第8話 地下の冷たい棺
その夜、私は一睡もしていなかった。
クラウス様の熱は下がり、安らかな寝息を立てている。
けれど、私の耳は屋敷の深部からの「異音」を捉えていた。
ゴトッ……ズズズ……。
地下深く。
重い石材を引きずる音。
そして、微かに漂ってくる、あの腐ったような焦燥の匂い。
(動いたわね、ラドル)
私が騎士たちを騒がせたことで、彼は焦っている。
クラウス様が回復して本格的な捜査を再開する前に、決定的な証拠――私の「死体」を処分する気だ。
行かせない。
今ここで捕まえなければ、私の体は永遠に失われ、ラドルはのうのうと生き続けることになる。
私はベッドから飛び降り、クラウス様の腕を鼻先で強く小突いた。
起きて。ねえ、起きて!
「……ん……ノワール?」
クラウス様が薄く目を開ける。
まだ熱っぽさが残る瞳。けれど、私の必死な様子を見て、瞬時に戦士の目へと変わった。
「どうした。……敵か?」
私は「ワン!」と短く吠え、扉の方へ走った。
そして振り返り、彼を見る。
『ついてきて』と全身で訴える。
普通なら、病み上がりの主人が夜中に犬の気まぐれに付き合うはずがない。
でも、彼は違った。
「分かった。案内しろ」
彼は迷わずベッドから降り、ガウンを羽織った。
壁に掛けてあった愛剣を手に取り、私の後に続く。
絶対的な信頼。それが嬉しくて、そしてこの先に待つ残酷な真実を思うと、胸が潰れそうになる。
***
私たちは闇に沈む廊下を疾走した。
向かう先は地下ワインセラー。
階段を降りると、冷たく湿った空気が肌を刺す。
匂いが強くなる。
ラドルはそこにいる。
私はセラーの最奥、年代物のワイン樽が並ぶエリアへ飛び込んだ。
「――っ!?」
そこにいたのは、ラドルだった。
彼は壁の一部――隠し扉を開け放ち、中から巨大な「漆黒の箱」を引きずり出そうとしていたところだった。
そばには、運び出し用の台車が用意されている。
私とクラウス様の姿を見て、ラドルは凍りついたように動きを止めた。
「ラドル……?」
クラウス様の声が、地下室に低く響く。
困惑と、疑念。そして、目の前の光景への理解不能な拒絶。
「こんな時間に、そこで何をしている」
ラドルは一瞬で表情を取り繕おうとした。
だが、今の状況は言い逃れができない。
深夜。隠し扉。そして、見るからに怪しげな、空間を歪ませるほどの魔力を放つ黒い箱。
「こ、これは……古いワインの整理を……」
「その箱はなんだ」
クラウス様が剣の柄に手をかける。
ラドルの顔から血の気が引いていく。
「それに、そこはただの壁のはずだ。いつから隠し部屋などあった」
「旦那様、これは……その……預かり物で……」
ラドルが後ずさる。
その隙を、私は逃さなかった。
私は黒い風となってラドルに飛びかかった。
喉笛ではなく、彼の腰元を狙う。
そこから、鋭い金属の匂いがしていたからだ。
ガブッ!!
「ぐああっ!?」
私は彼のポケットに噛みつき、強引に引きちぎった。
ジャラリ、と音がして、床に銀色の鍵が落ちる。
あの黒い箱の鍵だ。
私は鍵を咥え、クラウス様の足元へ放った。
開けて。
早く、これを開けて!
クラウス様は鍵を拾い上げ、ラドルを睨みつけた。
「……動くな。動けば斬る」
殺気を受けたラドルが、腰を抜かしてへたり込む。
クラウス様はゆっくりと黒い箱に近づいた。
それは、「亜空間収納箱」だった。
国の許可なく所持すれば極刑に値する、闇市場の違法魔導具。
中に入れたものの時間を完全に停止させ、永久に保存する棺桶。
クラウス様の指が震えている。
彼も予感しているのだ。
この中に、何が入っているのかを。
「……開けるぞ」
カチャリ。
鍵が回る音が、地下室の静寂を引き裂いた。
重い蓋が、プシューという空気の抜ける音と共に持ち上がる。
真っ白な冷気が溢れ出す。
私は息を飲んで中を覗き込んだ。
そこにいたのは、私だった。
純白のウェディングドレスを着たまま。
まるで、ついさっき眠りについたかのような、薔薇色の頬をした私。
胸には赤いワインのシミ――吐血の跡が、毒々しい花のように咲いている。
死後数日が経過しているはずなのに、腐敗はおろか、死後硬直すらしていない。
あまりにも美しく、生々しい「死」。
「――――あ」
クラウス様の喉の奥から、空気が抜けるような音がした。
彼は剣を取り落とし、箱の縁を掴んで崩れ落ちた。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ……!」
彼は箱の中の「私」に手を伸ばした。
恐る恐る、その頬に触れる。
ビクリ、と彼の肩が跳ねた。
冷たいのだ。
生きているように見えるのに、その肌は氷塊のように冷たく、脈打っていない。
その矛盾が、彼の理性を粉々に砕いた。
「エリス……っ!!」
絶叫が、地下室の壁を震わせた。
それは人間の声というより、魂を引き裂かれた獣の咆哮だった。
「嫌だ! 目を開けてくれ! 頼む、置いていかないでくれ!」
彼は私の遺体を抱き起こし、子供のように泣き叫んだ。
冷たい体を自分の胸に押し付け、必死に温めようとしている。
無駄なのに。
もう心臓は動いていないのに。
私はその光景を、ただ見ていることしかできなかった。
自分の死よりも、彼の姿を見る方が辛い。
私が死んだことで、彼はこんなにも壊れてしまった。
「ひぃっ……!」
ラドルが悲鳴を上げ、這いずって逃げようとする。
その音に、クラウス様が反応した。
彼がゆっくりと振り返る。
その瞳から、理性の光が消えていた。
ハイライトのない、虚無の瞳。
そこにあるのは、世界すべてを呪い、焼き尽くすほどのどす黒い殺意だけ。
「……貴様か」
ボッ!
クラウス様の全身から、青白い魔力の炎が噴き上がった。
地下室の温度が一気に氷点下まで下がり、周囲のワイン樽がパリンパリンと音を立てて凍りつき、破裂していく。
「貴様が、殺したのか」
「ち、違います! 私はただ、運ぶように言われただけで……!」
「黙れ!!!」
轟音と共に、氷の棘が床から突き出した。
ラドルの頬を掠め、壁に深々と突き刺さる。
「殺す。……楽には殺さん。指先から一本ずつ凍らせて、砕いてやる。貴様の心臓が止まるまで、何千回でも絶望を味わわせてやる」
クラウス様が立ち上がる。
その手には剣ではなく、圧縮された暴走魔力の塊が握られていた。
空気中の水分が凍りつき、ダイヤモンドダストとなって舞う。
ダメだ。
今の彼は正気じゃない。
このままでは、ラドルを殺すだけでなく、地下室ごと崩壊して、私たちも生き埋めになってしまう!
何より、彼の手が汚れてしまう。
(旦那様、止まって!)
私は彼とラドルの間に割って入った。
吹き荒れる氷の嵐が、私の毛皮を切り裂く。痛い。
でも、退かない。
ワンッ! と吠える。
私を見て! 私はここにいるの!
「どけ、ノワール」
クラウス様の声は、死神のように冷え切っていた。
私を見ているのに、見ていない。
彼の目には、箱の中の「動かない私」と、それを奪った「敵」しか映っていない。
「邪魔をするなら、お前でも容赦はしない」
本気だ。
殺されるかもしれない。
彼が放とうとしている魔力は、魔狼の私でも耐えきれないほどの質量だ。
でも、退くわけにはいかない。
人殺しになんてさせない。
それに、まだ終わりじゃない。
私の体は、まだ腐っていない。
亜空間収納箱の中で、時間は止まっていた。
毒で心臓が止まった瞬間のまま、保存されている。
なら、希望はあるはずだ。
私は覚悟を決めて、彼に向かって飛びかかった。
その手に集束する魔力の渦へ、身一つで突っ込んでいく。
目を覚まして、クラウス!
あなたの愛する妻は、まだ諦めてないわよ!




