第5話 伝わらないもどかしさ
深夜。
屋敷は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
私はクラウス様の寝室の長椅子で、狸寝入りをしていた。
耳を澄ませる。
ベッドの方から、旦那様の深く、けれど時折苦しげに途切れる寝息が聞こえてくる。
(……よし、寝てるわね)
私はそっと目を開け、音もなく床に降りた。
今日、ラドルの陰謀を一つ潰した。
でも、奴はまだ屋敷にのさばっている。
言葉が通じないなら、文字で伝えるしかない。
私は執務用のサイドテーブルに目をつけた。
そこには、旦那様が寝る前に少しだけ書類を見ていた時の、インク壺と羽ペンが置かれている。
(犯人は、ラドル)
この一言だけでいい。
そうすれば、勘の鋭い旦那様なら全てを悟ってくれるはずだ。
私はテーブルに前足をかけ、インク壺の蓋を鼻先で器用に開けた。
ツンとした鉄錆のような、冷たい匂いが鼻をつく。
右の前足を、インクの中に突っ込む。
冷たい液体が毛の隙間に染み込んでいく感触。気持ち悪いけど、我慢だ。
私は床の上の、何も敷かれていないフローリング部分に狙いを定めた。
ここなら目立つ。白木の床に、黒い告発を刻むのよ。
いざ。
私はインクに濡れた足で、慎重に床に線を引いた。
『R』……ラドルの頭文字。
ヌルッ。
爪が滑る嫌な感触と共に、太く歪な線が引かれる。
(……あれ?)
書かれたものを見る。
それは文字というより、ただの黒いシミだった。
線が太すぎるのだ。
人間の指先と違い、魔狼の足はふさふさした毛に覆われている。それがインクを過剰に吸い込み、筆というよりは雑巾で拭ったような跡にしかならない。
さらに肉球の弾力が邪魔をして、細かい止めや払いが全くできない。
焦った私は、書き直そうと足を動かした。
今度は『A』。
ベチャッ。
ただの黒い塊が増えただけだった。
インクが飛び散り、床を汚していく。
(嘘でしょ……私、字も書けないの?)
人間の頃は、その流麗な筆跡を父に褒められたのに。
今の私には、幼児のような落書きすら許されないというの?
床には、まるで子供が墨汁をぶちまけたような、無惨な汚れが広がっているだけ。
これじゃあ、「犯人はラドル」じゃなくて、「この犬はしつけがなってない」というメッセージになってしまう!
絶望で、喉が詰まる。
私は人間じゃない。ただの獣なんだと、現実を突きつけられた気がした。
「……ノワール?」
背後から、寝ぼけた、しかし驚きを含んだ声がした。
ビクリと全身が跳ねる。
振り返ると、ベッドの上でクラウス様が上半身を起こしていた。
月の光に照らされた彼は、乱れた髪の隙間から、惨状を――私の汚れた足と床を、じっと見ていた。
(終わった……)
私は固まった。
公爵家の寝室の床を汚したのだ。
しかも、インク壺をひっくり返す寸前。
叱られる。下手をすれば、部屋から追い出される。
クラウス様がベッドから降りてくる。
裸足のまま、私の方へ歩いてくる。
私はギュッと目を瞑り、首をすくめた。
ごめんなさい、旦那様。
けれど。
降ってきたのは、怒声ではなく、温かい魔力の風だった。
「……どうした。眠れないのか?」
え?
恐る恐る目を開ける。
クラウス様は床の惨状を見ても、眉一つ動かしていなかった。
それどころか、悲しげに私を見下ろしていた。
「ストレスが溜まっているんだな。……すまない。私の焦りが、お前にも伝染してしまったか」
違うの。
これはメッセージなの。
でも、彼には「主人の不調を感じ取って情緒不安定になった犬の行動」にしか見えなかった。
そうだ、誰が犬の落書きを「告発文」だと思うだろうか。
彼は私の前にしゃがみ込むと、空中に手をかざした。
ふわり、と水球が生まれ、瞬時に湯気を立てて温水になる。
そこに近くにあったタオルを浸し、固く絞る。
日常魔法の、洗練された無駄遣いだ。
「じっとしてろ。……このインクは落ちにくい」
彼は私のインクまみれの足を掴み、蒸しタオルで包み込んだ。
じわぁ、と熱が伝わってくる。
彼は丁寧に、指の一本一本、インクが染み込んだ肉球の隙間まで拭いてくれる。
公爵である彼が、泥だらけの犬の足を、まるで宝物のように扱っている。
「冷たかっただろう。……お前も、寂しいんだな」
独り言のように呟く声。
「あの子がいなくなってから、屋敷の中が寒く感じる。……お前がいてくれてよかった」
彼は綺麗になった私の足を、自分の頬に押し当てた。
ひんやりとした彼の肌の感触。
彼自身の体温を分け与えるような仕草。
胸が、痛い。
伝わらないもどかしさと、向けられる優しさの板挟み。
私は彼の手を舐めた。
ごめんなさい。
そして、ありがとう。
「……今日は、一緒に寝るか」
彼は私を抱き上げると、天蓋付きの大きなベッドへと運んだ。
(えっ、いいの!?)
本来、潔癖な彼が動物と寝るなんてあり得ない。
衛生面でも、身分的な意味でも。
でも彼は、私をベッドの真ん中に下ろすと、自分もその隣に横たわった。
ふわりと香る、彼の匂い。
静謐な森と、清潔なシーツの香り。
彼は私の背中に腕を回し、抱き枕のように引き寄せた。
「おやすみ、ノワール。……夢の中でなら、あの子に会えるだろうか」
彼はすぐに寝息を立て始めた。
よほど疲れていたのだろう。
私の体温が、彼の精神安定剤になっているのが分かった。
目の前に、無防備な彼の寝顔がある。
長いまつ毛。形の良い唇。
普段の厳しい表情が嘘のような、あどけない顔。
(……ずるい人)
こんな顔、誰にも見せたことないくせに。
私だって、初めて見た。
人間の姿で、隣にいたかった。
この腕に抱かれているのが、黒い毛皮の私ではなく、ドレスを着た私ならよかったのに。
ドクン、と心臓が跳ねた。
これは「主従の愛」じゃない。
もっと別の、熱くて甘い、独占欲に似た感情。
私はそっと前足を伸ばし、彼の頬に触れた。
戻りたい。
早く、人間に戻りたい。
そして、この耳元で、自分の声で「愛しています」と伝えたい。
その思いは、犯人への怒りよりも強く、私の魂を焦がした。
私は彼の胸に顔を埋め、力強い心音を聞きながら目を閉じた。
明日こそは。
明日こそは、決定的な証拠を掴んでみせる。
でも今夜だけは。
この温もりに甘えて、泥棒猫ならぬ泥棒犬になろう。
おやすみなさい、私の愛しい旦那様。




