第4話 マナー違反者には制裁を
翌日。
執務室の空気は、昨日以上に張り詰めていた。
私はクラウス様の足元で、伏せの姿勢を取りながら耳をそばだてていた。
目の前には、家令のラドルが立っている。
その手には、一冊の黒革の手帳が恭しく握られていた。
「旦那様。……申し上げにくいのですが、奥様の部屋の捜索中にこのような物が」
ラドルは沈痛な面持ちを作り、演技がかったため息をついた。
まるで、主人の心を案じる忠臣のように。
「日記、のようです」
日記?
私は首を傾げた。
そんなもの、書いた覚えはない。
家計簿をつけるのは得意だけれど、自分の心情を書き綴るようなポエミーな趣味はないわよ。
クラウス様が、躊躇いがちに手を伸ばす。
その指先が微かに震えている。
妻の隠された本音を見るのが怖いのだ。
「中身は……確認したのか?」
「はい。……私の口からは、とても」
ラドルは言葉を濁し、わざとらしく目を伏せた。
「ただ、頻繁に『愛しい騎士様』という記述が。……初夜の前に、その方と駆け落ちする計画も記されておりました」
(はあ!?)
私は思わずガバッと起き上がった。
何それ。大嘘もいいところだわ!
愛しい騎士様?
私の周りにいた騎士なんて、実家に借金の取り立てに来る強面の衛兵くらいよ!
あの髭面のおじさんと駆け落ち? 想像しただけで悪夢だわ!
クラウス様の顔から、血の気が引いていく。
彼は手帳に手をかけ、表紙を開こうとした。
まずい。
中身を見られたら、どんな捏造が書かれているか分からない。
旦那様は繊細なんだから、ショックで寝込んでしまうかもしれない。
その時、私の鼻がピクリと動いた。
匂う。
ラドルが近づけた手帳から、独特の刺激臭が漂ってくる。
インクの匂いだ。
それも、古びた紙に馴染んだ匂いじゃない。今しがた瓶の蓋を開けたばかりのような、ツンとくる溶剤の匂い。
昨日、ラドルの部屋で嗅いだものと同じだ。
(……詰めが甘いのよ、ラドル)
奥様の部屋から見つかった「過去の日記」なら、インクは乾ききっていなきゃおかしい。
こんなにプンプンと「昨日書きました」って匂いをさせてどうするの。
でも、人間である旦那様にはこの匂いは分からない。
言葉で伝えることもできない。
なら、実力行使だ。
私はタイミングを計った。
ラドルは、旦那様の反応を見るために身を乗り出している。
その横には、彼が用意した熱い紅茶のポットがある。
(ごめんなさい、旦那様。ちょっと行儀悪くします!)
私は床を強く蹴った。
黒い疾風となって、デスクの上へ飛び乗る。
「ッ!? ノワール!」
クラウス様が驚いて声を上げる。
私は着地の勢いそのままに、尻尾を鞭のようにしならせ――ティーポットを横薙ぎにした。
ガシャーン!!
陶器が砕ける音が響く。
なみなみと入っていた熱い紅茶が、濁流となってデスクの上に広がった。
当然、そこに置かれていた「日記」も直撃を受ける。
「なっ……!?」
ラドルが素っ頓狂な声を上げた。
ざまあみなさい。
熱々の紅茶をたっぷり吸い込んだ日記は、見るも無惨に茶色く染まっていく。
「こ、この駄犬が……!」
ラドルが私を睨みつけ、手を上げそうになる。
けれど、クラウス様の目の前だ。彼はギリギリで手を止め、怒りに震えながらハンカチを取り出した。
「申し訳ございません、旦那様! すぐに拭き取ります! 貴重な証拠が……」
彼は慌てて日記を回収しようとする。証拠隠滅だ。
だが、それより早く、クラウス様の手が日記を押さえた。
「待て」
低い声だった。
クラウス様は、紅茶で濡れたページをじっと見つめている。
ページの上を、黒い雫が流れていた。
紅茶の水分でインクが溶け出し、文字がドロドロに滲んで、黒い涙のように流れ落ちている。
「……随分と、流れやすいインクだな」
クラウス様が、氷のような瞳でラドルを射抜く。
「エリスが失踪してから三日が経つ。もしこれが彼女の日記なら、最後に書かれたのは三日前のはずだ。完全に定着しているはずだろう」
彼は濡れた指先で、文字を擦った。
指にはべっとりと黒いインクが付着する。
「三日前のインクが、水をこぼした程度でここまで溶け出すか? まるで、つい数時間前に書いたばかりのようではないか」
(ナイスです、旦那様!)
私は心の中で喝采を送った。
そう、それこそが私が伝えたかったこと!
ラドルの額に、脂汗が滲む。
彼は引きつった笑顔で言い訳を始めた。
「そ、それは……保存状態が悪かったのかもしれません。あるいは、奥様が安物のインクを……」
「エリスは」
クラウス様は、ラドルの言葉を遮った。
その声には、静かだが確かな怒りが宿っていた。
「エリスは、安物のインクなど使わない。彼女の実家は貧しかったが、文字を綴ることへの敬意を持っていた。……それに」
彼は汚れた日記をゴミのように摘み上げ、その筆跡を睨みつけた。
「この筆跡。似せてはいるが、彼女の字ではない」
「な……!? しかし、専門家が見れば……」
「必要ない。私が見れば分かる」
クラウス様は断言した。
「彼女の文字には癖がある。『愛』という字を書くとき、最後の払いを少しだけ躊躇うように止める癖が。……私は、彼女から貰ったたった一通の挨拶状を、擦り切れるほど読み返したんだ。何千回とな」
(えっ)
私は瞬きをした。
私の手紙?
ああ、婚約時代に一度だけ送った、「季節の変わり目ですのでご自愛ください」という二行だけの事務的な手紙のこと?
あんなもの、何千回も読んだの!?
「文字の角度、筆圧、インクの滲み方まで、すべて脳裏に焼き付いている。……これは、私の愛した妻の文字ではない」
旦那様……。
嬉しいけれど、愛が重い。重すぎるわ。
ラドルも私も、予想外の方向からの論破に固まってしまった。
クラウス様は掌に青い炎を生み出すと、躊躇なく日記を燃やした。
ボッ、と音を立てて、捏造された「不貞の証拠」が灰になっていく。
「二度と、妻を愚弄するような真似はするな」
彼は灰をラドルの足元に投げ捨てた。
「下がれ。……気分が悪い」
ラドルは顔を真っ赤にし、屈辱に震えながら頭を下げた。
「……失礼いたしました」
彼は部屋を出て行く際、私をひと睨みした。
その目には、もはや隠そうともしない殺意が宿っていた。
『次は必ず殺す』という意志が。
扉が閉まると、クラウス様は深いため息をつき、椅子に沈み込んだ。
そして、慌てて私を抱き上げる。
「ノワール! 怪我はないか!? 熱かっただろう!」
彼は日記のことなど忘れたように、紅茶まみれになった私の足を、自分の高級なハンカチで拭き始めた。
私の火傷を心配してくれているのだ。
「……っ、すまない。お前に助けられたな」
彼は私の肉球に赤みがないことを確認し、安堵の息を漏らした。
そして、私の体を強く抱きしめる。
「信じないさ。あの子が私を裏切るはずがない。……たとえ世界中が彼女を疑っても、私だけは彼女の潔白を信じる」
その言葉は、どんな宝石よりも価値のある宝物だった。
私は彼の胸に顔を埋め、心臓の音を聞いた。
トクトクと、早く力強い鼓動。
ラドルの企みは防いだ。
でも、奴はこれで引くような相手じゃない。
次はもっと直接的な手段――実力行使に出てくるはずだ。
望むところよ。
この尻尾に懸けて、旦那様には指一本触れさせないんだから。




