもいいのかい?」

 口をつぐむセアン。彼女は上半身を起こすと無言でグラスに水を注ぎ、包みを開けて薬を飲み込んだ。

「どうだい?」

 父の言葉にすぐに反応が返せなくて、セアンは視線を頭の上の方に向けた。

 その粉はセアンに深い青色の景色を見せた。海蛍の光を一点に凝縮させた、神秘的な景色を。

 幾億年も昔に凍った氷柱が解け出したような味が口の中に広がった。そこに根付く、永遠とも呼べる途方もない静寂が深遠の青い闇と光の明滅を見せる。

 視覚、聴覚は麻痺していた。

 視界一杯に広がる冴えた青色の光。空気そのものに青という色素が溶け込んでいるようだった。雪が降り積もるときに似た靜けさという名の音が、重く、重くのしかかってくる。

 突然それは水へと転じた。体に纏わりついているはずの衣服の感触は無く、ただひたすら下へ沈んで行くような幻影。息は苦しくなく、一尾の魚のように不自由がなかった。寒くもなく、熱くもなく、心地よい波のうねりが母の腕のように自分を抱いている。

 次の瞬間、セアンは体の細胞が泡になってバラバラに分解される錯覚に襲われた。炭酸の泡が水の中を昇っていくように、原子レベルに溶け出して新しい体が再構築される。外皮から脊髄まで、すべてが新鮮なものに生まれ変わってゆく。

「――セアン、大丈夫か?」

 体を揺さぶる父の腕にセアンは現実へ引き戻された。

「……お父さん、この薬は……」

 まだはっきりとしない意識のまま、セアンは手の中の紙をテーブルの上に置いた。

「それは」

 ラノスは言うべきかどうか悩んだ。

 睡月湖亭の主人から譲ってもらった薬だと言ったら、娘はどう思うだろう?

「いつもの薬とは全く違う……答えて」

 強い口調に妻の面影を思い浮かべながら、ラノスは溜め息を漏らした。言い出したら聞かないところなど、まるでそっくりだ。

「……睡月湖亭へ行ってね、氷翠という方にいただいてきたものだよ」

 嘘をつけば見破られることは必須。渋々正直に答える父に、少女の顔は歪んだ。

「睡月湖亭ですって?」

 先程の効果の余韻が見えない波紋になって体に共鳴する。セアンはそれにはかまわずベッドから完全に起き上がると、介護テーブルを押しのけて父親に詰め寄った。

「何を代わりに要求されたの? まさか自分の命の蝋燭を幾年か分、その氷翠っていう人に代金として支払ったとか……」

「そう矢継ぎ早に言ってくれるな。氷翠は何も要求しなかったのだよ」

 セアンには父の言葉が信じられなかった。

 睡月湖亭――それは様々な珍しい品物を集める骨董屋の名前である。東区と西区、それぞれ一番から八番まである通りの西側の八番通りにあるその店は、いつからともなくそこに存在していた。歴史の表舞台に出ることはなかったが、大きな戦や多くの事件が解決された背景には常に睡月湖亭の名前が陰に付きまとっていたという。

 何故か?

 骨董を扱うだけではなかったのだ。睡月湖亭という店は。そこでは人知の及ばぬ不可思議の領分に存在する品物が主に商いの対象になっていた。例えば、成分的にはただの麦粉にあれど癒せぬ病の一つとてない万能薬であったり、感情を刃に変化させる七宝細工の筒のような――

 店の主人、氷翠が一体どれだけの刻を生きてきたのか知る者はない。ただ、睡月湖亭の品物の代金が金ではなく、取引した物に相当する価値を持つ『何か』であることは知られていたので、人の命を代金としているのではないか? という噂がまことしやかに囁かれていた。

「気まぐれ、と言っておった。だが、私はそれでもよかったんだよ。お前が丈夫になるのであれば」

 父の顔が崩れる。目尻や口元に多くの皺が寄った。

 ――父は年を取った  

 セアンは漠然とそう感じた。けれど、

「……気まぐれ」

 自らの命が粗末に扱われたような気がしてセアンは唇をかんだ。

(では、その睡月湖亭の主人、氷翠が気まぐれを起こさなければ私は……そんなにも軽いものなの? 私の命は。個人の気まぐれで生かされてしまうほどに)

 そう思うと胃の腑が煮えそうに熱くなった。自尊心が炎症を起こす。

「さあ、もうしばらくお休み。明日、家へ帰ろう。睡月湖亭の主人は嘘はつかぬと聞く。ルアも喜ぶだろう」

 一人故郷の街に残してきた妻の喜ぶ顔を想像して、ラノスは朗らかに笑った。

「……うん……」

 父に言われるとおりに掛け布の中に潜り込み、けれどセアンは眠りにつくことができなかった。

 憤りの熱が体から離れない。それは病がもたらす、思考能力さえ奪ってしまう熱とは明かに違っていた。

 ――遥か遠くの空には、蒼白い三日月が昼の主役である太陽の光に隠され、靜かに浮かんでいる。


 マナーハの怒りを買って後悔しなかった者はなかった。彼の扱う様々なすばらしい売り物の中で、それだけが今世紀最大の粗悪品だった。最果てまでも追って来る男のしつこさに、蓄音機すら閉口してしまうほどだと彼を知る人はよく噂していた。

 そのため父娘はいち早くこの商隊を抜けなければならなかった。商談の失敗。ことに、今回のように特殊な相手との商談は一度しくじると後がない。

 正確に言えばマナーハの機嫌を損ねるようなことをしたのは氷翠である。だが、娘の命を救った相手を売るようなことはラノスにはできなかった。

 仕事と私事を区別し生きるのは当然のこと。そう信じてラノスは半世紀生きてきた。けれど、娘が死に近づくにつれ考えは変わった。

 全てを引き換えにしてもいい。

 体の老いに気づいたとき、何をこの世に残せるかラノスは考えた。商人の手腕で名をはせたとて、一世紀を待たずして人々は忘れ去るだろう。けれど、血は残る。子孫は残るのだ。

 だからラノスは仕事を私事のために利用することにした。勝手であると非難されようがかまわない。そう心を決めた。

 文字盤の針が三を指した頃、ラノスは目を覚ました。頭は冴え渡り、綴じ目の闇は開け目の闇に転じただけで眠気は全く残ってなかった。

 ムクリと起き出す。身の回りの品は既に小さく部屋の隅にまとめてあった。

 ラノスは素早く身支度を整え、セアンの泊まっている部屋に移動した。

「セアン、セアン」

 小さな声で呼びかけながら扉を叩く。靜まり返った廊下に思った以上に高い音が鳴り響いた。

「……」

 沈黙。ラノスは辛抱強く呼びかけた。が、答えはない。

 商人であることをやめた男の心に不安の風が吹き抜ける。胸の辺りの何かが欠けてしまったような感じを覚え、ラノスは恐怖した。

 すぐさまノブに手をかける。鍵は空いていた。月光の銀の光が室内に降り積もり、靜けさに耳鳴りがしてくるようだ。

「……セアン」

 力無くつぶやくラノス。空っぽになったベッドの上で皺のついたシーツだけが青い影を落としている。

 小鳥は自由に動く翼を得た。そのため、開けたれた扉から外の世界へ旅立ってしまったのだ。

「セアン」

 もう一度娘の名を呼び、ラノスは荷物を取り落とした。感情が麻痺してどうしていいのかわからない。

「氷翠……お前なのか?」

 ようやく紡ぎ出した言葉をラノスは苦い思いで噛み締めた。

 そう。睡月湖亭の主人は取引したものに相当するものを相手から奪ってゆく。そして、それを取り戻すことは絶対に不可能なのだ。

 ラノスは乾いた喉を少しでも潤そうと唾を飲み込んだ。すると、煙草の脂の匂いが鼻孔を突いた。

「――私はルアの元に帰るよ、セアン」

 しばらくしてから、ラノスはそう呟いた。夢の中の独り言のように。

 一方的な別れ、決別。

 哀しみや淋しさよりも、ただ喪失感だけが胸に寄せてくる。セアンという人物に対する親しみや愛しさが一時的にスパリと切り落とされ、空虚なものが体を支配していた。

 荷物を背負い直して部屋を後にする。

 ラノスが去った後、夜の闇は徐々に白んでいった。


 睡月湖亭の扉の前に着いたとき、セアンは少なからず緊張していた。人の知り得る限り古い時代から存在していると言われている骨董屋が目の前にある。

 古ぼけて今にも崩れ落ちそうな漆喰の壁。触れば風がこの塊を全て砂にし、運んでいってしまいそうだ。ささやかな月明かりの中でも見分けられる白い壁に黒い扉。対照的な色合いはその色と色との境目に歪みを生んでいるような錯覚を引き起こす。

 震える手を把手に掛ける。と、掌の冷ややかな感触が腕を伝って食道を滑り落ちていった。薄荷のように冷たいそれは、腹の底に沈むとじんわりと体に染み込んだ。緊張が薄らぎ心が靜かになる。

(何も迷う必要はないわ)

 親の側を離れたのは初めてだった。温かい場所に保護され生きてきた十六年間。優しい両親は様々な治療をセアンに施した。しかし、そのどれもが気休めでしかなかった。

(私は許せないからここに来たのよ)

 大切にされればされるほどセアンは自尊心を肥大させた。愛されているのだという自信は、自分は愛されるべきだという傲慢をも育てていたのだ。


 ――ティリリィィィン――


 小さな鐘の音。空気を震わすその音は、繊細でいてどこにいても聞こえてきそうな程に鋭い。セアンは外よりも昏い室内に足を踏み入れた。

 途端に足に絡み付いてくる冷気。それはふくらはぎをはい上がりセアンを不安に陥れる。

「何の用だ」

 突然、地の底から響いてくるような低い声が空間にこだました。セアンは肩をギクリと強ばらせ、鼻先も見えない闇の中で声の主を賢明に捜した。心臓が早鐘を打つ。

「……ほう、お前は」

 小さな布ずれの音にセアンはいよいよ体を堅くした。が、

「そう肩を張るな。今明かりを点けてやる」

 言うが早いか小さなオレンジの炎がセアンの瞳に写る。同時に、睡月湖亭の主人の姿をもその燭台は照らし出した。

 セアンは息を呑んだ。浮かび上がったのは未だ年若い男。その姿はウェイの街ができたころから住みついていると言われる者の外見にしては若すぎた。しかし、瞳だけは出口のない闇に捕らわれ、現世を見てはいないように深い。

「セァンだな」

 名を言い当てられても、セアンは驚きはしなかった。氷翠にはその不思議を納得させるだけの雰囲気があったのだ。

「改めて聞こう。何のためにここへ来た」

 セアンは氷翠をきつく睨みつけた。

「何故私を助けたの? 貴方にとってそれが気まぐれであったとしても私には納得できない。私の命はそんなに安いものじゃない」

 語り切れない感情が言葉の端々ににじむ。胸倉をつかみかねない勢いでまくし立てると、セアンはグッと拳に力をいれた。

「……父も母も私を愛してくれたわ。これ以上ないくらいに。けれど、貴方は父と母の愛情を踏みにじった」

「そして、お前はその愛を裏切ったというわけだ」

 氷翠の言葉の意味が、セアンには一瞬理解できなかった。

「お前の考えはあまりにも浅い。――マナーハの与えた仕事を結果的に蹴ったお前の父は、先程街の外門をくぐったようだ。本来、ラノスはお前を連れて逃げ出すつもりだったはずだ。だが、お前は父の目を忍んでここへ来た」

 氷翠の端正な顔が皮肉気に歪む。

「そんなことお父さんは一言も……」

「言えるはずがなかろう。マナーハが雇っている情報屋のことを考えるのであれば」

 セアンは寒さのせいでなく体が凍りついてしまいそうな気がした。自分の愚かさを認めざるを得ない。

「ラノスは私がお前を奪ったと思っていることだろう。だが、お前の父は私からお前を取り戻すことを断念した。そうである以上、お前は私のコレクションの一つだ」

 氷翠の言葉にセアンは目を見開いた。

 物と同列に見なされる屈辱。反発感が胸を塗りつぶしてゆく。知らず知らず視線はさらにきつくなった。

「私は代金を払いに来たの。貴方のコレクションなんかになるつもりはない」

 憎悪に近しい感情がセアンを支配していた。

「あの薬の代金はここに置いておくわ」

 荷物の中から持ち出した宝飾類を足元に置き、セアンは踵を返した。

 今ならまだ父に追いつけるかもしれない。淡い期待が胸にはあった。

「……」

 氷翠は無言だった。引き留める素振りすら見せない。

 セアンは速足で入り口の扉へ戻ろうとした。が、いつまでたってもたどり着くことが出来ない。焦りが次第に募ってゆく。それに比例して足は速まっていった。

 天窓が陽光を取り入れ始める。青く靜かな光が室内を満たし始めたとき、セアンは絶望のうめきを上げた。

 壁が見当たらない。入ってきたはずの扉も。

 体から力が抜け、セアンはその場に座り込んだ。両手を膝の上につき大きく息を吐く。体が火照り、床の冷たさが心地いい。

 その床の上を青い光が踊った。セアンは天井を仰いだ。

「……あおい……光?」

 湖底から水面を望むような色彩は少女にしばらくの間、現実を忘れさせた。青、碧、蒼。波打つ湖面が色を分散させるように移り変わってゆく光。

 コツンと床に何かが当たる衝撃がしてセアンは再び視線を落とした。

 床の下で銀色のものがひるがえる。よく見るとそれは両腕を広げたくらいの大きさの魚の腹だった。床は透明な玻璃で出来ていたのだ。

「どうやら沙翁に気に入られたようだな」

 後ろから声がしてセアンは急いで振り返った。すぐ後ろに氷翠がいた。

「これは返す」

 氷翠はセアンが渡した宝石類を放った。それらは青い光を受けてきらめきながら結晶化した雨のように床に落ちた。

「先程お前は自分の命の値はそんなに安くはないと言っていた。が、それは違う。今のお前に価値はない。お前はその病のせいで十六にしては経験が乏しすぎる。価値についての見解もあいまいだ」

 反論しようとしてセアンにはそうすることができなかった。青年の言葉はあまりにも正しすぎた。

「ついて来るがいい。お前を部屋に案内してやる」

 返事も聞かずに歩きだした青年の後ろ姿をセアンはぼんやりと見つめた。

 ――お前に価値はない。

 氷翠の言葉が脳裏に刻み込まれる。芯を持たない自尊心が音を立てて崩れてゆくのがわかった。

 再び銀の魚が天井である床をその口先でコツンと突いた。セアンは思い出したかのように立ち上がった。

 その時ふと、父の小さくなった背中が見えたような気がした。

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