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結婚初夜、暗殺されました。  作者: 秋月 もみじ


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第9話 満月の夜の契約


 私は飛んだ。

 吹き荒れる氷の嵐の中へ、迷うことなく。


 氷のつぶてが全身を打ち据える。

 毛皮が切り裂かれ、鮮血が舞う。

 痛い。骨が砕けそうなほどの風圧。

 でも、止まらない。


(お願い、戻って!)


 私はクラウス様の胸に体当たりをした。

 ドンッ、と鈍い音がして、彼がよろめく。

 構えられた手から、圧縮された魔力の塊が逸れ、地下室の壁を粉砕した。

 轟音と共に瓦礫が舞う。


「……ッ、邪魔をするなと言ったはずだ!」


 クラウス様が私を見下ろす。

 その瞳はまだ虚ろで、理性よりも破壊衝動が勝っている。

 彼は私を振り払おうと、冷気を纏った腕を上げた。


 私は彼の手首に噛みついた。

 本気で。血が出るほど強く。

 これ以上、あなた自身を傷つけさせないために。


「がっ……!?」


 痛みに、彼の瞳が一瞬だけ揺らぐ。

 口の中に広がる鉄の味。ごめんなさい、旦那様。

 でも、私は離さない。


 私は噛みついたまま、彼を見上げた。

 真っ直ぐに。

 祈るように。


 私を見て。

 この黒い獣の奥にいる、私を見て。


 クラウス様の動きが止まる。

 荒い呼吸。振り上げられた手。

 しかし、その手は振り下ろされなかった。


 彼は私の瞳を覗き込んでいた。

 アイスブルーの瞳に、私の必死な姿が映る。

 涙を流し、言葉にならない想いを訴える、一匹の狼。


「……その、目」


 彼の唇が震えた。

 狂気が引いていき、代わりに驚愕が満ちていく。


「なぜ、そんな目で私を見る」


 彼は知っている。

 その眼差しを。

 かつて、図書室の陰から彼を見つめていた私の視線を。

 彼が日記に書こうとしていた、『陽だまりのような瞳』を。


 何千回も私の手紙を読み、何万回も私の面影を追った彼だからこそ、気付いてしまった。

 獣の瞳の奥にある、魂の色に。


「……まさか」


 魔力の嵐が、ふっと凪いだ。

 舞い散っていた氷の結晶が、キラキラと光りながら床に落ちていく。


「お前は……エリス、なのか?」


 震える問いかけ。

 私は口を離し、傷ついた彼の手首を優しく舐めた。

 そして、「ワン(そうよ)」と短く、優しく鳴いた。

 犬の声だけど、精一杯の愛を込めて。


 クラウス様が膝から崩れ落ちる。

 彼は私を抱きしめた。

 骨が折れそうなほど強く。


「ああ……ああ……ッ!」


 言葉にならない嗚咽。

 彼は私の黒い毛並みに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。


「ずっと、そばにいてくれたのか。……私が泣いている時も、探している時も、ずっと……!」


 はい、旦那様。

 あなたの不器用な愛も、孤独も、全部見ていました。

 だからもう、自分を責めないで。


「ひぃ、ひぃぃ……っ」


 その時、空気の読めない悲鳴が聞こえた。

 ラドルだ。

 彼は腰を抜かしたまま、出口へと這いずっていた。


 クラウス様が顔を上げる。

 涙で濡れた顔。だが、その瞳にはもう狂気はない。

 あるのは、公爵としての冷徹で、残酷な「断罪」の意志。


「……逃がすと思うか」


 彼は私を抱いたまま、片手をラドルに向けた。


「お前には聞きたいことが山ほどある。……死んで楽になることは許さん」


 パキンッ。

 乾いた音がした瞬間、ラドルの手足が氷のつたに絡め取られた。

 瞬く間に氷は全身を覆い、首から下を完全に凍結させる。

 永久保存の氷柱つらら。生きたままの棺桶だ。


「あ、が……ッ!?」


「そこで見ていろ。私の妻が、還る瞬間を」


 ラドルは物言わぬ氷像となり、恐怖の表情で固まった。


 クラウス様は私を抱き直し、箱の中へ歩み寄った。

 そこには、私の「空っぽの肉体」が横たわっている。

 時が止まったままの、美しい抜け殻。


 クラウス様は、私(魔狼)を、肉体の横にそっと下ろした。

 そして、私の額と、肉体の額を、交互に撫でる。


「戻れるか?」


 彼は不安げに尋ねた。

 私は「分からない」と首を傾げたいところだが、本能が告げていた。

 戻れる。

 でも、何かが足りない。魂を繋ぐための「橋」が必要だ。


 それは魔力であり、そして何よりも強い「呼び声(契約)」。


 クラウス様は察したように、私の前に跪いた。

 彼は私の黒い顔を両手で包み込む。

 その距離、わずか数センチ。

 彼の吐息がかかる。


「エリス」


 彼は私の名を呼んだ。

 今まで聞いたどの声よりも、優しく、熱い声で。


「今まで、怖くて言えなかった。……私の重すぎる愛が、君を縛るのではないかと。私の存在が、君を危険に晒すのではないかと」


 彼は自嘲気味に笑い、それから真剣な眼差しで私を射抜いた。


「でも、もう迷わない。君を守るためなら、私は魔王にだってなってやる」


 彼は顔を近づけ、私の濡れた鼻先に、唇を寄せた。


「愛している。……私の魂のすべてを懸けて、君を愛している」


 その言葉が放たれた瞬間。

 世界が光に包まれた。


 ドクンッ!!


 心臓が跳ねた。

 熱い。

 クラウス様から流れ込んでくる膨大な魔力と、奔流のような感情。

 それが私の魂を掴み、魔狼の器から引き剥がそうとする。


(――行きなさい)


 頭の中に、凛とした声が響いた。

 ノワール?

 本来のこの体の持ち主が、背中を押してくれているのだ。

 『旦那様を頼んだぞ』と。


 視界が白く染まる。

 体が浮き上がる感覚。

 そして、強烈な引力に引かれるように、私は「下」へと落ちていく。


 冷たい、氷のような肉体の中へ。


 怖い。

 あそこに戻れば、また痛みがあるかもしれない。

 一度死んだ苦しみが待っているかもしれない。


 でも。

 あそこには、彼の手がある。

 私の頬に触れている、彼の手の温もりが待っている。


(戻らなきゃ。……彼の隣に)


 私は光の奔流に身を任せた。

 暗転。

 そして、感覚の再起動。


 バチンッ!!

 全身に電気が走ったような衝撃。


 冷たかった指先に、血液が巡る熱さが走る。

 止まっていた心臓が、ギギ、と軋む音を立てて無理やり動き出す。

 痛い。重い。

 肺が焼き切れるように空気を求めて痙攣する。


「……はぁっ……! げほっ!」


 私は大きく息を吸い込み、咳き込んだ。

 地下室の冷たい空気と、誰かの匂いが肺に満ちる。

 生きている匂いだ。


「エリス……!?」


 耳元で、震える声がした。

 私はゆっくりと重いまぶたを開ける。

 

 ぼやけた視界が、次第に焦点を結んでいく。

 そこにあったのは、モノクロの犬の視界ではない。

 色彩に溢れた、人間の視界。


 そして目の前には、くしゃくしゃに泣き崩れた、愛しい夫の顔があった。


「……おはようございます、旦那様」


 私の喉から出た声は、掠れてガラガラだったけれど。

 紛れもない、私の、人間の言葉だった。


 クラウス様が息を呑み、そして私をきつく抱きしめた。

 痛いほどに。

 一度壊れたものを、必死に繋ぎ止めるように。


「おかえり……! おかえり、エリス……ッ!」


 彼の熱い涙が、私の冷たい首筋を濡らす。

 私は鉛のように重い腕を上げて、彼の背中に回した。


 温かい。

 犬の毛皮越しじゃない。

 肌と肌で感じる、彼の体温。


 ああ、戻ってきたんだ。

 私はもう、逃げないし隠れない。

 これからは堂々と、この人の隣で生きていく。


 そして――。

 私はクラウス様の肩越しに視線を向けた。

 壁際で、氷漬けになって恐怖に固まっているラドルへと。


 さて。

 感動の再会の後は、お掃除の時間だ。

 たっぷりと、ツケを払ってもらわなくちゃね。

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