第6話 招かれざる客とドレス
幸せな朝の余韻は、暴力的な香水の匂いで台無しになった。
昼下がり。
私は魔狼ノワールの姿で、玄関ホールの階段上に座っていた。
鼻が曲がりそうだ。
薔薇を濃縮して腐らせたような、むせ返るほど甘ったるい香り。
玄関の扉が開き、ラドルに案内されて一人の女性が入ってきた。
「まあ! ここがベルンハルト公爵邸ね。思ったより……地味だわ」
目に痛いショッキングピンクのドレスをまとった女性。
ミランダ・フォン・ローゼンバーグ。
南方の侯爵家の娘で、社交界では「歩く宝石箱」と呼ばれている(悪い意味で)。
(何しに来たのよ)
私は目を細めて彼女を睨んだ。
旦那様は今、王城へ報告に行っていて留守だ。
その隙を狙ったことは明白だった。
「ようこそお越しくださいました、ミランダ様」
ラドルが揉み手をして出迎える。
「旦那様もお待ちかね……と言いたいところですが、少々お留守にしておりまして。その間、私がご案内いたします」
「ええ、構わないわ。どうせ私が新しい女主人になるのですもの。早めに『大掃除』をしておかないとね」
大掃除?
嫌な予感がした。
彼女は扇子で口元を隠し、下品な笑い声を上げながら階段を上ってくる。
私は慌てて柱の陰に隠れた。
彼女たちの足音が向かった先は――私の私室だった。
***
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が、私の聖域を蹂躙する。
ミランダは勝手に私の部屋に入ると、ぐるりと室内を見回した。
「信じられない。なんて趣味の悪い部屋なの? 宝石の一つもないじゃない」
彼女は私の本棚を指でなぞり、埃もないのに「汚い」と顔をしかめた。
そして、クローゼットへと歩み寄る。
「まずは、この陰気な服たちを処分しましょう。私の最新のドレスを入れるスペースが必要だもの」
やめて。
触らないで。
それは私が実家から持ってきた、数少ない大切な服なのよ。
ミランダはクローゼットを開け、一着のドレスを乱暴に引っ張り出した。
淡い、空色のドレス。
(あっ……)
息が止まった。
それは、クラウス様の手紙に書かれていたドレスだ。
『春の空のような色だった。とても似合っていた』と、彼が褒めてくれた一着。
私にとって、世界で一番価値のあるドレス。
「何これ。見て、ラドル。こんな安っぽい生地、雑巾にもなりゃしないわ」
ミランダは嘲笑いながら、ドレスを床に放り投げた。
そして、その鋭いヒールで――ドレスの裾を踏みつけた。
ブチッ。
繊細なレースが悲鳴を上げ、無惨に引き裂かれる。
「さあラドル、残りのゴミも燃やしてちょうだい。この部屋を私の色に染め変えるのよ」
プツン。
私の中で、理性の糸が焼き切れる音がした。
許さない。
私の部屋を汚すのは百歩譲って許しても、旦那様との思い出(愛)を踏みにじることだけは、絶対に許さない!
激しい怒りが、腹の底からマグマのように湧き上がる。
体が熱い。
視界が赤く染まると同時に、足元の影がぐにゃりと歪み、黒い沼のように深くなった気がした。
(その汚い足をどけなさい!!)
私は叫びながら床を蹴った。
ただ走るのではない。本能が告げていた。「影を潜れ」と。
次の瞬間、奇妙な感覚が私を襲った。
氷水に飛び込んだような冷たさと、泥のような粘度。
体が物理法則を無視して沈み込み――気づけば、私はミランダの背後に伸びる「影」の中から飛び出していた。
「えっ?」
ミランダが振り返るより早く、私は実体を持った闇の刃となって駆け抜けた。
ザシュッ!!
鋭い爪が、ピンク色の派手なドレスを切り裂いた。
腰から裾まで、一刀両断。
ついでに、ドレスを留めていたリボンも弾け飛ぶ。
「きゃあああああっ!?」
ミランダが悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
ドレスがはらりと落ち、コルセットと下着姿が露わになる。
ざまあみなさい。それがあなたの本来の姿よ。
「な、何!? 何が起きたの!?」
彼女はパニック状態で周りを見回す。
しかし、そこには誰もいない。
私は攻撃した直後、再びベッドの下の影に潜り込んでいたからだ。
心臓が早鐘を打っている。今、私、影の中を移動した?
「お、お怪我はありませんか!」
ラドルが駆け寄る。
その時、私はベッドの下から這い出し、二人の前に立ち塞がった。
「グルルルルル……ッ!」
喉の奥から、地獄の番犬のような唸り声を上げる。
牙を剥き出しにし、全身の毛を逆立てる。
「ひっ! け、獣! この獣がやったのよ!」
ミランダが震える指で私を指差す。
「ラドル! 殺して! 今すぐこの狂犬を殺しなさい! 私のドレスを弁償させてやるわ!」
ラドルが冷たい目で私を見る。
その手には、魔法の光が宿っていた。
好都合だ。ここで始末してやる、という殺意が見える。
「承知いたしました。……狂犬病の疑いありとして、処分いたします」
ラドルが掌を向けた。
私は身構える。影渡りの感覚はまだ残っている。躱せる。
だが、その必要はなかった。
「――私の屋敷で、何をしている」
空間ごと凍りつかせるような、冷徹な声が響いた。
入り口に、クラウス様が立っていた。
帰還していたのだ。
その顔は、能面のようだった。感情の一切を削ぎ落とした、本気で激怒している時の顔だ。
部屋の温度が急激に下がり、窓ガラスに氷の華が咲き始める。
「ク、クラウス様!」
ミランダが下着姿のまま、泣き真似をして駆け寄ろうとする。
「聞いてくださいまし! 私が親切心でお片付けを手伝おうとしたら、この野蛮な獣が襲いかかってきて……! ああ、怖い! 早く処分してください!」
彼女はクラウス様の腕に縋りつこうとした。
バシッ。
クラウス様は無言で、彼女の手を払いのけた。
汚い虫でも払うような、無造作な動作で。
「……触るな」
「え?」
「香水の匂いが移る。妻が嫌がる」
クラウス様は彼女を一瞥もしなかった。
その視線は、床に落ちている「空色のドレス」に釘付けになっていた。
泥足で踏まれ、引き裂かれた、妻のドレス。
バリバリバリ……。
足元の床が凍りついていく。
「誰が許可した」
彼の声は小さかった。けれど、雷鳴よりも恐ろしかった。
「誰が、妻の部屋に土足で入り、彼女の大切なものを踏みにじっていいと言った」
「だ、だって、いなくなった人の物なんてゴミでしょう? 私が新しいドレスを……」
「ゴミ?」
クラウス様がゆっくりとミランダを見た。
アイスブルーの瞳が、青白い炎のように燃えている。
「私にとっては、この国のどんな宝石よりも価値があるものだ。……それをゴミと呼ぶお前こそ、私の屋敷には不要なゴミだ」
「ひっ……!」
ミランダが腰を抜かす。
クラウス様はラドルへ視線を転じた。
「ラドル。なぜ止めたかった。……いや、なぜこの女を入れた」
「そ、それは……ミランダ様がどうしてもと仰るので……」
「言い訳は聞きたくない。即刻、この女を屋敷から叩き出せ。二度と私の視界に入れるな」
有無を言わせぬ命令。
ラドルは顔面蒼白になりながら、半裸のミランダに上着をかけ、強引に連れ出した。
ミランダの「お父様に言いつけてやるわ!」という捨て台詞が遠ざかっていく。
静寂が戻った部屋に、私とクラウス様だけが残された。
彼は床に落ちたドレスを拾い上げた。
汚れを払い、裂け目を悲しげに指でなぞる。
「……守れなくて、すまない」
彼はドレスを抱きしめた。
そして、私の前に膝をつく。
「お前が怒ってくれたのか? ……ありがとう、ノワール」
彼は私の頭を撫でた。
その手は優しかったけれど、怒りと無力感で微かに震えていた。
私は彼の手に頬を擦り寄せた。
大丈夫よ、旦那様。
ドレスは破れても、思い出は消えない。
それに、私がついている。
影渡りの力が覚醒した。
これなら戦える。
ラドルがどんな手を使ってこようと、影から奇襲できる。
私はクラウス様を見上げ、力強く「ワンッ!」と吠えた。
もう泣かないで。
反撃の準備は整ったわ。




