第7話 限界とぬくもり
その夜、限界は唐突に訪れた。
深夜の執務室。
ミランダを追い出した後も、クラウス様は休もうとしなかった。
山積みの書類を片付けながら、魔力通信機で各所の捜索隊に指示を飛ばし続けていた。
「……北の森は捜したか。……そうか。ならば次は地下水路を……」
彼の声は掠れ、顔色は蝋人形のように青白い。
私は足元で、心配そうに彼の顔を見上げていた。
(もう休んで、旦那様。あなたが倒れたら元も子もないわ)
私の願いも虚しく、彼はペンを走らせ続ける。
だが、その手がふと止まった。
カタン。
ペンが机に落ちる乾いた音。
「……っ」
クラウス様が胸を押さえ、苦しげに顔を歪めた。
呼吸が荒い。魔力の使いすぎ特有の、冷たい汗が額に浮いている。
「旦那様!?」
私が吠えるより早く、彼の巨体がゆっくりと傾いた。
支えきれず、椅子ごと床に崩れ落ちる。
ドサッ!!
鈍く重い音が、深夜の部屋に響いた。
(嘘でしょ!?)
私は駆け寄った。
彼の顔を覗き込む。目は閉じられ、意識がない。
頬に鼻先を寄せると、恐ろしいほどの熱気と、それ以上に激しい震えを感じた。
『魔力欠乏熱』だ。
魔力を放出しすぎて、生命維持に必要な熱量まで失っている状態。すぐに処置しないと命に関わる!
ワンワンワン!!
私はありったけの声量で吠えた。
誰か来て! 旦那様が死んじゃう!
すぐに扉が開き、ラドルが入ってきた。
彼は倒れているクラウス様を見て、一瞬だけ口角を上げたように見えたが、すぐに沈痛な面持ちを作った。
「おや……やはり無理が祟りましたか」
その声は冷静すぎた。
慌てる様子もない。
「ラドル! 医者を!」
遅れて入ってきた護衛の騎士が叫ぶ。
しかし、ラドルは静かに手を挙げて制した。
「慌てないでください。……今夜は公爵家の主治医が不在なのです。街の一般医などを呼べば、公爵家の恥になります」
「しかし!」
「ただの過労でしょう。ベッドにお運びして、朝まで様子を見れば回復されますよ。素人が騒ぎ立てては、旦那様の名誉に関わります」
(はあ!?)
私は耳を疑った。
名誉? 世間体?
そんなこと言ってる場合!?
この震えが見えないの? 今すぐ魔力補充薬を投与して温めないと、心臓が止まるかもしれないのに!
ラドルは薄く笑っていた。
『このまま弱ってくれれば好都合』。
『判断力が鈍れば、後妻の話も進めやすい』。
そんな下心が、あの腐った匂いと共に漂ってくる。
ふざけないで。
私はラドルの前に立ち塞がり、牙を剥いて威嚇した。
そして、騎士に向かって激しく吠えたてた。
「ラドルの言うことなんて聞くな! 医者を呼べ!」という意思を込めて。
「ノ、ノワール様?」
騎士が戸惑う。
私はクラウス様の胸に前足を置き、彼がガタガタと震えているのをアピールした。
ほら、見て! この異常な震えを!
騎士はハッとしたようにクラウス様の額に触れた。
「こ、これはひどい悪寒だ! ラドル殿、名誉云々言っている場合ではない! すぐに王都の治癒師を叩き起こしてきます!」
「しかし、手続きが……」
「責任は私が持つ! 公爵様の命より重い手続きなどあるか!」
騎士はラドルの制止を振り切り、廊下へと走っていった。
ナイス判断よ、騎士様! 後で骨付き肉をあげるわ!
ラドルが舌打ちをしたのが聞こえた。
彼は私を睨みつけると、誰にも聞こえないような低い声で吐き捨てた。
「……つくづく、邪魔な獣だ」
***
一時間後。
クラウス様は寝室のベッドに運ばれ、緊急で呼ばれた治癒師の処置を受けていた。
魔力補充薬が投与されたが、失った熱量はすぐには戻らない。
使用人たちが下がり、広い寝室には私と、眠り続けるクラウス様だけが残された。
部屋は冷え切っていた。
北国の夜は残酷だ。暖炉には火が入っているけれど、骨の髄まで冷え切った彼には足りないようだった。
「……寒い……」
うわ言が漏れる。
彼は何枚も重ねた毛布の中で、ガタガタと歯を鳴らして震えていた。
無意識に手を伸ばし、温もりを探して彷徨わせている。
「行くな……置いて、いくな……母上……」
その声は、子供のように心細げだった。
(旦那様……)
私はベッドに飛び乗った。
彼の冷え切った手に、自分の体を押し付ける。
魔狼の体温は人間より高い。そして、魔力の源でもある。
私が湯たんぽになれば、少しは楽になるはずだ。
彼は無意識に私の毛皮を掴み、強く引き寄せた。
「寒いんだ……ずっと、寒かった……」
漏れ聞こえる言葉に、胸が痛む。
彼は公爵家の嫡男として、「感情を殺せ」「完璧であれ」と厳しく育てられた。
母親は彼を置いて出て行き、父親は彼を道具として扱った。
雪の降る日に、一人で屋敷に取り残された記憶。
氷の公爵という仮面の下には、愛に飢え、凍えたままの孤独な少年がずっと泣いていたのだ。
そして今、唯一心を許した妻(私)まで失って、彼の心は完全に凍りつく寸前だった。
「エリス……君も、私を置いていくのか……?」
閉じた目尻から、涙が滲む。
「嫌だ……一人は、もう嫌だ……」
切実な懇願。
私は我慢できなくなり、彼の胸の上に覆いかぶさった。
全身で彼を包み込むように。
大丈夫。
私はここにいる。
どこにも行かない。
私は彼の涙を丁寧に舐め取った。
言葉は届かなくても、体温なら届く。
鼓動なら伝わる。
ドクン、ドクン。
私の心臓の音が、彼のリズムと重なっていく。
私の魔力が、彼の枯渇した器に流れ込んでいくのを感じた。
しばらくすると、彼の震えが止まってきた。
呼吸も穏やかになり、苦悶の表情が安らかなものへと変わっていく。
彼は私の背中に腕を回し、安心しきった顔で深い眠りについた。
その寝顔を見守りながら、私は決意を新たにした。
絶対に、この人を守り抜く。
ラドルなんかに、これ以上彼を傷つけさせはしない。
私を殺したことも許せないけれど、この人をこんなに孤独にさせた罪の方がもっと重い。
夜明け前。
窓の外が白み始める頃、私は彼の腕の中で、ふと微かな匂いを感じた。
彼の服に染み付いた、地下室特有の湿った匂い。
そうだ、彼は屋敷中を探したと言っていた。
でも、ラドルが管理する「あの場所」だけは、まだ捜していないはずだ。
匂いは覚えている。
クラウス様が回復したら、すぐに動こう。
今度こそ、トドメを刺してやる。
私は愛しい夫の額に、コツンと自分のおでこをぶつけた。
(早く元気になって、旦那様。……反撃の狼煙を上げるわよ)




